Monthly Archives: September 2013

恋をめぐる五つの断片

1 元プレイメイト、と経歴を書くのがもっとも相応しいと思われるAnna Nicole Smithが死んだとき、世界のひとびとが最も驚いたのは、その死後に残された日記で、テキサス出身のひとらしい英語で自分自身のためだけに書かれた日記には63歳年上の夫であるHoward Marshallへの愛情や健康を気遣う言葉が書き付けられていた。 当然のように「カネめあての結婚」と悪罵と冷笑とを浴びせ続けたひとたちが、日記を読んでどう思ったかは日記が見つかったあとのどんな記事のどこにも書いてないのでわからない。 良心があれば良心に恥じたに違いないが、彼等にそもそも良心などあったかどうか当然ながら疑わしいうえに、不安定な家庭に育ち17歳で短い結婚生活を経験し、嘲りと罵りのなかで結婚した二度目の夫である石油王の老人をなくし、息子は20歳で不審死を遂げ、自らも(恐らくはドラッグの急性中毒から来た)心臓停止で死んだ、もともとは十代であるだけが取り柄だった人気のないストリッパーとしてキャリアをはじめた女びとの死など、彼等にとってはゴミ箱のなかの食べ尽くされてからっぽになったチョコレートの箱ほどの関心もなかったに違いない。 2 人間の恋の感情は自分を破壊する衝動である。 それは自分の身体のなかに、ある日植え付けられた樹木の種子が、急速に成長して、身体をつきやぶり、肉体も魂も破壊して空に届こうとするのに似ている。 恋をした瞬間から人間は孤独になり、世界から拒絶される。 ありとあらゆる日常から切り離されて、時間そのものですら自分の意識のコントロールから離れてゆく。 一日ながく恋をすれば、一日、人間は死に近付く。 まるで毎日焼身自殺を繰り返すひとのように、炎のなかで苦悶しては、意志も感情も底をついて、自分が空虚そのものになるまで起きてから寝るまでの時間を彷徨することになる。 良いこともないわけではないだろう。 恋の感情を経験することで、人間は物質世界のくだらなさ、その文字通りの通俗性を疑いのないものとして実感する。 オカネや暮らしぶりなどどーでもいいのは当たり前だと、他人に説明されなくても、雷に打たれたひとの言葉で「知っている」状態になる。 言葉を失って唖のようになり、他人の言う事が聞こえなくなって聾のようになった「恋をしているひと」は、しかし、世界の核のようなものと破滅に向かって成長する力によってつながっている。 3 ゴドレーヘッドの岬の突端まで歩いて、モニのことを考えに行ったことがあった。 南極につながっている冷たい海をみながら、モニの指の形や、髪を払う仕草、「ガメはほんとうにわがままなんだから!」というときの目のきらめきのことを考えたりした。 この恋がうまくいけばいい、というようなことは思わなかった。 ただマンハッタンにいるモニのことを考えるのが楽しくて、モニのことばかり考えたかったので誰もいない岬の突端まで行ったのだった。 薄い灰色の雲がどこまでも広がる、低い空をおぼえている。 暗い色の、遠くまで静まりかえった重い液体のような水のひろがりをおぼえている。 モニのアパートのクリスマスツリーのてっぺんにおくために買った天使や、なけなしのオカネを全部はたいて買った月長石の指輪のことを考えた。 もう胸が苦しくなかったのは、多分、魂が全部破壊されてしまっていて、世界と言わず自分自身も、どうでもよくなっていたからだと思う。 広い世界のどこかにモニが生きていることが重要だった。 それ以外はどうでもいいと思った、あの午後の、投げやりなような、透きとおったような、奇妙な気持ちのことを思い出す。 4 人間が恋をしなくなった、あるいは、恋をするということの意味が変わってしまったのは、ひとつにはまともな造作のある恋をするだけの時間がもてなくなってしまったことに理由があるだろうが、もうひとつには「この世界で最も大切なのは自分自身だ」という信念が誰の胸のなかでも強くなったことにも理由があるだろう。 それを良いことであると思う。 良いことである、というのがピンと来なければ、自然なことである、と言い直しても良い。 恋は人間の凡庸さを拒絶するが、この世界の99.99%は凡庸な人間なのである。 ロミオとジュリエットがいまの英語人たちをみれば、おたがいの手に電卓を握りしめて画面を盗み見しながら恋を語っているような現代の恋人たちを見て、あまりの打算の厳しさに怯えるだろうが、人間の進歩の歴史は恋によって自分を破壊するよりは恋自体を手なずけて飼い慣らすほうを選んだ。 そのことは、誰にも、神によってすら、非難できることではないのは現代人ならばひとり残らず知っている。 5 恋をするというようなことは、やがて過去の歴史になるだろう。 人間からは、あのまるで自然そのものの力であるかのような自分を引き裂く恋の感情の猛々しさ荒々しさは失われて、ベッドのそばで服を脱ぐ「弾み」になる感情や、少しずつ就職に似てくる婚姻のためらいを消滅させるための口実としてだけに、かつての日の名残として残ってゆくに違いない。 そのときでも、ふと、あれこれと考えている途中で自分よりも相手の存在を優先している自分を発見して、しばらく「なぜ自分は、あのひとのことばかり考えているのか?」と訝る午後はあるに違いないが、ゆっくりと首をふって、やれやれ、どうかしている、とつぶやいて、自分が生き残るための綿密な作業にもどってゆくだろう。 … Continue reading

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Loose yourself to dance

「山の家」自体は、鬱蒼とはしているものの、ほんとうにここに落葉松でいいんだろーか、という土地柄に、江ノ島電鉄の社長が何万本か植えたのが始まりという落葉松がものすごい数で生えているだけで、なにがなし、人工的な、無理強いみたいな森に囲まれていたが、クルマで西へ向かって国道18号線か、あるいは夏ならば国道18号線は大渋滞でぴくりとも動かなくなってしまうので、離山の裏をのぼって、いったん「トンボの湯」という温泉があるところまで出て、そこから1000メートル道路を通って、いまならビル・ゲイツの巨大な別荘の前を通って、追分というところまでいくと、もう少し自然な感じの森になっていた。 軽井沢なんて、ああいう下品な町のことは知らん、というひとのために、念のために、付け加えておくと、追分ももともとは木などほとんどない原っぱだったのが、軽井沢に引きずられて、堀辰雄や福永武彦たちのような作家や、大学の研究者、音楽家、画家、というようなタイプのひとびとが、なにしろ旧軽井沢に較べれば安いので、別荘をたてて住んだ、その当時に木を植えまくったのがはじまりであると思う。 軽井沢から小諸まではとても人工的な森が続いていて、町そのものも自然の土地割りを無視して無理矢理つくったというか、たとえば18号線とバイパスの岐れめの直ぐ大日向よりの部分は道幅が広くなるが、よほど観察眼のないひとでもなければ直ぐに気が付くのは、この道路の部分は「けものみち」を遮断する形で作られていて、夜中にモニとふたりで深夜の森を散歩するべ、ということになってクルマで追分にでかけると、近在の狐や狸、あるいはおおきいものならば鹿というような動物が、よく轢死体になって転がっていた。 人工的ではあっても自然は偉いもので、50年もあれば、それなりに辻褄があった森林をつくりあげる。 新潟のド田舎で育った日本人の年長の友達と一緒に森のなかの細い径を歩いていると、「おっ、あそこにタラの芽がある」「あっと、そこにヒラタケがある」と述べて、すたすらと歩いて行ってはバックパックのなかの袋にいれている。 わしの目には漠然と「森」としてしか見えていないものが、このおっちゃんにとっては、そこだけ意識のスポットライトが当たるようにして、たらの芽やさまざまなキノコが浮き出すように見える仕組みになっているらしい。 星座という観念がないひとに綺麗に晴れた夜空に一面に星が見える夜に現れる星座を教えるのは骨がおれる作業で、おとななのにオリオンやBig Dipper(北斗七星)を見いだすのに苦労するひともいる。 多少でも教育のある英語人なら、ラテン語とは言語としてはかなりの距離がある英語の単語のなかにあるラテン語幹を無意識に見てとって知らない単語でも文脈から意味を決定して読んでいけるのは、日本の人が読みが判らない漢字でも「篇」や「つくり」から漢字の意味をみてとって読み進めていくのと同じだろう。 あるいはもう少しページから目を離した言い方をすると、英語の速読の仕方のひとつに観念語から観念語へと渡り歩く方法があるが、英語になれていなければ、「全部ひらがなで書かれた日本語」と同じような感じがするのではないかと想像する。 タラの芽も星座もラテン語幹も意識が言葉となじんでゆくことによって生じる「意識の解像度」というべきものが違うので、森で育った人には瞬間に見て取れるタラの芽が都会から来た人間には見えず、夜空いっぱいに描かれた巨大な壁画のような星座群が夜に空を見上げる習慣がなかったひとには少しも目に入らないのは、おもしろい、というより他にはないと思う。 人間の言葉の解像度が届くのは物理現象でいうとだいたい素粒子の手前くらいまでで、原子や分子についてならば、たとえば最密充填の問題であるとか、初期条件の知識を与えられれば子供でも考えることはできるが、量子の運動となると、直観にいちじるしく反したことを考えなければいけないので、骨が折れるというか、一定の訓練がなされないと考えることができない。 あるいは時間も苦手なもののひとつで、人間にとって最も自然な時間のありかたは意識の流れだが、そこから一歩でもでると、「時間」というものについて考えるために七転八倒しなければならないことになる。 まして神などは、「絶対」という定義上、言語で説明することは論理的に述べて不可能で、仮に説明できたとすると、それは言語の集合のなかに含まれてしまうので「絶対」であることはもうできなくて、従って「神」という属性をも失う、ということはこのブログ記事でもツイッタでも何度も述べた。 擬自然的な神が歴史のなかでははやばやとすたれて、かえって人間の形をした神が絶対神、あるいはその息子であるということに落ち着いたのは、実は、人間が目にする自然では言語で早晩説明がついてしまうので、神様にするには具合がわるかったからであると思われる。 そうやって、数式も含めた、さまざまな人間の言語のあつかいにある程度なれてくると、そのしょぼさになさけなくなってくる。 四方を地平線に囲まれた広い大草原に1本の杭があって、その杭に10メートルのロープでつながれた山羊を想像して、その半径10メートルの草を食べ尽くしている姿を想像すれば、この世界における人間の、言語に制約された意識の広がりをかなりよく説明したイメージになると思う。 知性体としての人間の特徴は「頭がわるい」ということで、バカだからいつまでたっても戦争をしているし、同時代の子供が飢えでばたばたと死んだり、14歳かそこらで口紅を塗り、頬紅をつけて自分の身体を売ってかろうじて生活している子供が何十万人といるのがわかっていても、似合うはずもない化粧の子供がおとなにのしかかられて苦悶の呻きをもらしている同じ夜に、枕を高くして安穏に眠っていられる。 一方、人間の第一の美点は、その肉体の美しさである。 もしかすると象さんからみると貧弱な肉体にすぎないのかもしれないが、象はいよいよ解像度の低い言葉しかもたないので、象さんの軽蔑の視線は問題にしなくてもよい。 ツイッタでも書いたように男のほうは、なんだか前のほうへ「でれん」と垂れているバナナっぽい、と述べてはバナナが気の毒なようなものが邪魔だが、それをのぞけば男も女も、形象において神様ですら嫉妬したのは、おおむかしのギリシャ人たちの書いた本を読めばいくらでも例がでてくる。 人間は立ってバランスをとり、二足で歩行し、おとがいの上にうまくのっかった頭のなかで大脳を肥育させたが、大脳の容積を増大させている進化のあいだじゅう、この神経が集中して意識をもった部分は、歩行や、ついには踊りによってリズムの絶えざる刺激を受けて、その悦楽的なリズムのなかでさまざまな観念をつくり、次には観念群をくみあわせて思惟を形成していった。 人間は、ある方角からその存在をみれば「リズムによって出来ている」といいなおしてもよい存在なのである。 人間の最大の成功のひとつは、その生物歴史的に蓄積した自然のリズムを意識によって抽象して、それを肉体に還元して、さしもどして、足を踏みならし、身体を音楽の形にうねらせて「踊る」ということを発明したことであると思う。 宇宙や人間の社会で起きるさまざまな事象への人間の言葉の不器用きわまる、ぶざまな反応に較べて、音楽がきこえてくれば、無意識に自然とステップをふみはじめる、リズムに対する人間の身体のうごきの疎隔のなさに気が付けば、それは、なんだか自明のことであるように思える。 ちゃちな知性にしがみついて、粗雑な落書きのような世界への認識をさまざまな板に書き付けてきた、人間のものがなしい知性の歴史に較べて、誇りにできるものはこのくらいしかないよなあー、と思うことがあるのです。 (記事のタイトルはもちろん春の終わり頃ヨーロッパ各地のDJミックスにたくさんとりあげられるようになってきたなあーとおもっていたら、通常の欧州製アルバムとは異なって、あっというまに世界中でかかるようになったDaft PunkのRandom Access Memoriesのなかの曲でごんす) (動画は最近でたオフィシャルバージョン)

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SNS

WSJ(WALL STREET JOURNAL)のサイトのビデオをぼんやり眺めていたら、 ファッションモデルのあいだでSNSが流行っている、という話題について話しているビデオが流れた。 自社でファッション・モデルを選ぶのに「あのモデルは、身長はどのくらいだっけ? すごくやせてるの? ツイッタのフォロワーは何人くらいいる?」というように話して決めるのだと言う。 game changerだ、という言葉を使っていたが、実際そのとおりであると思う。 Jourdan Dunn というモデルが 「Ahahahahahaha I just for cancelled from Dior because of my boobs! 」というツイートで自分が「胸がおおきすぎておろされた」ことをばらしてしまって業界うちでは、大騒ぎになったことがあったが、本人が誰かに叱責されたという話はなかったし、それきり、騒ぎの噂を聞かないので、ファッションモデルの業界は相変わらずsubtleで欧州的な伝統の影のなかにあるのだなあ、と思ったりした。 SNSのなかではツイッタが好きである。 寝床のなかや机に向かってるときには日本語ツイッタもよくやる。 ツイッタの最大の魅力は、他のことをやりながらいろいろな人と話ができることだと思う。 むかしは、いろいろ考えて140文字ぴったりにして書いたりしていたが、オラトリカルな反面教師たちを見るといかにもダサイので、内容はどうでもいいことにした。 このひとはオモロイな、という人がいて、その人がタイムラインに出てくると、つい話しかけてしまう。 どうやら言いたいことが出来て集中してツイートしようと思っていたらしいのに、つい話しかけて笑かしてしまって、わるいことしちゃったな、と思う。 対策として、(日本語では)フォローする人を極端に減らすことにした。 友達たちは怒るだろうと思ったが、古い友達は、ぼくがどのくらい滅茶苦茶な人間か熟知しているので、あんまり文句も言わずに@をつけて話しかけに来てくれる。 きっと、どうしてこいつはこう愛想がわるくてめんどくさいのだろう、と思っているのだろうと思う。 実際、そうなので応えようがない感じがする。 前にも書いたが同じ140文字といっても言語によっておおきく異なる。 中国語ではひとつの物語が140文字で書けてしまう。 英語では140文字は日本語で言えば50文字くらいだろうか、ちょっとまとまったことを言うと140文字になってしまうので、上のファッションモデルのツイートもそうだが動詞や判り切った単語や文字はとばすことが多い。i ♡ uというような表現はいまは日本のひとでも使うのだと聞いている。 言語によって言える内容が異なるので、社会の違いとあいまって、中国語のツイートは自然と真剣なものが多く、おおげさではなくて個人が政府に抗議するプラットフォームであり、反政府人の最も強力な武器で、取り締まりをさけるために警察が把握できない闇シムを使って投稿したりする。 中国には官製デモのほかには自然発生的に発生したデモなど存在しない(あの日本人が年中悩まされている「反日デモ」も、もちろん中国政府が台本を書き、いっさい取り仕切っている)が、Ai Weiweiが警察に逮捕されて8日間の行方不明になったときだけは別で、各所で何百人という小さな規模にしかすぎなかったが、政府が仕組んだのではない、市民の自発的なデモが起きて、世界中の中国ウォッチャーと、なにより中国政府自身をびっくりさせた。 Ai … Continue reading

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科学的方法と人間

科学人にとっては「正当な手続きによって検証された事実」があって「それ以外の現実は存在しない」というのは有効な態度である。 科学的態度、と言ってもよい。 この文脈からいうと「ばらまかれた放射性物質によって誰も死んでいないから放射性物質の健康への害については考える必要が無い」ということになる。 誰かが死んでから考えれば良い。 科学人はロボットなのかというとなかには意外に思う人もいるかも知れないが人間です。 人間なので同時代の人間に対しても人間としての債務、というとオーバーだが、人間として「こう振る舞うべきだ」という約束事のなかで生きている。 福島第一がぶっとんだときにたとえばオダキン(わしの友達の科学人です)のなかの「内なる物理学者」は何もいいたくなかったに違いない。 想像するのが難しいことではなくて、科学人からみると、とんでもない理屈をこねて放射能が危なくないという言説ならなんでもかんでもかみつき反対し、悪魔め、死ね、と攻撃されている「御用学者」は、攻撃しているひとびとにとっては「御用学者」にすぎないがオダキンにとっては自分のまわりでうろうろしている同僚であり、同僚まではいかなくても、「顔を知っている人」であり、「よく見かける人」でもある。 第一、オダキンには「いま結果として確認できる被害がないのだから科学人として、それを議論の仮定にするのはおかしいだろう」と言う意見が科学的に整合性がある意見であることはすぐに見て取れたはずである。 わしは物理研究者ではないが、わしなら、困ったと思う。 「じゃ、なんできみは将来被害がでるとおもうのか」と言われた場合、「チェルノブルで起きたことにこういう評価がある」とか「こういう論文がある」あるいは、「判らないのだから恐れるべきだ」としか言いようがない。 「判らないのだから恐れるべきだ」というのはチョー非科学的な態度だが、人間が知識の蓄積としてどうなるかが判っていない現実の事態が起きてしまった場合、人間であろうとすれば非科学的判断に踏み込んでいかなければならない時があるのは歴史的にもあきらかで、たとえば放射性物質で言えば「仮に放射性物質が有害であったと10年後に判った場合」、そこで炙り出される自分の姿は、科学的手続き主義に身を隠した人間としては極めて卑劣な自分の姿であり、「科学的手続きに固執したい」というよく考えてみれば単なる科学人の職業人としての自己満足に過ぎない「こだわり」でみすみす子供を殺してしまったという後悔である。 わしはオダキンが「この事態は危険なのだ」と言い出したとき、オダキンは「人間として後悔しない生き方をしよう」と強い決意をもったのだと思う。 人間は科学的にふるまうことによって危機に対処してきたわけではない。 水爆という最終破壊神のような兵器について考えてみると、広島と長崎での「成功した」爆弾投下のあとでは、それをつくることが悪魔的な作業であることを知らない科学者はいなかった。 科学者のなかに「核を廃絶しなければいつか地球は滅びるだろう」という確信が生まれて、バートランド・ラッセルとアルベルト・アインシュタインがラッセル・アインシュタイン宣言を発表したのは1955年のことだった。 宣言に署名した科学者を見ると、 ライナス・ポーリング、アルベルト・アインシュタイン、マックス・ボルン、レオポルト・インフェルト、フレデリック・ジョリオキュリー、パーシー・ブリッジマン、セシル・パウエル、ジョセフ・ロートブラット、ハーマン・マラー、湯川秀樹、バートランド・ラッセルという当時の超一流科学者の名前が並んでいる。 この宣言によって実際に水爆と原爆の製造が止まると思っていたかというと、口には出さないが、11人全員が「多分、無理だろう」と考えていたと思います。 実際、この宣言の3カ月後にこの世を去ることになるアインシュタインは、 「理性が禁止を命じても、それでも科学者の手は動くだろう」と述べたという。 人間の科学的知性は「そこに面白いことがあればやってしまう」という、豚が死の罠だと知っていても食べ物に手をだしてしまうのとまるで変わらない、理性よりも強い好奇心によって支配されているので、人間としての理性が「やってはダメだ」と述べていても、科学人としての魂は、手を動かしてしまう。 手が理性をひきずって、全人類が破滅に導かれるような兵器ですらつくってしまう。 リチャード・ファインマンは、いかに危険なことか知っていながら、どうしても誘惑に勝てずにデーモンコア(6kg超のプルトニウムの塊です)に触わってしまう。 たくさんの人が、ファインマンの死因になった件の奇妙な癌は、この時の結果だと思っているが、デーモンコアに触れたあと40年以上を生きたファインマンは、たとえその死がデーモンコアに触れた結果であると知っていても後悔などしなかったに違いない。 振り返ってみると、福島第一の事故のあと、放射能がばらまかれて、福島県を中心に日本のおおきな部分が極めて危険な状態におかれたあと、日本の人が「科学の家」のなかだけで議論を始めたのは不思議な現象だった。 科学人がこれほどおおきなプレゼンスをもった社会、というのを、わしは他に見たことがない。 科学人という生き物はおよそ社会的な事柄について判断するのに不向きな職業を持った生き物であり、科学は、特にそのなかでも物理学は、その「社会の常識では正しいはずがないことを物理学の世界で認められた確からしい手続きによって真理として発見して検証する」という「反常識主義」とでも言うべきやりかたによって地動説、重力の諸性質、量子、時間の相対性、という直感にすら反した「現実」を見いだしてきた哲学思想としての長い歴史をもっている。 福島第一のように、初めから結果が時間的にずっと先にいかなければどうなるかわからない事態が起きてしまうと、論理的に言って科学は反社会的な振る舞いしかしえないのは自明と言ってもよいと思う。 案の定、おおくの日本の科学人は「まず結果をくれ。そしたら考えるから」というおそるべき自己満足の遊びに身をまかせはじめる。 結果、というのは簡単に言えば福島の子供が死ぬことです。 ある科学者は「また、そのころ、政府から意見を求められる機会もあったので、最悪の事態として汚染が広がったときに、政治家が腹をくくって「動くな」と言えるかどうか、ということをかなり議論した記憶があります。」 と述べている。 わしは、このコピーライターが科学者にインタビューした記事を何回も読み直してしまった。 「政治家が腹をくくって「逃げろ」と言えるかどうか」の間違いなのではないかと考えたからです。 何回か読み返してから、この人はちょうど科学者が科学の手続きに立って考えるように、この場では、日本社会の保全という立場から「政治的思考の手続きに立って」考えたのだと思い当たったのは、3,4回読み直したあとだった。 長くなってしまうと面倒くさいので簡単に書いてしまうと、日本の人達が科学の手続きに沿って考え、あるいは政治家の眼で事態を眺めたのは、要するに「自分の生活」という社会においては最も基本的な観点であるはずのものを持っていなかったからだろうと思う。 実の所、日本の人に必要な考えは「わたしは怖いから逃げる」という希望だけでよかった。逃げなくていいと思った人は、そこにとどまればよく、逃げたい人は逃げる、というだけでよかった。社会の役割はその両方をやれるだけ支援することで、個人の思考を支配しようとすることではなかったはずです。 正しいか正しくないか、というようなことは別にして、西洋人の最も基本的な思想は「部分は全体の一部ではない」ということである。 人間は社会のなかの個人として存在するが、個人は社会の一部ではない。 … Continue reading

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孤茶と訪問する戦後昭和史3

1 わし篇 (まだ返信を書かないうちに孤茶が次の記事を送ってきてしまった(^^;) 相手が書いたことを読んで往復便で記事を書くというこの続き物の意図に反しているが、孤茶は暴走を自分の一生の局面打開の最大の武器として生きてきた人なので、これでいーのです。 孤茶は宇多田ヒカルかーちゃんのことを書いているので、わしもこの時代の音楽のことを書いておきたい) このブログ記事をずっと読んでいるひとは知っているが、わしは「ザ・テンプターズ」 http://www.youtube.com/watch?v=-wCoZA5m5Tc が好きである。 むかし取った杵柄、気のおけない友達が集まるパーティではバンドに加わって遊ぶことがあるが、曲と曲のあいだに、変わった曲やってよ、と言われると「エメラルドの伝説」を編曲して演奏することがある。 Lazer Sharpよりうけるよーです。 この「エメラルドの伝説」が1968年の6月、ザ・テンプターズの最大のヒット曲(オリコン8位)「純愛」http://www.youtube.com/watch?v=nIHUJmlaC3E  が1968年12月、解散が1969年の12月なので、不思議な「グループサウンズブーム」は1970年代のとばぐちで終わったことになる。 いろいろなものを読んだりおっちゃんたちの話を聴いていると、1970年4月に解散したザ・タイガースのほうが遙かに人気があったようだが、いま曲を聴いても、なんとなくピンとこない。 逆に全然人気はなかったらしいのに、いま聴いてみておもしろいのは「ジャックス」のほうで、「からっぽの世界」 http://www.youtube.com/watch?v=C1bV5Tch2bI は、イギー・ポップふうでカッコイイ。 ここまで読んできて、「あれっ?」と思う人がいると思う。 このすぐあとに孤茶が藤圭子にラブレターを書いているような、ファンとしての愛情があふれた記事を書いているが、この五木寛之が「怨歌」の女王、と名付けたヒカルかーちゃんのデビュー2曲目「圭子の夢は夜ひらく」が10週連続オリコンチャート1位になるのは1970年で1968年に出た「からっぽの世界」の2年後です。 まるで時間が逆に進行しているようで、おもしろいが、そこに「昭和」という時代の秘密を解く鍵が眠っているのだと思われる。 その頃、六本木に近い中学に通っていた義理叔父の記憶によると、1972年の文化祭は、Cream、Chicago、Jeff Beck、Led Zeppelinのコピーバンドであふれていて、ゆいいつオリジナル曲で固めた「全校のロックガキどもの尊敬を一心に集めていた」バンドが演奏するカバーはなんとB.B.Kingだったそうである。 (「なんと」がおもいがけずついてしまったのは、B.B.Kingのギターをカバーするのは、バンド人には、たいへんおそろしいことだからです) 岡林信康のバックバンドをやっていたりした細野晴臣たちの「はっぴいえんど」が結成されるのは1969年で解散は1972年である。 「日本語によるロック」を主張して、(こういう「主張」が文字になって残るほどなされたことが、もうすでにこの時代らしくて面白いが)活動を始めた「はっぴいえんど」が「ロック風JPOP」の淵源のひとつであるとすれば、浜崎あゆみというひとは曲を聴いてみると、演歌の後裔で、1970年代まであとじさりしてみると、そういうぜんぜん系統の違う音楽が渾然一体「団子」になって存在したところに日本の音楽の歴史の面白さがあるように感じられる。 孤茶が、これに続く記事で「藤圭子を追い詰めたのは、おれたちだ」と書いているが、この頃に書かれた記事を見ると、自分達の思い入れで藤圭子を音楽性はまったく無視したやりかたで、五木寛之たち、鈍感なおじさんたちがよってたかって嫌がる藤圭子を集団で地べたにおさえつけて「虐げられしものたち」の象徴として慰みものにしたり、後年山口百恵がデビューすると「山口百恵は菩薩なのだ」と囃し立てた時代と違って、孤茶のように何年もタイランドに住む、というような経験を持つ人が普通になったいまの日本では、ほとんど読むに耐えない観念の虚しい遊びによって演歌がなぜ人気があるのか、というようなことを説明する必要はなくなった。 いまになってみると、ほとんど自明のこととして看てとれるのは「演歌」のチューンは、遠く南インドに淵源をもって、それがスリランカやマレーシア、タイに渡り、韓国を経て、日本を東端とする「演歌ロード」が厳然として存在して、この広大な範囲にすむひとびとによって共有される巨大な「情緒」の音楽的な表現が「演歌」であることで、ちょうど日本のロックが西洋からやってきたチューンであるのと同じで、演歌はアジアからやってきたチューンである。 それを日本固有、日本の情念、日本の怨念と五木寛之たちが言いはやして、マスメディアも、それを手もなく信じたところに、「日本」というマイクロ文明の深い孤独が感じられる。 現代中国が生み出した天才ミュージシャン Sa Dingdingの音楽 を聴いていると、このひとの深い思索が感じられる。 ロンドンの貧困地区に生まれて、イギリス社会の理不尽さとチャンスなど通りのどこにもない生活の怒りをたたきつけるように演奏するイギリスのロッカーたちには思索など必要がない。 自分達の情緒あるいは情緒の欠落にぴったり寄り添った「音楽」がすでに子供部屋のスピーカから毎日ながれていたからです。 しかし、日本の若い人間にとっては、そうはいかなかった。 ….と、ここまで書いたら飛行機がでる時間になってしまったので、これ以上、書けなくなってしまった。 この続きは、今日の夜クライストチャーチの寝室で書くか、それがダメなら、「農場の家」のテラスで、牛さんたちの声を聴きながら、ということになると思います。 でわ 2 孤茶篇 (以下は孤茶が息せき切って送ってきた孤茶の一気呵成第2篇です) 昭和に咲いた夢は、やはり夢だったのか   藤圭子が離婚したのは1972年のことで、NHKのニュースで芸能人の離婚を報じるなんてことは珍しかったんで、よく憶えてる。たしかおれが小学6年生の夏休みか冬休みだったように思う。一人の昼食のあとに始まったニュースでアナウンサーの鹿爪らしい声で「歌手の藤圭子さん」と言うのが、そこだけ濡れた紙やすりみたいに、ざらり、と記憶に粗い傷をつけて、標準語の声と映像は昭和の空気に溶けて消えた。   … Continue reading

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夏に向かって準備する

夏が近付いてきたのでパーティの招待状があちこちから来るようになった。 フォーマルな服装を指定した、政治家や総督もやってくる厳(おごそ)かげなパーティもあれば、 今度新しく75フィート(23m)のカッチョイイ船を買ったからみんなで沖合まで出てパーティやろうぜ、いえーい、という人もいます。 アメリカズカップがもっか4-1で勝利ちゅうなので大画面でアメリカズカップを観よう、というのもある。 陽気がよくなると、人間も自然と浮かれてくるのが英語人の単純さの良いところであると思う。 夏のシーズンにあわせて、おっきい船と小さい船の中間の「気軽にほいとでかけられて、1週間くらいはハウラキガルフのどこかでのたのたしていられる船」が欲しいと考えて、ボートビルダーの友達と一緒に船をつくっている。 つくっている、と言っても、わしが船大工をするとあえなく沈没するかもしれないので、スタジオのみなと、あーでもないこーでもないと意見を述べあって仕様を決めてゆく。 ハルデザインは大雑把に言うと「Displacement」と「Planing」がある。 チョー簡単に述べれば「Displacement」は船体が前弦まで水に浸かって進むハル・デザインで、たとえば極端に言えば、戦艦はこれです。 「Planing」は、速度を出すにつれて船体が浮き上がるように水の上に出てくるタイプで、上が軍艦の例なので、こっちも軍用の例にすると魚雷艇が「Planing」タイプの船、ということになる。 12m以下(乾重量で言うと4t以下、くらい)のボートで言うと、「Planing」ハルは性質上高速で、たとえば9mくらいの艇だと350馬力くらいのエンジンをつけて、燃料タンクが350リットルくらい。これで100キロくらいの行動半径は確保できる。 「Displacement」は、ひたひたと進んでゆくタイプなので、40フィート(12.3m)以上ないと、あんまり意味が無い。 エンジンは小さくてよくて、12mの艇で80馬力くらいの小さなエンジン、というのもざらにある。 エンジンが小さいということの意味は、たとえばさっきの350馬力のペトロルエンジンなら7万ドル(500万)くらいするが、80馬力ならエンジンそのものが100万円くらいですむ上に、メンテナンス費用も格段に安くなる。 8ノットくらいでのろのろ進むかわりに、船体はおおきいので、広い寝室やラウンジ、キッチンが手にはいって、ヨットやボートに何十年も乗って、最後に買う船がDisplacement、という人は多いと思う。 ハウラキガルフでのたりのたりするだけなのでスピードは出なくてもよいが、8ノットではあまりに遅くてコロマンデルの東側に出るのにまる1日かかってしまうので、350馬力のエンジンにすることにした。 ハルデザインもSemi-dispalacementも考えたが、用途を考えると、Planingのほうが返っていいのか、とデザイナーやエンジニアと人達と話しているうちに考えるようになった。 船外機でもいまはヤマハのカッチョイイV8のような350馬力のエンジンがあるが、ディンギィ http://www.sbcontrol.com/beneteau/dinghy.jpg の上げ下ろしや船尾で釣りをするとき、あるいは海にとびこんで泳ぐときに船尾の巨大なでっぱりになって不便なので船内機にする。 船内機ならVOLVO PENTAやYAMMARが有名だが、整備の問題とエンジンルームの都合でMERCRUISEにする。 ベンチをつくって、冷蔵庫の置き場所を考えて、ガスレンジをここにおいて、ありゃあー、シャワーおくとこがなくなってもうたやん、と皆で話していると、あっというまに時間が経ちます。 持っている船のなかでいちばん小さかった7m艇は、トイレ(このクラスのボートはベッドの下に格納されるようになっている)を使うにも不便で、海の上でいく晩も過ごすのには向いておらず、初めは出航準備に気軽に船を出して、モニとふたりで無人島の浜辺でワインを飲んで遊んだりするのに使っていたが、デイ・ボーティングは飽きてしまって、海の上に出ると、どうしても数夜を過ごして、海の上からオークランドの宝石をぶちまけたような、燦めく夜景をみながらシャンパンとステーキの夕食を摂ったり、月のない夜なら、モニとふたりで競争で星座を探したりして、海の上のノーマッドのように過ごしたい。 結局つかわなくなってしまって、毎度毎度おおきなボートかヨットを出すことになってしまうので、めんどくさくてたまらなかった。 ヨットはハウラキガルフに出るくらいならモニとふたりでなんとかなっても、おおきな船のほうは、人手を頼まなければとても出港準備ができない上に、フリーザーが不調になってみたり、エアコンが壊れたりで、新しい船で、どんなに良く出来ていても、いろいろなものがついている分だけ海という塩水にどっぷりつかっている環境では故障が多い。 去年は、きゃあきゃあ言って遊んだスピードボートはモニの定義によれば「ガメがムダ使いをしたくて買った全然役に立たないオモチャ」で、言われてもいいかえす言葉はなくて、結構おおきい図体の割に居住性はゼロである(^^) モニとふたりで思い立ったときにクルマでマリーナへ出て、スーパーの買い物袋をもって桟橋を歩いて、舫いを解いて、そのまま海へ出られるボートがなかったので、友達のボートデザイナーに相談して、新しいボートをつくることにしたが、やってみると、作るところがもう楽しい遊びで、モニとふたりで夢中になってしまった。 このブログ記事にも何度かでてくるが、オークランドの生活で最も素晴らしいのは海であると思う。 地図を見れば判るとおりオークランドはハウラキガルフという湾に面しているが、ここには、たくさんの入り江、無人の島、変化に富んだ半島があって、一通り見て歩くだけで7年間はかかるという。 27センチ以下は海にもどさねばいけないことになっている鯛は30メートルくらいも水深があるところに行けば「目の下三尺」(最もおいしい鯛のおおきさについての日本語の表現)、1メートルくらいの鯛がルアーでわりあい簡単に釣れる。 コロマンデルやノイジーの島々の近くでは1mを軽く越えるヒラマサがやはりルアーで釣れる。 鰺などは、夜をすごすことに決めた入り江で日暮れ近くにサビキの糸をたれると餌などつけなくても、いちどに4匹づつくらい釣れます。 船上で、銀座の鮨屋のひとびとに教えてもらったやりかたで、捌いて、アジフライをつくったり、たたきや、鰺寿司にする。 夜はマイカやアオリイカが釣れる。 まだやってみたことはないが、ダイビングで潜ってゆくと、「カーペット敷いたように」タコがいるという。 それを教えてくれた近所のダイビング爺は、「あれはうまいぞ」と述べたら、「げげげげ。あんなものをきみは食べるのか。スペインかぶれがひどすぎるのではないか」と驚いてインプラントが逆回転して飛び出しそうな顔をしていたが、要するにニュージーランド人は鯛、ヒラメ、サーモン、マッスル、オイスター以外は海のものを食べないので、鰺などは甲板から見ているとバケツで掬えそうなほど、うじゃうじゃうじゃと屯しているのだと思われる。 危険な友達だとわかっていても、やはり、ゆっくりと、しかし雄大な筋肉で空中に身体をもちあげながら湾口をわたってゆくシャチの群れに見ほれないわけにはいかない。 イルカたちもボートについてきて、一緒に遊びたがる群れイルカももちろん楽しいが、ときどき一頭だけで、「いそがなきゃいそがなきゃ。まいったなあ、会議におくれてしまいそうだ。いそがなきゃいそがなきゃ」という声が聞こえてきそうな様子で、全速力でどこかへ急いでいく(なぜかたいていおおきな)イルカがいる。 夕方、あの、神秘的なような、ゆっくりと規則的な、神様がおおきな寝息をたてているような声が聞こえてくると、ボート乗りはやや緊張して周りの海を見渡す。 「フライブリッジ」があるボートなら階段をかけのぼって、周囲をくまなくチェックすることになる。 … Continue reading

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孤茶と訪問する戦後昭和史2(孤茶篇)

(前回述べた通り、以下の文章はわし友達孤茶どん @kochasaeng が書いたものです) 新宿といえば、おれが北海道の山奥から出てきて、さいしょに住んだところの近くで(十二社の奥の方だったのね)、あれはまだ18歳のときで、建って間もない西新宿の高層ビルの最上階で「いつかこの街を牛耳ってやる!」なんて思うわけもなく、ただただ「おお。ひとが、めっこし(たくさんという意味の北海道弁)いるでや」と感心していた。西暦でいえば1978年で、その頃も新宿は早明浦ダムの水よりも多くの人で溢れていたんだ。思えば、こないだ54歳になってしまったんで、ちょうど18歳の頃のおれが三人いる勘定なんだが、ちっとも文殊の知恵ではないですね。まあ毎日楽しいから、無駄に歳取るのも良いものです。   で、当時は獲れたて新鮮のイナカモノで、ズボン(当時からパンツって言い方はあった。その夏だけ流行ったパラシュート・パンツなんてものも買ったばかりか、穿いてしまった。後悔はしてないが、恥ずかしい)を買いに行くと、店の人から「ね。Tシャツもどう?」なんて勧められちゃう。「ほら。E.YAZAWA。みんな着てるし、タオルもあるよ」なんてカモられそうになるのね。えー……。E.YAZAWAって……、と困惑していると、「わあ。きみ、音楽キライなんだぁ」って鮮やかな東京弁で切り捨てられて、お、おれは音楽好きだでや。子供の頃からチェロとか弾いてんだべさ。ヘタだけど。田舎じゃジャズのバンドで箱ベース(ウッドベースのことね)弾いてて、ムツカしい音楽理論だって知ってんだよー、と思うものの、店のお兄ちゃんはもう他の客に話しかけてて、東京は忙しいのだった。 それまでにもオシャレなひとはいたけど、フツーのヤングがナウでビューティホーを目指したのは、この頃からだったのかもしれない。オリジナルじゃなくてE.YAZAWAのTシャツみたいなナウだけど、選択肢が増えた。もう少し経つと「ださい」って言葉が流行る頃のことです。   でも、このあとに来るバブルの日々の予感なんてなく、街は思い切りアングラなんかの全共闘世代を引きずってて、サブカルの時代が遠慮がちに始まっていた。新宿はイナカモノの街で、もっと荒っぽかった。夜の区役所通りを歩くのは、立ちんぼのお姉さんたちが怖かったし、そこら中でアンパン(シンナー遊びのことです。ポリ袋に丸めたティシューペーパーが入ってて、それに有機溶剤を染み込ませて端から見えないように袋の中身を手で隠しながら吸引するのね。その姿がアンパン食べてるようだったから、ってのが語源)決めてフラフラしてる奴がいた。あちこちにいた。トルエンなんてのは上物で、貧乏な学生はボンドという合成化学接着剤とか、粗悪なものを吸っていたようだった。そういえば当時トルエンは裏社会の組関係のチンピラ方面の人々のシノギで、彼らは新宿駅のコインロッカーにリポビタンDの小瓶に小分けして詰め替えたトルエンを密売してて、たしかそれは「純トロ」と呼ばれていたはずだ。 たまに混ぜ物をして「フクロ」にされるチンピラもいたと、出来の悪い漫画みたいな話も聞いたことがある。もちろんトルエンとかそのへんの有機溶剤を吸引すると、あれは生体分解せずに脳髄やら脳の一部も溶かすので、やめたほうが身のためです。   で、東京に出て初めての夏、おれはヤマハのトランペットを買って、アパートでそんなもん吹いたら5秒も待たずに隣室のホステスさんの同棲相手に怒鳴り込まれると予想がついたので、晴れた日には中央公園でマイルズ・デヴィスのコピーをしていた。陽を反射して輝くラッパでIf I were a bellなんて曲を吹いたりしてて、でもベルと言うよりhellから湧き上がるような音で、なるべく茂みの方で遠慮して吹いていたけれど、なにぶん初心者で下手くそだったから、路上生活の人々や、覗き見方面の人々には迷惑かけたと思う。そのうちレパートリーも増えてテキトーなアドリブもできるようになって、当時いっしょに遊んでいたバンドで吹いたりもしたけど、「うん。いいね。でもベースの方がいいんじゃないかな」と、やんわり拒否されて、人には向き不向きってものがあるのだと悟った。その後、ベースもチェロも素人よりは多少巧くても、一流にはなれない、と諦めました。やっぱり聞き分けよくE.YAZAWAでも聴いてウオーって言ってたほうが良かったのかもしれない。 おれの場合は限界、ってほどのものじゃないけど、自分の限界が見えるときは寂しいものです。   大橋巨泉というひとがいて、どうにも疎まれているようなフシもあるようで、この人を見るといつも「誤解されてるよなー」と思うけど、テレビに出たりしてヒトサマに知られることは誤解に他ならないということを自身もよく知っている人なんだろう。ボリス・ヴィアンもそんな意味のことを言ってましたが、誤解を引き寄せる生き方ってのがあるんだ。 巨泉てのは、たしか俳号です。短歌も詠んで、若いころ天才と呼ばれたけれど、早稲田に行くと、もっと凄いのがいた。寺山修司ですね。寺山短歌に触れて、「ああ。こいつにはかなわない」と筆を折った。挫折というより限界が見えたんだろう。 一転、趣味の人になった。将棋、ビリヤード、釣り、ジャズ評論、競馬評論と、なにをやらせても、あっという間に玄人はだし。プレイボーイとして名を馳せ、ジャズ歌手のマーサ三宅が最初の奥さんです。昔は山口瞳をはじめ、いろんなひとが「巨泉さんは天才」と褒めそやしたものです。おれが中学生のころ、ラジオで「巨泉シャバドゥビア」って名前のジャズ番組があって、それを北海道の山の中で聞いていた。ソニ・ロリンズのサックスを「マウスピースから口を離しても鳴るんじゃないか、てぇ感じで」と評したり、今考えても凄い番組だった。昔凄かったけど、今そうでもないって人ではないと思う。可愛がられ体質の才人が歳を取る生き方のひとつの見本ていうか、自分の生き方を仕事にしちゃった人なんで、まあ楽しそうで何よりとしか言いようがない。そもそも仕事を批評することはできても、ヒトの生き方は批判できないでしょ。誤解するのは世間の自由で、巨泉というひとは、それをわかってて巧く生きてきた印象がある。もちろんこの、おれの理解も誤解だと思っていい。   限界ってことで思い出すのは、将棋の芹澤博文という人で、この人もテレビのクイズ番組なんかに出て言いたい放題で、好かれたり疎まれたりした人という印象を持たれているのではないか。やはり若いころ天才と呼ばれ、晩年は大橋巨泉と大喧嘩の騒動になったりしている。もともと酒好きで知られていたが、ある日おでんの屋台で飲んでいて、とつぜん泣きだした。 号泣。男泣きというのがふさわしい身も世もない泣き方で、おいおいと泣いたのは、突如「棋士としての限界が見えた」からだという。 べつに一番になるのが男、ってこともなくて「勝負は勝ち負けじゃない」なんて生き方もあるけど、棋士は勝負師だから、そうはいかない。 おでんを食べると、ときどきこの話を思い出して、おれにも俄に限界が見えて泣いたらどうしようと思うけど、これは、おでんに気をつけろって教訓ではないから安心して食べていいと思う。   限界とか負けってのとは少しちがって、でも似てることもある。おれが聞いた市井のひとの話。 戦前、ひとりの若い小学校教師がいて、教えた子供たちの中に、ひとりだけ恐ろしく頭の良い男の子がいて。なかでも算数に長けていて、若い教師が教科書にも載ってないような応用問題を熱心につくり与えると、嬉しそうに解いていたと。 やがて卒業が近づき、上の学校に進んではどうかと尋ねると、生徒は目を輝かせたあとで塞ぎ込み、「そのような金がありません」と答えた。 なるほど。学資の捻出が難しいのかと、今で言えば奨学生のような手筈を整え、その子の家に行くと、両親が落涙とともに「ありがたいことですが、そうではなく、この子には丁稚に出て貰わないと私どもの生活が立ち行かないのです。学校に上がると、この子は稼げません」と頭を下げるばかり。当時ありふれた境遇だったので、では残念ですが、と進学を断念。やがて戦争があり、戦後の復興、騒乱を経て、日本が落ち着いてきた頃。それまでにも「あの子はどうしているだろう」と折に触れては思い出していた教え子が、風呂敷包みを片手にひょっこり訪ねて来た。 すっかり頭髪も薄くなり、油に汚れた作業着の男は生活に疲れているようすだったけれど、あの利発な面影は目に宿っていた。「先生。お久しぶりです」 もう初老も過ぎ、老人になった、かつての若教師は喜んだ。元気でいたのだ。 むかし利発だった少年が、おもむろに風呂敷包みを広げると、何冊ものノートがあり、「じつは先生。私、どうも変な事を考えてしまって。他に相談する人もいなくて困っていたけれど、もしかして先生ならわかってくださるかも、と思いまして」 そう言って見せてくれたノートの数々は、仕事を終えて毎日ひとりアパートで少しずつ書き溜めたもので、数字に混ざって「甲」「乙」といった記号があり、それは今でいう「X」「Y」などの代数記号のようで、詳しく聞くと、それは二次関数の考察で、解の公式と同じ考えの数式を最後に説明してくれた。「そうですか。やっぱり先生だ。わかってくれた」 人類が何代もかけて編み出した解の公式に、彼はひとりで辿り着いていた。天才だったのだ。しかし、その公式は今ではどこの中学校でも教えているものだ。 「ありがとうございました」 教え子が帰った後、老教師は、たまらず号泣したという。   昭和の話です。今では日本も裕福になり、インターネットの世の中で、こんな話はないだろう。 この頃は東京のどこにでも貧困と純情と哀れが口をあけていて、それでも人々はけなげで元気に日々を送っていた。今でもそうだけど、あのころ日本は紛れもなくアジアだった。   … Continue reading

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孤茶と訪問する戦後昭和史1

この記事を書いたのは2006年だと思うが、 https://gamayauber1001.wordpress.com/1970/01/01/成田だべ。/ なんとなく殊勝げなことが書いてあるが、実態は、ひどくて、ワイン3本はほんとうでも、黙っていて書かないことがあったので、その上にシャンパンも2本飲んでいた。(←2泊3日。いま見たら一晩で呑んだみたいにみえるでないか。それではアル中です)(←このくらいならアル中でない、という意味) 悄気ているどころか、頭のてっぺんから爪先までアルコールが行き渡って「いえーい」な状態であって、なぜか滞在を終えて日本から出立するときには、いつもいつも「いえーい、いえーい、いえーい」の状態であったのをおぼえている。 現実にベッドの上に立ってとびはねて頭をぶつけたりしていた。 成田イオンモールのゲウチャイでクンオプウンセンを食べていると、ひとりでに下品な笑みがこぼれて、ひとりでビールを飲みながらヘラヘラデヘデヘしていて、ごく自然に怪しいガイジンになって店のひとびとに不気味がられるほど機嫌がよかった。 日本が嫌いだったわけではなくて、いま振り返ってみると、その当時にそれが判らないところがバカタレだが、好きだった。 日本語という言葉が特に面白くて好きで、耽溺して、惑溺して、溺死の寸前まで行ったが、言語を身につけるというかある言語の脳をつくるのに文化や歴史なしでつくると正真正銘のバカ頭が出来てしまうので、つまみ食い式だが文化や歴史もベンキョーした。 筑摩近代文学全集を全部読む、とゆーのや岩波古典文学大系を全部読む、あるいはやはり岩波の夏目漱石全集を隅から隅まで読む、新潮の三島由紀夫全集を全部読んでしまう、というようなことから始まって、興味がでてきた時代は、鵯越や倶利伽羅峠などの現地踏査も含めて遊びまくった。 日本の中世が好きになったので、猿沢池のほとりにある奈良ホテルに逗留して鎌倉の美術を見狂ったりした。 「鎌倉時代なのに、なんで奈良?」という人もいるかもしれないが、鎌倉時代の彫刻や絵画、あるいは建築が最もたくさん残っているのは奈良だからです。 鎌倉から戦国・安土桃山時代の文化と並んで、ダイスキー(いま、「だいすき」を変換したらなぜかダイスキーになってしまったので、オモロイので、このままにしておく)になったのが、ロシアのダイ・ダイスキーで、というのはダイスキーに影響された情けない冗談で、1960年代から1970年代の中頃くらいまでの「昭和」の歴史がやはり面白かった。 なぜ、この時代が面白かったかというと、歴史の表面では、マジメげで切なげな、「三丁目の夕陽」というクソ映画を観て、なんじゃこれは、薄気味悪い、と思ったことはあったが、原作はもうちょっとマシで安心したり、「当時のワカモノは理想に燃えて学生運動を戦った」式の、冗談はよし子さん(←60年代に流行った林家三平という人が発明したダジャレ。奥さんが「よしこ」という名前だったらしい)な回顧文を読むと、理想郷ふうに語られたりしているが、ほんとうは、なんでもかんでもチョー出鱈目だった時代で、なんだか1945年に終わった戦争直後の混乱期を、もういっかいやっていたようなところが面白いのだと考える。 昔話で最も面白いのはロンドンで、わし友ミナにも述べたが、昼間はスピットファイアとBf109や110が飛行機雲をひいて激闘して、夜は地下鉄の駅の構内で眠る生活に始まって、マーガレット・サッチャーが首相になったばかりの頃の、ハチャメチャというか、国ごとぐわらぐわらがっしゃんと音を立てて壊れそうな、リージェントストリートですら道沿いに生ゴミが山のように積み上げられて、臭くて信号を待っていられなくて、耐えきれずに道路を渡ったらクルマにひかれて瀕死の重傷になっていたりした、ロンドンのいかにもロンドンらしい抱腹絶倒のパカッぽい光輝ある歴史は血湧き肉躍るが、これを日本語で書くことには意味を見いだしがたい。 孤茶は、古くからの友達で、わしより25歳くらい上で、要するに50代中盤なのに、ときどき目のなかにいれてリンゴにしている小さな息子がいて、なぜそんなチビ息子がいるかというと、いいとしこいてタイのチョー上流家庭出身の、あんまり詳しく書くと孤茶が怒るのでただ「上流」ですませるが、タイ社会の有名人の娘で、しかも美人の奥さんと結婚して、何の反省もしているように見えないとんでもない人です。 孤茶とは普通のひとたちには見えない遊び場で、ときどき会って話をする。 話していて、口からでまかせを述べているうちに、無分別から出た知恵、カレー屋のライスからシェフの金歯、という。 交代で昭和を訪問したらおもしろかるべし、ということになった。 息子に父親の働く姿を見せなくては、と不思議なことを考えてバンコクの家を出て郡山で事業をはじめたら途端に福島第一が爆発した。 水を配ったり、やれそうなことをやりながら、じりじりと後退して、バンコクの本拠地へ撤退した。 訊いてみたことはないが、やはり日本好きな奥さんとチビ息子の影響なのでしょう。 やはり日本にいたほうがよさそうだ、ということで、今度は奥さんとチビ息子をつれて札幌に住んでいる。 安倍晋三がどうしてもやってみたいらしい徴兵制が施行されて、きみが新兵さんになってしまって、アメリカがスエズの近くで始めた戦争に駆り出されて「日本旅団」の一員として町をパトロールする、というような場合、自暴自棄になって、ここでいったん死んで、来世でNew Gameにする、という手もあるが、死ぬのはやっぱり嫌だな、と考えた場合、ゆいいつの戦場を生き残る方法は、古参軍曹のなかでサバイバル術に富んだ軍曹について、必死に言われた通りにすることであると思われる。 孤茶は、そういうサバイバル軍曹そのものの人で、もとがジャーナリストなので、世の中の表と裏と表と裏のあいだと裏の裏と、いろいろに知り尽くしているが、ついにこの世界の光にも闇にも溺れずに、いいとしこいて幸せな夫兼パパになった。 この続きものの記事はいつもと異なって、予定では、わしが学習したショボイ知識による昭和を書いて、孤茶が、その時代を自分の目で見て、バックステージを歩きまわったひとの同時代的な証言と、その場で考えたことや感じた事を書いてくれることになっている。 交代輪番制です。 わしが他人から得た知識と想像力ででっちあげた昭和の町を、現実の昭和の町を知っている孤茶が歩いて、ほんとうはここはこうだった、こうなった裏にはこういうことがあった、と述べることを念頭に置いているが、なにしろ孤茶もわしも、ええかげんなので、どんどんテキトーになって、3回くらいやると、江戸時代の枕絵の話をしているかもしれません。 閑話休題 かろうじて、こんなふうな感じかなあー、と想像力で組み立てられる最も初期の昭和は、1968年頃の新宿西口で、丹下健三が設計した地下広場では、ガリ版刷りの詩集を売って生計を立てている若いカップルや、あんまり上手とはいいかねるギターを弾いて歌っている汚い長い髪のワカモノ、あるいはトルエン(当時はシンナーと言ったようだが、実態はトルエンであると思われる)の袋を口につけてふくらませたりへこませたりしている虚ろな眼の人、ときどきヘルメットをかぶって、タオルで顔を隠したスタイルで集まっては機動隊にラウドスピーカーで「ここは通路です。立ち止まらないで下さい」と言われて、機動隊長のおっちゃんに罵声をなげつける学生、などがいたものだと思われる。 いまもある巨大排気筒のぶっとい根もとで、白昼公然とエッチをしていたひとびとなどもいたよーである。 有名な新宿騒乱は、1968年の10月21日で、義理叔父友達、このブログのなかではいつもトーダイおじさんたちと呼ばれる冴えないベンキョー家集団のひとりKさんは小学生だったはずだが、大学生やサラリーマンたちと一緒に石をなげたり火をつけたりして一日中「内戦」を楽しみ、そのときに電話線をぶちきってかついできた公衆赤電話は、いまでも記念に自分の部屋においてあるそーです。 話を聞いていると、この頃の小学生は四谷大塚やニッシン(字がわからん)という塾に通ったり、この二大進学塾で良い成績をあげるために、塾のための塾に通ったり、すきさえあれば友達と待ち合わせて機動隊に石をぶんなげて脱兎のごとく逃げたり、ビレッジシンガースよりもタイガースのほうがいいに決まっているではないかと同級生の女の子を説き伏せたり、いろいろと忙しかったもののよーである。 「新宿の小田急線発着ホームの改札口をはいった左側の二階」には、まだ国交がなかった中国政府が経営する「中国物産店」があって、そこには「毛沢東語録」を買いに来た学生たちや、缶入りのクルミを買いに来たおばちゃんたちで賑わっていた。 広島から出てきた「吉田拓郎」が「古い船をいまうごかせるのは古い水夫じゃないだろう」という、怒鳴るような声で歌うレコードを出すのは、この1969年のことです。 その頃、ワカモノの連帯意識の中心になっていたのは、意外なことに、ラジオの「深夜放送」であったように見えることがある。 義理叔父がカセットテープに録音して、いまはMP3に化けている「なっちゃんちゃこちゃん」(野沢那智と白石冬美というふたりの声優のことです)の放送を聞いていると、午前一時をまわった夜更け、窓を開けて、冬の冷気を顔にあびながら、灯油ストーブの上でアルミホイルで巻いたサツマイモを焼きながら、中学入試の勉強をしていた義理叔父や、その頃は、「寝静まった」としか形容できなかったはずの、コンビニも何もない、まっくらな町並のあちこちにぽつん、ぽつんと灯った部屋の灯りを眺めながら、「同じ放送を聴いている」連帯感に結ばれた、当時の「新しい世代」の高校生たちの姿が目に浮かぶようである。 放送の構成は、リスナーからの手紙を読みながら、ふたりがきゃっきゃっと笑い転げたり、「実体験怪談特集」では、あまりの怖さにふたりが沈黙してしまって「沈黙」が放送されてしまったりで、いま聴いていてもけっこう面白いと感じられる。 堀江貴文がニッポン放送を買い取ろうとしたときに、放送局なのだから商業主義でないわけはないのに、「ラジオは商業主義ではやれないんだ。ラジオは文化なんだ。それがわからないやつに買われるくらいならラジオ局ごとやめてやる」と役員たちが頑張ったのは、案外、旧資本の頑迷な抵抗というだけではなくて、ほんとうに信じていることを述べていたのだと、放送ファイルを聴くと感じられる。 余計なことを書くと、「放送は文化だ」と述べて失笑を買っていたニッポン放送社長の亀淵昭信は、「なっちゃんちゃこちゃん」と同じ時代に、同じ時間帯(曜日は違うようだ)でディスクジョッキーをやっていた人です。 … Continue reading

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Tetsujinさんと話しあうまえに

レミントンを食べながら神様のことを考えるのも日課のうちである。 「神様を考える」のは実は言葉の矛盾で言葉で考えられるくらいなら神などは存在しない。 存在の必要がない。 神を指向したり示唆したりすることは言葉にも出来て、前にも述べたように、たかが夫が妻に話しかけるだけでも言葉を使うとなると、夫は神に向かって話し、それを同じように神に顔を向けて聴いた妻がまた神に向かって夫が言うことについて返答をする、という構造をもつ西洋語では、そもそも神がいなければ伝達ということすらできない。 日本語は言語の関係が簡明で夫は妻に向かって話している。 妻も夫に直截こたえている。 簡明なのでお互いの気持ちや考えている事が通じやすそうなものだが、実際に日本語をおぼえて使ってみると、そうでもない。 そもそも「話の受け取り方」にバラエティがありすぎて、話があちこちで齟齬を来たす。 そこで日本語でよく用いられる方法は、たとえると、北を上にした地図を思い浮かべながら、どこかへたどりつくための話をするのに似ているだろう。 「ああ、そこのコンビニを左に入っていくと、ずっとまっすぐな細い道がありますね」 「ええ、そうです。その道をずっとまっすぐに行って、ずっと先まで行った岐れ道を左にいけば切り通しに出るのです」 こういう会話を考えてみる。(笑ってはいかむ) 「わたし、もう学校なんて行きたくない」 「判るよ、おとうさんもそうだった」 娘がよほど迎合的な娘ならともかく、ふつうなら、「なにが『判って』んだよ、おやじ、おおむかし男だったおめーといまの世の中で女のおれで、そんなに簡単に『判る』わけねーだろが、このハゲが」 と思われるのがオチであると思われる。 せめて、同じ「バナナフィッシュに最適の日」の映画を観て、娘があれと同じだと述べた場合に、父親が、おお、それならばおれの若いときと同じだ、と述べるのでなければ会話にまるで信憑性がない。 日本語の場合、神様の代わりをしているのは、教科書なのである。 教科書、と言って悪ければ、お墨付きがある誰にでも閲覧可能な共通の知識、とゆってもよい。 もっと簡単に「正解」と言い直しても良いような気がする。 ここで思い切ったことを述べてしまうと、現代英語上は、この言語の仲介者としての「神様」は言語を機能させるための仮定にしかすぎないので、実在してもしなくてもどっちでも別にかまわない。 そのうちには言語のなかでは「むかしは神と名前がついていた『名指されえない実体』のこと」と説明されるようになるかもしれない。 大事なのは、「神」は絶対者で「絶対」というものの特性として説明されず、まして語り終えられたりすることは決してなく、論理も届かないので、英語や欧州語では、言語の感覚にすぐれた人間が神性、あるいは聖性を感じるかどうかで、その言語仲介者としての性格が決まってきたことである。 日本語では、ただ様式的な会話として聞き流すのでない場合は「それは聞いたことがないが『教科書』のどこにそれが書いてあるのか」 「それが『正解』だと書いてある本はどこにあるのか」としつこく尋ねるのを習慣とする。 そのせいで日本語の議論は、もうずっと前から「通説」になっている話をみなが再確認して終わるか、もっとひどい場合には「自分が読んだ本には、こう書いてあったから、それが真実である」という自己満足に終始する親分のあとを、奴姿の頭のわるいひとびとが何百人も鬨の声をあげながら思い思いの論理ともいえない論理をお互いに頷きあうことを「論理の補強」とみなして、いっせいに異論を攻撃することが「議論」だということになっている。 口喧嘩と議論の区別がつかなくて、政治議論をしていたはずなのに議論の途中で「俺は喧嘩だけは強いんだ」と啖呵を切ってしまう抱腹絶倒な元知事の市長が出てきてしまうのも、そのせいだと思う。 英語の会話では何が正しいかは根底のところでは「神」が決めている。 「神の視線のちょっとした揺らぎで決めている」と言い直したほうがいいかもしれません。 なんでも正解付きである日本語の世界と異なって英語の世界では、いいとしこいたおとなで、しかも専門家でも、素人とあまり変わらないように見えて、なんだか日本にくると「科学がわかってない」と怒られそうだが、あのぐんなりした態度の由縁は「世界の99%は人間の言葉と知恵が及ばない未知の暗闇」であるというもともとの神の決めた「宇宙観」があるからです。 自分の身の回りに放射性物質がまきちらされたときに、外国人たちは、たとえばKという人は、大津波のニューズを聞いた途端、その場所に自分がかつて見学したことがある原子力発電所があるのを思い出して、その場で、見事なくらい脱兎のごとく逃げはじめて、自転車に乗って福島から成田まで逃げて、そこから飛行機に飛び乗ってシドニーにまで一挙に逃げるくらいビュンビュン逃げたが、「とりあえず逃げてから考える」、シドニーで2週間考えて、結局日本に戻らないことにしたのは、「放射能の影響が全然わからないので、怖いから」だった。 神様に聞けば、神様は当然、「人間の子はそう考えるべきである」と答えるわけで、物理の教科書に聞けば、物理教科書にも神様がいて、「そんなの、ぜんぜんダイジョブよ、わしが計算したこの数式をみてみい。ほんで、こっちが、わしもちゃんとはわかんないけど、放射線医学の教科書な。 ほら、この巻末の表のところに計算した数値を照らしあわせてみると、ピンポーン、「ダイジョブ」て書いてあるじゃん。この教科書書いた人偉いんだよ、たしかノーベル医学賞とったんだぜ」と言うかもしれないが、物理の地方的な神様よりも全体の「真理っぽい方向」を指し示している神様のほうが上位なので、普通の英語人はその神の「視線」に従う。 日本の人は、放射能は専門でないけれども、トーダイという現代日本では学問の神様が税金で屯しているところとみなされている「神域」の人を仰ぎ見て、おおむかし、「現人神」のご託宣を信じて十数年の戦争を戦ったように、今度も神様のパチモンを信じることにしたのだと思われる。 神様には、ものごとをはっきり具体的に言わないくせがあって、意地悪だが、神様のパチモンは麻原彰晃から某東大教授まで、判りやすい、という取り柄があると思う。 贋物の真理は常に力強く明瞭な言葉で語られる。 言語によって規定された存在なので述べる言葉も「言語外のものを示唆」する必要がなくて、1998円の安売り屋の正札のように、細かい所まで具体的なのであって、また、その必要がある。 西洋式の学問の歴史が、仮説を立て、塔から鳥の羽の形をした板きれをくくりつけて飛び降りて怪我をしたり、電気の火花を散らしてのけぞったり、しまいにはプルトニウムのかたまりを落っことして放射線で見事にぶっ死んだりしていたのは、「神」を納得させなければならなかったからであると思われる。 ジョルダーノ・ブルーノというひとなどは、たいして神様に対する説得力がない言葉で、地球が太陽のまわりをまわってるんじゃん、としつこく述べたので、神様から正解集を預かっているのだと自称する「教科書派」のひとびとの手によって、火あぶりにされて殺されてしまった。 その頃の欧州は太陽が地球の周りをまわっているという自明の科学が判らないのか、このニセ科学信奉者めが、の「真正科学天動派」のひとばかりで「地動脳」のひとびとはいじめられることになっていたのです。 … Continue reading

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ある物理学者の友達への手紙2

戦争が終わったときの、日本のひとの反応は「爆発的開放感」だった。 1945年8月15日は、あとから調べにやってきた者には不思議な印象を与える日で、いまでもマスメディアが8月15日になれば日本中にばらまく、校庭や会社の敷地に整列して、頭を垂れ、初めて聴く天皇の声に敗戦を悟って嗚咽をこらえている映像と、光が漏れないように雨戸を立て回した、あるいは電灯に黒い傘をかけた、家の人間しかいないところでは誰いうともなく重苦しさから解放されて、爆発的な歓喜に湧く文字で記録された記録との、そこには奇妙な混淆がある。 建前と本音、ということなのかと初めは考えていたが、だんだんに判ってくると、どうやらそうではなくて、日本のひとは自分がおかれた「場」によって実際に感情が変わるらしい。 慌ててつけたすと、それが「悪い」と述べているのではなくて、「良い」でもなくて、まだ頭のなかでどういうことなのかは考えて処理されていないが、映像をみたり文字を読んだりしていると、一見矛盾なく起きている、ほんとうは同時に起きるはずがないふたつのおおきな感情の事件を説明するためには、いまのところは「感情が場によっているのだ」という仮の説明を与えておくしかない、ということにしかすぎない。 戦争はこっぴどい敗北だった。 現代の眼から見ると、帝国陸海軍が「永久要塞」を謳っていたサイパン島が3週間のアメリカ軍の攻撃で陥落してからは、まったく無意味な戦争努力を日本は続けた。 いまでは昭和天皇は終始一貫して平和を願っていたことになっているが、歴史のあちこちに昭和天皇の「せめてどこかで決戦して決定的な1勝をあげてから」という願いが、軍の上層部に強く影響していたのが見て取れる。 太平洋戦争は面白い戦争で、というといくらなんでも言葉が悪いが、アメリカは局面局面で彼我の戦力、生産力の差異からくる次の局面での戦力バランスの変化、個々の戦闘の結果から導き出される、最善と思われる現実的な戦術を選択しようとして「新しい戦争」を戦っているのに、眼を転じて日本側をみると、日露戦争をそのまま戦っている。 陸軍も海軍も「決戦主義」で、たとえば海軍で言えば、ちょうどロジェストヴェンスキーがラトヴィアのリバウを出て、ウラジオストックをめざして、対馬で東郷平八郎の率いる艦隊と、世界の歴史のなかでも最大の海戦を経て、ほとんど一艦残らず日本海の海底に沈んでしまったように、サンディエゴを出て、東京をめざして殺到するアメリカ太平洋艦隊を、途中で迎え撃って撃滅する、という単一の目的で日本の連合艦隊は設計されていた。 極端な言い方をすると、当時の日本帝国海軍はレンジが少し長い「自衛隊」のようなもので、アメリカやイギリスの海軍のように世界のどこにでも長躯でかけていって自国の利益を脅かす相手を粉砕する、というふうには出来ていなかった。 軍用艦としては航続距離がちょっと不思議なくらい短く、補給部隊が貧弱だったのは、日本海軍がもともと「専守防衛」型の特殊海軍だったからです。 英語世界には山ほどある軍人や国務省の役人に真珠湾攻撃を許した責任を問うインタビューに対する最も数が多い解答は「ただの人間を神と崇めているような野蛮な人間たちに近代戦を遂行する能力があるとはおもわなかった」というもので、なるほど、とインタビュアーも納得しているように見えるが、実際には連合艦隊の進出距離の短さはアメリカ海軍将校たちの常識になっていて「日本の艦隊は防御型である」と教わるものだから、それが頭にこびりついて、まさかそんなものがハワイまでやってくるとは思わなかった、たかをくくっていた、というのが真相だろう。 太平洋戦線が欧州戦線の二の次の言わば「付録の戦い」であったこともあって、真珠湾以降、常に戦力的劣勢を強いられていたアメリカ軍は「決戦」などするわけにはいかなかった。 結果的に起きたのは「なしくずしの戦争」で、防御装備が手厚い戦闘機や爆撃機に兵士を乗せて、撃墜されれば機体を捨てた操縦士をカタリナ艇が拾ってあるき、陸上では傷病率をさげるために9時から戦闘を始めれば夕方の5時には兵営に引き返して休養する、日本軍将校たちに「アメリカ軍は戦争のやりかたまでふまじめだ」と怒らせる、「相手を弱らせながらナチの崩壊を待つ」、不思議な先延ばし戦略にでる。 具体的にはガダルカナルのような相手が意固地になりそうな補給線の先端を狙って叩いて、ぐじぐじぐだぐだ戦闘をして、戦力を消耗させ、相手の補給能力が枯渇するのを待つ、というローマ帝国軍に対するフランク族のような、古典的な戦争にもちこんでゆく。 日本が戦っていたつもりの戦争はいちども起こらなかった。 いまの日本人は、「サイパン決戦」「レイテ決戦」「沖縄決戦」「本土決戦」と天皇から一兵士まで、ボロ負けに負け続けながら「決戦」「決戦」とばかり言っていたむかしの日本人の負け惜しみの強さにうんざりして歴史を読み返すようだが、面倒くさくても少しだけ「むかしの日本人」のために陳弁すると、彼等日本軍人は要するに「頼むから、おれに日露戦争をやらせてくれ」と言っていたのだと思う。 旅順や日本海海戦、黒溝台の戦いはどこへ行ったのか? と子供が地団駄を踏むような気持ちで苛立っていたのだと思います。 ともかく、そうしてアメリカは太平洋の戦争に圧勝した。 日本は後で当の日本政府から自国民を大量に虐殺してもらったことへの感謝の印として勲一等旭日大授章を与えられたカーチス・ルメイが夢見た通り、大都市は殆どが更地になり、瓦礫の山と化し、本土空襲だけで33万人の日本人をぶち殺して、ついでにたいして投下の必要がなかった原爆を広島と長崎に落として爆発に成功させ、スターリンに日本の分割支配を諦めさせる決め手にした。 いつか、日本語で書かれた本を読んでいて、「日本は一貫して独立を保ってきたアジアのなかではごく少数の国のひとつである」というところで読む眼がとまって、じっと眺めいってしまったことがある。 日本は短く数えても1945年から1952年までの7年間、アメリカに占領されていた。 最終的に占領が終了したのは沖縄が返還された1972年だった。 占領の目的は簡単に言えば「日本の伝統と固有文化を徹底的に破壊すること」で、ぼく自身が日本の戦後史を読んで最もぶっくらこいちまったのはポルシェビキでも実行に躊躇しそうな「農地改革」だが、日の丸の旗の使用・掲揚は禁止された。 この敵愾心の発現においてナチのフランス占領を遙かにうわまわるアメリカ軍による日本の占領と7年間の日本文化の徹底的な破壊は、ちょうど、中国の文化大革命のような影響を日本社会に与えたと思う。 ここで歴史は断絶しアイデンティティは根本から否定され、日本は「リセットされた歴史をもたない新興国」になった。 重化学工業を禁止して「日本を農業と軽工業の国にする」という当初の米軍の政策は「農地改革」という政策の実行で予測がつくように無惨に失敗して、やがて朝鮮戦争を口実に、冷戦構造のなかでの日本への過剰投資へとつながってゆく。 戦艦三笠には艦橋がなかった、という話を聞いたことがありますか? たしかニミッッツ通りからだったと思うが、横須賀の米軍基地(もちろん元の横須賀鎮守府です)から公園ごしに見える、この日本の「救国の英雄」である「ツシマ海戦」における連合艦隊旗艦は戦後、鉄くず業者が違法に擬装を剥ぎ取り続けて到頭艦橋を持ち去って平舟のような無様な姿になってしまった。 「プライドよりカネ」ということでしょう。 艦橋がなくなった船体はキャバレーに改修されて、アメリカ水兵と日本の女びとのカップルで連日超満員であったそうである。 その話を教えてくれたのはアメリカ海軍の将校だったが、チビちゃんなので将校服を着るとなんとなくユーモラスな彼とぼくのあいだの足下には「霧」と書かれた旧帝国海軍のマンホールの蓋がそのまま使われたマンホールがあって、なんとなく無造作に踏みにじられた日本の長い歴史と、アメリカ人の文明の生得的な「鈍感さ」ということをぼくに思い出させたりした。 日本に行ったことのない欧州の友達に日本について説明を求められると、ぼくはよく「神のいないプロテスタント国」と解説する。 特に工夫した言い方では無くて、ぼくが日本の社会を見ていて頭に浮かんだ普通の表現です。 清潔好き、仕度好き、早起き、仕事好き、職業への誠実、道具への偏愛、…無数のことにおいて、プロテスタント、宗教的にもっと細かく言われたほうが安心できるひとならばルター派諸派の国に似ているだろう。 ところが日本という、この風変わりな国では、なるほどプロテスタンティズムに満ちた国なのだな、と納得して、ふと祭壇を見ると神像がない。 神がいない。 歴史的に非常におおきく見ればカトリック教会からルター派が生まれたことは(そんなことを言うとルター派のひとびとは憤激するだろうが)欧州人が長いカトリック教会の不正と隠蔽とデタラメさに嫌気がさして、ついに無神に向かい始めた、その第一歩であると考えることができる。 「なんだ、それなら初めから俺は神なんか信じねえ、と言えばいいじゃないか」という人がいそうだが、当時の欧州では到底そういうわけにはいかなかった。 神様が染みになってこびりついたような言葉を使っていては、第一、「無神」という状態を想像することが出来なかった。 … Continue reading

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ある物理学者の友達への手紙1

コメディアンのグルーチョ・マルクスが 「I refuse to join any club that would have me as a member」 (ぼくは、ぼくがメンバーになれるようなクラブのメンバーにはなりたくないんだよ)と言っている。 もう英語世界中の隅々で何千回何万回と引用された、有名な科白なので聞いたことがある人も多いと思う。 St James’s あたりにあるようなロンドンの「ジェントルマンズ・クラブ」は、もともとは客との外食の出費を節約して低く抑えるための工夫だった。 「メンバーズオンリー」のクラブは、世界中だいたいがそうで、ジェントルマンズ・クラブでなくても、たとえば日本のFCCJ、外国人特派員協会(The Foreign Correspondents’ Club of Japan)も、まだまだ洋式のホテルも洋式の食事も、特殊なものとみなされていて、「目の玉がとびでるほど」高かった戦後日本で特派員記者が宿泊し、食事をするところとして生まれた。 「マスコミ寿司」という面白い名前の鮨屋とコースメニューが中心の人気のないラウンジと食事も出来るバーがあるが、いまでも3つのどのひとつをとってもびっくりするくらい安い食事をだす。 これは実は西洋の「クラブ」の文法に則っている。 学士会館、如水会館、というようなものがあっても日本では「クラブ文化」が発達しなかったことを日本の人はもっと誇りにしていいと思う。 それは人間に頭っから上下をつける「階級」というものへの近代日本人の強烈な反撥の証拠で、士族、平民と言っても、勉強ができ、おもいきり努力すれば階級が上の人間達といえども、まだ20代の田舎からぼっと出の官僚に平伏して最敬礼しなければならなかった日本の近代社会の黎明期を反映している。 前にも書いたが、わしはなにげなく買った戦前の数学教科書の後ろに執筆陣の名前のなかでひときわおおきく「主筆 平民 理学博士XX」と書いてあるのを見て、言葉にならない感情にとらえられて涙ぐんでしまったことがあった。 その、ことさらに「おれは平民なのだ」と叫んでいるような、ひときわおおきな活字が、まるで「日本」という国の切なさを表しているようで、ためいきをつきたいような、心が引き締まるような、不思議な気持ちになったのをおぼえている。 日本が民主主義を完全に消化できなかったのは、日本人の「ひとりひとりの人間はみな平等なのだ」という信念によっているのだ、と言ったらきみは笑うだろうか。 またガメは訳のわからない理屈をこねる、と苦笑いするきみの顔が見えるようである。 しかし、ぼくは、日本人が1945年にもった浩然たる気持ち、実のところ、それは本を読んで民主主義を理解するしか方法がなかった日本人の誤解にすぎなかったが、「人間は平等なのだ。同じ人間だ。根本的な違いなどあるものか」という封建主義が倒れたあとの、一種、晴れ晴れとした、爆発的にこみあげてくる自由のなかで、抑えがたいような、晴れがましいような、自分でもうまくコントロールできないほどの解放された魂の咆哮のなかで手応えを感じていた「人間は本質的にみな同じだ」という感覚こそが日本への民主主義の定着を阻んだ最大の理由だと思っている。 言うまでもなく「人間の平等」というのは「個人に与えられる機会の平等」ということを意味している。 欧州人は、人品に問題があるので、歴史を通じてただのいちども「人間が平等だ」という考えをもったことがなかった。 あるものは優れ、あるものは劣っていることを当然のことだと考えて社会をつくった。 しかも欧州人がいまは口をつぐんでいる「血」への信仰から、「愚か者の子は愚か者」「高貴な血筋からは高貴な人間が生まれる」という、いまから考えると、その辺のおばちゃんが女性週刊誌の血液型人生相談のページを読みながら狂信しているような、情けない考えにとらわれていたので、この「人間に優劣があってあたりまえ」という「常識」は、もちろん容易に人種差別にも結びついた。 なんだかお伽噺じみているが、そんなに遠いむかしのことだとは言えなくて、現に、ぼくの祖父や祖母の教科書には世界について初めて学習する子供たちのための世界への案内として 「世界にはさまざまなひとが住んでいます。 … Continue reading

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いちど出た家に帰る

「中国人や韓国人はなぜ日本をバカにするのか?」と訊かれてびっくりしてしまった。 モニさんがおおきな絵を描くのに忙しいので、わしはここ2週間くらいはごろごろしていて何もしない。 日本語を中心に2つか3つツイッタを開いていて、ひとが話しかけてきたりすると答える。 部屋の大画面に映画が流れていてSarah Michelle Gellerが、背後からぬっと現れた「トシオ」に絶叫したり、神のない世界の住人が、どんどん神のいない世界の悪霊に殺されていくのを観ている。 あるいは小さなひとの相手をしていて、同じ家に住んでいるのに異なる時間の流れに住んでいるらしい「ちいさなひと」の圧倒的な忙しさを眺めている。 「なにかやりながら」ひとと話をして遊ぶのにツイッタは向いていて、しかも140文字の制約があるので母語でない言葉で考えをやりとりするのにも向いている。 「プライドをもたないから、中国人や韓国人にバカにされるのか?」 と実直そうなこの人は訊くが、質問の前提がまちがっている。 妹が「おにーちゃんは、どうしてそーバカなのか?」と、よく口走るのと同じで、前提をあやまっているので答えようがない。 中国人や韓国人は日本人をバカにしていないし、妹の「おにーちゃん」たるわしは一般に観測されているより、カシコイのです。 ずっとむかしのニューヨーク、もういまはなくなった6番街のバーンズ&ノーブルで義理叔父がレストランガイドを探している。 レストランガイドの棚が見つからないので、たまたま通りかかった若い店員に声をかける。 おお。ちょっと待ってね、いま、この用事が終わったらもどってきますから、と言ったまま2分たっても戻ってこなかったが、義理叔父の重大な取り柄のひとつは「トロい」ことなので言われたまんま、ぼおおー、と待っていた。 ところがさっきの若い女びとの店員がいきせき切ってほんとうに戻ってきたので驚いてしまう。 向かい合って立ってみると、欧亜混血の、愛らしい美人だったそうです。 「結婚してなければデートに誘うところであったが、それはともかく」と義理叔父が話している。 レストランガイドを探している、という話から、このヘンにディムサムのおいしい店はないだろうか。韓国料理屋でもいいんだけど、と義理叔父が言うと、 女の子は、うーん、と考え込んでしまう。 ディムサム、食べないからなあー。 Kタウンなら、あるかも! あっ、わたしたち、Kタウンって呼ぶんですけどね。 韓国人街のことです。 この近くにあるの。 それから、ちょっと、おもしろいことに気が付いたような顔をして、 「待っててね! この3階上にある事務所の友達たちに訊いてくるから!」と言うなり、ほとんど信じられない身の軽さで階段を「二段とばしに」駆け上がっていく。 しばらくして戻ってきた女びとのてのひらにはディムサムの料理屋が2つ書いてある紙切れが握られている。 義理叔父はていねいに例を述べて冬のマンハッタンの通りに出て行った。 あのひとはわざわざディムサムを探してくれたけど、コリアンでもいいな。 ところが、遠くから、呼ぶ声がする。 みなが振り返るので、義理叔父も振り返ると、さっきの女の子が、白い息をはきながら走っておいかけてくるところだった。 「わあー、間に合った。よかった」 もうひとりのアジア料理屋に詳しい同僚が戻ってきたから訊いてみたの。 はい、これ! マレーヒルの近くだけど、ここからそんなに遠くない。 義理叔父が相手のあまりの親切に動揺しながら、お礼を言うと、 「あなた、日本人でしょう?」と言う。 「そうだと思った。わたしは、おかあさん、韓国人。わたしたち兄弟同士だね! 昼ご飯、たのしんでね」と言うと、また冬の冷たい大気のなかを走ってもどっていってしまった。 … Continue reading

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