Loose yourself to dance

BCN6

「山の家」自体は、鬱蒼とはしているものの、ほんとうにここに落葉松でいいんだろーか、という土地柄に、江ノ島電鉄の社長が何万本か植えたのが始まりという落葉松がものすごい数で生えているだけで、なにがなし、人工的な、無理強いみたいな森に囲まれていたが、クルマで西へ向かって国道18号線か、あるいは夏ならば国道18号線は大渋滞でぴくりとも動かなくなってしまうので、離山の裏をのぼって、いったん「トンボの湯」という温泉があるところまで出て、そこから1000メートル道路を通って、いまならビル・ゲイツの巨大な別荘の前を通って、追分というところまでいくと、もう少し自然な感じの森になっていた。
軽井沢なんて、ああいう下品な町のことは知らん、というひとのために、念のために、付け加えておくと、追分ももともとは木などほとんどない原っぱだったのが、軽井沢に引きずられて、堀辰雄や福永武彦たちのような作家や、大学の研究者、音楽家、画家、というようなタイプのひとびとが、なにしろ旧軽井沢に較べれば安いので、別荘をたてて住んだ、その当時に木を植えまくったのがはじまりであると思う。
軽井沢から小諸まではとても人工的な森が続いていて、町そのものも自然の土地割りを無視して無理矢理つくったというか、たとえば18号線とバイパスの岐れめの直ぐ大日向よりの部分は道幅が広くなるが、よほど観察眼のないひとでもなければ直ぐに気が付くのは、この道路の部分は「けものみち」を遮断する形で作られていて、夜中にモニとふたりで深夜の森を散歩するべ、ということになってクルマで追分にでかけると、近在の狐や狸、あるいはおおきいものならば鹿というような動物が、よく轢死体になって転がっていた。

人工的ではあっても自然は偉いもので、50年もあれば、それなりに辻褄があった森林をつくりあげる。
新潟のド田舎で育った日本人の年長の友達と一緒に森のなかの細い径を歩いていると、「おっ、あそこにタラの芽がある」「あっと、そこにヒラタケがある」と述べて、すたすらと歩いて行ってはバックパックのなかの袋にいれている。
わしの目には漠然と「森」としてしか見えていないものが、このおっちゃんにとっては、そこだけ意識のスポットライトが当たるようにして、たらの芽やさまざまなキノコが浮き出すように見える仕組みになっているらしい。

星座という観念がないひとに綺麗に晴れた夜空に一面に星が見える夜に現れる星座を教えるのは骨がおれる作業で、おとななのにオリオンやBig Dipper(北斗七星)を見いだすのに苦労するひともいる。

多少でも教育のある英語人なら、ラテン語とは言語としてはかなりの距離がある英語の単語のなかにあるラテン語幹を無意識に見てとって知らない単語でも文脈から意味を決定して読んでいけるのは、日本の人が読みが判らない漢字でも「篇」や「つくり」から漢字の意味をみてとって読み進めていくのと同じだろう。

あるいはもう少しページから目を離した言い方をすると、英語の速読の仕方のひとつに観念語から観念語へと渡り歩く方法があるが、英語になれていなければ、「全部ひらがなで書かれた日本語」と同じような感じがするのではないかと想像する。

タラの芽も星座もラテン語幹も意識が言葉となじんでゆくことによって生じる「意識の解像度」というべきものが違うので、森で育った人には瞬間に見て取れるタラの芽が都会から来た人間には見えず、夜空いっぱいに描かれた巨大な壁画のような星座群が夜に空を見上げる習慣がなかったひとには少しも目に入らないのは、おもしろい、というより他にはないと思う。

人間の言葉の解像度が届くのは物理現象でいうとだいたい素粒子の手前くらいまでで、原子や分子についてならば、たとえば最密充填の問題であるとか、初期条件の知識を与えられれば子供でも考えることはできるが、量子の運動となると、直観にいちじるしく反したことを考えなければいけないので、骨が折れるというか、一定の訓練がなされないと考えることができない。

あるいは時間も苦手なもののひとつで、人間にとって最も自然な時間のありかたは意識の流れだが、そこから一歩でもでると、「時間」というものについて考えるために七転八倒しなければならないことになる。

まして神などは、「絶対」という定義上、言語で説明することは論理的に述べて不可能で、仮に説明できたとすると、それは言語の集合のなかに含まれてしまうので「絶対」であることはもうできなくて、従って「神」という属性をも失う、ということはこのブログ記事でもツイッタでも何度も述べた。
擬自然的な神が歴史のなかでははやばやとすたれて、かえって人間の形をした神が絶対神、あるいはその息子であるということに落ち着いたのは、実は、人間が目にする自然では言語で早晩説明がついてしまうので、神様にするには具合がわるかったからであると思われる。

そうやって、数式も含めた、さまざまな人間の言語のあつかいにある程度なれてくると、そのしょぼさになさけなくなってくる。
四方を地平線に囲まれた広い大草原に1本の杭があって、その杭に10メートルのロープでつながれた山羊を想像して、その半径10メートルの草を食べ尽くしている姿を想像すれば、この世界における人間の、言語に制約された意識の広がりをかなりよく説明したイメージになると思う。

知性体としての人間の特徴は「頭がわるい」ということで、バカだからいつまでたっても戦争をしているし、同時代の子供が飢えでばたばたと死んだり、14歳かそこらで口紅を塗り、頬紅をつけて自分の身体を売ってかろうじて生活している子供が何十万人といるのがわかっていても、似合うはずもない化粧の子供がおとなにのしかかられて苦悶の呻きをもらしている同じ夜に、枕を高くして安穏に眠っていられる。

一方、人間の第一の美点は、その肉体の美しさである。
もしかすると象さんからみると貧弱な肉体にすぎないのかもしれないが、象はいよいよ解像度の低い言葉しかもたないので、象さんの軽蔑の視線は問題にしなくてもよい。
ツイッタでも書いたように男のほうは、なんだか前のほうへ「でれん」と垂れているバナナっぽい、と述べてはバナナが気の毒なようなものが邪魔だが、それをのぞけば男も女も、形象において神様ですら嫉妬したのは、おおむかしのギリシャ人たちの書いた本を読めばいくらでも例がでてくる。
人間は立ってバランスをとり、二足で歩行し、おとがいの上にうまくのっかった頭のなかで大脳を肥育させたが、大脳の容積を増大させている進化のあいだじゅう、この神経が集中して意識をもった部分は、歩行や、ついには踊りによってリズムの絶えざる刺激を受けて、その悦楽的なリズムのなかでさまざまな観念をつくり、次には観念群をくみあわせて思惟を形成していった。
人間は、ある方角からその存在をみれば「リズムによって出来ている」といいなおしてもよい存在なのである。

人間の最大の成功のひとつは、その生物歴史的に蓄積した自然のリズムを意識によって抽象して、それを肉体に還元して、さしもどして、足を踏みならし、身体を音楽の形にうねらせて「踊る」ということを発明したことであると思う。
宇宙や人間の社会で起きるさまざまな事象への人間の言葉の不器用きわまる、ぶざまな反応に較べて、音楽がきこえてくれば、無意識に自然とステップをふみはじめる、リズムに対する人間の身体のうごきの疎隔のなさに気が付けば、それは、なんだか自明のことであるように思える。

ちゃちな知性にしがみついて、粗雑な落書きのような世界への認識をさまざまな板に書き付けてきた、人間のものがなしい知性の歴史に較べて、誇りにできるものはこのくらいしかないよなあー、と思うことがあるのです。

(記事のタイトルはもちろん春の終わり頃ヨーロッパ各地のDJミックスにたくさんとりあげられるようになってきたなあーとおもっていたら、通常の欧州製アルバムとは異なって、あっというまに世界中でかかるようになったDaft PunkのRandom Access Memoriesのなかの曲でごんす)
(動画は最近でたオフィシャルバージョン)

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One Response to Loose yourself to dance

  1. アッシュ says:

    最近は読むのがまんして一気に読むのです。

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