ひとつでも多くのドアをあける

lemone

勉強なんてくだらないことは時間の無駄であるからマジメに週末の盛り場にでかけて人間の快楽や悲惨を訪問しようと固く心に決めていても罠にはまったようにカウチに寝転がって、ページを開いたままの本に囲まれて、「ベンキョー」してしまうことがあった。
結局、かけがえのない週末だというのに、あの天井が低い、もとはワインセラーだったクラブにも行けず、女のひとびとの甘い匂いにも浸れず、酩酊の楽しみにすら預かれずに月曜日になってしまう。
そーゆーときには、うらぶれた気持ちになって、学校にも行かず、泣きたいような気持ちでベッドのシーツのあいだにもぐりこんで午後まで眠ったりした。

「日本に住んだ」と言っても良い時期が二回あって、初めは子供のとき、2回目は、このブログ記事をずっと読んでくれている人にはお馴染みの5年間11回に及ぶ英雄的な「日本遠征」期間中である。

子供のときは、いまでもありありと目に浮かぶ、空港バスの冷たい窓に妹とふたりで鼻を押しつけて豚鼻のかっこうにつぶれた鼻をひくひくさせながら、箱崎の高速道路のカーブから見える東京の光の海に「すげー」とコーフンした冬の夜に始まって、見るもの聞くものが楽しくて、一年などはあっというまに経ってしまった。
家は東京だったが、義理叔父の両親が鎌倉に住んでいて、鎌倉にもよくでかけた。

鎌倉山の林間病院を左に見ながら七里ヶ浜に抜けてゆく道をよくおぼえている。
雑木林の向こうに江ノ島と富士山が見えている道を抜けて七里ヶ浜におりてゆくと、長細い公園があって、その道をずっと歩いて行くとプリンスホテルの辺りで、突然くしゃくしゃにした銀紙を一面に敷きつめたように、太陽の光を散乱させる、午後の七里ヶ浜の海が見える。
その道をずっと降りていって、サーフィンの支度に忙しいひとがたくさんいる駐車場のコンクリートの防波堤の上に座って海を見ているのが好きだった。
イギリスやニュージーランドの海と異なって日本の海は、なんだか懐かしいような、嫌な臭いであるような、不思議な臭いがするが、あれはテングサの臭いである。
びっくりするほど狭い鎌倉の砂浜だが、子供の頃はとにかく海があれば楽しいだけで、まだその頃は日本では珍しかったカヤックで遊んでいると、漁師のおっちゃんたちがよってきて、もの珍しそうに見ていた。
その頃は日本語がよくわかっていなかったのではないかと思うが、漁師のおっちゃんたちが「これは、なんていう舟? どっちに進むのか?」と質問したのをおぼえているのは、付き添っていたかーちゃんシスターが話していたのを自分が話したようにおぼえているのではないか。

わしが子供の頃は、イタリアのひとの気風もいまとはずいぶん違ったもので、いまでもよく憶えているが、ミラノのケーキ屋さんでかーちゃんと妹と3人でケーキを食べていたら、目の前を背の高い大層美しい女のひとが買い物袋をさげて歩いてゆく。
その後ろを…いま、こうやって思い出していても現実の光景とは思えないが…4、5人の若い男が、まるで行列をなすようにしてぞろぞろとついて歩いている。
「ストーカー」と呼ぶには、あまりにおおぴらで、しかも、まるで女びとに特殊な引力でもあるかのように、そろいもそろって「顔が先にひかれていって、身体がそれにつられている」とでもいうような不思議な歩き方なので、見ていても非現実的な感じがする光景だった。

最も衝撃がおおきかったのは「牧場の家」で、定義上、そこまでおりてきてしまっては「積雲」と言わないが、それでも、その白い雲のしっかりとした厚みや色彩から「積雲」と呼びたくなる雲が、地上から、ほんの数メートルのところまで降りてくる。

手をのばせば届きそうなところを夏の高空にあるべき雲が通行しているので、妹とわしは、なんだか魔法使いが住んでいる国かなにかに来ているような気がしたものだった。

ある午後などは、とうとうその「積雲」が地上を覆う高さにまで降りて、ちょうど日没の頃だったので、それが薔薇色に輝きだして、どうにも文字では表現のしようがない美しい色彩の光景をつくりだした。
おとなたちが、みなクルマを駐めて、あまりの美しさに茫然として、地上から天国に拉致されたひとびとのような表情で歩き回っていた。
芝生に跪いて、神に祈っているひともいた。

あるいは満月の夜には、子供部屋のカーテンをあけてみると、パドックは、木も、フェンスも、農場のまんなかを流れている小川も、すべてがコバルトブルーの、深い青色に染まっていて、正気を保つのが難しいような、言葉がだんだんに意味のある軸からはずれてゆくとでもいうような、英語のlunaticという単語が自然と思い出される風景が外に広がっている。

プラヤ・デル・カルメンの、いまはハリケーンでなくなってしまった(跡地に同名のホテルが建っている)「El Faro」には屋根の上におおきなテラスがあって、その夜は客はわしたちだけで、「酒屋」とはまた別にある「テキーラショップ」で店員に選んでもらったテキーラを並べてサンガリータと一緒に飲んでいたら、人工的な感じのするおおきな光点が4つ夜空に浮いている。

下の砂浜にいるメキシコ人たちに「おい、あれが見えるかい? あれ、なんだろう?」と聞くと、メキシコ人たちはこともなげに「UFOだよ。ここにも、よく来るのさ。ソチカルコほどじゃないけどね」という。

幽霊なら将来はなんとか存在が信じられるような理屈をでっちあげられるだろーか、と考えるわしでも、UFOでは信じたくても信じられないので、暑熱と酔いも手伝って、ときどき現れるという光点の編隊を、あっさりとUFOだと信じて恬淡としているメキシコ人たちの反応も含めて、全体がまるで夢のなかで起きていることのように感じられた。

あるいは夕暮れに船を出して、ハウラキガルフを出る頃に漆黒に変わる海を眺めていると、自分の頭のなかの言語そのものが静まってゆくのがわかる。
からだのなかに燠火のように残っている音楽も消えて、完全な沈黙がやってくる。

この地球の上で「言葉のない世界」をもっているのは夜の海だけである。
人間が神を考えるときに大海にでるひとの意見を採用しなかったのは宗教にとって不幸なことであると思う。

夜の海、特に星のない夜の海は人間から言語をはぎとってしまうので、人間の耳に聞こえるものは自分の体内の動脈や静脈の音と、自然の沈黙だけになってゆく。
言葉というものは、ちょうど魂の表面に倒れ伏したように、あるいは闇に薙ぎ倒されたように姿が見えなくなってしまうので、実は人間の魂は危険なほど神に近付いてしまっているのである。
むかし、たとえばインド洋で自殺者が頻発したのは「耐えがたいほどの倦怠のせい」であると、どんな本にも書いてあるが、ほんとうにそれが理由だったろうか。

廻廊がいりくんだ、一見には迷宮にしかみえない巨大な建物があって、ドアが両側に並んでいるところを想像してみるとよい。
どの部屋もなかになにがあるかきみは知らないし、通常の家とは異なってドアの向こうがいきなり別の宇宙になっていることもありうる。
どのドアもたいてい鍵がかかっているが、きみのポケットのなかには(きみが世界を理解しようと努力するにつれて)折々に鍵があらわれる。
きみは、その鍵がどのドアを開けるものかを探索して、首尾良くドアが開いたときには、ドアの向こうの世界のあまりの美しさに息を呑むに違いない。

人間は本質的に冒険者なのである。
人間は、というのが文学的修辞に聞こえるならば、いまの時代まで生き延びている人間は、と言い直してもよい。
何度も述べた二度に及んだ地球規模の絶滅の危機を人間はただ冒険者である能力によって生き延びた。
きみは、その淵源をたどればたかだか何千人という数にしか過ぎないひとつの村の住人の子孫なので、冒険することに適性があるのは、遺伝的に述べて当然の帰結にしかすぎない。

きみの遺伝的構成は荒れ狂う世界を洞窟にこもってやりすごすようには出来ていないと思う。
歴史を通じて、さまざまな人間が「遠く離れたものは意外に近いのだ」と述べている。
あれほど孤立した問題に見えたフェルマーの定理がモジュラーでない楕円曲線の問題に帰着したことが世界中の人をびっくりさせたのは、20年ほど前のことだったが、同じ建物のなかにあるふたつのドアが開くということは往々にして、そういうことなのである。

きみがポケットのなかに発見した見覚えのない鍵は実はきみの一生を解き明かすドアのものかも知れないのです。

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