恋をめぐる五節

tokyo

元プレイメイト、と経歴を書くのがもっとも相応しいと思われるAnna Nicole Smithが死んだとき、世界のひとびとが最も驚いたのは、その死後に残された日記で、テキサス出身のひとらしい英語で自分自身のためだけに書かれた日記には63歳年上の夫であるHoward Marshallへの愛情や健康を気遣う言葉が書き付けられていた。

当然のように「カネめあての結婚」と悪罵と冷笑とを浴びせ続けたひとたちが、日記を読んでどう思ったかは日記が見つかったあとのどんな記事のどこにも書いてないのでわからない。
良心があれば良心に恥じたに違いないが、彼等にそもそも良心などあったかどうか当然ながら疑わしいうえに、不安定な家庭に育ち17歳で短い結婚生活を経験し、嘲りと罵りのなかで結婚した二度目の夫である石油王の老人をなくし、息子は20歳で不審死を遂げ、自らも(恐らくはドラッグの急性中毒から来た)心臓停止で死んだ、もともとは十代であるだけが取り柄だった人気のないストリッパーとしてキャリアをはじめた女びとの死など、彼等にとってはゴミ箱のなかの食べ尽くされてからっぽになったチョコレートの箱ほどの関心もなかったに違いない。

人間の恋の感情は自分を破壊する衝動である。
それは自分の身体のなかに、ある日植え付けられた樹木の種子が、急速に成長して、身体をつきやぶり、肉体も魂も破壊して空に届こうとするのに似ている。
恋をした瞬間から人間は孤独になり、世界から拒絶される。
ありとあらゆる日常から切り離されて、時間そのものですら自分の意識のコントロールから離れてゆく。
一日ながく恋をすれば、一日、人間は死に近付く。

まるで毎日焼身自殺を繰り返すひとのように、炎のなかで苦悶しては、意志も感情も底をついて、自分が空虚そのものになるまで起きてから寝るまでの時間を彷徨することになる。

良いこともないわけではないだろう。
恋の感情を経験することで、人間は物質世界のくだらなさ、その文字通りの通俗性を疑いのないものとして実感する。
オカネや暮らしぶりなどどーでもいいのは当たり前だと、他人に説明されなくても、雷に打たれたひとの言葉で「知っている」状態になる。

言葉を失って唖のようになり、他人の言う事が聞こえなくなって聾のようになった「恋をしているひと」は、しかし、世界の核のようなものと破滅に向かって成長する力によってつながっている。

ゴドレーヘッドの岬の突端まで歩いて、モニのことを考えに行ったことがあった。
南極につながっている冷たい海をみながら、モニの指の形や、髪を払う仕草、「ガメはほんとうにわがままなんだから!」というときの目のきらめきのことを考えたりした。
この恋がうまくいけばいい、というようなことは思わなかった。
ただマンハッタンにいるモニのことを考えるのが楽しくて、モニのことばかり考えたかったので誰もいない岬の突端まで行ったのだった。

薄い灰色の雲がどこまでも広がる、低い空をおぼえている。
暗い色の、遠くまで静まりかえった重い液体のような水のひろがりをおぼえている。

モニのアパートのクリスマスツリーのてっぺんにおくために買った天使や、なけなしのオカネを全部はたいて買った月長石の指輪のことを考えた。

もう胸が苦しくなかったのは、多分、魂が全部破壊されてしまっていて、世界と言わず自分自身も、どうでもよくなっていたからだと思う。

広い世界のどこかにモニが生きていることが重要だった。
それ以外はどうでもいいと思った、あの午後の、投げやりなような、透きとおったような、奇妙な気持ちのことを思い出す。

人間が恋をしなくなった、あるいは、恋をするということの意味が変わってしまったのは、ひとつにはまともな造作のある恋をするだけの時間がもてなくなってしまったことに理由があるだろうが、もうひとつには「この世界で最も大切なのは自分自身だ」という信念が誰の胸のなかでも強くなったことにも理由があるだろう。
それを良いことであると思う。

良いことである、というのがピンと来なければ、自然なことである、と言い直しても良い。
恋は人間の凡庸さを拒絶するが、この世界の99.99%は凡庸な人間なのである。

ロミオとジュリエットがいまの英語人たちをみれば、おたがいの手に電卓を握りしめて画面を盗み見しながら恋を語っているような現代の恋人たちを見て、あまりの打算の厳しさに怯えるだろうが、人間の進歩の歴史は恋によって自分を破壊するよりは恋自体を手なずけて飼い慣らすほうを選んだ。
そのことは、誰にも、神によってすら、非難できることではないのは現代人ならばひとり残らず知っている。

恋をするというようなことは、やがて過去の歴史になるだろう。
人間からは、あのまるで自然そのものの力であるかのような自分を引き裂く恋の感情の猛々しさ荒々しさは失われて、ベッドのそばで服を脱ぐ「弾み」になる感情や、少しずつ就職に似てくる婚姻のためらいを消滅させるための口実としてだけに、かつての日の名残として残ってゆくに違いない。

そのときでも、ふと、あれこれと考えている途中で自分よりも相手の存在を優先している自分を発見して、しばらく「なぜ自分は、あのひとのことばかり考えているのか?」と訝る午後はあるに違いないが、ゆっくりと首をふって、やれやれ、どうかしている、とつぶやいて、自分が生き残るための綿密な作業にもどってゆくだろう。

歴史を通じて、人間は健全になり、賢明になって、いまでは生まれてから死ぬまで、どうすれば効率よく勝ち進んで「幸福」になってゆけばいいのか、定石として理解できるようになっている。

恋も理想に燃える情熱も、人間が自分の人生を破壊する愚行の歴史にもういちどまいもどることはないと思う。

もう神は人間を愛してはいないだろうから。

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