Monthly Archives: September 2013

恋をめぐる五節

1 元プレイメイト、と経歴を書くのがもっとも相応しいと思われるAnna Nicole Smithが死んだとき、世界のひとびとが最も驚いたのは、その死後に残された日記で、テキサス出身のひとらしい英語で自分自身のためだけに書かれた日記には63歳年上の夫であるHoward Marshallへの愛情や健康を気遣う言葉が書き付けられていた。 当然のように「カネめあての結婚」と悪罵と冷笑とを浴びせ続けたひとたちが、日記を読んでどう思ったかは日記が見つかったあとのどんな記事のどこにも書いてないのでわからない。 良心があれば良心に恥じたに違いないが、彼等にそもそも良心などあったかどうか当然ながら疑わしいうえに、不安定な家庭に育ち17歳で短い結婚生活を経験し、嘲りと罵りのなかで結婚した二度目の夫である石油王の老人をなくし、息子は20歳で不審死を遂げ、自らも(恐らくはドラッグの急性中毒から来た)心臓停止で死んだ、もともとは十代であるだけが取り柄だった人気のないストリッパーとしてキャリアをはじめた女びとの死など、彼等にとってはゴミ箱のなかの食べ尽くされてからっぽになったチョコレートの箱ほどの関心もなかったに違いない。 2 人間の恋の感情は自分を破壊する衝動である。 それは自分の身体のなかに、ある日植え付けられた樹木の種子が、急速に成長して、身体をつきやぶり、肉体も魂も破壊して空に届こうとするのに似ている。 恋をした瞬間から人間は孤独になり、世界から拒絶される。 ありとあらゆる日常から切り離されて、時間そのものですら自分の意識のコントロールから離れてゆく。 一日ながく恋をすれば、一日、人間は死に近付く。 まるで毎日焼身自殺を繰り返すひとのように、炎のなかで苦悶しては、意志も感情も底をついて、自分が空虚そのものになるまで起きてから寝るまでの時間を彷徨することになる。 良いこともないわけではないだろう。 恋の感情を経験することで、人間は物質世界のくだらなさ、その文字通りの通俗性を疑いのないものとして実感する。 オカネや暮らしぶりなどどーでもいいのは当たり前だと、他人に説明されなくても、雷に打たれたひとの言葉で「知っている」状態になる。 言葉を失って唖のようになり、他人の言う事が聞こえなくなって聾のようになった「恋をしているひと」は、しかし、世界の核のようなものと破滅に向かって成長する力によってつながっている。 3 ゴドレーヘッドの岬の突端まで歩いて、モニのことを考えに行ったことがあった。 南極につながっている冷たい海をみながら、モニの指の形や、髪を払う仕草、「ガメはほんとうにわがままなんだから!」というときの目のきらめきのことを考えたりした。 この恋がうまくいけばいい、というようなことは思わなかった。 ただマンハッタンにいるモニのことを考えるのが楽しくて、モニのことばかり考えたかったので誰もいない岬の突端まで行ったのだった。 薄い灰色の雲がどこまでも広がる、低い空をおぼえている。 暗い色の、遠くまで静まりかえった重い液体のような水のひろがりをおぼえている。 モニのアパートのクリスマスツリーのてっぺんにおくために買った天使や、なけなしのオカネを全部はたいて買った月長石の指輪のことを考えた。 もう胸が苦しくなかったのは、多分、魂が全部破壊されてしまっていて、世界と言わず自分自身も、どうでもよくなっていたからだと思う。 広い世界のどこかにモニが生きていることが重要だった。 それ以外はどうでもいいと思った、あの午後の、投げやりなような、透きとおったような、奇妙な気持ちのことを思い出す。 4 人間が恋をしなくなった、あるいは、恋をするということの意味が変わってしまったのは、ひとつにはまともな造作のある恋をするだけの時間がもてなくなってしまったことに理由があるだろうが、もうひとつには「この世界で最も大切なのは自分自身だ」という信念が誰の胸のなかでも強くなったことにも理由があるだろう。 それを良いことであると思う。 良いことである、というのがピンと来なければ、自然なことである、と言い直しても良い。 恋は人間の凡庸さを拒絶するが、この世界の99.99%は凡庸な人間なのである。 ロミオとジュリエットがいまの英語人たちをみれば、おたがいの手に電卓を握りしめて画面を盗み見しながら恋を語っているような現代の恋人たちを見て、あまりの打算の厳しさに怯えるだろうが、人間の進歩の歴史は恋によって自分を破壊するよりは恋自体を手なずけて飼い慣らすほうを選んだ。 そのことは、誰にも、神によってすら、非難できることではないのは現代人ならばひとり残らず知っている。 5 恋をするというようなことは、やがて過去の歴史になるだろう。 人間からは、あのまるで自然そのものの力であるかのような自分を引き裂く恋の感情の猛々しさ荒々しさは失われて、ベッドのそばで服を脱ぐ「弾み」になる感情や、少しずつ就職に似てくる婚姻のためらいを消滅させるための口実としてだけに、かつての日の名残として残ってゆくに違いない。 そのときでも、ふと、あれこれと考えている途中で自分よりも相手の存在を優先している自分を発見して、しばらく「なぜ自分は、あのひとのことばかり考えているのか?」と訝る午後はあるに違いないが、ゆっくりと首をふって、やれやれ、どうかしている、とつぶやいて、自分が生き残るための綿密な作業にもどってゆくだろう。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | Leave a comment

Loose yourself to dance

「山の家」自体は、鬱蒼とはしているものの、ほんとうにここに落葉松でいいんだろーか、という土地柄に、江ノ島電鉄の社長が何万本か植えたのが始まりという落葉松がものすごい数で生えているだけで、なにがなし、人工的な、無理強いみたいな森に囲まれていたが、クルマで西へ向かって国道18号線か、あるいは夏ならば国道18号線は大渋滞でぴくりとも動かなくなってしまうので、離山の裏をのぼって、いったん「トンボの湯」という温泉があるところまで出て、そこから1000メートル道路を通って、いまならビル・ゲイツの巨大な別荘の前を通って、追分というところまでいくと、もう少し自然な感じの森になっていた。 軽井沢なんて、ああいう下品な町のことは知らん、というひとのために、念のために、付け加えておくと、追分ももともとは木などほとんどない原っぱだったのが、軽井沢に引きずられて、堀辰雄や福永武彦たちのような作家や、大学の研究者、音楽家、画家、というようなタイプのひとびとが、なにしろ旧軽井沢に較べれば安いので、別荘をたてて住んだ、その当時に木を植えまくったのがはじまりであると思う。 軽井沢から小諸まではとても人工的な森が続いていて、町そのものも自然の土地割りを無視して無理矢理つくったというか、たとえば18号線とバイパスの岐れめの直ぐ大日向よりの部分は道幅が広くなるが、よほど観察眼のないひとでもなければ直ぐに気が付くのは、この道路の部分は「けものみち」を遮断する形で作られていて、夜中にモニとふたりで深夜の森を散歩するべ、ということになってクルマで追分にでかけると、近在の狐や狸、あるいはおおきいものならば鹿というような動物が、よく轢死体になって転がっていた。 人工的ではあっても自然は偉いもので、50年もあれば、それなりに辻褄があった森林をつくりあげる。 新潟のド田舎で育った日本人の年長の友達と一緒に森のなかの細い径を歩いていると、「おっ、あそこにタラの芽がある」「あっと、そこにヒラタケがある」と述べて、すたすらと歩いて行ってはバックパックのなかの袋にいれている。 わしの目には漠然と「森」としてしか見えていないものが、このおっちゃんにとっては、そこだけ意識のスポットライトが当たるようにして、たらの芽やさまざまなキノコが浮き出すように見える仕組みになっているらしい。 星座という観念がないひとに綺麗に晴れた夜空に一面に星が見える夜に現れる星座を教えるのは骨がおれる作業で、おとななのにオリオンやBig Dipper(北斗七星)を見いだすのに苦労するひともいる。 多少でも教育のある英語人なら、ラテン語とは言語としてはかなりの距離がある英語の単語のなかにあるラテン語幹を無意識に見てとって知らない単語でも文脈から意味を決定して読んでいけるのは、日本の人が読みが判らない漢字でも「篇」や「つくり」から漢字の意味をみてとって読み進めていくのと同じだろう。 あるいはもう少しページから目を離した言い方をすると、英語の速読の仕方のひとつに観念語から観念語へと渡り歩く方法があるが、英語になれていなければ、「全部ひらがなで書かれた日本語」と同じような感じがするのではないかと想像する。 タラの芽も星座もラテン語幹も意識が言葉となじんでゆくことによって生じる「意識の解像度」というべきものが違うので、森で育った人には瞬間に見て取れるタラの芽が都会から来た人間には見えず、夜空いっぱいに描かれた巨大な壁画のような星座群が夜に空を見上げる習慣がなかったひとには少しも目に入らないのは、おもしろい、というより他にはないと思う。 人間の言葉の解像度が届くのは物理現象でいうとだいたい素粒子の手前くらいまでで、原子や分子についてならば、たとえば最密充填の問題であるとか、初期条件の知識を与えられれば子供でも考えることはできるが、量子の運動となると、直観にいちじるしく反したことを考えなければいけないので、骨が折れるというか、一定の訓練がなされないと考えることができない。 あるいは時間も苦手なもののひとつで、人間にとって最も自然な時間のありかたは意識の流れだが、そこから一歩でもでると、「時間」というものについて考えるために七転八倒しなければならないことになる。 まして神などは、「絶対」という定義上、言語で説明することは論理的に述べて不可能で、仮に説明できたとすると、それは言語の集合のなかに含まれてしまうので「絶対」であることはもうできなくて、従って「神」という属性をも失う、ということはこのブログ記事でもツイッタでも何度も述べた。 擬自然的な神が歴史のなかでははやばやとすたれて、かえって人間の形をした神が絶対神、あるいはその息子であるということに落ち着いたのは、実は、人間が目にする自然では言語で早晩説明がついてしまうので、神様にするには具合がわるかったからであると思われる。 そうやって、数式も含めた、さまざまな人間の言語のあつかいにある程度なれてくると、そのしょぼさになさけなくなってくる。 四方を地平線に囲まれた広い大草原に1本の杭があって、その杭に10メートルのロープでつながれた山羊を想像して、その半径10メートルの草を食べ尽くしている姿を想像すれば、この世界における人間の、言語に制約された意識の広がりをかなりよく説明したイメージになると思う。 知性体としての人間の特徴は「頭がわるい」ということで、バカだからいつまでたっても戦争をしているし、同時代の子供が飢えでばたばたと死んだり、14歳かそこらで口紅を塗り、頬紅をつけて自分の身体を売ってかろうじて生活している子供が何十万人といるのがわかっていても、似合うはずもない化粧の子供がおとなにのしかかられて苦悶の呻きをもらしている同じ夜に、枕を高くして安穏に眠っていられる。 一方、人間の第一の美点は、その肉体の美しさである。 もしかすると象さんからみると貧弱な肉体にすぎないのかもしれないが、象はいよいよ解像度の低い言葉しかもたないので、象さんの軽蔑の視線は問題にしなくてもよい。 ツイッタでも書いたように男のほうは、なんだか前のほうへ「でれん」と垂れているバナナっぽい、と述べてはバナナが気の毒なようなものが邪魔だが、それをのぞけば男も女も、形象において神様ですら嫉妬したのは、おおむかしのギリシャ人たちの書いた本を読めばいくらでも例がでてくる。 人間は立ってバランスをとり、二足で歩行し、おとがいの上にうまくのっかった頭のなかで大脳を肥育させたが、大脳の容積を増大させている進化のあいだじゅう、この神経が集中して意識をもった部分は、歩行や、ついには踊りによってリズムの絶えざる刺激を受けて、その悦楽的なリズムのなかでさまざまな観念をつくり、次には観念群をくみあわせて思惟を形成していった。 人間は、ある方角からその存在をみれば「リズムによって出来ている」といいなおしてもよい存在なのである。 人間の最大の成功のひとつは、その生物歴史的に蓄積した自然のリズムを意識によって抽象して、それを肉体に還元して、さしもどして、足を踏みならし、身体を音楽の形にうねらせて「踊る」ということを発明したことであると思う。 宇宙や人間の社会で起きるさまざまな事象への人間の言葉の不器用きわまる、ぶざまな反応に較べて、音楽がきこえてくれば、無意識に自然とステップをふみはじめる、リズムに対する人間の身体のうごきの疎隔のなさに気が付けば、それは、なんだか自明のことであるように思える。 ちゃちな知性にしがみついて、粗雑な落書きのような世界への認識をさまざまな板に書き付けてきた、人間のものがなしい知性の歴史に較べて、誇りにできるものはこのくらいしかないよなあー、と思うことがあるのです。 (記事のタイトルはもちろん春の終わり頃ヨーロッパ各地のDJミックスにたくさんとりあげられるようになってきたなあーとおもっていたら、通常の欧州製アルバムとは異なって、あっというまに世界中でかかるようになったDaft PunkのRandom Access Memoriesのなかの曲でごんす) (動画は最近でたオフィシャルバージョン)

Posted in Uncategorized | 1 Comment

SNS

WSJ(WALL STREET JOURNAL)のサイトのビデオをぼんやり眺めていたら、 ファッションモデルのあいだでSNSが流行っている、という話題について話しているビデオが流れた。 自社でファッション・モデルを選ぶのに「あのモデルは、身長はどのくらいだっけ? すごくやせてるの? ツイッタのフォロワーは何人くらいいる?」というように話して決めるのだと言う。 game changerだ、という言葉を使っていたが、実際そのとおりであると思う。 Jourdan Dunn というモデルが 「Ahahahahahaha I just for cancelled from Dior because of my boobs! 」というツイートで自分が「胸がおおきすぎておろされた」ことをばらしてしまって業界うちでは、大騒ぎになったことがあったが、本人が誰かに叱責されたという話はなかったし、それきり、騒ぎの噂を聞かないので、ファッションモデルの業界は相変わらずsubtleで欧州的な伝統の影のなかにあるのだなあ、と思ったりした。 SNSのなかではツイッタが好きである。 寝床のなかや机に向かってるときには日本語ツイッタもよくやる。 ツイッタの最大の魅力は、他のことをやりながらいろいろな人と話ができることだと思う。 むかしは、いろいろ考えて140文字ぴったりにして書いたりしていたが、オラトリカルな反面教師たちを見るといかにもダサイので、内容はどうでもいいことにした。 このひとはオモロイな、という人がいて、その人がタイムラインに出てくると、つい話しかけてしまう。 どうやら言いたいことが出来て集中してツイートしようと思っていたらしいのに、つい話しかけて笑かしてしまって、わるいことしちゃったな、と思う。 対策として、(日本語では)フォローする人を極端に減らすことにした。 友達たちは怒るだろうと思ったが、古い友達は、ぼくがどのくらい滅茶苦茶な人間か熟知しているので、あんまり文句も言わずに@をつけて話しかけに来てくれる。 きっと、どうしてこいつはこう愛想がわるくてめんどくさいのだろう、と思っているのだろうと思う。 実際、そうなので応えようがない感じがする。 前にも書いたが同じ140文字といっても言語によっておおきく異なる。 中国語ではひとつの物語が140文字で書けてしまう。 英語では140文字は日本語で言えば50文字くらいだろうか、ちょっとまとまったことを言うと140文字になってしまうので、上のファッションモデルのツイートもそうだが動詞や判り切った単語や文字はとばすことが多い。i ♡ uというような表現はいまは日本のひとでも使うのだと聞いている。 言語によって言える内容が異なるので、社会の違いとあいまって、中国語のツイートは自然と真剣なものが多く、おおげさではなくて個人が政府に抗議するプラットフォームであり、反政府人の最も強力な武器で、取り締まりをさけるために警察が把握できない闇シムを使って投稿したりする。 中国には官製デモのほかには自然発生的に発生したデモなど存在しない(あの日本人が年中悩まされている「反日デモ」も、もちろん中国政府が台本を書き、いっさい取り仕切っている)が、Ai Weiweiが警察に逮捕されて8日間の行方不明になったときだけは別で、各所で何百人という小さな規模にしかすぎなかったが、政府が仕組んだのではない、市民の自発的なデモが起きて、世界中の中国ウォッチャーと、なにより中国政府自身をびっくりさせた。 Ai … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

科学的方法と人間

科学人にとっては「正当な手続きによって検証された事実」があって「それ以外の現実は存在しない」というのは有効な態度である。 科学的態度、と言ってもよい。 この文脈からいうと「ばらまかれた放射性物質によって誰も死んでいないから放射性物質の健康への害については考える必要が無い」ということになる。 誰かが死んでから考えれば良い。 科学人はロボットなのかというとなかには意外に思う人もいるかも知れないが人間です。 人間なので同時代の人間に対しても人間としての債務、というとオーバーだが、人間として「こう振る舞うべきだ」という約束事のなかで生きている。 福島第一がぶっとんだときにたとえばオダキン(わしの友達の科学人です)のなかの「内なる物理学者」は何もいいたくなかったに違いない。 想像するのが難しいことではなくて、科学人からみると、とんでもない理屈をこねて放射能が危なくないという言説ならなんでもかんでもかみつき反対し、悪魔め、死ね、と攻撃されている「御用学者」は、攻撃しているひとびとにとっては「御用学者」にすぎないがオダキンにとっては自分のまわりでうろうろしている同僚であり、同僚まではいかなくても、「顔を知っている人」であり、「よく見かける人」でもある。 第一、オダキンには「いま結果として確認できる被害がないのだから科学人として、それを議論の仮定にするのはおかしいだろう」と言う意見が科学的に整合性がある意見であることはすぐに見て取れたはずである。 わしは物理研究者ではないが、わしなら、困ったと思う。 「じゃ、なんできみは将来被害がでるとおもうのか」と言われた場合、「チェルノブルで起きたことにこういう評価がある」とか「こういう論文がある」あるいは、「判らないのだから恐れるべきだ」としか言いようがない。 「判らないのだから恐れるべきだ」というのはチョー非科学的な態度だが、人間が知識の蓄積としてどうなるかが判っていない現実の事態が起きてしまった場合、人間であろうとすれば非科学的判断に踏み込んでいかなければならない時があるのは歴史的にもあきらかで、たとえば放射性物質で言えば「仮に放射性物質が有害であったと10年後に判った場合」、そこで炙り出される自分の姿は、科学的手続き主義に身を隠した人間としては極めて卑劣な自分の姿であり、「科学的手続きに固執したい」というよく考えてみれば単なる科学人の職業人としての自己満足に過ぎない「こだわり」でみすみす子供を殺してしまったという後悔である。 わしはオダキンが「この事態は危険なのだ」と言い出したとき、オダキンは「人間として後悔しない生き方をしよう」と強い決意をもったのだと思う。 人間は科学的にふるまうことによって危機に対処してきたわけではない。 水爆という最終破壊神のような兵器について考えてみると、広島と長崎での「成功した」爆弾投下のあとでは、それをつくることが悪魔的な作業であることを知らない科学者はいなかった。 科学者のなかに「核を廃絶しなければいつか地球は滅びるだろう」という確信が生まれて、バートランド・ラッセルとアルベルト・アインシュタインがラッセル・アインシュタイン宣言を発表したのは1955年のことだった。 宣言に署名した科学者を見ると、 ライナス・ポーリング、アルベルト・アインシュタイン、マックス・ボルン、レオポルト・インフェルト、フレデリック・ジョリオキュリー、パーシー・ブリッジマン、セシル・パウエル、ジョセフ・ロートブラット、ハーマン・マラー、湯川秀樹、バートランド・ラッセルという当時の超一流科学者の名前が並んでいる。 この宣言によって実際に水爆と原爆の製造が止まると思っていたかというと、口には出さないが、11人全員が「多分、無理だろう」と考えていたと思います。 実際、この宣言の3カ月後にこの世を去ることになるアインシュタインは、 「理性が禁止を命じても、それでも科学者の手は動くだろう」と述べたという。 人間の科学的知性は「そこに面白いことがあればやってしまう」という、豚が死の罠だと知っていても食べ物に手をだしてしまうのとまるで変わらない、理性よりも強い好奇心によって支配されているので、人間としての理性が「やってはダメだ」と述べていても、科学人としての魂は、手を動かしてしまう。 手が理性をひきずって、全人類が破滅に導かれるような兵器ですらつくってしまう。 リチャード・ファインマンは、いかに危険なことか知っていながら、どうしても誘惑に勝てずにデーモンコア(6kg超のプルトニウムの塊です)に触わってしまう。 たくさんの人が、ファインマンの死因になった件の奇妙な癌は、この時の結果だと思っているが、デーモンコアに触れたあと40年以上を生きたファインマンは、たとえその死がデーモンコアに触れた結果であると知っていても後悔などしなかったに違いない。 振り返ってみると、福島第一の事故のあと、放射能がばらまかれて、福島県を中心に日本のおおきな部分が極めて危険な状態におかれたあと、日本の人が「科学の家」のなかだけで議論を始めたのは不思議な現象だった。 科学人がこれほどおおきなプレゼンスをもった社会、というのを、わしは他に見たことがない。 科学人という生き物はおよそ社会的な事柄について判断するのに不向きな職業を持った生き物であり、科学は、特にそのなかでも物理学は、その「社会の常識では正しいはずがないことを物理学の世界で認められた確からしい手続きによって真理として発見して検証する」という「反常識主義」とでも言うべきやりかたによって地動説、重力の諸性質、量子、時間の相対性、という直感にすら反した「現実」を見いだしてきた哲学思想としての長い歴史をもっている。 福島第一のように、初めから結果が時間的にずっと先にいかなければどうなるかわからない事態が起きてしまうと、論理的に言って科学は反社会的な振る舞いしかしえないのは自明と言ってもよいと思う。 案の定、おおくの日本の科学人は「まず結果をくれ。そしたら考えるから」というおそるべき自己満足の遊びに身をまかせはじめる。 結果、というのは簡単に言えば福島の子供が死ぬことです。 ある科学者は「また、そのころ、政府から意見を求められる機会もあったので、最悪の事態として汚染が広がったときに、政治家が腹をくくって「動くな」と言えるかどうか、ということをかなり議論した記憶があります。」 と述べている。 わしは、このコピーライターが科学者にインタビューした記事を何回も読み直してしまった。 「政治家が腹をくくって「逃げろ」と言えるかどうか」の間違いなのではないかと考えたからです。 何回か読み返してから、この人はちょうど科学者が科学の手続きに立って考えるように、この場では、日本社会の保全という立場から「政治的思考の手続きに立って」考えたのだと思い当たったのは、3,4回読み直したあとだった。 長くなってしまうと面倒くさいので簡単に書いてしまうと、日本の人達が科学の手続きに沿って考え、あるいは政治家の眼で事態を眺めたのは、要するに「自分の生活」という社会においては最も基本的な観点であるはずのものを持っていなかったからだろうと思う。 実の所、日本の人に必要な考えは「わたしは怖いから逃げる」という希望だけでよかった。逃げなくていいと思った人は、そこにとどまればよく、逃げたい人は逃げる、というだけでよかった。社会の役割はその両方をやれるだけ支援することで、個人の思考を支配しようとすることではなかったはずです。 正しいか正しくないか、というようなことは別にして、西洋人の最も基本的な思想は「部分は全体の一部ではない」ということである。 人間は社会のなかの個人として存在するが、個人は社会の一部ではない。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

孤茶と訪問する戦後昭和史3

1 わし篇 (まだ返信を書かないうちに孤茶が次の記事を送ってきてしまった(^^;) 相手が書いたことを読んで往復便で記事を書くというこの続き物の意図に反しているが、孤茶は暴走を自分の一生の局面打開の最大の武器として生きてきた人なので、これでいーのです。 孤茶は宇多田ヒカルかーちゃんのことを書いているので、わしもこの時代の音楽のことを書いておきたい) このブログ記事をずっと読んでいるひとは知っているが、わしは「ザ・テンプターズ」 http://www.youtube.com/watch?v=-wCoZA5m5Tc が好きである。 むかし取った杵柄、気のおけない友達が集まるパーティではバンドに加わって遊ぶことがあるが、曲と曲のあいだに、変わった曲やってよ、と言われると「エメラルドの伝説」を編曲して演奏することがある。 Lazer Sharpよりうけるよーです。 この「エメラルドの伝説」が1968年の6月、ザ・テンプターズの最大のヒット曲(オリコン8位)「純愛」http://www.youtube.com/watch?v=nIHUJmlaC3E  が1968年12月、解散が1969年の12月なので、不思議な「グループサウンズブーム」は1970年代のとばぐちで終わったことになる。 いろいろなものを読んだりおっちゃんたちの話を聴いていると、1970年4月に解散したザ・タイガースのほうが遙かに人気があったようだが、いま曲を聴いても、なんとなくピンとこない。 逆に全然人気はなかったらしいのに、いま聴いてみておもしろいのは「ジャックス」のほうで、「からっぽの世界」 http://www.youtube.com/watch?v=C1bV5Tch2bI は、イギー・ポップふうでカッコイイ。 ここまで読んできて、「あれっ?」と思う人がいると思う。 このすぐあとに孤茶が藤圭子にラブレターを書いているような、ファンとしての愛情があふれた記事を書いているが、この五木寛之が「怨歌」の女王、と名付けたヒカルかーちゃんのデビュー2曲目「圭子の夢は夜ひらく」が10週連続オリコンチャート1位になるのは1970年で1968年に出た「からっぽの世界」の2年後です。 まるで時間が逆に進行しているようで、おもしろいが、そこに「昭和」という時代の秘密を解く鍵が眠っているのだと思われる。 その頃、六本木に近い中学に通っていた義理叔父の記憶によると、1972年の文化祭は、Cream、Chicago、Jeff Beck、Led Zeppelinのコピーバンドであふれていて、ゆいいつオリジナル曲で固めた「全校のロックガキどもの尊敬を一心に集めていた」バンドが演奏するカバーはなんとB.B.Kingだったそうである。 (「なんと」がおもいがけずついてしまったのは、B.B.Kingのギターをカバーするのは、バンド人には、たいへんおそろしいことだからです) 岡林信康のバックバンドをやっていたりした細野晴臣たちの「はっぴいえんど」が結成されるのは1969年で解散は1972年である。 「日本語によるロック」を主張して、(こういう「主張」が文字になって残るほどなされたことが、もうすでにこの時代らしくて面白いが)活動を始めた「はっぴいえんど」が「ロック風JPOP」の淵源のひとつであるとすれば、浜崎あゆみというひとは曲を聴いてみると、演歌の後裔で、1970年代まであとじさりしてみると、そういうぜんぜん系統の違う音楽が渾然一体「団子」になって存在したところに日本の音楽の歴史の面白さがあるように感じられる。 孤茶が、これに続く記事で「藤圭子を追い詰めたのは、おれたちだ」と書いているが、この頃に書かれた記事を見ると、自分達の思い入れで藤圭子を音楽性はまったく無視したやりかたで、五木寛之たち、鈍感なおじさんたちがよってたかって嫌がる藤圭子を集団で地べたにおさえつけて「虐げられしものたち」の象徴として慰みものにしたり、後年山口百恵がデビューすると「山口百恵は菩薩なのだ」と囃し立てた時代と違って、孤茶のように何年もタイランドに住む、というような経験を持つ人が普通になったいまの日本では、ほとんど読むに耐えない観念の虚しい遊びによって演歌がなぜ人気があるのか、というようなことを説明する必要はなくなった。 いまになってみると、ほとんど自明のこととして看てとれるのは「演歌」のチューンは、遠く南インドに淵源をもって、それがスリランカやマレーシア、タイに渡り、韓国を経て、日本を東端とする「演歌ロード」が厳然として存在して、この広大な範囲にすむひとびとによって共有される巨大な「情緒」の音楽的な表現が「演歌」であることで、ちょうど日本のロックが西洋からやってきたチューンであるのと同じで、演歌はアジアからやってきたチューンである。 それを日本固有、日本の情念、日本の怨念と五木寛之たちが言いはやして、マスメディアも、それを手もなく信じたところに、「日本」というマイクロ文明の深い孤独が感じられる。 現代中国が生み出した天才ミュージシャン Sa Dingdingの音楽 を聴いていると、このひとの深い思索が感じられる。 ロンドンの貧困地区に生まれて、イギリス社会の理不尽さとチャンスなど通りのどこにもない生活の怒りをたたきつけるように演奏するイギリスのロッカーたちには思索など必要がない。 自分達の情緒あるいは情緒の欠落にぴったり寄り添った「音楽」がすでに子供部屋のスピーカから毎日ながれていたからです。 しかし、日本の若い人間にとっては、そうはいかなかった。 ….と、ここまで書いたら飛行機がでる時間になってしまったので、これ以上、書けなくなってしまった。 この続きは、今日の夜クライストチャーチの寝室で書くか、それがダメなら、「農場の家」のテラスで、牛さんたちの声を聴きながら、ということになると思います。 でわ 2 孤茶篇 (以下は孤茶が息せき切って送ってきた孤茶の一気呵成第2篇です) 昭和に咲いた夢は、やはり夢だったのか   藤圭子が離婚したのは1972年のことで、NHKのニュースで芸能人の離婚を報じるなんてことは珍しかったんで、よく憶えてる。たしかおれが小学6年生の夏休みか冬休みだったように思う。一人の昼食のあとに始まったニュースでアナウンサーの鹿爪らしい声で「歌手の藤圭子さん」と言うのが、そこだけ濡れた紙やすりみたいに、ざらり、と記憶に粗い傷をつけて、標準語の声と映像は昭和の空気に溶けて消えた。   … Continue reading

Posted in Uncategorized | 3 Comments

夏に向かって準備する

夏が近付いてきたのでパーティの招待状があちこちから来るようになった。 フォーマルな服装を指定した、政治家や総督もやってくる厳(おごそ)かげなパーティもあれば、 今度新しく75フィート(23m)のカッチョイイ船を買ったからみんなで沖合まで出てパーティやろうぜ、いえーい、という人もいます。 アメリカズカップがもっか4-1で勝利ちゅうなので大画面でアメリカズカップを観よう、というのもある。 陽気がよくなると、人間も自然と浮かれてくるのが英語人の単純さの良いところであると思う。 夏のシーズンにあわせて、おっきい船と小さい船の中間の「気軽にほいとでかけられて、1週間くらいはハウラキガルフのどこかでのたのたしていられる船」が欲しいと考えて、ボートビルダーの友達と一緒に船をつくっている。 つくっている、と言っても、わしが船大工をするとあえなく沈没するかもしれないので、スタジオのみなと、あーでもないこーでもないと意見を述べあって仕様を決めてゆく。 ハルデザインは大雑把に言うと「Displacement」と「Planing」がある。 チョー簡単に述べれば「Displacement」は船体が前弦まで水に浸かって進むハル・デザインで、たとえば極端に言えば、戦艦はこれです。 「Planing」は、速度を出すにつれて船体が浮き上がるように水の上に出てくるタイプで、上が軍艦の例なので、こっちも軍用の例にすると魚雷艇が「Planing」タイプの船、ということになる。 12m以下(乾重量で言うと4t以下、くらい)のボートで言うと、「Planing」ハルは性質上高速で、たとえば9mくらいの艇だと350馬力くらいのエンジンをつけて、燃料タンクが350リットルくらい。これで100キロくらいの行動半径は確保できる。 「Displacement」は、ひたひたと進んでゆくタイプなので、40フィート(12.3m)以上ないと、あんまり意味が無い。 エンジンは小さくてよくて、12mの艇で80馬力くらいの小さなエンジン、というのもざらにある。 エンジンが小さいということの意味は、たとえばさっきの350馬力のペトロルエンジンなら7万ドル(500万)くらいするが、80馬力ならエンジンそのものが100万円くらいですむ上に、メンテナンス費用も格段に安くなる。 8ノットくらいでのろのろ進むかわりに、船体はおおきいので、広い寝室やラウンジ、キッチンが手にはいって、ヨットやボートに何十年も乗って、最後に買う船がDisplacement、という人は多いと思う。 ハウラキガルフでのたりのたりするだけなのでスピードは出なくてもよいが、8ノットではあまりに遅くてコロマンデルの東側に出るのにまる1日かかってしまうので、350馬力のエンジンにすることにした。 ハルデザインもSemi-dispalacementも考えたが、用途を考えると、Planingのほうが返っていいのか、とデザイナーやエンジニアと人達と話しているうちに考えるようになった。 船外機でもいまはヤマハのカッチョイイV8のような350馬力のエンジンがあるが、ディンギィ http://www.sbcontrol.com/beneteau/dinghy.jpg の上げ下ろしや船尾で釣りをするとき、あるいは海にとびこんで泳ぐときに船尾の巨大なでっぱりになって不便なので船内機にする。 船内機ならVOLVO PENTAやYAMMARが有名だが、整備の問題とエンジンルームの都合でMERCRUISEにする。 ベンチをつくって、冷蔵庫の置き場所を考えて、ガスレンジをここにおいて、ありゃあー、シャワーおくとこがなくなってもうたやん、と皆で話していると、あっというまに時間が経ちます。 持っている船のなかでいちばん小さかった7m艇は、トイレ(このクラスのボートはベッドの下に格納されるようになっている)を使うにも不便で、海の上でいく晩も過ごすのには向いておらず、初めは出航準備に気軽に船を出して、モニとふたりで無人島の浜辺でワインを飲んで遊んだりするのに使っていたが、デイ・ボーティングは飽きてしまって、海の上に出ると、どうしても数夜を過ごして、海の上からオークランドの宝石をぶちまけたような、燦めく夜景をみながらシャンパンとステーキの夕食を摂ったり、月のない夜なら、モニとふたりで競争で星座を探したりして、海の上のノーマッドのように過ごしたい。 結局つかわなくなってしまって、毎度毎度おおきなボートかヨットを出すことになってしまうので、めんどくさくてたまらなかった。 ヨットはハウラキガルフに出るくらいならモニとふたりでなんとかなっても、おおきな船のほうは、人手を頼まなければとても出港準備ができない上に、フリーザーが不調になってみたり、エアコンが壊れたりで、新しい船で、どんなに良く出来ていても、いろいろなものがついている分だけ海という塩水にどっぷりつかっている環境では故障が多い。 去年は、きゃあきゃあ言って遊んだスピードボートはモニの定義によれば「ガメがムダ使いをしたくて買った全然役に立たないオモチャ」で、言われてもいいかえす言葉はなくて、結構おおきい図体の割に居住性はゼロである(^^) モニとふたりで思い立ったときにクルマでマリーナへ出て、スーパーの買い物袋をもって桟橋を歩いて、舫いを解いて、そのまま海へ出られるボートがなかったので、友達のボートデザイナーに相談して、新しいボートをつくることにしたが、やってみると、作るところがもう楽しい遊びで、モニとふたりで夢中になってしまった。 このブログ記事にも何度かでてくるが、オークランドの生活で最も素晴らしいのは海であると思う。 地図を見れば判るとおりオークランドはハウラキガルフという湾に面しているが、ここには、たくさんの入り江、無人の島、変化に富んだ半島があって、一通り見て歩くだけで7年間はかかるという。 27センチ以下は海にもどさねばいけないことになっている鯛は30メートルくらいも水深があるところに行けば「目の下三尺」(最もおいしい鯛のおおきさについての日本語の表現)、1メートルくらいの鯛がルアーでわりあい簡単に釣れる。 コロマンデルやノイジーの島々の近くでは1mを軽く越えるヒラマサがやはりルアーで釣れる。 鰺などは、夜をすごすことに決めた入り江で日暮れ近くにサビキの糸をたれると餌などつけなくても、いちどに4匹づつくらい釣れます。 船上で、銀座の鮨屋のひとびとに教えてもらったやりかたで、捌いて、アジフライをつくったり、たたきや、鰺寿司にする。 夜はマイカやアオリイカが釣れる。 まだやってみたことはないが、ダイビングで潜ってゆくと、「カーペット敷いたように」タコがいるという。 それを教えてくれた近所のダイビング爺は、「あれはうまいぞ」と述べたら、「げげげげ。あんなものをきみは食べるのか。スペインかぶれがひどすぎるのではないか」と驚いてインプラントが逆回転して飛び出しそうな顔をしていたが、要するにニュージーランド人は鯛、ヒラメ、サーモン、マッスル、オイスター以外は海のものを食べないので、鰺などは甲板から見ているとバケツで掬えそうなほど、うじゃうじゃうじゃと屯しているのだと思われる。 危険な友達だとわかっていても、やはり、ゆっくりと、しかし雄大な筋肉で空中に身体をもちあげながら湾口をわたってゆくシャチの群れに見ほれないわけにはいかない。 イルカたちもボートについてきて、一緒に遊びたがる群れイルカももちろん楽しいが、ときどき一頭だけで、「いそがなきゃいそがなきゃ。まいったなあ、会議におくれてしまいそうだ。いそがなきゃいそがなきゃ」という声が聞こえてきそうな様子で、全速力でどこかへ急いでいく(なぜかたいていおおきな)イルカがいる。 夕方、あの、神秘的なような、ゆっくりと規則的な、神様がおおきな寝息をたてているような声が聞こえてくると、ボート乗りはやや緊張して周りの海を見渡す。 「フライブリッジ」があるボートなら階段をかけのぼって、周囲をくまなくチェックすることになる。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | Leave a comment

孤茶と訪問する戦後昭和史2(孤茶篇)

(前回述べた通り、以下の文章はわし友達孤茶どん @kochasaeng が書いたものです) 新宿といえば、おれが北海道の山奥から出てきて、さいしょに住んだところの近くで(十二社の奥の方だったのね)、あれはまだ18歳のときで、建って間もない西新宿の高層ビルの最上階で「いつかこの街を牛耳ってやる!」なんて思うわけもなく、ただただ「おお。ひとが、めっこし(たくさんという意味の北海道弁)いるでや」と感心していた。西暦でいえば1978年で、その頃も新宿は早明浦ダムの水よりも多くの人で溢れていたんだ。思えば、こないだ54歳になってしまったんで、ちょうど18歳の頃のおれが三人いる勘定なんだが、ちっとも文殊の知恵ではないですね。まあ毎日楽しいから、無駄に歳取るのも良いものです。   で、当時は獲れたて新鮮のイナカモノで、ズボン(当時からパンツって言い方はあった。その夏だけ流行ったパラシュート・パンツなんてものも買ったばかりか、穿いてしまった。後悔はしてないが、恥ずかしい)を買いに行くと、店の人から「ね。Tシャツもどう?」なんて勧められちゃう。「ほら。E.YAZAWA。みんな着てるし、タオルもあるよ」なんてカモられそうになるのね。えー……。E.YAZAWAって……、と困惑していると、「わあ。きみ、音楽キライなんだぁ」って鮮やかな東京弁で切り捨てられて、お、おれは音楽好きだでや。子供の頃からチェロとか弾いてんだべさ。ヘタだけど。田舎じゃジャズのバンドで箱ベース(ウッドベースのことね)弾いてて、ムツカしい音楽理論だって知ってんだよー、と思うものの、店のお兄ちゃんはもう他の客に話しかけてて、東京は忙しいのだった。 それまでにもオシャレなひとはいたけど、フツーのヤングがナウでビューティホーを目指したのは、この頃からだったのかもしれない。オリジナルじゃなくてE.YAZAWAのTシャツみたいなナウだけど、選択肢が増えた。もう少し経つと「ださい」って言葉が流行る頃のことです。   でも、このあとに来るバブルの日々の予感なんてなく、街は思い切りアングラなんかの全共闘世代を引きずってて、サブカルの時代が遠慮がちに始まっていた。新宿はイナカモノの街で、もっと荒っぽかった。夜の区役所通りを歩くのは、立ちんぼのお姉さんたちが怖かったし、そこら中でアンパン(シンナー遊びのことです。ポリ袋に丸めたティシューペーパーが入ってて、それに有機溶剤を染み込ませて端から見えないように袋の中身を手で隠しながら吸引するのね。その姿がアンパン食べてるようだったから、ってのが語源)決めてフラフラしてる奴がいた。あちこちにいた。トルエンなんてのは上物で、貧乏な学生はボンドという合成化学接着剤とか、粗悪なものを吸っていたようだった。そういえば当時トルエンは裏社会の組関係のチンピラ方面の人々のシノギで、彼らは新宿駅のコインロッカーにリポビタンDの小瓶に小分けして詰め替えたトルエンを密売してて、たしかそれは「純トロ」と呼ばれていたはずだ。 たまに混ぜ物をして「フクロ」にされるチンピラもいたと、出来の悪い漫画みたいな話も聞いたことがある。もちろんトルエンとかそのへんの有機溶剤を吸引すると、あれは生体分解せずに脳髄やら脳の一部も溶かすので、やめたほうが身のためです。   で、東京に出て初めての夏、おれはヤマハのトランペットを買って、アパートでそんなもん吹いたら5秒も待たずに隣室のホステスさんの同棲相手に怒鳴り込まれると予想がついたので、晴れた日には中央公園でマイルズ・デヴィスのコピーをしていた。陽を反射して輝くラッパでIf I were a bellなんて曲を吹いたりしてて、でもベルと言うよりhellから湧き上がるような音で、なるべく茂みの方で遠慮して吹いていたけれど、なにぶん初心者で下手くそだったから、路上生活の人々や、覗き見方面の人々には迷惑かけたと思う。そのうちレパートリーも増えてテキトーなアドリブもできるようになって、当時いっしょに遊んでいたバンドで吹いたりもしたけど、「うん。いいね。でもベースの方がいいんじゃないかな」と、やんわり拒否されて、人には向き不向きってものがあるのだと悟った。その後、ベースもチェロも素人よりは多少巧くても、一流にはなれない、と諦めました。やっぱり聞き分けよくE.YAZAWAでも聴いてウオーって言ってたほうが良かったのかもしれない。 おれの場合は限界、ってほどのものじゃないけど、自分の限界が見えるときは寂しいものです。   大橋巨泉というひとがいて、どうにも疎まれているようなフシもあるようで、この人を見るといつも「誤解されてるよなー」と思うけど、テレビに出たりしてヒトサマに知られることは誤解に他ならないということを自身もよく知っている人なんだろう。ボリス・ヴィアンもそんな意味のことを言ってましたが、誤解を引き寄せる生き方ってのがあるんだ。 巨泉てのは、たしか俳号です。短歌も詠んで、若いころ天才と呼ばれたけれど、早稲田に行くと、もっと凄いのがいた。寺山修司ですね。寺山短歌に触れて、「ああ。こいつにはかなわない」と筆を折った。挫折というより限界が見えたんだろう。 一転、趣味の人になった。将棋、ビリヤード、釣り、ジャズ評論、競馬評論と、なにをやらせても、あっという間に玄人はだし。プレイボーイとして名を馳せ、ジャズ歌手のマーサ三宅が最初の奥さんです。昔は山口瞳をはじめ、いろんなひとが「巨泉さんは天才」と褒めそやしたものです。おれが中学生のころ、ラジオで「巨泉シャバドゥビア」って名前のジャズ番組があって、それを北海道の山の中で聞いていた。ソニ・ロリンズのサックスを「マウスピースから口を離しても鳴るんじゃないか、てぇ感じで」と評したり、今考えても凄い番組だった。昔凄かったけど、今そうでもないって人ではないと思う。可愛がられ体質の才人が歳を取る生き方のひとつの見本ていうか、自分の生き方を仕事にしちゃった人なんで、まあ楽しそうで何よりとしか言いようがない。そもそも仕事を批評することはできても、ヒトの生き方は批判できないでしょ。誤解するのは世間の自由で、巨泉というひとは、それをわかってて巧く生きてきた印象がある。もちろんこの、おれの理解も誤解だと思っていい。   限界ってことで思い出すのは、将棋の芹澤博文という人で、この人もテレビのクイズ番組なんかに出て言いたい放題で、好かれたり疎まれたりした人という印象を持たれているのではないか。やはり若いころ天才と呼ばれ、晩年は大橋巨泉と大喧嘩の騒動になったりしている。もともと酒好きで知られていたが、ある日おでんの屋台で飲んでいて、とつぜん泣きだした。 号泣。男泣きというのがふさわしい身も世もない泣き方で、おいおいと泣いたのは、突如「棋士としての限界が見えた」からだという。 べつに一番になるのが男、ってこともなくて「勝負は勝ち負けじゃない」なんて生き方もあるけど、棋士は勝負師だから、そうはいかない。 おでんを食べると、ときどきこの話を思い出して、おれにも俄に限界が見えて泣いたらどうしようと思うけど、これは、おでんに気をつけろって教訓ではないから安心して食べていいと思う。   限界とか負けってのとは少しちがって、でも似てることもある。おれが聞いた市井のひとの話。 戦前、ひとりの若い小学校教師がいて、教えた子供たちの中に、ひとりだけ恐ろしく頭の良い男の子がいて。なかでも算数に長けていて、若い教師が教科書にも載ってないような応用問題を熱心につくり与えると、嬉しそうに解いていたと。 やがて卒業が近づき、上の学校に進んではどうかと尋ねると、生徒は目を輝かせたあとで塞ぎ込み、「そのような金がありません」と答えた。 なるほど。学資の捻出が難しいのかと、今で言えば奨学生のような手筈を整え、その子の家に行くと、両親が落涙とともに「ありがたいことですが、そうではなく、この子には丁稚に出て貰わないと私どもの生活が立ち行かないのです。学校に上がると、この子は稼げません」と頭を下げるばかり。当時ありふれた境遇だったので、では残念ですが、と進学を断念。やがて戦争があり、戦後の復興、騒乱を経て、日本が落ち着いてきた頃。それまでにも「あの子はどうしているだろう」と折に触れては思い出していた教え子が、風呂敷包みを片手にひょっこり訪ねて来た。 すっかり頭髪も薄くなり、油に汚れた作業着の男は生活に疲れているようすだったけれど、あの利発な面影は目に宿っていた。「先生。お久しぶりです」 もう初老も過ぎ、老人になった、かつての若教師は喜んだ。元気でいたのだ。 むかし利発だった少年が、おもむろに風呂敷包みを広げると、何冊ものノートがあり、「じつは先生。私、どうも変な事を考えてしまって。他に相談する人もいなくて困っていたけれど、もしかして先生ならわかってくださるかも、と思いまして」 そう言って見せてくれたノートの数々は、仕事を終えて毎日ひとりアパートで少しずつ書き溜めたもので、数字に混ざって「甲」「乙」といった記号があり、それは今でいう「X」「Y」などの代数記号のようで、詳しく聞くと、それは二次関数の考察で、解の公式と同じ考えの数式を最後に説明してくれた。「そうですか。やっぱり先生だ。わかってくれた」 人類が何代もかけて編み出した解の公式に、彼はひとりで辿り着いていた。天才だったのだ。しかし、その公式は今ではどこの中学校でも教えているものだ。 「ありがとうございました」 教え子が帰った後、老教師は、たまらず号泣したという。   昭和の話です。今では日本も裕福になり、インターネットの世の中で、こんな話はないだろう。 この頃は東京のどこにでも貧困と純情と哀れが口をあけていて、それでも人々はけなげで元気に日々を送っていた。今でもそうだけど、あのころ日本は紛れもなくアジアだった。   … Continue reading

Posted in Uncategorized | 2 Comments