Monthly Archives: August 2013

ニュージーランドと日本人

インスペクター・モースというオックスフォードの町を舞台にした刑事ドラマのなかでジョン・ギルグッドが扮する大学人が「この地球上にはみっつのオックスフォードがある」と演説をするところが出てくる。 「ひとつはカナダ、もうひとつはニュージーランド、そして、ここ、われわれのオックスフォードで、しかしながら、真実の栄光あるオックスフォードは、もちろん、この町だけである」 ニュージーランドの贋物オックスフォードはクライストチャーチの北、ワイマカリリという郡にある。 タウンシップは、ニュージーランド人は「ペトロステーション」と言うガソリンスタンドがふたつ。小さな図書館がひとつ、デイリー、地元人に聞くと経営者がケチなので評判がわるいというスーパーマーケットがひとつ、ニュージーランドの田舎にはどこにでもある「ワークマンズ・クラブ」がひとつ、パブがひとつ、それに最近できたテレビや講演で有名なJo Seagarのクッキングスクール併設のレストラン「SEAGARS」 http://joseagar.com/at-oxford/cook-school/ がある。 人口は1200人くらいだったと思います。 クライストチャーチの南にある「牧場の家」からカンタベリー地震の震源だったロールストン、ダーフィールドを通ってOld West Coast Roadでオックスフォードに出る。 あるいは昔は黒松材をクライストチャーチに運ぶ路面貨車が走っていたのでその名前が付いたTram Roadで行く。 オックスフォードのまわりには観光客など金輪際来ない30メートルほどの巨大な滝やマウントトマス、浅瀬が広がった渓谷のアシュリーゴージというような、少なくとも平日ならば必ず無人の美しい宝箱のような場所がたくさんあって、ぼくは好きだった。 この世の風景とは思われないくらい美しい場所がたくさんある。 ケンブリッジもある。 オークランドから南に下ったワイカト郡にある、裕福な農場主たちの町で、モニとぼくはときどきこの町のまわりのどこかでピクニックをしたり、農場を訪ねていって、農家のひとびとと話をして遊ぶ。 見てすぐ気が付くひともいるだろうが、そもそもクライストチャーチという町の名前がオックスフォードの学寮の名前で、無論(クライストチャーチがある地方の名前の)カンタベリーもハーンベイも、みなイギリスの地名である。 ニュージーランドはもともと連合王国の労働者階級が、自分たちが理想とする社会を建設するために作った国で、「隣りの国」オーストラリアまで2200キロという19世紀にしてみれば気が遠くなるような孤絶した環境のなかで、貧困と闘い、チョービンボのなかで羊を飼って、どうにかこうにかここまで辿り着いた国です。 ふりかえって由来を考えると、ニュージーランドは150年後のいま植民当初の理想を実現したと思う。 マジメに働けば愛し合って結婚した相手とふたりで小さくても家が持て、子供に教育が与えられ、誰にも見下されずに(つつましくても)幸福な生活ができる。 「隣り」のオーストラリアは、最も開明的なヴィクトリアでもつまりは「スクオッター」の作った国で、スクオッターという言葉は日本語人には馴染みがないかも知れないので説明すると、イギリスからやってきて、勝手に広大な国有地の私有を宣言して、ボーア戦争で警察力の余裕がなかった本国の事情をよいことに、攻めてくる連合王国の警察や軍隊を武力で撃退して、最後には到頭私有を認めさせてしまった一群のひとびとのことで、今日でもオーストラリアで「名家」に数えられる富豪にはスクオッターの後裔が多い。 70年代くらいまではオーストラリアは英語圏では最も官僚制度が腐敗した国でもあって、ほんとうは、もうその頃はそんなことはなかったはずだが、子供の頃、ロンドンでアウトバックへの旅行を計画している父親の友達が父親に「クイーンズランドの警察はいまでも賄賂を要求するだろうか?」と訊いて、大笑いされていたのを微かにおぼえている。 荒っぽいオーストラリアに較べてクソまじめなニュージーランド、豊かなオーストラリアに較べてビンボなニュージーランド、成功のためなら手段を選ばず勝てば英雄のオーストラリアに較べて結果はどうでも懸命に努力することが大事だと言うニュージーランド、 要するに歴史的には「ビンボで要領が悪くてクソマジメで退屈なマヌケ」というのがニュージーランドのイメージで、人口が集中するオークランド(ついでに言うと、これはインド総督の名前ですAucklandと綴る)などは内実はおおきく変わって半ばオーストラリア半ばアメリカ風の社会に変わってしまっているが、ニュージーランドってオランダの隣にあるんだっけ?というアメリカ人は別にして、イギリス人でも特に年長者が持つニュージーランドのイメージは、いまでも似たようなものだという感じがする。 現代イギリス人にとってのニュージーランド人のイメージは「ウエイターとウエイトレス」とイギリス人は差別的発言に鈍感な国民性そのままに冗談を言って笑うが、実際、イギリスを旅行中の若いニュージーランド人のウエイターやウエイトレスは数が多くて、ガイドブックに載っているような由緒あるパブやレストランも、たいていの人員の構成はウエイターやウエイトレスが東欧人でマネージャーはニュージーランド人という例が多いが、歴史的にはなんといってもイギリスとニュージーランドの間柄は「戦友」であると思う。 ガリポリでなかよく枕を並べてトルコ人の夜襲、夜中にバラバラに英連合軍の塹壕にしのびこんでひとりづつ喉首をかき切るトルコ陸軍伝統の襲撃方法で絶命したのを皮切りに、ハイライトはスピットファイアを駆った「イギリスの戦い」で、「バトルオブブリテン」トップエース10人のうち、ふたりがニュージーランド人であるので戦友としての結びつきの強さが理解される。 そうやって若い男達が出払っているすきに太平洋をどんどんくだってきたのが日本だった。事務屋将軍パーシバルのシンガポール軍は増援もなにも送らずに陥落もやむなしと考えていたウインストン・チャーチルですらぶっくらこいてしまうほど簡単に降参してしまい、拠点を失い、軍勢も予備の兵士となるべき若い男たちも兵器も、なにもかも欧州に出払っていた丸裸の南太平洋は、無人の荒野のような軍事的空白となって、日本軍は到頭井上成美中将率いる大艦隊をオーストラリアの近海へ送りこんでくる。 オークランドのタマキドライブはCBDからセントヘリオスまで左側にずっとハウラキガルフの明るい青色の海が見えている海辺の道だが、右側の崖には点々と、その頃日本軍上陸に備えて、じーちゃんやばーちゃんが必死にこさえたトーチカ群がいまもある。 ニュージーランドにとっては「敵」と言えば日本のことで、もう何度か書いたが、子供の頃はまだ日本のひとが観たらびっくりして泣き出したくなるような番組がたくさん流れていた。どんな国の話がでても「まあ、いいんじゃねーの」のおとなたちも、日本人だけは嫌いだ、と明言する人が多かった。 最後に「やっぱり、まだ日本人への敵意はすごいのだな」と思ったのは1998年のVJデー(対日勝利の日・8月15日)のパレードで、夏とは別に、一週間だけクライストチャーチに来ていたぼくは近所の友達一家に誘われて復員軍人たちのパレードにつきあった。 日本の人には勇気があるひとがいて、観光で来ていたのだと思うが、「戦争はどちらが加害者というのではなく国民にとってはお互いに悲劇でした。わたしたちも行進に参加させて下さい」と申し出た。 そのときの復員兵じーちゃんたちの表情を忘れることはないだろう。 見るにも険しい顔で「No!」のひとことで突っぱねてしまった。 周りにいた別のじーちゃんが「どのツラさげて…」と低い声でつぶやいたのもおぼえている。 世紀が変わって、不思議なくらい反日感情が薄らいだのは、ひとつにはドラゴンボールを観て育った世代が社会の中核に育ったこと、もうひとつはだいたい2000年に始まったバブルで社会そのものが圧倒的に豊かになったからでしょう。 それでもアジア人がいるとみると、いあわせたひとびとがいっせいに口をつぐむ、民族的嫌悪を述べることが社会を根本から破壊する寸前の断崖へ運んでしまうというポーリンハンソン事件の教訓から民族についての発言そのものがタブーになっているオーストラリア人ほどではなくても、差別的だろうがなんだろうがおもいついたことはなんでも口にだして言っていいことになっているニュージーランド人といえど、最近は「日本人嫌い」みたい発言は、ちょっとカッコワルイのではないか、ということになって、あんまり日本の人も嫌な思いをしないようになったと思うが、先週会ったコロマンデルの漁師のじーちゃんは、「日本人だけは口を利きたくねえ。おれのおやじはマレーシアで日本人になぶり殺しにされたんだ」と言っていたりして、深層では完全に日本という国への憎悪がなくなったわけではないよーだ。 1994年に始まったニュージーランドの反アジア運動はウインストン・ピータースの「反日本人発言」で始まった。 このままではニュージーランドは日本人の洪水になる、と言う。 … Continue reading

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ひとつでも多くのドアをあける

勉強なんてくだらないことは時間の無駄であるからマジメに週末の盛り場にでかけて人間の快楽や悲惨を訪問しようと固く心に決めていても罠にはまったようにカウチに寝転がって、ページを開いたままの本に囲まれて、「ベンキョー」してしまうことがあった。 結局、かけがえのない週末だというのに、あの天井が低い、もとはワインセラーだったクラブにも行けず、女のひとびとの甘い匂いにも浸れず、酩酊の楽しみにすら預かれずに月曜日になってしまう。 そーゆーときには、うらぶれた気持ちになって、学校にも行かず、泣きたいような気持ちでベッドのシーツのあいだにもぐりこんで午後まで眠ったりした。 「日本に住んだ」と言っても良い時期が二回あって、初めは子供のとき、2回目は、このブログ記事をずっと読んでくれている人にはお馴染みの5年間11回に及ぶ英雄的な「日本遠征」期間中である。 子供のときは、いまでもありありと目に浮かぶ、空港バスの冷たい窓に妹とふたりで鼻を押しつけて豚鼻のかっこうにつぶれた鼻をひくひくさせながら、箱崎の高速道路のカーブから見える東京の光の海に「すげー」とコーフンした冬の夜に始まって、見るもの聞くものが楽しくて、一年などはあっというまに経ってしまった。 家は東京だったが、義理叔父の両親が鎌倉に住んでいて、鎌倉にもよくでかけた。 鎌倉山の林間病院を左に見ながら七里ヶ浜に抜けてゆく道をよくおぼえている。 雑木林の向こうに江ノ島と富士山が見えている道を抜けて七里ヶ浜におりてゆくと、長細い公園があって、その道をずっと歩いて行くとプリンスホテルの辺りで、突然くしゃくしゃにした銀紙を一面に敷きつめたように、太陽の光を散乱させる、午後の七里ヶ浜の海が見える。 その道をずっと降りていって、サーフィンの支度に忙しいひとがたくさんいる駐車場のコンクリートの防波堤の上に座って海を見ているのが好きだった。 イギリスやニュージーランドの海と異なって日本の海は、なんだか懐かしいような、嫌な臭いであるような、不思議な臭いがするが、あれはテングサの臭いである。 びっくりするほど狭い鎌倉の砂浜だが、子供の頃はとにかく海があれば楽しいだけで、まだその頃は日本では珍しかったカヤックで遊んでいると、漁師のおっちゃんたちがよってきて、もの珍しそうに見ていた。 その頃は日本語がよくわかっていなかったのではないかと思うが、漁師のおっちゃんたちが「これは、なんていう舟? どっちに進むのか?」と質問したのをおぼえているのは、付き添っていたかーちゃんシスターが話していたのを自分が話したようにおぼえているのではないか。 わしが子供の頃は、イタリアのひとの気風もいまとはずいぶん違ったもので、いまでもよく憶えているが、ミラノのケーキ屋さんでかーちゃんと妹と3人でケーキを食べていたら、目の前を背の高い大層美しい女のひとが買い物袋をさげて歩いてゆく。 その後ろを…いま、こうやって思い出していても現実の光景とは思えないが…4、5人の若い男が、まるで行列をなすようにしてぞろぞろとついて歩いている。 「ストーカー」と呼ぶには、あまりにおおぴらで、しかも、まるで女びとに特殊な引力でもあるかのように、そろいもそろって「顔が先にひかれていって、身体がそれにつられている」とでもいうような不思議な歩き方なので、見ていても非現実的な感じがする光景だった。 最も衝撃がおおきかったのは「牧場の家」で、定義上、そこまでおりてきてしまっては「積雲」と言わないが、それでも、その白い雲のしっかりとした厚みや色彩から「積雲」と呼びたくなる雲が、地上から、ほんの数メートルのところまで降りてくる。 手をのばせば届きそうなところを夏の高空にあるべき雲が通行しているので、妹とわしは、なんだか魔法使いが住んでいる国かなにかに来ているような気がしたものだった。 ある午後などは、とうとうその「積雲」が地上を覆う高さにまで降りて、ちょうど日没の頃だったので、それが薔薇色に輝きだして、どうにも文字では表現のしようがない美しい色彩の光景をつくりだした。 おとなたちが、みなクルマを駐めて、あまりの美しさに茫然として、地上から天国に拉致されたひとびとのような表情で歩き回っていた。 芝生に跪いて、神に祈っているひともいた。 あるいは満月の夜には、子供部屋のカーテンをあけてみると、パドックは、木も、フェンスも、農場のまんなかを流れている小川も、すべてがコバルトブルーの、深い青色に染まっていて、正気を保つのが難しいような、言葉がだんだんに意味のある軸からはずれてゆくとでもいうような、英語のlunaticという単語が自然と思い出される風景が外に広がっている。 プラヤ・デル・カルメンの、いまはハリケーンでなくなってしまった(跡地に同名のホテルが建っている)「El Faro」には屋根の上におおきなテラスがあって、その夜は客はわしたちだけで、「酒屋」とはまた別にある「テキーラショップ」で店員に選んでもらったテキーラを並べてサンガリータと一緒に飲んでいたら、人工的な感じのするおおきな光点が4つ夜空に浮いている。 下の砂浜にいるメキシコ人たちに「おい、あれが見えるかい? あれ、なんだろう?」と聞くと、メキシコ人たちはこともなげに「UFOだよ。ここにも、よく来るのさ。ソチカルコほどじゃないけどね」という。 幽霊なら将来はなんとか存在が信じられるような理屈をでっちあげられるだろーか、と考えるわしでも、UFOでは信じたくても信じられないので、暑熱と酔いも手伝って、ときどき現れるという光点の編隊を、あっさりとUFOだと信じて恬淡としているメキシコ人たちの反応も含めて、全体がまるで夢のなかで起きていることのように感じられた。 あるいは夕暮れに船を出して、ハウラキガルフを出る頃に漆黒に変わる海を眺めていると、自分の頭のなかの言語そのものが静まってゆくのがわかる。 からだのなかに燠火のように残っている音楽も消えて、完全な沈黙がやってくる。 この地球の上で「言葉のない世界」をもっているのは夜の海だけである。 人間が神を考えるときに大海にでるひとの意見を採用しなかったのは宗教にとって不幸なことであると思う。 夜の海、特に星のない夜の海は人間から言語をはぎとってしまうので、人間の耳に聞こえるものは自分の体内の動脈や静脈の音と、自然の沈黙だけになってゆく。 言葉というものは、ちょうど魂の表面に倒れ伏したように、あるいは闇に薙ぎ倒されたように姿が見えなくなってしまうので、実は人間の魂は危険なほど神に近付いてしまっているのである。 むかし、たとえばインド洋で自殺者が頻発したのは「耐えがたいほどの倦怠のせい」であると、どんな本にも書いてあるが、ほんとうにそれが理由だったろうか。 廻廊がいりくんだ、一見には迷宮にしかみえない巨大な建物があって、ドアが両側に並んでいるところを想像してみるとよい。 どの部屋もなかになにがあるかきみは知らないし、通常の家とは異なってドアの向こうがいきなり別の宇宙になっていることもありうる。 どのドアもたいてい鍵がかかっているが、きみのポケットのなかには(きみが世界を理解しようと努力するにつれて)折々に鍵があらわれる。 きみは、その鍵がどのドアを開けるものかを探索して、首尾良くドアが開いたときには、ドアの向こうの世界のあまりの美しさに息を呑むに違いない。 人間は本質的に冒険者なのである。 人間は、というのが文学的修辞に聞こえるならば、いまの時代まで生き延びている人間は、と言い直してもよい。 何度も述べた二度に及んだ地球規模の絶滅の危機を人間はただ冒険者である能力によって生き延びた。 きみは、その淵源をたどればたかだか何千人という数にしか過ぎないひとつの村の住人の子孫なので、冒険することに適性があるのは、遺伝的に述べて当然の帰結にしかすぎない。 … Continue reading

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再びピザを食べる

ブルックリン・ブリッジを歩いて渡るのは、散歩コースとして楽しい。 古い橋なので、歩いている足下のスリットから下が見えます。 まだマンハッタンになれていない頃は、この橋を歩いて渡って 「Grimaldi’s Pizzeria」 http://grimaldisnyc.com/ に行くのが楽しみだったこともあった。 壁に書いてある能書きによれば「アメリカピザ発祥の店」で、食べると、なんだかイタリアのピザとアメリカのピザの中間みたいな味がする面白いピザです。 もう何年も行っていないので、ちゃんと味をおぼえているとは言い難いが、少ししょっぱいピザだったと思う。   英語圏ではピザは「幸せな感じがするジャンク・フード」で、わしが家でも普段は食べてはいけないが、ときどき、かーちゃんの機嫌が良い時をじっと見計らって「今日、ピザを食べてもいいですか?」と聞いて、かーちゃんが、ちょっといたずらっぽい顔で、にっこり笑うと、妹とふたりで台所の床もしくはカウチの上でとびはねて、「いえーい!」をする食べ物だった。 夕食がピザの日は、チョー自堕落でよいことになっていて、暗くした部屋でカウチに腰掛けて借りてきたDVDを見ながら、高校生になってからは14インチのピザをひとりで二枚食べるのがあたりまえになったが、わしガキの頃は、まだひとり一枚のホールピザを食べるだけだったと思う。 こーゆーときには、イタリア式のマジな店のピザを食べるのでは台無しなので、 「Domino’s」のようなジャンクジャンクしたピザチェーンのピザを食べる。 http://www.dominospizza.co.nz/menu/pizzas オークランドならインドのひとたちのビジネスなので、たいてい店のひともインドの人で、電話をかけてインド訛りの英語が聞こえるところからピザ・ナイトは始まる。 サイトをみるとわかるが、「Value Pizzas」で十分で、わしは単純な「ハワイアン」とかが好きだが、これはでっかい奴で4ドル、300円です。 日本だと2000円くらいしたよーな気がするが、「日本のピザ会社はぼりまくっている」という、英語人にはむかしからお決まりのようになっていた東京についての冗談のネタが、インターネットは偉大なり、日本のひとにもここ数年は伝わるようになって、ときどきスレッドが立っていたりするので、他国なみに安くなるのも、もうすぐに違いない。 家ではコーラは厳禁だったが、ピザ・ナイトのときだけは飲んでも良いことになっていた。 ピザを食べながら、息を詰めて観た映画のなかには、「ポルターガイスト」や「スタートレック」のような映画の「クラシックス」が多かったと思う。 マンハッタンの良いところは、若いオオガネモチが、5番街の噴水のそばのベンチに腰掛けて1ドルピザのランチを食べていても、それがふつーの光景でしかないことで、昨日、日本語インターネットを眺めていたら、大阪十三のドンキをひとりでうろうろしているSteven Tylerを目撃して、「あんなに有名なオオガネモチでも、さびしいものだ」と書いているひとがいたが、それは逆で、オカネがあるからといって、そういう余計なものがいっさい落ちてしまった時間をもてないひとのほうが「さびしい」人なのである。 欧州では地位があるとフォーマルでさびしい時間ばかりで一日が埋めつくされてしまうが、ニューヨークやオークランドのような町はそれがよいところで、たとえばウエストヘイブンのマリーナのベンチで富豪のワカモノがビッグマックをぱくついていても、誰もそれを「さびしい」ことだとは思わない。 マンハッタンも同じで、アメリカでもイタリア料理屋のマジなピザも人気があるが、どちらかと言えば、1ドルピザのような、日本で言えばたこ焼だろうか、野外で、ひとりでほくほくしながら食べていて幸福がこみあげてくるような、ジャンキーなピザのほうが人気があると思う。   バルセロナ人には「ピザが世界でいちばんうまいのはバルセロナだ」とイタリア人が聞いたらのけぞるようなことを信念に満ちた態度で述べるひとがいくらもいるが、バルセロナのパスタが、ヘロヘロでほとんど「食えない」程度のものであるのに比して、事実無根とは言えなくて、ピザは、イタリアのものとは随分趣が違うが、おいしい店がある。 現に、(というのもヘンだが)わしのグラシア(バルセロナの上っこのほうにある町です)のアパートのすぐ近くに、いつもひとが群れているピザ屋があって、ここのピザはうまい。 同じツナのピザでもイタリアなら「トンノ(ツナ)とチッポーラ(タマネギ)」のピザと決まっているが、バルセロナではオリブとチリペッパーがどうしてもついてくる。 いろいろもりだくさんに載せないと辛抱できないもののよーである。 パプリカがどちゃっとかかった「タコとイモのピザ」もたいていの店にあって、これはすげーうめっす。 フランス人は他国人の料理をマネして、洗練をかさねて、あげくにはもとの料理よりもおいしくしてしまう天才だが、ピザも同じで、わしはモニかーちゃんがパリの郊外にもっている(ゴルフ用)別荘の近くにあるピザ屋が好きだが、湖畔にあるその店のピザも、みためはイタリアのピザとあまり変わらないが、その実はチーズも歯触りもイタリアのピザとはぜんぜん違う、それでいて「こたえられない」くらいおいしいもので、フランスのひとの食べ物をつくる才能の深さを感じる。 6ユーロだったと思うが、フロレンスの橋を渡って、ずっと西南に向かって歩いていったところに安くておいしいピザを出す店があって、まだ結婚する前、モニと初めての一緒の旅行でイスタンブルに行く途中、2週間を過ごしたフロレンス滞在中に二三回でかけた。 キャンドルライトがテーブルのひとつづつに置いてある店内には若いカップルばかりが、ずらっと並んでいて、居心地がよかったからです。 小さなテーブルの上に一個だけ注文されたピザが載っていて、額をよせあうようにして、まるで食べるほうはうわのそらで、恋をしている人間特有の、唐突で、13分の7拍子な話しかたで、話に没頭していて、というよりも相手の声に没頭していて、ピザはやはり「幸せの食べ物」だなあー、と考えた。 イタリアは、押しも押されもせぬピザの本家なので、あるいは、ミラノのレストランで無暗矢鱈と仕立てが良いスーツを着た50代くらいのおっちゃんが、ひとりで昼食のテーブルに腰掛けて、「プロシュートのピザを、お願いします。ブッファーロをいっぱいのっけてね。それからバジルも多めに載せてほしい」と言って注文する。 ピザが供されると、一瞬、感に堪えたような、感動にうちひしがれたような顔になって、顔に「これこれ、おれはこれが食いたかったんだ」と如実に、神様が絵筆で描きこんだように表れている。 唐辛子がはいったオリブオイルを、うんとこさ、かけまわして、文字通り舌なめずりしながら、あっというまに平らげてしまう。 ウン・カフェを頼んで、「ひっ」と飲んでしまうと、さっさと立ち上がって、また仕事場に帰ってゆく。 イタリアには、ちょうどアメリカやニュージーランドでワゴン型の「バーベキューセット」を売るように「ピザ窯」を売っている専門店が郊外のあちこちにあって、あれでパンも焼くのだと思われるが、ふつーのイタリア人の食事に対する豪奢な趣味を垣間見せている。 … Continue reading

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青瓦台で、お茶を

民主党に政権を追われるまでの自民党は面白い政党で、簡単に言えば、一個のマネーバッグにすぎなかった。 政治的立場に関わらず「立候補して当選するまでにたいへんなオカネがかかる」という、考えてみれば民主主義にとっては致命的な欠陥である「オカネがジャブジャブ必要な選挙」という宿痾を抱える日本の政治世界だから起きる珍現象とも言えるが、宇都宮徳馬のような、本心は日本共産党の1000倍くらい過激な世界革命信奉者から、国家社会主義の信念に燃える純正極右岸信介(安倍晋三が尊敬してやまない祖父ですね)まで、ひとつの「自民党」という看板の下で、「政党」を名乗っていた。 もっとも宇都宮徳馬などは尖鋭な観念と現実主義がひとりの人物に同居していた宇都宮徳馬らしく、「ミノファーゲン」という肝臓のクスリの売り上げだけでも政治活動をやろうと思えばやれたので、自民党にもぐりこんでいることには他の理由があったが、ここでは書かない。 マネーバッグのなかには、いくつか「政治バッグ」があって、これを「派閥」と言った。特によく考えてみなくても、この「派閥」が他の国で言う「政党」だったわけで、「自民党の一党支配」と言いながら、日本の政局が常に多政党分立の国であるような様相を示して日本の政治を専門とする当時の外国人研究者を悩ませたのは、なんのことはない、実際に多政党分立政治そのものだったからです。 この自民党が「マネーバッグ」にしかすぎない、ということを見破って、いわば原理主義的にマネーバッグによる政策政党とのすりかえを行ったのが田中角栄で、学歴がなくて、ガハハおっちゃんだったので、印象は「今太閤」という盛時の仇名でわかるとおり「庶民派」だが、実際には頭角をあらわしたときから、このひとは官僚政治のチャンピオンだった。 官僚が最も心服して全面的に自分たちの利害を預けたのが田中角栄です。 人気が暫くは票にかわる、もともと便利な安上がり候補者にしかすぎないタレント候補を除いては国政候補者は、まして候補者を複数抱える派閥の領袖は、常に莫大なカネを必要とした。 ちょっと考えると、その姿の異様さに息を呑んでしまうが、田中角栄がロッキードからの5億円を受け取ったことで有罪になった田中角栄と周囲が「みなやっていることなのに、田中先生だけ問題にされるのは卑怯なやりかただ」と慷慨したのは、「みんなやっていることだから、おれも悪いことをしたっていいだろう」という橋下徹式の駄々であるよりは、もっと切実な実感だったでしょう。 その当時のひとびとの証言をみると、後藤田正晴のようなひとまで「敵」たちの卑怯を本気で怒っている。 マネーバッグであることそのものが政治理念であるかのように変質していく田中角栄の「院政」以後、自民党は変質していく。 政党内政党のなかでの一派閥であった田中派が巨大化することによって、実際の政党としての機能を担っていた「派閥」が政党機能を失ってゆきます。 話を急ぐためにあいだを端折ると、政治家たちは政治そのものはテクノクラート集団にまるごとぶん投げるようになり、テクノクラートは自信をつけるのを通り越して、傲慢になっていった。 政治家なんて、どーでもいいや、というテクノクラート支配の構図ができてゆく。 民主党が政権につけたのは、皮肉にもこのテクノクラートの慢心があったからで、だから、鳩山首相が、受け狙いではなしに、ほんとうに「官僚政治をつぶします」と述べだしたときには、(官僚側からみた)鳩山由起夫というひとのおぼっちゃんらしいキチガイっぷりにパニクっただろうと思われる。 鳩山由紀夫の現実感覚のなさを手がかりにマスメディアと官僚はほとんど「総攻撃」というに値する全力で徹底的な反撃を企画して完勝する。 戦いのあとでは、鳩山由紀夫は「頭のいかれたおっちゃん」であり、一方の雄小沢一郎は薄汚い金権策士の姿で磔になって敗残の姿をさらすことになる。 一方で民主党が政権についていたあいだ、何が起きていたかというと、自民党は、その最も重要な機能である「マネーバッグ」という機能を失いかけて危篤状態になっていた。 銀行に借金を返せと脅迫的に督促されるまでにおちぶれていた。 実際、当時の自民党で党首になることは、野党にいつまでも甘んじれば巨大な借金を金貸しに握られた旧家の跡取りになるのと同じことだったので、逃げ回って党総裁になることを避けるひともいた。 簡単な事実だけを並べていくと、安倍晋三が乾坤一擲のバクチである「アベノミクス」を提唱して、民主党の実務能力のなさに「ものもいえない」ほど打ちのめされていた日本人たちがうなだれている政治の世界に帰って、大勝を収めるのは、要するに上のような経過で崩壊した自民党が、左右の広がりのない、情緒的にも国家社会主義の流れのみをくむ、「ネオ自民党」(というのは、ぼくが勝手に呼んでいるだけだけど)として復活する、それだけの経過があった。 いまの日本の政治状況を考える上では「自民党」と「ネオ自民党」を厳正に区別して考える事は重要であると思う。 この記事は日本語で書いていて、日本語で書いている以上、同意するひとが極端に少ないのは承知しているが、日本のいまの政権が「極右政権」なのは少なくとも日本の外では常識であると思う。 アメリカの日本への視線を要約すると「やっとやってくれたアベノミクスには期待するが、政治的には滅茶苦茶あぶない奴」ということになると思う。 アベノミクス自体については、前にも書いた https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/04/23/アベノミクスが開いたドアの向こう側/ が、個人に即していえば、とりあえず国民ひとりひとりから(インフレの形で)冨を国家に供出してもらって、それを資金に全体の調子をとりもどしてから再配分するからね、という策です。 とんでもなくおおきなリスクがある政策だが、公平に言って、失敗して政策に対する手当が手遅れになりすぎた日本という国では、状況を改善するためには、これ以外にない。 為政者側からみると、アベノミクス的政策に手をつけなければ、経済よか先に財務が破綻してしまうので、リスクもなにも、やらないと即死ですがな、ということでもある。 10年生存率は3割だが、ここで乾坤一擲手術をしなければ死ぬに決まっているガン患者と同じで、その意味では安倍晋三の「決心」は妥当と思う。 実際、ダメでも個々の国民のふところがチャラになってビンボ人の大群が発生するだけで、政府のほうは「他人のふところ」なので、「リスクが高い」とは言っても、国民1人1人におおきく転化されたリスクなので、ダメでも、まあいいか、という利点がある。 安倍晋三は一度目の任期の初めに「美しい日本」という極めて情緒的な言葉を使って「ジャパン・ウォッチャー」たちの顔をしかめさせた。 特に日本では為政者が情緒的な言葉を使い出すと、必ずというほど対外的に攻撃的姿勢をとるからです。 アベノミクスで大博打に出る一方で、安倍政権は「栄光」「毅然」「品性」というような危ない情緒で酔っ払い始めている。 中国という国はおもしろい外交的な癖がある国で、反中国的な旗幟が鮮明な政権があらわれて、おもいきり頬をひっぱたかれると、慎重なもの言いをするようになる。 その実、彼我の力を念入りに比較しだすので、そう見えるだけのことを考えると、危険な徴候だが、しばらくは、なんだか返っておとなしくなったように見える時期があります。 それから、しつこくしつこく相手の領土領海を侵犯する、というような気が遠くなるような「しつこさ」を発揮しはじめる。 最もオモロイ例では、ウスリー川を焦点に当時のソビエトロシアと国境問題でにらみあっていた頃、対岸のソビエト兵が、夜、監視塔から覗いていると闇のなかで、なんだか蠢いているようにみえる。 なんだ、あれは、ということになって国境線を探索してみたら、中国兵が国境の杭を抜いて毎日数インチづつソ連側に動かしていた(^^;) 尖閣諸島問題もいずれそうなるでしょうが、この国境紛争でも双方死者数十人という程度の地域限定戦闘を経て、問題そのものは「先延ばし」になった。 中国としては、韓国と並んで「激昂型」である日本の世論のお尻(表現が悪くてごみん)をじりじりとあぶって、日本が我を忘れて怒る瞬間に発生する「落ち度」を待っているのだと思われる。 … Continue reading

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初めての人のための海外旅行マニュアル2_宿泊滞在篇

一般にはホテルに泊まる、というのは最後の緊急策だと思うのがよい。 いちど、友達がマンハッタンのニューズコープの隣にあるヒルトンに泊まったことがあって、電話をかけて「面白いから見に来い」というので見に行ったら、ダブルルームだというのに、スーツケースを一個おくと身動きするのに不自由なくらい部屋が狭いので笑ってしまったことがあった。 大手チェーンのホテルなどは、室料ばかりがクソ高くて、よいことは何もない。 わしガキの頃は、かーちゃんのお伴でマンハッタンに行くとウォルドフアストリアに泊まることがおおかった。 しかし、かーちゃんはオカネモチのひとなので、ヒルトンの経営に変わって月並みなホテルになったいまのウォルドフでも、いまみると、かーちゃんが愛用していた部屋は一泊2200ドル(21万円)です。 わしがひとりで初めて泊まったセントラルパークの北にあるアパートメントが1ヶ月2000ドルだったので、かーちゃんのホテル1泊の宿泊料とわしの1ヶ月の宿泊料がほぼ同じである(^^;) マンハッタンは去年だったか新しい条例が出来て、1ヶ月以下の期間ではアパートを貸してはいけないことになったが、ニューヨークはニューヨークなので、電話をして当たってみれば、2週間とかでも内緒で貸してくれるところがあるのではないかと思う。 もっとも、このブログを書くのに自分がもっているアパート(長期契約しかないが)は、どんな状態なのか聞いてみると、空きはゼロで、契約が切れると家賃がずいぶんあがるそうなので、最近のマンハッタンブームで、宿泊事情そのものが逼迫しているのかもしれません。 さて、カリフォルニアを例にとった旅行マニュアルの後編。 前回、書いたように、自分の頭のなかではEmbassy Suitesだけは別で、近くでよほど大きなコンベンションがなければ予約なしで必ず二間続きの部屋がとれて、ぶちくたびれていて他人と口を利く気力がないときでも、ベルボーイの力も借りず、ただ駐めたクルマから自分で取ってきたワゴンにスーツケースを載せて、Embassy Suitesの特徴であるアトリウム http://en.wikipedia.org/wiki/Atrium_(architecture) を見渡せるガラス張りの、チョーのんびり上下するリフトに乗って部屋にはいって、また、なああああーんにも考えずにアトリウムのバーに下りて、チップの1ドル札と引き換えにただのカクテルをもらって、しこたま新鮮なトマトとハラペーニョと刻み玉葱でできた辛いサルサをぶちかけて、パリパリとトルティーヤチップをかじりながら、大画面に映し出されているフットボール、あるいはMLBの試合を呆けてみつめる、という楽しみがある。 わしガキの頃はEmbassy SuitesはCrown Suitesというコンセプトがそっくりなチェーンと競合していて、いつごろだったかEmabassy Suitesが競争に勝って、Crown Suitesを吸収したのだった。 その頃、妹とわしはアナハイムのEmbassy Suitesのうち、目の前にTGI Friday’sがあるほうの、スペースがたっぷりあるホテルが好きであって、かーちゃんにせがんで、ときどき連れて行ってもらった。 ディズニーランドと言えば世界のあちこちにあるのに、わしがオレンジカウンティのにしか行ったことがないのは、多分、そのせいです。 予約そのものは、わしは電話するほうがめんどくさくない、と考えて電話に頼るが、 (この頃は電話そのものは旅行者であっても件のBestBuyの自動販売機 でプリペイドフォンが50ドル(たしか40ドル分の通話代クレジット付き)で買えるので、自動販売機で電話を買う経験をしてみたいひとは、やってみるといいかも。 普通は、そのヘンの家電店とかにテキトーに寄って買います) それが大手ホテルチェーンのほとんどゆいいつの良い所で、インターネットでも簡単に予約できる。 場合によっては、インターネットのプロモーションよりも安いプロモーション期間中であることもあるので、インターネットで予約してもレセプションで聞いてみたほうがよいと思う。     ついでなので、何をやって遊ぶか、ということを述べると、クラブやなんかは、自分で調べて行くのがよいとして、初心者向けマニュアルなのでおとなしい遊びを述べると、食べ物はカリフォルニアには広汎なエスニック料理屋がある。 インド料理、アフリカ料理、中東料理、というような料理屋はものすごくおいしいところがたくさんある。 都会なので当たり前だが、不味い店はものすごく不味いが、この頃はyelpやtripadvisorのようなサイトがあるので、あんまり土地の事情がわからなくても「はずれ」のレストランにあたる確率は低くなったよーだ。 いまカリフォルニアに行けば、たいてい寄る「Magic Lamp」を見てみると、 http://www.tripadvisor.com/Restaurant_Review-g32648-d2355813-Reviews-Magic_Lamp-Long_Beach_California.html 中東料理では出てこなくて、地中海料理のカテゴリで出てくる。 ときどきヘンなレビューもあるが、他人が書いたレビューを読んでいけば、だいたい店の様子は検討がつく。 念のために述べておくと、こーゆーサイトにも傾きがあって、たとえば同じ「Magic Lamp」をyelpでひいてみると、いきなりライバル店の「Open Sesami」のガーリックソースのほうが私は好きである、と述べている女のひとがいる。 週末であれば両方とも人気店なので、テーブルが予約できたほうに行く、というのが実際だと思う。 … Continue reading

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Get Lucky

ぶちこわれて放射性物質がどばどばと流出している福島第一原子力発電所の近くで、笑顔の家族の団欒をすごしているひとびとがいる。 あるいは見るからにあぶなそーな食品を選択して食べて「食べて応援」と勝ち鬨をあげているひとびとがいる。 放射性物質取扱資格が定める上限よりちょっと高いくらいの放射線レベルがなんぼのもんじゃい、そんなの全然ヘーキヘーキ、ヘーキx2、ということにした豪毅な日本国民と違って、相変わらず放射脳で非科学的な恐怖心しかもたない西洋人どもは、サムソン50インチ液晶スクリーンのなかで、汚染水にくびまで浸かって、あるいはひどければ水中に潜りまでして、海水浴を楽しむ日本のひとびとを、自分達には理解不能な国民として眺めている。 結婚して日本に初めて滞在した夏、読んでいた本をテーブルの上に置いて、天井の一角を眺めるくらいの地震があった午後、モニがまっさおな顔で部屋にやってきて、「どうして日本人は地面が揺れるようなバカな土地に住んでいるのか?」と聞いたことがある。 そんな失礼な、と怒ってはいけません。 モニさんは、そこまでの一生の大半、というよりも全部をパリとニューヨークという「地面が揺れるなんて、そんなアホな」の町に住んで過ごしたので、腰で楕円を描かなくてもフラフープが出来そうなくらい派手に地面が揺れる地震が当たり前な、日本みたいな国は想像を絶していたのです。 次の日、高徳院の大仏まで歩いて、ほーら、ここに柱が載っていた柱石があるでしょう? この柱石に載っていた大仏殿は地震でぶち壊れて津波で流されてしまったのね。 それからそれから、このおもおおおおーい大仏が、地震と津波で4メートルくらい後ろに流されちゃったんだってええええ、地震て、すごいよね、と夫として教養を披瀝してみせたら、そのあと半日、口を利いてもらえなかった。 人間の一生の九割は運だ、自分の努力で出来ることは少ししかないというひとは正しくない。 人間の一生は十割が運だからで、自分の努力で変えられる部分などゼロであると思う。 きみの母親のお腹のなかでやがてはきみになる卵が受精して父親由来のDNAと母親由来に由来するDNAの情報が発現して形質をかたちづくるところを想像せよ。 あの、なんだか考え込んでいるような人間の形に近付いたきみの胚が表れる頃には、もうそこできみという人間の一生の半分は運でつくられてしまっている。 英語人の世界では「彼女はsillyだっただけさ」とよく言う。 大学の一年生で、上級生たちに誘われてコカインを吸引してバカ騒ぎをしたあげく父親がわからない子供ができてしまったというような場合、わけのわからんジジイとかが、「こんな売春婦のような女が大学生を名乗っているなんて」と述べたりすると、まわりで聞いていたオトナたちが、ジジイの無知を窘めて、そう述べる。 英語人は「人間は自分でも後で考えてびっくりするようなバカなことをよくやるのだ」ということを常識として知っている。 英語人という生き物は、その魂が拠って立つ「英語」という言語を見れば判るとおり、ぜんぜん論理性がないが、言語集団全体の経験則の集積による「常識」だけは言語自体が分厚い判断の堆積として豊富に持っている。 だから、どんな人間も必ず失敗するものであって、その失敗から蘇るには「運」が必要なのだということも知っている。 そうして、もし自分の側に運がなければ、いまもこのときでも自分があるいは刑務所にいるかもしれず、あるいはアルコール依存症のリハビリ施設でミーティングの輪に加わっているかもしれない、とよく知っている。 「努力」という言葉ほど嫌な言葉はない。 なんだか本来はやりたくないことを自分に強いているような響きがあるところが好きになれない。 夜明け前に起きて、机に向かって、ああでもないこうでもないと推論をすすめて、全体像を頭につくろうと企画して、家の誰かに話しかけられでもすればオオマジメに怖い顔をつくって唇に人差し指を立てて相手を遮り、冷蔵庫のドアを開けてスプレッドとシャンパーニュハムでサンドイッチをつくっているときも頭のなかは定型を求めて奇妙な形にねじれてゆく曲線群でいっぱいで、気が付いてみればあっという間に夜中の一時になっていたりするのは、努力しているのではなくて夢中になっているだけのことである。 努力する人間は努力に対して吝嗇というか、なんだか自分が払った膨大な努力の見返りを手にしなくては自分の人生は成功とは言えないといいたがっているようなところがあるが、それも、自分の頭のなかではなんだか崇高なものだということになっている「努力」が本質的に功利的な理由に基づいているからだろう。 努力型の人間におおくみられる、あの粘りつくような卑しい感じは、要するに神が自分の費やした時間と労力を正当に認めてくれないという利己的な憤懣によっている。 人間の一生が全て運に依存しているのだと思わないひとは、たいていの場合、いろいろなことをやってみないひとであるように見える。 言葉を変えて言うと人間の一生がいかに運に依存しているかを認識できるようになるためには部屋のなかで考えているより町へ出て、あるいは町をすら出でて、国を出て、遠くを旅して、たくさんのひとと話し、皿洗いやウエイトレスから、ホテルの受付、通訳、折々で糊口を凌ぎながら、人間の世界がどんな形をしていて、人間の一生がどんな仕組みで、人間の心や思考のレンジがどこからどこまでなのかを実地に理解する必要がある。 見知らぬ町にでかければ危ない目に遭う事もあるが、自分の部屋にひきこもって思考をめぐらすことしかしない人間は、その部屋に運ばれてゆく先の、確実な精神の破滅しか待っていないことを考えれば、文字通り「運を天にまかせて」ほっつき歩く人間のほうが遙かに安全保障上もすぐれた選択をしているのだと思われる。 もうひとつ、声を潜めて、人間の一生にまつわる重大な秘密をこっそり打ち明ければ、危険を怖れない人間ほど運に恵まれる。 誰にも説明できない不可解な理由によって、自分の一生に安寧をのみ願う人間をこそ不運は狙撃する。 もしかしたら「幸運の女神」は、岐れ道にたって、「安全方面→」「こっちは危険→」と書いてあるふたつの標識を顔をあげて眺めて、危険なほうがオモロイに違いないとわざわざ危ない道を行く愚かな人間だけを愛しているのかもしれません。 人間の一生というものにたくさん詰まっている、理屈が説明出来ない神秘のひとつであると思います。 (記事の表題は、わしが大好きなフランスのバンドDaft Punk http://en.wikipedia.org/wiki/Daft_Punk のヒット曲。  ツイッタでわしが「またGet Lucky聴いてる」と書いていたのを憶えている人がいるだろうが、もともとはブッダバーミュージックだった「Get Lucky」が、ぶっくらこくことには大陸欧州から伝播して英語世界での大ヒットになってしまった。英語人もだんだんフランスとスペインで起きている音楽的な事件に気が付きはじめたもののよーである)

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イタリア旅行マニュアル(その2)

ウンブリアの田舎の人口が500くらいしかない小さな村だが、場所が良い、というかちょうどクルマを運転していてくたびれるくらいのところにあるので、宿屋がふたつ立っている。 片方は純然たるロカンダ(宿屋付きの料理屋)だが、もう一方は部屋数が20くらいもある、建物と庭が中世のままのモテルというか、イタリアにはよくある古い廃屋を改造してつくった自動車旅行用の宿屋です。 リセプションの隣にレストランがあって、ミシュランに載ったり載らなかったりする程度の料理を出す。 サンジョベーゼは安ワインとして便利で、水代わり、食事と一緒に飲むワインとしてなにも考えずに頼んでも「おとなしい」ワインなのであたりさわりがない。 デカンタの「メッツオリトロ」(500ml)で頼んで、モニとふたりでちょうどいい。 モニもわしも少し酔った気持ちになるにはワイン1本(750ml)づつが必要だが、ワインはなにも酔っ払うために飲むわけではないので、たいていは、メッツオリトロだけ地ワインを頼んで、食事が終わればまたクルマで旅の続きに出る。 イタリア料理はアンティパスティ、プリミ、セコンディと頼めるようになっているが、リストランテと名前が掲げてあるような立派な料理屋では、アンティパスティとセコンディに力がはいっていて、プリミのパスタは5種類程度、通り一遍のものが多い。 さらに高級になると、プリミにも力がはいるが、だいたいふつうのリストランテではアンティパスティで、アイデアが利いた、おおっ、という料理が出て、プリミでお腹を落ち着けて、セコンディで堪能する、というふうになっている。 イタリア料理は豚肉料理において日本と共通した味覚に訴える。 イタリアは豚肉がおいしい国で、しかも安いので、わしなどはメニューを見て何も食べる気がしないと「ビステカ・デ・マヤーレ」、豚肉のソテーばかり食べている。 オリーブオイルで焼いて、レモンを手でぎゅっとしぼって上にかけて食べる簡単な料理で、値段も6ユーロ、高くても10ユーロなので、簡便で注文しやすい食べ物です。 ピッツエリアやオステリアというような看板がかかっている簡易食堂から、リストランテまで、幅広いタイプの料理屋のメニューに載っている。 モニとふたりで、わしが一生で身につけた技芸のうち最も得意な技芸である「チョーくだらない冗談」を連発して、「ガメ、苦しいからやめろ」と怒られながらイタリア人たちの3倍は優にかかる時間をかけて夕飯を食べていると、入り口から小柄な夫婦がはいってくる。 ちょうど逆光なので、影になって、輪郭しかみえないが、身のこなしで日本のひとだと判ります。 ….と思いながら見ていたらイタリアのひとだった。 イタリアのひとは、面と向かって「イタリア人は、物腰、身のこなし、身体の置き方、いろいろな点で日本人に似ていると思う」と告げると、 ええええー、そおおおかなあああー、と、すごく嫌そうな顔をする。 傷つくなあ、そんなに嫌がらなくても、と日本のひとは考えるかもしれないが、「イギリス人にファッションが似ている」とでも言われた日にはイタリアの人は世をはかなんで自殺してしまうかもしれないので、相身互い、そう悄気てはいけません。 まず外形的に背丈が同じくらいである。 いまwikipediaで見ると、イタリア人の背丈は男177cm女168cm、日本人が 男170cm女158cmで、ずいぶん異なるが、イタリア人は身長をはかるときに全員背伸びをしているのだと思われる。 アウトレットやモールの人並みを見ても、イタリアの人はちっこい人ばかりで、おまけにやたら細っこい。 モニもわしも「日本にいるみたい」と考えました。 イタリアの人は日本人と同じくらい、あるいはもっと食べるスピードが早い。 フルコースでワインをボトルで頼んで、デザートにコーヒーで30分でたいらげてしまう。 ニュージーランド人なら、同じ内容の食事を頼めば、優に2時間はかかる食事を、あっというまに食べてしまう。 もしかするとイタリア人の胃袋は「お持ち帰り用」に出来ていて、家に帰り着いてからじわじわと消化される仕組みになっているのか、と疑うくらい食べ物を次から次に胃へ放り込んでゆく。 イタリアの人は何を食べてもお茶漬けをすすりこむスピードで、日本人とイタリア人は世界における二大早食い族だと思われる。 類似の最大のものは、椅子をひきだして腰掛けるときや、支払いのカウンタに向かう時、あるいはドアを締めてでてゆくときの「ちょっとした仕草」で、(特に背が小さな)イタリア人と日本の人は、はっとするくらい似ている。 日本語には「粋」あるいは「いなせ」という言葉があるが、イタリアの人にも同じ美意識があるよーです。 見ていて、ひどく面白いと思う。 イタリアに住むときの最大のannoyanceはマフィアであるという。 もちろん見ず知らずのヨソ者にそんな話はしない。 外国人相手には、「国の恥だ」という意識が働いて、聞かれても言葉を濁してまともに答えないのが普通であると思う。 それでもだんだん仲良くなってくると、イタリア社会においてマフィアがいかに深刻な問題であるか教えてもらえるようになります。 モニとわしにマフィアの詳細な有りようを教えてくれたのはイタリアに長く住んでいるスペイン人夫婦が初めだったが、いま考えると「外国人同士」という気安さがあったからでしょう。 タブーというものはそういうものでイタリア人同士でもカフェのようなところでマフィアの話をするというのは考えられない(わしが会ったカフェでマフィアの話を公然とするゆいいつのおっちゃんは本人がマフィアだった)が、たとえ日本語でも、こんな場所でマフィアの実態を書く気はしない。 コモ湖のように、いかにもマフィアとは無縁であるように見える土地柄でも、夏には料理屋にローマのマフィアたちが集金に来て、売り上げの半分をもっていってしまう、というくらいの事実から、残りを推測してもらうのが良いと思う。 イタリアの社会では「誰かの知り合いである」というのは絶対的な効力をもっている。 モニさんがヘアドレッサーに行くときにチョルノビオのわしが子供のときから知っているおばちゃんに教えてもらった店にでかけた。 … Continue reading

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