孤茶と訪問する戦後昭和史3

italia 8

1 わし篇

(まだ返信を書かないうちに孤茶が次の記事を送ってきてしまった(^^;)
相手が書いたことを読んで往復便で記事を書くというこの続き物の意図に反しているが、孤茶は暴走を自分の一生の局面打開の最大の武器として生きてきた人なので、これでいーのです。
孤茶は宇多田ヒカルかーちゃんのことを書いているので、わしもこの時代の音楽のことを書いておきたい)

このブログ記事をずっと読んでいるひとは知っているが、わしは「ザ・テンプターズ」
http://www.youtube.com/watch?v=-wCoZA5m5Tc
が好きである。
むかし取った杵柄、気のおけない友達が集まるパーティではバンドに加わって遊ぶことがあるが、曲と曲のあいだに、変わった曲やってよ、と言われると「エメラルドの伝説」を編曲して演奏することがある。
Lazer Sharpよりうけるよーです。

この「エメラルドの伝説」が1968年の6月、ザ・テンプターズの最大のヒット曲(オリコン8位)「純愛」http://www.youtube.com/watch?v=nIHUJmlaC3E 
が1968年12月、解散が1969年の12月なので、不思議な「グループサウンズブーム」は1970年代のとばぐちで終わったことになる。
いろいろなものを読んだりおっちゃんたちの話を聴いていると、1970年4月に解散したザ・タイガースのほうが遙かに人気があったようだが、いま曲を聴いても、なんとなくピンとこない。
逆に全然人気はなかったらしいのに、いま聴いてみておもしろいのは「ジャックス」のほうで、「からっぽの世界」
http://www.youtube.com/watch?v=C1bV5Tch2bI
は、イギー・ポップふうでカッコイイ。

ここまで読んできて、「あれっ?」と思う人がいると思う。
このすぐあとに孤茶が藤圭子にラブレターを書いているような、ファンとしての愛情があふれた記事を書いているが、この五木寛之が「怨歌」の女王、と名付けたヒカルかーちゃんのデビュー2曲目「圭子の夢は夜ひらく」が10週連続オリコンチャート1位になるのは1970年で1968年に出た「からっぽの世界」の2年後です。
まるで時間が逆に進行しているようで、おもしろいが、そこに「昭和」という時代の秘密を解く鍵が眠っているのだと思われる。

その頃、六本木に近い中学に通っていた義理叔父の記憶によると、1972年の文化祭は、Cream、Chicago、Jeff Beck、Led Zeppelinのコピーバンドであふれていて、ゆいいつオリジナル曲で固めた「全校のロックガキどもの尊敬を一心に集めていた」バンドが演奏するカバーはなんとB.B.Kingだったそうである。
(「なんと」がおもいがけずついてしまったのは、B.B.Kingのギターをカバーするのは、バンド人には、たいへんおそろしいことだからです)

岡林信康のバックバンドをやっていたりした細野晴臣たちの「はっぴいえんど」が結成されるのは1969年で解散は1972年である。
「日本語によるロック」を主張して、(こういう「主張」が文字になって残るほどなされたことが、もうすでにこの時代らしくて面白いが)活動を始めた「はっぴいえんど」が「ロック風JPOP」の淵源のひとつであるとすれば、浜崎あゆみというひとは曲を聴いてみると、演歌の後裔で、1970年代まであとじさりしてみると、そういうぜんぜん系統の違う音楽が渾然一体「団子」になって存在したところに日本の音楽の歴史の面白さがあるように感じられる。

孤茶が、これに続く記事で「藤圭子を追い詰めたのは、おれたちだ」と書いているが、この頃に書かれた記事を見ると、自分達の思い入れで藤圭子を音楽性はまったく無視したやりかたで、五木寛之たち、鈍感なおじさんたちがよってたかって嫌がる藤圭子を集団で地べたにおさえつけて「虐げられしものたち」の象徴として慰みものにしたり、後年山口百恵がデビューすると「山口百恵は菩薩なのだ」と囃し立てた時代と違って、孤茶のように何年もタイランドに住む、というような経験を持つ人が普通になったいまの日本では、ほとんど読むに耐えない観念の虚しい遊びによって演歌がなぜ人気があるのか、というようなことを説明する必要はなくなった。

いまになってみると、ほとんど自明のこととして看てとれるのは「演歌」のチューンは、遠く南インドに淵源をもって、それがスリランカやマレーシア、タイに渡り、韓国を経て、日本を東端とする「演歌ロード」が厳然として存在して、この広大な範囲にすむひとびとによって共有される巨大な「情緒」の音楽的な表現が「演歌」であることで、ちょうど日本のロックが西洋からやってきたチューンであるのと同じで、演歌はアジアからやってきたチューンである。
それを日本固有、日本の情念、日本の怨念と五木寛之たちが言いはやして、マスメディアも、それを手もなく信じたところに、「日本」というマイクロ文明の深い孤独が感じられる。

現代中国が生み出した天才ミュージシャン Sa Dingdingの音楽

を聴いていると、このひとの深い思索が感じられる。
ロンドンの貧困地区に生まれて、イギリス社会の理不尽さとチャンスなど通りのどこにもない生活の怒りをたたきつけるように演奏するイギリスのロッカーたちには思索など必要がない。
自分達の情緒あるいは情緒の欠落にぴったり寄り添った「音楽」がすでに子供部屋のスピーカから毎日ながれていたからです。
しかし、日本の若い人間にとっては、そうはいかなかった。

….と、ここまで書いたら飛行機がでる時間になってしまったので、これ以上、書けなくなってしまった。
この続きは、今日の夜クライストチャーチの寝室で書くか、それがダメなら、「農場の家」のテラスで、牛さんたちの声を聴きながら、ということになると思います。

でわ

2 孤茶篇

(以下は孤茶が息せき切って送ってきた孤茶の一気呵成第2篇です)

昭和に咲いた夢は、やはり夢だったのか
 
藤圭子が離婚したのは1972年のことで、NHKのニュースで芸能人の離婚を報じるなんてことは珍しかったんで、よく憶えてる。たしかおれが小学6年生の夏休みか冬休みだったように思う。一人の昼食のあとに始まったニュースでアナウンサーの鹿爪らしい声で「歌手の藤圭子さん」と言うのが、そこだけ濡れた紙やすりみたいに、ざらり、と記憶に粗い傷をつけて、標準語の声と映像は昭和の空気に溶けて消えた。
 
藤圭子の母は瞽女(ごぜ)だった。浪曲師の夫の伴奏をつとめたのだが、夫はあまり働かず、のちに母子は門付け(かどづけ)に出たという。
おれが子供の頃、北海道の空知地方でも門付けの芸人はまだ現役で、高橋竹山も、おれの生まれ育った街を流したというし、藤圭子はおれより8つ年上だから、最後期の門付け芸人だったとして辻褄は合う。当時の藤圭子が住んでいた旭川市は、おれの故郷から50kmほどの距離なので、うちにも来たかもしれない。おれが憶えている門付け芸人は三河萬歳(これがおそろしくつまらない)や獅子舞だ。三味線を抱えて歩くボサマ(盲目の男性三味線弾き)の姿は学校からの帰り道で見かけたけれど、年を重ねて高学年になるにつれ、見なくなった。通学路を恐怖に陥れる暴れ馬や復員兵(たぶん贋者)などとともに門付け芸人も1960年代半ばには絶滅したのではないか。
ところで門付けを日本の芸能の原点であるかのように言う人もいたが、実際にはロマンも何もなく、有り体に言ってあれは妙に積極的で強引な乞食みたいなもので、幾許かの金か食い物を貰うまで帰らない。碌をせしめるか怒鳴られて追い返されるか、留守あるいは居留守を決め込まれて芸人が諦めるまで延々と玄関先で芸を披露する。そんなものだから大部分の門付け芸人は芸の精進に励む必要もなく、下手くそで騒がしいばかりのほうが好都合だったかもしれない。藤圭子や高橋竹山が、むしろ例外です。
藤圭子がスターになったばかりの頃、おれの伯母が思い出したように「藤圭子ってのは旭川の瞽女の娘で、橋の下に粗末な小屋を建てて住んでいた」と言うのを聞いて、当時はそんな馬鹿な、と思ったけれど、話半分としてもあんがい本当に近かったのかもしれない。
むかし、盲目の人や聾唖の者が多かったのは、幼い時分の発熱によるものだと聞いたことがある。医療も網羅され、すぐに病院にかかれるようになった今では激減しているが、当時の幼子の発熱を救えなかったのは、無知か貧困、あるいはその両方だったのではないかと推測するが、昭和三十年代なんて、そんなもんです。うちの実家が昔アパートだったんだが、数軒の住人の人がおれの父親に役場に提出する書類なんかの代筆を頼みに来ていた。言い訳がましく「父の字が綺麗だから頼みに来た」というような意味のことを言うのだが、彼らは字が書けないのだった。ルビが振ってある漫画本を読むことならできる者もいて、それは二階に住む流しの演歌師と同棲していたオカマのひとだったが、演歌師に文字を教わっていたのだ。古くなった一冊の同じ漫画雑誌を、ときどき読んでいた。
読み書きができない人の気持ちは、少しわかる。タイ語を憶えはじめの一年近く、おれはタイ文字に関して文盲だったからね。ひどく取り残された気がするものです。
江戸時代なんかだったら文盲があたりまえだったんだろうけど、昭和も40年前後で、これだもの。当時の北海道の山奥だけのことなんだろうか。うちの父方の祖父の話だと、昭和の初期あたりまでは庶民の生活は通貨が介在しない物々交換が主流だったって言っていた。冷蔵庫も電話もない生活かあ。
文盲だとか瞽女だとか。
昭和も40年だというのに、戦後どころか江戸時代を引きずっているような話です。
で、瞽女ってのは一般に処女の盲目三味線弾きの集団で、男性との経験が露見すると放逐されるものと相場が決まっていたんだけど、北海道あたりは、そんな「離れ瞽女」が多かったのか、それとも単に縛りがユルかったのか、瞽女もわりと自由に暮らしていたようだ。
藤圭子の母も、そんな一人で、浪曲師である夫の伴奏を瞽女がつとめるなんていうのは、最果ての地ならではとしか言いようがない。
浪曲と言っても、昔の北海道の場末の小屋でかかる演目だから、広沢虎造みたいな勧善懲悪で国威発揚でイキでイナセなものじゃない。ひたすら悲惨。マッチ売りの少女よりも不幸で貧乏で不運な話をこれでもかこれでもかと語り、これを聴いて客は泣くわけです。
だって泣くのが、娯楽なんだもん。当時流行った映画で、三益愛子が出演した「三人の母」ってのがあって、キャッチフレーズが「三倍泣けます」。寺山修司が喜ぶ世界です。つまりカタルシスなんだろうけど、浪曲って、かなり泥臭い口承文学だよね。
その悲惨を、「あはれ」の結晶みたいな瞽女の三味線が伴奏つけるんだから、そりゃもう悲惨この上ない。チョー悲惨。
その極上の悲惨を日常に育った悲惨の歌姫が藤圭子で、彼女が母と門付けに出ると稼ぎが良かったんだそうだ。なんていうか悲惨界のエリートとして申し分のない環境です。門付けは突然の雨や雪にあたるなんて珍しいことじゃなく、確たる目的地もなく延々と濡れた服で、靴で、三味線を庇いながら歩くということもあっただろう。
バンコクの街を歩く象と象使いみたいだ。彼らはスリンという街から来る者が多い。二百五十キロほどの道のりを、ひたひたと音を立てずに歩いてくる。首都の人々は象を見ると、みな「わあ。象だ」と言わなくてもわかることを言いながら近づき、バナナをひと房買って象に与える。長い鼻をくるり、と巻いてバナナを食む象を見ていると、だれだって自分は、このために生まれてきたのではないかと思う。象が嫌いな人間なんていないからね。利益率が50%もあるかどうかの稼ぎで、毎日千バーツも売り上げると試合終了だ。夜は工事現場や公園で眠る。象は立ったまま眠るというのは嘘で、横になるし、寝返りもうつ。雨が降ると濡れながら眠るのだが、あれは砂の混じった食事を摂る砂漠の民と、どちらがかなしいのだろうと、よく考えるけれど、まだ結論が出ない。
ところで瞽女やボサマは朝から雨の日だと門付けに歩かないと聞いたことがある。三味線は湿度に弱く、雨の日は胴に張った皮が緩んで間抜けな音になるというのね。そんな日は門付け芸人や商人のための安い木賃宿で身体を休めたのかもしれない。金のある者は昼間から安酒を喰らい、知性や幸福とは無縁の話に笑い転げる者たち。それを無表情に眺める幼い藤圭子が目に浮かぶようだ。
勉強が好きで、よくできたけれど、経済的な理由で高校への進学を断念し、札幌に出て雪まつり会場で歌っていたところをスカウトされて上京。あとは周知のとおり。いろんな人が書いているから、おれが新たに書くことはない。
 
不幸なんて知らないよ。あれはただの日常で、両親仕込みの涙を攫う歌も、あたりまえの背景から生まれたものだった。迫力のある低音と遠くまで伸びる声で、大雪山の湧水みたいに尽きることなく溢れ出る歌は、めっぽう巧く、しかも美人だった。そして「不幸」を二月の石狩川よりも冷たい表情で歌い切る。こんな歌手、どこにもいなかった。
寺山修司や五木寛之が、そこにルサンチマンを見、悪意なく持ち上げた。曰く「怨歌」。「艶歌」。ここから藤圭子は、壮大な誤解を引き受けることになる。誰も彼女に幸福なんか求めていなかった。
田舎から出てきてあっという間にスターに上り詰めた少女は、男に恋をする。同じ演歌歌手で性格の良い若い男。ただ、女癖が悪かった。僅かな結婚生活は破綻して、この頃から精神状態がひどく不安定になり、生涯これに苦しむことになる。
幸福を知らないで生まれる者がいるいっぽうで、幸福に囲まれて生まれる者もいる。あれは、幼少から身の回りに溢れていると、まるで生まれながらに幸福を知っていたかのように身についてしまうのだが、それを知らない者が長じて自分の努力で身につけようとすると、他所の国の言語やゼロ戦の操縦を習得するよりも難しい。とても大きな幸福を持った人とそれを目指すのでもない限り、失敗することもある。
たぶん、藤圭子は、そんなものが欲しかったのだろうが、周囲の不幸への期待と、貼り付けられた不幸とルサンチマンは、あまりにも大きかった。
幸福と不幸。五木寛之の好きな「アンビバレント」な世界だ。そんな地獄みたいな虚実皮膜は藤圭子の莫大なアルバム売上の記録を叩き出し、それは長く長く破られることなく、ついにその記録を軽々と抜いたのは、彼女の娘だった。
藤圭子を追い詰めたのは、おれたちだ。
あまりにつらい報道に塞ぎ込んだものだが、せめてさいごに少しでも誤解を解きたい。
最期にいたマンションで若い男性と一緒だったと下衆な勘ぐりを巡らせる者も多かったようだが、あれは前夫である宇多田照實が、一人では生活できないほど不安定になった藤圭子のために付けていた身の回りの世話人で、おかしな関係の男ではない。ついでに宇多田照實がカネ目当てとか悪口言われることもあるようだが、まるで違う。あの人はいいとこの息子です。カネ目当てどころか、ずいぶん藤圭子には使ったはずだ。何を言っても誤解されるんで沈黙を通しているんだろうが、あのひとの行動はすべて藤圭子への愛です。詳しく言ってもしょうがないが、りっぱな人に決まっている。もちろんこれも誤解かもしれない。
彼女は数々の偉業を残したけれど、ほんとうに欲しかったものを一つでも手に入れられたのだろうか。昭和の花は、まったくやりきれない土産を置いていった。果たされることのなかった、おれたちのルサンチマンだ。
(敬称略)

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3 Responses to 孤茶と訪問する戦後昭和史3

  1. 昭和40年台の半ば、親父の仕事の関係で新潟に住んでいた。とはいっても、一歳半から二歳ぐらいのことなので、はっきりとした記憶があるわけでは当然無い。借家に住んでいたのだが、隣の持ち家に一つ上の女の子がいたことで、その娘の面倒をみていたお祖母さんと母は親しくしていたようだ。
    福島弁でいうところの”死にぱぐった”のは、その家にあった池に落ちて溺れたのが最初でw 行ってはイケナイといわれていた池に架かるアーチ型の橋まで歩いたのは、一つ上のその娘に(悪くいうと)唆された気がする。池に落ちてあっぷあっぷ、浮き沈みしながら、死にたくないという本能の命じるままに、短いセンテンスで母を呼ぶ言葉を探し「ママ!」と必死に叫んでいた。ママというのはその娘が使っていた呼称だった。
    私がたぶん小学生くらいになって、そういえば新潟のお婆ちゃんから手紙がきていたということを母から聞かされた。昔の人はそうだったのだという但し書き付きで、お婆ちゃんは文盲の人だったと聞いた。箪笥の奥にしまわれたその手紙を実見したのは、おそらく十五、六歳になってからだと思う。たどたどしく、文字の大小や並びもそろっていない平仮名だらけのその手紙には、◯◯ちゃんは大きくなったでしょうねということが書かれていた気がするが、感情が押し寄せてくるのを感じて思わず目を逸らした。

    実家は、そこにあるもの全てを処分してしまったが、その手紙もその中にあったのか母に訊いてみなければわからない。

    • kochasaeng says:

      古代日本語にしろ、マレー語にしろ、かつて文字を持たなかったのは、決して文字のある国に劣っていたのではなく、たんにその必要がなかったからでしょう。考えてみれば文字の必要がないなんて、それは良い世の中に決まってます。
      タイ王国も識字率が高いことで有名ですが、実際に田舎の方だと自分の名前の読み書きしかできない者が多く、都会でも外国人のおれに綴りの間違いを指摘されて赤面するタイ人がいたり、文字なんてなくなってもひどく困ることはないのかもしれません。
      川面に石を投げて、きゃあきゃあ笑いながら石切遊びをするタイ人を見ていると、彼らは文字なんかより何が大切かということを、よく知っているような気がします。

  2. Constantin says:

    瞳の奥の秘密。彼女の心の漆黒は誰にも解らない。

    司会者を始め全員が彼女に必要に期待を迫っている。今回、古茶さんの機会で彼女の若い頃の画像を見た時、やはり吐気がしてしまった。見せ物小屋が現代も存在し続けている。当時程それと解らないソフトな形に姿を変えて、、悪魔どもは人形を量産する。A◉Bもそんなもんだろう。
    現場で沢山の自殺願望を抱いている中年の男女の方を診療させてもらっている。他者からの影響に寄る悪路への転落かどうかは不明だが、親類や、またごく一個人に関する事であったり、日々の日常の過ごし方、慢性化した疾病、毎日口から入るものも大きく関与してる印象がある。最近、カミサンの友人の旦那さんが自殺した。まだ48歳であった。
    それはたまたま砂場で古茶氏に言及した後であった。診療があったので葬式に出れず早朝参拝した。それまでに何回か彼とは話していた。その都度、こういう経過を辿るという感覚は全く欠いていたので、その死に顔を見たとき。。。誤解を覚悟で書くと『随分とカンタンだな。。。』と正直思ってしまった。8歳の息子がおり、なんという無責任だと怒りが芽生えたが、その後、無性に同情の念が湧いて来た。彼もうつ病であったのだ。それを俺は介入できなかった。無論何か出来るなどとは思ってはいなかったが、、、
    日本の自殺者は中年にも多く増加傾向である。人生に諦めを抱き出す要因としてか、東西を問わず医学的には体力、気力が低下してくる、東洋医学的な裏打ちでは『腎虚。じんきょ』となる。腎は生命の火種です。ある種のストレスが多い被さっていたならば、これが今まで必至に食い止めて来た命の継続を怪しくする。斜めに首を傾げ、しかしまるで『う、、、ん』と寝言を言いそうな屈託の無い表情で、、
    無論女性にも腎虚はある。外的因子、環境、人間のせいで人は自殺するのだろうか?

    少なくとも加害者になるくらいなら、、、被害者で耐え忍んでいたいと思いました。

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