孤茶と訪問する戦後昭和史1

santiago2

この記事を書いたのは2006年だと思うが、
https://gamayauber1001.wordpress.com/1970/01/01/成田だべ。/
なんとなく殊勝げなことが書いてあるが、実態は、ひどくて、ワイン3本はほんとうでも、黙っていて書かないことがあったので、その上にシャンパンも2本飲んでいた。(←2泊3日。いま見たら一晩で呑んだみたいにみえるでないか。それではアル中です)(←このくらいならアル中でない、という意味)
悄気ているどころか、頭のてっぺんから爪先までアルコールが行き渡って「いえーい」な状態であって、なぜか滞在を終えて日本から出立するときには、いつもいつも「いえーい、いえーい、いえーい」の状態であったのをおぼえている。
現実にベッドの上に立ってとびはねて頭をぶつけたりしていた。
成田イオンモールのゲウチャイでクンオプウンセンを食べていると、ひとりでに下品な笑みがこぼれて、ひとりでビールを飲みながらヘラヘラデヘデヘしていて、ごく自然に怪しいガイジンになって店のひとびとに不気味がられるほど機嫌がよかった。

日本が嫌いだったわけではなくて、いま振り返ってみると、その当時にそれが判らないところがバカタレだが、好きだった。
日本語という言葉が特に面白くて好きで、耽溺して、惑溺して、溺死の寸前まで行ったが、言語を身につけるというかある言語の脳をつくるのに文化や歴史なしでつくると正真正銘のバカ頭が出来てしまうので、つまみ食い式だが文化や歴史もベンキョーした。

筑摩近代文学全集を全部読む、とゆーのや岩波古典文学大系を全部読む、あるいはやはり岩波の夏目漱石全集を隅から隅まで読む、新潮の三島由紀夫全集を全部読んでしまう、というようなことから始まって、興味がでてきた時代は、鵯越や倶利伽羅峠などの現地踏査も含めて遊びまくった。

日本の中世が好きになったので、猿沢池のほとりにある奈良ホテルに逗留して鎌倉の美術を見狂ったりした。
「鎌倉時代なのに、なんで奈良?」という人もいるかもしれないが、鎌倉時代の彫刻や絵画、あるいは建築が最もたくさん残っているのは奈良だからです。

鎌倉から戦国・安土桃山時代の文化と並んで、ダイスキー(いま、「だいすき」を変換したらなぜかダイスキーになってしまったので、オモロイので、このままにしておく)になったのが、ロシアのダイ・ダイスキーで、というのはダイスキーに影響された情けない冗談で、1960年代から1970年代の中頃くらいまでの「昭和」の歴史がやはり面白かった。

なぜ、この時代が面白かったかというと、歴史の表面では、マジメげで切なげな、「三丁目の夕陽」というクソ映画を観て、なんじゃこれは、薄気味悪い、と思ったことはあったが、原作はもうちょっとマシで安心したり、「当時のワカモノは理想に燃えて学生運動を戦った」式の、冗談はよし子さん(←60年代に流行った林家三平という人が発明したダジャレ。奥さんが「よしこ」という名前だったらしい)な回顧文を読むと、理想郷ふうに語られたりしているが、ほんとうは、なんでもかんでもチョー出鱈目だった時代で、なんだか1945年に終わった戦争直後の混乱期を、もういっかいやっていたようなところが面白いのだと考える。

昔話で最も面白いのはロンドンで、わし友ミナにも述べたが、昼間はスピットファイアとBf109や110が飛行機雲をひいて激闘して、夜は地下鉄の駅の構内で眠る生活に始まって、マーガレット・サッチャーが首相になったばかりの頃の、ハチャメチャというか、国ごとぐわらぐわらがっしゃんと音を立てて壊れそうな、リージェントストリートですら道沿いに生ゴミが山のように積み上げられて、臭くて信号を待っていられなくて、耐えきれずに道路を渡ったらクルマにひかれて瀕死の重傷になっていたりした、ロンドンのいかにもロンドンらしい抱腹絶倒のパカッぽい光輝ある歴史は血湧き肉躍るが、これを日本語で書くことには意味を見いだしがたい。

孤茶は、古くからの友達で、わしより25歳くらい上で、要するに50代中盤なのに、ときどき目のなかにいれてリンゴにしている小さな息子がいて、なぜそんなチビ息子がいるかというと、いいとしこいてタイのチョー上流家庭出身の、あんまり詳しく書くと孤茶が怒るのでただ「上流」ですませるが、タイ社会の有名人の娘で、しかも美人の奥さんと結婚して、何の反省もしているように見えないとんでもない人です。
孤茶とは普通のひとたちには見えない遊び場で、ときどき会って話をする。
話していて、口からでまかせを述べているうちに、無分別から出た知恵、カレー屋のライスからシェフの金歯、という。
交代で昭和を訪問したらおもしろかるべし、ということになった。

息子に父親の働く姿を見せなくては、と不思議なことを考えてバンコクの家を出て郡山で事業をはじめたら途端に福島第一が爆発した。
水を配ったり、やれそうなことをやりながら、じりじりと後退して、バンコクの本拠地へ撤退した。
訊いてみたことはないが、やはり日本好きな奥さんとチビ息子の影響なのでしょう。
やはり日本にいたほうがよさそうだ、ということで、今度は奥さんとチビ息子をつれて札幌に住んでいる。

安倍晋三がどうしてもやってみたいらしい徴兵制が施行されて、きみが新兵さんになってしまって、アメリカがスエズの近くで始めた戦争に駆り出されて「日本旅団」の一員として町をパトロールする、というような場合、自暴自棄になって、ここでいったん死んで、来世でNew Gameにする、という手もあるが、死ぬのはやっぱり嫌だな、と考えた場合、ゆいいつの戦場を生き残る方法は、古参軍曹のなかでサバイバル術に富んだ軍曹について、必死に言われた通りにすることであると思われる。

孤茶は、そういうサバイバル軍曹そのものの人で、もとがジャーナリストなので、世の中の表と裏と表と裏のあいだと裏の裏と、いろいろに知り尽くしているが、ついにこの世界の光にも闇にも溺れずに、いいとしこいて幸せな夫兼パパになった。

この続きものの記事はいつもと異なって、予定では、わしが学習したショボイ知識による昭和を書いて、孤茶が、その時代を自分の目で見て、バックステージを歩きまわったひとの同時代的な証言と、その場で考えたことや感じた事を書いてくれることになっている。
交代輪番制です。
わしが他人から得た知識と想像力ででっちあげた昭和の町を、現実の昭和の町を知っている孤茶が歩いて、ほんとうはここはこうだった、こうなった裏にはこういうことがあった、と述べることを念頭に置いているが、なにしろ孤茶もわしも、ええかげんなので、どんどんテキトーになって、3回くらいやると、江戸時代の枕絵の話をしているかもしれません。

閑話休題

かろうじて、こんなふうな感じかなあー、と想像力で組み立てられる最も初期の昭和は、1968年頃の新宿西口で、丹下健三が設計した地下広場では、ガリ版刷りの詩集を売って生計を立てている若いカップルや、あんまり上手とはいいかねるギターを弾いて歌っている汚い長い髪のワカモノ、あるいはトルエン(当時はシンナーと言ったようだが、実態はトルエンであると思われる)の袋を口につけてふくらませたりへこませたりしている虚ろな眼の人、ときどきヘルメットをかぶって、タオルで顔を隠したスタイルで集まっては機動隊にラウドスピーカーで「ここは通路です。立ち止まらないで下さい」と言われて、機動隊長のおっちゃんに罵声をなげつける学生、などがいたものだと思われる。
いまもある巨大排気筒のぶっとい根もとで、白昼公然とエッチをしていたひとびとなどもいたよーである。

有名な新宿騒乱は、1968年の10月21日で、義理叔父友達、このブログのなかではいつもトーダイおじさんたちと呼ばれる冴えないベンキョー家集団のひとりKさんは小学生だったはずだが、大学生やサラリーマンたちと一緒に石をなげたり火をつけたりして一日中「内戦」を楽しみ、そのときに電話線をぶちきってかついできた公衆赤電話は、いまでも記念に自分の部屋においてあるそーです。
話を聞いていると、この頃の小学生は四谷大塚やニッシン(字がわからん)という塾に通ったり、この二大進学塾で良い成績をあげるために、塾のための塾に通ったり、すきさえあれば友達と待ち合わせて機動隊に石をぶんなげて脱兎のごとく逃げたり、ビレッジシンガースよりもタイガースのほうがいいに決まっているではないかと同級生の女の子を説き伏せたり、いろいろと忙しかったもののよーである。

「新宿の小田急線発着ホームの改札口をはいった左側の二階」には、まだ国交がなかった中国政府が経営する「中国物産店」があって、そこには「毛沢東語録」を買いに来た学生たちや、缶入りのクルミを買いに来たおばちゃんたちで賑わっていた。

広島から出てきた「吉田拓郎」が「古い船をいまうごかせるのは古い水夫じゃないだろう」という、怒鳴るような声で歌うレコードを出すのは、この1969年のことです。

その頃、ワカモノの連帯意識の中心になっていたのは、意外なことに、ラジオの「深夜放送」であったように見えることがある。
義理叔父がカセットテープに録音して、いまはMP3に化けている「なっちゃんちゃこちゃん」(野沢那智と白石冬美というふたりの声優のことです)の放送を聞いていると、午前一時をまわった夜更け、窓を開けて、冬の冷気を顔にあびながら、灯油ストーブの上でアルミホイルで巻いたサツマイモを焼きながら、中学入試の勉強をしていた義理叔父や、その頃は、「寝静まった」としか形容できなかったはずの、コンビニも何もない、まっくらな町並のあちこちにぽつん、ぽつんと灯った部屋の灯りを眺めながら、「同じ放送を聴いている」連帯感に結ばれた、当時の「新しい世代」の高校生たちの姿が目に浮かぶようである。

放送の構成は、リスナーからの手紙を読みながら、ふたりがきゃっきゃっと笑い転げたり、「実体験怪談特集」では、あまりの怖さにふたりが沈黙してしまって「沈黙」が放送されてしまったりで、いま聴いていてもけっこう面白いと感じられる。
堀江貴文がニッポン放送を買い取ろうとしたときに、放送局なのだから商業主義でないわけはないのに、「ラジオは商業主義ではやれないんだ。ラジオは文化なんだ。それがわからないやつに買われるくらいならラジオ局ごとやめてやる」と役員たちが頑張ったのは、案外、旧資本の頑迷な抵抗というだけではなくて、ほんとうに信じていることを述べていたのだと、放送ファイルを聴くと感じられる。
余計なことを書くと、「放送は文化だ」と述べて失笑を買っていたニッポン放送社長の亀淵昭信は、「なっちゃんちゃこちゃん」と同じ時代に、同じ時間帯(曜日は違うようだ)でディスクジョッキーをやっていた人です。
斉藤アンコウという人とふたりで出した「水虫の歌」というEPが義理叔父実家には残っている。
もっともっと余計なことを書くと妹は日本では珍しいゴスペルシンガーの亀淵友香である。

調べた範囲では、日本のラジオやテレビで、その頃、「日本を覆っていた」と表現したくなるほど流行っていた「演歌」以外の曲を聴けるのは、どうやらこのラジオの「深夜放送」と日曜日の朝に大橋巨泉といまの奥さんである浅野順子のラジオ番組だけだったように見えるが、きっとこれは孤茶がほんとうのことを教えてくれるでしょう(←調べるのがめんどくさい)

この頃の音楽を調べていてびっくりするのは、いま言われている印象とはおおきく異なって、実質的には「演歌だけが流行する」音楽世界であったことで、いまみると1975年に荒井由実(いまの松任谷由実)の「あの日にかえりたい」がオリコンヒットチャートで1位になるまで、ところどころ、そういう音楽をどう表現していいかわからないピンキーとキラーズや子役が歌った「黒猫のタンゴ」というようなヒット曲はあっても、実際にレコードが売れてゆくのはおおむね演歌で、「捨てられてもいいの、わたし、あなたにつくしたい」
「身も心もぼろぼろにされたけど、やはり、わたし、あなたについていくわ」ちゅうような、書き出していて背中がぞわぞわするような歌詞の歌が並んでいて、わしの頭のなかでは巨大な存在のテンプターズやジャックスの、「グループサウンズ」ですら、売り上げとしては小さくて驚いてしまう。
(あるいは、わしがよく判っていないだけで、1968年にはもうグループサウンズの流行が終わっていたということかも知れないが)

「青山の名前倒れ」という言葉が当時はあったようで、その頃、歌の歌詞によく出てくる青山は、知名度のせいでリース料が高い割には来客が少なく、開店しては店がつぶれるので有名な土地柄だったという。
一方で高級輸入食料品専門で24時間開けていたというユアーズ(1964年開業)、
日本で初めてのスーパーマーケットで、60年代以降は専ら「高級輸入食材」のイメージで売っていて、日本に住んでいた頃のガキわしと妹の、ナショナルスーパーと並ぶ、貴重な「お菓子供給所」だったが、このあいだかーちゃんと話していたら、「あのスーパーマーケットは骨にちゃんと付いた普通のハムを売っていたからおぼえている。日本にいたとき、よく行った」とちゃんとおぼえていた紀伊國屋スーパー(1953年開業)を青山通りの「青山」の両端に近い位置にもっていた「洋モノ」イメージの町だった。

そういう条件のせいでしょう、雪印乳業が開いていた「スノー」というパンケーキ専門レストラン、ベーカリー・青山アンデルセン(1970年開業)、義理叔父によると、元は「つばめホール」という「全然玉が出なくて、中学生の頃さんざんカネをまきあげられた」(おまわりさんや「補導員」が見回りに来ないので店を呪詛しながら年中いりびたっていたよーである)パチンコ屋であったという土地ににょっきり出来たベル・コモンズ(1976年開業)、と「洋モノ」風の店が次次に開店していった。

前にもこのブログの記事で述べたように連合赤軍あさま山荘事件が1972年の2月で、この事件を境に学生運動は、大衆の支持を見込める運動としては、あっというまに終焉を迎える。

面白いのは、この連合赤軍事件を境に「演歌」も凋落していくことで、井上陽水のシングル「人生が二度あれば」が出るのが1972年初頭、「傘がない」という目的を失ったワカモノの不思議なフラストレーションがこもった曲を含むLP「断絶」が、やはり1972年の5月で、もうだいぶん長くなったのでこの次にしようと思うが、全共闘運動と演歌、そしてよく知られているように任侠映画は密接な関連がある。
オリコンチャートの1位にユーミンが登場するのはさっき述べたように1975年だが、もう1972年の頃から「LP」の売り上げにおいては後で「ニューミュージック」と呼ばれる一群の歌が伸びて、ワカモノはすでに演歌を聴かなくなっていたのが判っている。

まだちゃんと読んでいなくて、これから読もうと思っているものに、当時の「読書新聞」があるが、ここによく投稿していた映画評論家に「斉藤龍鳳」という評論家がいる。
前にひとつだけ記事を読んだときに、この時代の気分と感じられるものが横溢していて目を見張ったものだったが、この1972年に「なにが粋かよ」という最後の本を出して、世の中から忘れられてしまった作家のことも70年代中心に以降する次の回には書かねばならない。

ダヌンツィオ式の文学者と政治との関わりに憧れた三島由紀夫が、イタリアと日本の風土の違いに引き裂かれるようにして自分の生首を失ったのは、1970年のことだった。
いまでは「右翼作家」の代表のように言う人がいるが、このひとの「右翼」は跳ね返り右翼、といえばいいのか、常に大アジア主義とともにあった伝統的な右翼とはずいぶん異なるもので、後継が生まれなかった「新右翼」と呼ぶのがいいのかも知れない。

戦前のスタイルに固執した、同世代の作家と較べてもひとつ古い旧世代の作家でありながら同時に年間長者番付で松本清張や北杜夫と作家部門の一位を争う流行作家でもありつづけた三島由紀夫は、国を思うポーズだけの石原慎太郎の軽薄を憎みながら死んだが、要領のよい石原慎太郎は、辛気くさい小説家などはさっさと副業に変えて、1968年には、もう「愛国」を売り物にした参院議員にくがえしていた。

この人が「スパルタ教育」という本を出したのが1969年、司馬遼太郎が全共闘世代の罵声を浴びながら産経新聞上の連載小説「坂の上の雲」を完結するのが1972年で、「坂の上の雲」は1968年の連載開始しばらくは継続があやぶまれるほどの「右翼小説」「軍国主義讃美」の非難の嵐を浴びるが、1972年に連載が終わる頃には、娯楽小説にしかすぎないのに、もう日本の正史のように話されるまでになっていた。

1969年から1972年の3年間に起きた変化を踏み台に日本は、ここからおおきく変貌してゆくが、この続きは、孤茶の「同時代者」としての証言を聴いてからにしようと思います。

(画像はSantiago de compostelaの市場。昨日のは、書くのわすれちったけど、同じSantiago de compostelaのカセドラルでごんす)

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