孤茶と訪問する戦後昭和史2(孤茶篇)

leon3

(前回述べた通り、以下の文章はわし友達孤茶どん @kochasaeng が書いたものです)

新宿といえば、おれが北海道の山奥から出てきて、さいしょに住んだところの近くで(十二社の奥の方だったのね)、あれはまだ18歳のときで、建って間もない西新宿の高層ビルの最上階で「いつかこの街を牛耳ってやる!」なんて思うわけもなく、ただただ「おお。ひとが、めっこし(たくさんという意味の北海道弁)いるでや」と感心していた。西暦でいえば1978年で、その頃も新宿は早明浦ダムの水よりも多くの人で溢れていたんだ。思えば、こないだ54歳になってしまったんで、ちょうど18歳の頃のおれが三人いる勘定なんだが、ちっとも文殊の知恵ではないですね。まあ毎日楽しいから、無駄に歳取るのも良いものです。
 
で、当時は獲れたて新鮮のイナカモノで、ズボン(当時からパンツって言い方はあった。その夏だけ流行ったパラシュート・パンツなんてものも買ったばかりか、穿いてしまった。後悔はしてないが、恥ずかしい)を買いに行くと、店の人から「ね。Tシャツもどう?」なんて勧められちゃう。「ほら。E.YAZAWA。みんな着てるし、タオルもあるよ」なんてカモられそうになるのね。えー……。E.YAZAWAって……、と困惑していると、「わあ。きみ、音楽キライなんだぁ」って鮮やかな東京弁で切り捨てられて、お、おれは音楽好きだでや。子供の頃からチェロとか弾いてんだべさ。ヘタだけど。田舎じゃジャズのバンドで箱ベース(ウッドベースのことね)弾いてて、ムツカしい音楽理論だって知ってんだよー、と思うものの、店のお兄ちゃんはもう他の客に話しかけてて、東京は忙しいのだった。
それまでにもオシャレなひとはいたけど、フツーのヤングがナウでビューティホーを目指したのは、この頃からだったのかもしれない。オリジナルじゃなくてE.YAZAWAのTシャツみたいなナウだけど、選択肢が増えた。もう少し経つと「ださい」って言葉が流行る頃のことです。
 
でも、このあとに来るバブルの日々の予感なんてなく、街は思い切りアングラなんかの全共闘世代を引きずってて、サブカルの時代が遠慮がちに始まっていた。新宿はイナカモノの街で、もっと荒っぽかった。夜の区役所通りを歩くのは、立ちんぼのお姉さんたちが怖かったし、そこら中でアンパン(シンナー遊びのことです。ポリ袋に丸めたティシューペーパーが入ってて、それに有機溶剤を染み込ませて端から見えないように袋の中身を手で隠しながら吸引するのね。その姿がアンパン食べてるようだったから、ってのが語源)決めてフラフラしてる奴がいた。あちこちにいた。トルエンなんてのは上物で、貧乏な学生はボンドという合成化学接着剤とか、粗悪なものを吸っていたようだった。そういえば当時トルエンは裏社会の組関係のチンピラ方面の人々のシノギで、彼らは新宿駅のコインロッカーにリポビタンDの小瓶に小分けして詰め替えたトルエンを密売してて、たしかそれは「純トロ」と呼ばれていたはずだ。
たまに混ぜ物をして「フクロ」にされるチンピラもいたと、出来の悪い漫画みたいな話も聞いたことがある。もちろんトルエンとかそのへんの有機溶剤を吸引すると、あれは生体分解せずに脳髄やら脳の一部も溶かすので、やめたほうが身のためです。
 
で、東京に出て初めての夏、おれはヤマハのトランペットを買って、アパートでそんなもん吹いたら5秒も待たずに隣室のホステスさんの同棲相手に怒鳴り込まれると予想がついたので、晴れた日には中央公園でマイルズ・デヴィスのコピーをしていた。陽を反射して輝くラッパでIf I were a bellなんて曲を吹いたりしてて、でもベルと言うよりhellから湧き上がるような音で、なるべく茂みの方で遠慮して吹いていたけれど、なにぶん初心者で下手くそだったから、路上生活の人々や、覗き見方面の人々には迷惑かけたと思う。そのうちレパートリーも増えてテキトーなアドリブもできるようになって、当時いっしょに遊んでいたバンドで吹いたりもしたけど、「うん。いいね。でもベースの方がいいんじゃないかな」と、やんわり拒否されて、人には向き不向きってものがあるのだと悟った。その後、ベースもチェロも素人よりは多少巧くても、一流にはなれない、と諦めました。やっぱり聞き分けよくE.YAZAWAでも聴いてウオーって言ってたほうが良かったのかもしれない。
おれの場合は限界、ってほどのものじゃないけど、自分の限界が見えるときは寂しいものです。
 
大橋巨泉というひとがいて、どうにも疎まれているようなフシもあるようで、この人を見るといつも「誤解されてるよなー」と思うけど、テレビに出たりしてヒトサマに知られることは誤解に他ならないということを自身もよく知っている人なんだろう。ボリス・ヴィアンもそんな意味のことを言ってましたが、誤解を引き寄せる生き方ってのがあるんだ。
巨泉てのは、たしか俳号です。短歌も詠んで、若いころ天才と呼ばれたけれど、早稲田に行くと、もっと凄いのがいた。寺山修司ですね。寺山短歌に触れて、「ああ。こいつにはかなわない」と筆を折った。挫折というより限界が見えたんだろう。
一転、趣味の人になった。将棋、ビリヤード、釣り、ジャズ評論、競馬評論と、なにをやらせても、あっという間に玄人はだし。プレイボーイとして名を馳せ、ジャズ歌手のマーサ三宅が最初の奥さんです。昔は山口瞳をはじめ、いろんなひとが「巨泉さんは天才」と褒めそやしたものです。おれが中学生のころ、ラジオで「巨泉シャバドゥビア」って名前のジャズ番組があって、それを北海道の山の中で聞いていた。ソニ・ロリンズのサックスを「マウスピースから口を離しても鳴るんじゃないか、てぇ感じで」と評したり、今考えても凄い番組だった。昔凄かったけど、今そうでもないって人ではないと思う。可愛がられ体質の才人が歳を取る生き方のひとつの見本ていうか、自分の生き方を仕事にしちゃった人なんで、まあ楽しそうで何よりとしか言いようがない。そもそも仕事を批評することはできても、ヒトの生き方は批判できないでしょ。誤解するのは世間の自由で、巨泉というひとは、それをわかってて巧く生きてきた印象がある。もちろんこの、おれの理解も誤解だと思っていい。
 
限界ってことで思い出すのは、将棋の芹澤博文という人で、この人もテレビのクイズ番組なんかに出て言いたい放題で、好かれたり疎まれたりした人という印象を持たれているのではないか。やはり若いころ天才と呼ばれ、晩年は大橋巨泉と大喧嘩の騒動になったりしている。もともと酒好きで知られていたが、ある日おでんの屋台で飲んでいて、とつぜん泣きだした。
号泣。男泣きというのがふさわしい身も世もない泣き方で、おいおいと泣いたのは、突如「棋士としての限界が見えた」からだという。
べつに一番になるのが男、ってこともなくて「勝負は勝ち負けじゃない」なんて生き方もあるけど、棋士は勝負師だから、そうはいかない。
おでんを食べると、ときどきこの話を思い出して、おれにも俄に限界が見えて泣いたらどうしようと思うけど、これは、おでんに気をつけろって教訓ではないから安心して食べていいと思う。
 
限界とか負けってのとは少しちがって、でも似てることもある。おれが聞いた市井のひとの話。
戦前、ひとりの若い小学校教師がいて、教えた子供たちの中に、ひとりだけ恐ろしく頭の良い男の子がいて。なかでも算数に長けていて、若い教師が教科書にも載ってないような応用問題を熱心につくり与えると、嬉しそうに解いていたと。
やがて卒業が近づき、上の学校に進んではどうかと尋ねると、生徒は目を輝かせたあとで塞ぎ込み、「そのような金がありません」と答えた。
なるほど。学資の捻出が難しいのかと、今で言えば奨学生のような手筈を整え、その子の家に行くと、両親が落涙とともに「ありがたいことですが、そうではなく、この子には丁稚に出て貰わないと私どもの生活が立ち行かないのです。学校に上がると、この子は稼げません」と頭を下げるばかり。当時ありふれた境遇だったので、では残念ですが、と進学を断念。やがて戦争があり、戦後の復興、騒乱を経て、日本が落ち着いてきた頃。それまでにも「あの子はどうしているだろう」と折に触れては思い出していた教え子が、風呂敷包みを片手にひょっこり訪ねて来た。
すっかり頭髪も薄くなり、油に汚れた作業着の男は生活に疲れているようすだったけれど、あの利発な面影は目に宿っていた。「先生。お久しぶりです」
もう初老も過ぎ、老人になった、かつての若教師は喜んだ。元気でいたのだ。
むかし利発だった少年が、おもむろに風呂敷包みを広げると、何冊ものノートがあり、「じつは先生。私、どうも変な事を考えてしまって。他に相談する人もいなくて困っていたけれど、もしかして先生ならわかってくださるかも、と思いまして」
そう言って見せてくれたノートの数々は、仕事を終えて毎日ひとりアパートで少しずつ書き溜めたもので、数字に混ざって「甲」「乙」といった記号があり、それは今でいう「X」「Y」などの代数記号のようで、詳しく聞くと、それは二次関数の考察で、解の公式と同じ考えの数式を最後に説明してくれた。「そうですか。やっぱり先生だ。わかってくれた」
人類が何代もかけて編み出した解の公式に、彼はひとりで辿り着いていた。天才だったのだ。しかし、その公式は今ではどこの中学校でも教えているものだ。
「ありがとうございました」
教え子が帰った後、老教師は、たまらず号泣したという。
 
昭和の話です。今では日本も裕福になり、インターネットの世の中で、こんな話はないだろう。
この頃は東京のどこにでも貧困と純情と哀れが口をあけていて、それでも人々はけなげで元気に日々を送っていた。今でもそうだけど、あのころ日本は紛れもなくアジアだった。
 
新宿の話だった。初老のオヤジにとって新宿といえば「藤圭子」で、さいきん藤圭子について関係のないことを考えていた(だめじゃん)ので、そのことを書こうと思ったのに、ぜんぜん近付かない。そういえば、この昭和往復通信みたいな話の引き金になったのが、おれの藤圭子にたいするコメントで、でも言ってしまったことには、もう興味がなくて、藤圭子にまつわる関係ない事を、あれからも考えていたのね。
 
そんなわけで話は大急ぎで新宿に飛ぶ。でも、そのまえに、おれのことをいろいろとバラされたのはかまわないが、本当はちょっと違ってて、中学を卒業したおれは、上野の「ニュー・ノンキー」という豚カツ屋に丁稚に出て、一週間もしないうちに上野公園で自衛隊のスカウトに捕まって半ば拉致られながら連れて行かれた事務所で「将棋の駒を積んでごらん」と言われるままに二十数段も積み上げると「きみ、才能あるね」とフランスの傭兵にされて、後で考えると自衛隊というのは嘘で、でもフランスで傭兵になった以上は言葉も憶えないといけなくて、そこで英語とタイ語を学びましたぁ、というような事を一気に述べても酔っ払った小学生にすら信じてもらえないだろうから、ウソつくのはやめます。
もう残された時間は若者に比べると僅かだから、これからはほんとうのことを述べるつもりだ。奥さんの看病もしなくてはいけないし。うちの奥さんは若い頃に「美人になってしまう病気」に罹ったままで、いまも治らないので看病しなくてはいけないのね。
と、ヨタ話ならいくらでも書けるのに、ちょっと長くなったので、今日のところは、ここまでのご挨拶とさせていただきます。こんにちは。
続きは新宿のこと。たぶん。
もしかしたら違うかもしれないけど、どうかお気になさらず。おれも気にしません。
(敬称は略しました)

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2 Responses to 孤茶と訪問する戦後昭和史2(孤茶篇)

  1. kojiro says:

    寺山修司という人を調べてみると、井伏鱒二が訳した漢詩「勧酒」の”サヨナラダケガ人生ダ”を受けて”さよならだけが人生ならば、また来る春はなんだろう”と歌った方だったんですね。
    私の好きなラジオパーソナリティが寺山修司のラジオドラマがものすごく怖いという話をしていて、いつかCDを買って聞いてみようと思っていたのを今になって思い出しました。
    現実の世界ではさよならだけが人生なのかもしれませんが、ガメさんや狐茶さんの書く素敵な文章とはまだまだサヨナラしたくない(できない)ので、コメントという形で応援する次第でございます。

    • kochasaeng says:

      ありがとうございます。ところで、おれは昔から寺山修司の真似が上手いと言われています。あの喋り方で、いかにも寺山が言いそうなことを言い、まあ最後はメチャクチャなことを言い出すんで、だいなしになっちゃうんですが、趣味の悪い遊びですね。

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