ダンスフロアに出る前に_1

dance

人間の一生が母親の痛みと苦しみのなかから始まるのは象徴的である。
生まれ落ちてきた子供は、血まみれの肉塊にすぎない姿から、だんだんに人間の姿に変わって、(少なくとも人間の審美の感覚においては)自然のなかでも最も美しい造形である優美な肉体を獲得して、ほとんど美そのもののような姿で、15歳くらいから35歳くらいまでの20年間をすごす。

心や言語を使う思考の面では人間が人間であるのは18歳くらいから始まって70歳くらいまでのものだろう。
わしの父親は50代の半ばだが、50歳をすぎると「衰えるというよりは、考えるのがめんどくさくなるのだ」と言っていた。

人間の成熟した精神活動で最もはやくピークを迎えるのは母語の美への感受性である。
人間のすべての思考の基礎は当然言語で、というよりも、このブログ記事で何度も述べてきたように個人から見れば獲得した言語の体系そのものがその人間の思考の体系であって、よく考えてみればあたりまえだが、言語の感覚が研ぎ澄まされない者は、その後に何を考えても無駄である。

言語のもつ絶対的な情緒や美、意味、その言語の誰が聞いても精密に同じ意味と情緒で受け取れる「かたち」を感受する能力が頂点に達するのは、だいたい16歳頃から22歳くらいまでで、冷たい言い方をすると、そこまでに詩を読む能力を身につけられなかった人間が、そのあとでいくら物語の才能にめざめて巧妙な仕掛けをもった物語を書けるようになっても、努力全体がなんだかぱっとしないものに終わるのは、文学の歴史にはいくらでも例があって、言語と人間のあいだに介在する事情を考えればやむをえないことでもある。

英語の世界で言えば、この時期にラテン語の基礎をおぼえ、フランス語を勉強しろと言われ、やたらと詩を暗誦させられるのは、学校に行きたくなくなるほど嫌な社会的習慣だが、社会のがわからみれば、ガキどもへの親切心なのであると思う。
ホメロスから始まってT.S.エリオットやディラン・トマス、W.H.オーデンというようなひとびとに至る詩の暗誦が、その後の思考全体のセンスを規定する。
詩が読めない人間には思考そのものが出来ないのは常識であると思う。

前にも述べたように、誰が聞いてもそこで語られる絶対的な感情の定型を言語がもっていることを若い人間は詩をとおして学ぶが、いまの世界では言語のみの力で精妙な思想や感情の定型を「解釈を拒絶する」精確さで伝えるかわりに自分で述べている言葉の、いわば「表現ののりしろがおおきい部分」を旋律で補う、という方法を人間は発明して、
こういう「言語がもたらす定型」のやりとりのしかたは、英語世界では、だいたいボブ・ディランくらいから始まった。

ボブ・ディランは、その名前をディラン・トマスに憧れるあまりつけたので判るとおり、詩を読む訓練が出来ていた人だった。
だいたい16歳くらいの頃には、「The force that through the green fuse drives the flowers」のような詩を完全な形でうけとれる能力があったように見えます。
しかし、このひとには発語能力がなかった。
現実を詳細にみるくせがあるいっぽうで、詠嘆の傾向があって、それが邪魔をしたのでしょう。
詩的発語の能力が不足していることへの自覚があったボブ・ディランは、自分が伝えたい思想と情緒・感情のセットをtuneによって完成するということを考える。
当時のインタビューを読むと吟遊詩人からヒントを得たようなことを言っているが、
ほんとうはどういうイメージで自分がやっていることを考えていたのか、よく判らないところもある。

誰でも知っている歌であることが必要なので古い歌をもちだすと、The Beatlesの
「A day in the Life」の有名な冒頭、

I read the news today oh,boy
About a lucky man who made the grade

は、ボブ・ディランが発明した「『絶対』の伝達」を一挙に洗練させた例で、それまでは人間の言語が音楽とともに聞こえることを、人間の身体そのものを楽器として鳴らすオペラでの「音響」としてしか許容しなかったクラシックの音楽家たちが、この曲を高く評価して、というよりも、聞いてぶっくらこいてしまったことによく顕れていると思う。

コモ湖の名物である夏の嵐がおさまった一夜、中世の農家をそのまま改造した別荘の中庭で、アイルランド人のMさんが、「ゲール語によるマクベス」の一節を暗誦してみせてくれたことがあったが、人間の言葉があれほど美しく聞こえたことはない。
それは地や森林から湧き起こる精霊の声のようで、あの喉の奥を振動させてうまれるゲール語の「音」は、そもそもが精霊のものなのだと明瞭に理解される1時間だった。

そういう言語の真の深み、その言語が生まれた大地そのものが発語しているような深みは、ボブ・ディランが発明した簡便な詩的方法によって、ほぼ永遠に失われてしまったが、よいほうに目を向けると、ボブ・ディラン以前には考えられなかった数のひとびとが言語の詩的機能について理解するようになった。
簡単に言うと、ふつーのひとの、ふつーの会話、たとえば屋台のプリッツエルの売り子が客に
「For the times they are a-changin’」
と述べるというようなことは、ボブ・ディラン以前には起こらないことだった。

ついでに述べておくと、中国や韓国の若い知識人の友達たちが日本について最もうらやましがることのひとつが、日本には分厚い現代詩の伝統が存在したことで、
もちろん彼等の国にもAi Qingや金芝河のような巨大な才能をもった詩人がいるが、苛烈な社会の特に政治的な状況が、彼等に詩の才能を発揮させなかった。

自然の美を描くことを禁止されて建物だけを描けといわれた画家のようなもので、言語において最も基礎的な表現を奪われた中国と韓国の文明に、いまでもおおきな傷跡となって残っている。

もうひとつ、14歳から22歳くらいまでのこの時期に人間がやっておかなければならないことは数学的訓練で、本来数学とは相容れないと言ってもよい論理も、この初歩の段階では含まれている。
わし自身はエウクレイデスの幾何学という大時代なものがたまたま好きだったので、子供が父親の書斎の本棚の片隅で発見した魔法の本を少しづつ読んでいくようにして、この本を読み進んでいった。
いま振り返ると、とても運がよいことだったと思う。
いつつの公理から始まって、静的で均整のとれた世界を、神のおもいつきに似た「補助線」や、おもいもかけない角度からものをみることの有用性を身にしみて学んだことに加えて、すべての定理を証明しおえたときの、「世界を説明しつくして語り終えた」感覚は、おおげさにいうと、その後の一生すべてに、ある名状しがたい安定した感覚を与えてくれたと思う。

おもわぬ副産物もあって、エウクレイデスの幾何学の本を、ときにはひとつの定理の証明にまる一日かかるような「鉛筆をにぎりしめたまま」読む読書体験のあとでは、ノートブックを開いて自分の思考を書き出しながら読めるような本を読むことを「読書」とはみなさなくなった。
PCゲームやニンテンドーと同じただの遊びで、いまでも「本を読むことが勉強だ」と誤解しているひとをみると、どう言えばいいか判らない気持ちになる。
むろん、軽蔑したりはしないが、本を読むのはどちらかというと行動をしないナマケモノの遊びであって、そんなものを勉強と言われてもなあー、という感じがする。

実はこのあと、11歳のガキンチョに過ぎなかった妹が「ベクトル」という概念を身につけて、エウクレイデス式では大事業の証明をインスタントラーメンをつくる手軽さで、しかもスマートに行うのにショックをうけて、デカルト以降の、なんとなく下品な感じがする数学をマジメにベンキョーするが、そっちは、誰でもが歩く道なので具体的なことは省く。

人間が若いときにやっておくことは、この数学的訓練と言語的訓練のふたつにつきている。
うるさいことをいうと、日本の小学生は余計な勉強をしすぎて、理科や、まして「社会」などは、なんでそんなガキンチョがドイツの鉄鋼生産高を知らねばならんのだ、と思うが、お国柄というものだろうから、口をつつしむことにする。

人間の能力は分野によって年齢的なピークが異なるのは19世紀から知られている事実で、言語や数学は年をとってから身につけようとおもうと苦労するという。
ましてそれまで誰もみたことがないような壮麗な言語の宮殿や、漆黒の夜空を横切る流星のような一行、あるいは、宇宙の形が異なってみえるような数学的発見は、20代のピークをうまくのぼりつめて、30代に洗練された能力によって成し遂げられることがほとんどである。
長く続く能力、という点では数学ではたとえばレオンハルト・オイラーの例があり、
詩では、名前を忘れてしまったが、80歳代で初めての詩集を出版したフランスの詩人がいたはずである。

人間は与えられた肉体を使って、魂だけでは感受できない肉体の感覚に基づいた歓びを味わうためにこの世界に生まれてくるのだと思う。
伴侶の身体を冒険するsensualな歓びはもちろん、窓際に腰掛けて頬をなでてゆくそよ風のやさしい感覚や、まるで身体のなかに緑色に反射するような田園の美しい風景、あるいは、テーブルに並んだ鴨や仔羊の肉、ワインがもたらす昂揚や酩酊に至るまで、人間の魂が肉体の歓喜の感覚を忘れそうになるたびに、この世界に回帰して赤ん坊の形で肉体の記憶を回復しに来るのだろう。

他のすべてのことと同様に、人間の一生を楽しむにも「コツ」があって、ちょうど洞窟の壁に自分がおぼえてきたことを描きつけるクロマニヨン人のように、このサーバーの片隅に、これから何回か、その「コツ」を書き付けておこうと思います。

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5 Responses to ダンスフロアに出る前に_1

  1. ちょろのり says:

    はじめまして!シンディローパーのshe bopを検索してたら、こちらのブログに行きつきました。とても面白くて、時間も忘れて読みました。読んでいるうちに、「そっか、人間の心は自由で、どこに行ってもいいんだ」という気持ちがして、とても私はなんか癒されました。わたしはそのへんによくいる日本人のひとりの女性(多分同世代?)で、がめさんがネット上で変な日本人にからまれているときは恥ずかしかったし、どこかの空港でサラリーマンの日本人のおっさんに親切にしてくださったことが嬉しかったです。お体に気をつけて過ごしてください。これからも楽しみにしています。たくさんの感謝をこめて。

  2. tacet says:

    歌詞の伝わらない歌唱への反省は1600年ごろや18世紀にもあって、それぞれreciatar cantando 、Klangrede という様式を生んでいるようです。2、300年おきくらいに人類は反省するのでしょうか。

  3. tetsujin says:

    ガメ様

    なんだかお久しぶりですが、実はブログもツイッタもずっと読んでいます。

    今日は、コメントというよりは、御礼を言いたくて。

    これまで私自身以外に、堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』を読んだらしい人に会ったことが無かった。ブログ上のガメさんが初めて。良き調和の翳も冬の皇帝も、この自伝小説を通じてわしが弱年の頃に知った詩人です。暗誦まではできないけれど、いくつかの章句が記憶に残ってはいる。

    20世紀前半の日本政府は、ヒトラー政権に比べれば、いい加減な作りの杜撰な体制に過ぎなかったはずですが、それでも自国と他国とを問わず、アジアの個人の身体と精神を扼殺するには十分な強さだった。堀田善衛は、青春を回顧する明るさを基調としながら、1930年代の東京で若者が一人一人潰されて行く経過を克明に記録していました。強力な指導者が命令を下したわけでもないのに、異端の度の強い者から順々に排除され消えていく。

    鮎川信夫、田村隆一は、あるいは、「荒地」系ではないけれど散文家の大岡昇平は、この時期をからくも生き延びた人たちでした。そして、バブル後の日本でその名を聞かなくなった人たちです。ウェブ上でしか知らないガメさんに、言わば、過去をもう一度知るための道しるべになってもらったような感じで、記憶の中からこの人たちが浮かび上がってくるのを体験しました。

    この人たちの価値をあらためて高く掲げてくださったことに深く感謝。

  4. 「詩が読めない人間には思考そのものが出来ないのは常識であると思う」
    このような言葉を日本で聞いたことがありません。それほどまでに本質的なものが、教育では言葉の余技のような扱いを受けていました。一方で、感性が鋭敏な子どもは皆、中学生頃に詩をつくり出す経験をするもののようです。僕の周りの話ですが。

    「人間は与えられた肉体を使って、魂だけでは感受できない肉体の感覚に基づいた歓びを味わうためにこの世界に生まれてくるのだと思う」
    ガメさんブログは、このような人間と生きることについてのいつくしみを詩的にうたいあげるところに、最も感銘を受けています。

    モニさんと海へ出て、この危険な宇宙の中にあって、今ここでこの人といる喜びをうたいあげているエントリーを見たときは、昇天にも似た思いがしました。

    ここに世界の玄妙さを探っていくための泉が湧き出ている。そう確信したんです。

  5. ディラン・トマスを調べていてこちらに辿りつきました。とても興味深く読みました。

    >それは地や森林から湧き起こる精霊の声のようで、あの喉の奥を振動させてうまれるゲール語の「音」は、そもそもが精霊のものなのだと明瞭に理解される1時間だった。

    情景が眼に浮かぶようで、そしてその響きが聞けてくるようす。一度そのような場に自分の身を置いてみたいと強く思いました。

    便利なツールに囲まれた生活をしていると、ものを記憶することさえ必要がないのではという錯覚に陥ります。一方で、これらのツールがなくなったらと想像すると、不自由な生活を思い不安になります。

    「暗誦」、これこそが、硬直化してしまった自分の脳を生き返らせるために、必要な行為だと気がつきました。ディラン・トマスの朗読する声に、心惹かれた理由もわかってきたような気がしてきました。有り難うございます。

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