Tetsujinさんと話しあうまえに

santiago

レミントンを食べながら神様のことを考えるのも日課のうちである。
「神様を考える」のは実は言葉の矛盾で言葉で考えられるくらいなら神などは存在しない。
存在の必要がない。

神を指向したり示唆したりすることは言葉にも出来て、前にも述べたように、たかが夫が妻に話しかけるだけでも言葉を使うとなると、夫は神に向かって話し、それを同じように神に顔を向けて聴いた妻がまた神に向かって夫が言うことについて返答をする、という構造をもつ西洋語では、そもそも神がいなければ伝達ということすらできない。

日本語は言語の関係が簡明で夫は妻に向かって話している。
妻も夫に直截こたえている。
簡明なのでお互いの気持ちや考えている事が通じやすそうなものだが、実際に日本語をおぼえて使ってみると、そうでもない。
そもそも「話の受け取り方」にバラエティがありすぎて、話があちこちで齟齬を来たす。

そこで日本語でよく用いられる方法は、たとえると、北を上にした地図を思い浮かべながら、どこかへたどりつくための話をするのに似ているだろう。
「ああ、そこのコンビニを左に入っていくと、ずっとまっすぐな細い道がありますね」
「ええ、そうです。その道をずっとまっすぐに行って、ずっと先まで行った岐れ道を左にいけば切り通しに出るのです」

こういう会話を考えてみる。(笑ってはいかむ)
「わたし、もう学校なんて行きたくない」
「判るよ、おとうさんもそうだった」

娘がよほど迎合的な娘ならともかく、ふつうなら、「なにが『判って』んだよ、おやじ、おおむかし男だったおめーといまの世の中で女のおれで、そんなに簡単に『判る』わけねーだろが、このハゲが」
と思われるのがオチであると思われる。

せめて、同じ「バナナフィッシュに最適の日」の映画を観て、娘があれと同じだと述べた場合に、父親が、おお、それならばおれの若いときと同じだ、と述べるのでなければ会話にまるで信憑性がない。

日本語の場合、神様の代わりをしているのは、教科書なのである。
教科書、と言って悪ければ、お墨付きがある誰にでも閲覧可能な共通の知識、とゆってもよい。
もっと簡単に「正解」と言い直しても良いような気がする。

ここで思い切ったことを述べてしまうと、現代英語上は、この言語の仲介者としての「神様」は言語を機能させるための仮定にしかすぎないので、実在してもしなくてもどっちでも別にかまわない。
そのうちには言語のなかでは「むかしは神と名前がついていた『名指されえない実体』のこと」と説明されるようになるかもしれない。

大事なのは、「神」は絶対者で「絶対」というものの特性として説明されず、まして語り終えられたりすることは決してなく、論理も届かないので、英語や欧州語では、言語の感覚にすぐれた人間が神性、あるいは聖性を感じるかどうかで、その言語仲介者としての性格が決まってきたことである。

日本語では、ただ様式的な会話として聞き流すのでない場合は「それは聞いたことがないが『教科書』のどこにそれが書いてあるのか」
「それが『正解』だと書いてある本はどこにあるのか」としつこく尋ねるのを習慣とする。
そのせいで日本語の議論は、もうずっと前から「通説」になっている話をみなが再確認して終わるか、もっとひどい場合には「自分が読んだ本には、こう書いてあったから、それが真実である」という自己満足に終始する親分のあとを、奴姿の頭のわるいひとびとが何百人も鬨の声をあげながら思い思いの論理ともいえない論理をお互いに頷きあうことを「論理の補強」とみなして、いっせいに異論を攻撃することが「議論」だということになっている。
口喧嘩と議論の区別がつかなくて、政治議論をしていたはずなのに議論の途中で「俺は喧嘩だけは強いんだ」と啖呵を切ってしまう抱腹絶倒な元知事の市長が出てきてしまうのも、そのせいだと思う。

英語の会話では何が正しいかは根底のところでは「神」が決めている。
「神の視線のちょっとした揺らぎで決めている」と言い直したほうがいいかもしれません。
なんでも正解付きである日本語の世界と異なって英語の世界では、いいとしこいたおとなで、しかも専門家でも、素人とあまり変わらないように見えて、なんだか日本にくると「科学がわかってない」と怒られそうだが、あのぐんなりした態度の由縁は「世界の99%は人間の言葉と知恵が及ばない未知の暗闇」であるというもともとの神の決めた「宇宙観」があるからです。

自分の身の回りに放射性物質がまきちらされたときに、外国人たちは、たとえばKという人は、大津波のニューズを聞いた途端、その場所に自分がかつて見学したことがある原子力発電所があるのを思い出して、その場で、見事なくらい脱兎のごとく逃げはじめて、自転車に乗って福島から成田まで逃げて、そこから飛行機に飛び乗ってシドニーにまで一挙に逃げるくらいビュンビュン逃げたが、「とりあえず逃げてから考える」、シドニーで2週間考えて、結局日本に戻らないことにしたのは、「放射能の影響が全然わからないので、怖いから」だった。
神様に聞けば、神様は当然、「人間の子はそう考えるべきである」と答えるわけで、物理の教科書に聞けば、物理教科書にも神様がいて、「そんなの、ぜんぜんダイジョブよ、わしが計算したこの数式をみてみい。ほんで、こっちが、わしもちゃんとはわかんないけど、放射線医学の教科書な。
ほら、この巻末の表のところに計算した数値を照らしあわせてみると、ピンポーン、「ダイジョブ」て書いてあるじゃん。この教科書書いた人偉いんだよ、たしかノーベル医学賞とったんだぜ」と言うかもしれないが、物理の地方的な神様よりも全体の「真理っぽい方向」を指し示している神様のほうが上位なので、普通の英語人はその神の「視線」に従う。

日本の人は、放射能は専門でないけれども、トーダイという現代日本では学問の神様が税金で屯しているところとみなされている「神域」の人を仰ぎ見て、おおむかし、「現人神」のご託宣を信じて十数年の戦争を戦ったように、今度も神様のパチモンを信じることにしたのだと思われる。
神様には、ものごとをはっきり具体的に言わないくせがあって、意地悪だが、神様のパチモンは麻原彰晃から某東大教授まで、判りやすい、という取り柄があると思う。
贋物の真理は常に力強く明瞭な言葉で語られる。

言語によって規定された存在なので述べる言葉も「言語外のものを示唆」する必要がなくて、1998円の安売り屋の正札のように、細かい所まで具体的なのであって、また、その必要がある。

西洋式の学問の歴史が、仮説を立て、塔から鳥の羽の形をした板きれをくくりつけて飛び降りて怪我をしたり、電気の火花を散らしてのけぞったり、しまいにはプルトニウムのかたまりを落っことして放射線で見事にぶっ死んだりしていたのは、「神」を納得させなければならなかったからであると思われる。
ジョルダーノ・ブルーノというひとなどは、たいして神様に対する説得力がない言葉で、地球が太陽のまわりをまわってるんじゃん、としつこく述べたので、神様から正解集を預かっているのだと自称する「教科書派」のひとびとの手によって、火あぶりにされて殺されてしまった。
その頃の欧州は太陽が地球の周りをまわっているという自明の科学が判らないのか、このニセ科学信奉者めが、の「真正科学天動派」のひとばかりで「地動脳」のひとびとはいじめられることになっていたのです。

ここでくだらないつけたしを述べておくと、天動説なんて、と笑うひとは、それまでのさまざまな観察から「確からしい」ものだけを注意深く集め、精緻な体系を築き上げたプトレマイオスの「アルマゲスト」を読んでみるとよい。
それは非のうちどころがない「正解の書」で、およそ科学の心をもっていれば、その均整のとれた理論に感動すると思う。
あるいはラマルクの思いつきじみて投げやりな「進化論」に純正科学の立場から天変地異による種の絶滅と神の手による次の世代の種の誕生という「天変地異説」を唱えたジョルジュ・キュビエの圧倒的に実証主義的で科学的良心の手本のような著作を読むと、「真実」というものがいかに意地悪で途方もなく人間の期待や「科学的知性」を裏切るものか判ります。

人間が神様のことを考えるときの主要な手がかりである言語には、論理性と歴史性のふたつの部分があるのは、よく知られているし、直感的にも明かである。
論理性が非常に勝った言語の典型が数字・数式で、「女は微分できないから嫌いだ」と述べる科学専攻の男学生(性差別のようだが、わしはまだ「男は積分できないからくだらん」という女びとにあったことがない)が各国に見られることで判るように、数式が感情を述べるのはかなり難しい。
歴史的に堆積した先人の情緒、というようなものも乏しくて、「5917とかって、かっこよくね? 61x97なんて、燃えるよなー」という小学生はいても、それを一般的歴史的な情緒の堆積と呼ぶのは無理である。

だが、前にも述べたが、「朝鮮」という文字を見て、おおむかしの日本人の、百済観音や寺院の庇の優美を日本語世界にもたらした半島人たちへの敬意を感じない人はいないだろう。

チョスン、と半島では読むこの漢字が半島から来た言葉か逆に日本から半島に渡った言葉かは知らないが、日本人がずっと愛用してきた、この、鮮やかな、朝、と書く国名には「美国」というなげやりな称賛よりも、遙かに具体的で明瞭な敬意の積み重ねが感じられる。

日本語の世界ではホラーストーリーの怨霊ですら、神様を介在しない。
神が介在しないので、逆に、獣性が強くあらわれて、ほとんど理屈もなしに手当たりしだいに人間を殺してゆくところは古代ゲール人たちの悪霊に似ている。
ああいう「怨霊」というようなものは、社会の側からかかる巨大な圧力で出来る、ある押し詰まった情緒の一角に生じる感情なので、言語の構成の特徴が強く出る。
現実の世界でも、英語人はぜんぜん神など信じていない人間でさえ恐怖で切羽詰まれば「おお、神様!」と叫ぶことになっているが、日本のひとが怨霊に襲われて「おお、神様!」と述べた日には怨霊がひざかっくんになって襲撃が続かなくなってしまう。

神のいない島の、神がいない社会で、たくさんの人びととひしめきあって、お辞儀をしあい、ごめんなさい、とほとんど意味を失ったように何度も謝って、くたびれはててアパートに帰ってくる。
アパートに帰って、暗い部屋で、膝を抱えて、神の名をよばず、神をののしりもせずに、泣くのをこらえている。
神がいない社会では、そこに友達がいなければ、ただ自分がいるだけだからでしょう。

ここでは説明しないが、日本の家の壁の薄ささえ、日本には神が不在であるせいで、自然と人間の関係が異なっているのが原因のひとつではないかと妄想することがある。
神がいる国では、要するに自分自身が神まかせで、怒りも悲しみも、神のほうにぶんなげればいいことだが、この地球上で、ほとんどただひとつ、神のいない国をつくりあげた日本の人は、どんな小さな怒りも、悲しみも、自分の胸に抱きしめて、じっと耐えている。
それがどれほど個人にとっては難しいことで、そのことで、日本の人がどういう種類の工夫を文明のなかでおこなってきたか、この言語の問題について、いくつかぶっくらこくようなコメントをつけてくれた哲人さんに応えて、返答をすることで始めて、「神のいない社会」の一典型である戦後社会の姿については、これもいくつかかっこいいコメントを書いてくれた孤茶さんと、こっちは一緒に記事を書く形で、考えて行こうと思っています。

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One Response to Tetsujinさんと話しあうまえに

  1. coyu says:

    ガメさん、こんにちは。

    最近になってガメさんのブログを読み始めた者ですが、いつもとてもおもしろくて、脳がワクワクしているのを感じます。日本語で書いてくださってありがとうございます。

    この記事を読んで、小さい頃に感じた恐怖で泣いた夜の事を思い出しました。「この世で友達できなかったら、あの世に行って魂だけになった私は誰にも話しかけられない。怖い。」と思ってしまったのでした。死んだら雲の上に魂だけになった人たちがたくさんいてその世界にずっと留まっている、というイメージだっただのろうと記憶しています。その時の私に神様が居たら良かったのですが。
    間に神様がいる会話、わかりたいからもっと英語勉強しようと思いました。

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