Monthly Archives: October 2013

さよなら、フリーダム

木戸孝允は、何を聞いても呑み込みが早い人だったが西洋の政体では「個人の自由」が保障されていると聞いて、それだけはダメだ、日本の国民にそんなものを与えたらたいへんなことになる、と狼狽した。 幕末や明治時代の最初期に日本にやってきた外国人たちの日本滞在記を見ると、妙に尊大で交渉となると一向に要領を得ないが威儀だけは堂々としてお行儀の良いサムライたちに好奇の目を光らせる一方で、大半の日本人が、昼間から酒を飲んで、土埃のたつ横町で小博打を打ったり、ちょっと目を離すと小さな泥棒を働いたり、なにごとか都合が悪いことがあると、普段は気の良い人物が平気で嘘をついたりすることに呆然としている。 木戸孝允の頭にあった「日本人」は自分と同じサムライたちではなくて、まだ江戸時代のうちから階級的に低い人間たちを集めて「奇兵隊」というようなものをつくった長州藩時代から身近に見聞きしていたはずの、すばしこく抜け目なくて、自分の利益になるものならなんでも取ってやろうと目を爛々と輝かせていた、農民や町民の「日本人」たちだったろう。 ほとんどなんの計画も持たずに徳川私有政権を倒して政治権力を握った薩摩・長州・土佐・肥前の人間たちは、(実際には途方もなく良く切れる刀をふりまわす剣呑な人間がうじゃうじゃいる割には、国がまるごと貧乏で、これといった資源もない日本を侵略する気は欧州側にはあまりなかったことがいまでは判っているが)、なにしろ隣の超大国「清」が西洋人たちの手でボロボロにされたのを聞き知っていたので、急いで「近代国家」らしいものをつくらねばならなかった。 徳川260年の支配のあいだに植え付けられたキリスト教恐怖症は、断固たるもので、そんな危ないものを輸入するわけにはいかなかったが、ずいぶんわがまま勝手な人間たちらしい西洋人を、それでもなんとかひとつにまとめているのは「神様」らしいことが判ると、戦争のときに急造おもいつきの「錦の御旗」で味をしめた「天皇」を万世一系で、ずっと神聖だったことにして、十字架にかけられた辛気くさい男の代わりに、大礼服を着せて、「神様みたいなもの」として玉座に座らせることにした。 多分、征夷大将軍と天皇権威型の関白太政大臣と、たしか日本は交代でやってきたのだから、今度は征夷大将軍の次で関白太政大臣だろ、という程度のことで「太政官」をつくり右大臣、左大臣で、古代にかえってしまったような大時代な制度をつくったりした。 だが国民個々の自由だけは許すわけにはいかなかった。 土から生えてでもきたような粗衣蓬髪の、ぞっとしない人間たちに尊厳を認めよ、と言われても、ピンと来なかったのでもあるに違いない。 太政官の人間たちに顔を顰めさせる、見ていて恥ずかしくなるような夏にはねじり鉢巻きに褌一本で一日を過ごす、あんまり外国人たちに見せたくない見てくれが極端に悪い「日本国民」たちは、しかし、一方では識字人口よりも売れるという奇想天外なベストセラーになった「学問のすすめ」を貪り読むような世界の歴史に照らしても前代未聞の向学心をもった国民でもあった。 「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」 「サレドモ今広クコノ人間世界ヲ見渡スニ、カシコキ人アリ、オロカナル人アリ、貧シキモアリ、富メルモアリ、貴人モアリ、下人モアリテ、ソノ有様雲ト泥トノ相違アルニ似タルハ何ゾヤ」 と書かれた本を読んだ日本人の熱狂は大変なものだった。 長い隷従の屈辱のあとで勉強さえすれば「人間」として扱ってもらえる、というのだから、熱狂しないほうがどうかしている。 この本を書いた福沢諭吉という人は、しかし、「自分が死ぬまで公表するな」と門人や家族に言い含めて篋底深く秘匿していた「明治十年丁丑公論」を書いた人だった。 この西南戦争を戦った日本の歴史の掉尾を飾ったサムライたちの絶滅への愛惜に似た、だが政府への激烈な非難をつらねた文章には、たとえば 「新聞記者は飼い犬に似たり」というような部分もあって、いまにそのまま継承される日本型の抑圧機構がこのころからのものであることを示している。 1868年に出発した「近代日本」は、やがて指導層の無能と可視的な法的手続きを無視した「多数の人間が正しいと感じたことが絶対の真理である」という情実主義とでも言うべき社会の頽廃によって、あるいはもうひとつには、自分の意見を絶対として集団をひきつれて相手の意見を完膚無きまでにたたきつぶすことを目的とした集団サディズムの蔓延によって、1945年に至って破滅する。 「破滅」と書いたが、実際、近代日本ほど徹底的に世界じゅうの人間から存在を否定され憎悪をもって破壊された国家は歴史上珍しい。 古代ローマ人はフェニキアを滅ぼしたあと、街路をことごとく破壊して更地にしてしまい、しかもその上に塩を撒いてフェニキア人たちが耕作できない土地に変えて歴史に悪評を残したが、アメリカ人を中心とした殆ど「日本以外のすべての世界の人間」の日本人に対する憎悪は、それよりもすさまじくて、塩どころではない、外側から渦巻き状に小型ナパームを投下して子供から誰からすべての市民を殲滅したり、終わりには広島と長崎の2都市に原爆をさえ投下して文字通りの「死の街」に変えることすら躊躇しなかった。 アジア大陸のあちこちで主に弛緩した軍紀が原因の集団強姦や市民の大量殺人を行った日本に対する世界じゅうの人間の憎悪には歯止めがなくなっていて、「日本人を皆殺しにする」と公言するアメリカ人の将軍たちを熱狂的に支持したのだった。 1945年から1951年まで続いたアメリカ軍とその連合軍による「日本が日本であること」自体を否定する苛酷な占領の後半には、しかし、アメリカの持病だった「共産主義恐怖症」によって、アメリカは一転日本を国家として復活させようと考える。 いまの経済学の知識からみると目をむくような巨大な過剰投資を日本に対して行う。 その100円くれと言ったら1000円を寄越すようなアメリカの日本に対する大盤振る舞いを、日本の公職追放から公的世界に復帰した国家社会主義者たちは満州や戦時経済で研究した国家社会主義経済の手法を使って国家で企画した事業へ集中投資を繰り返してゆく。 その民主国家であるアメリカの想像を遙かに越えた国家社会主義経済戦略によって、日本は、戦後わずか十数年で強力な経済国家として蘇ってくる。 その象徴が1964年の東京オリンピックだった。 日本のアキレス腱はアメリカに対して民主主義国家の体裁がとれないと支援がえられないことだった。 たくさんのアメリカ人政治家たちが「日本の政治家は狐のように狡猾だ」と述べているが、無論、政治の世界ではこれは称賛の言辞である。 面従腹背、またしても平然と嘘をつき、問題を指摘されても一向に認めようとせず、約束の履行を迫られれば先に延ばし、挙げ句の果てには「問題そのものがなかった」ことにする日本の伝統的な「解決手法」にアメリカは手を焼き続けるが、日本がまるで国家の政治ごとゲリラ化したような、サボタージュだと言ってアメリカの担当官が激怒するような、そういう常軌を逸した戦略をとっていけるのも、アメリカの目に「日本は民主主義の国だ」と映りつづけていることが大前提だった。 あたりまえのことだが、民主主義は自由主義とは異なる。 民主主義は制度の名称であって思想の名称ではない。 非自由主義の人間が民主主義という政体を選択することは論理的に可能で、そんな本地垂迹は歴史的な必然性がありようがないので人間の歴史にはなかっただけである。 ところが、アジアの東のはての島国では、その「必然性」があった。 1951年に沖縄を除いて独立を回復した後、日本の公職追放から解放された国家社会主義者たちが採用した方法は真に驚くべきものだった。 民主主義という容器のなかで国家社会主義を実現したのである。 民主主義という政体を保ちながら国家社会主義を実現するためにはどうすればいいかと考えた結果は、個々の人間として意志を発揮すべき国民ひとりひとりを社会の側の色に染め抜いてやることだった。 そのために学校教育を使った。 そのために新聞を使った。 そのためにテレビを使った。 そのために企業の社員教育を使った。 パナソニックが長いあいだ習慣にしていた幹部候補もその他の社員も皆おなじ制服を着て社屋の屋上に軍隊式に整列し、社歌を斉唱する異様な姿は、日立グループの褌ひとつで冷水を浴びながら「バカになります!バカになります!」と一心に叫ぶ「社員教育」の映像とともに西洋ですっかり有名になったが、そうした異常さの底には冷徹に計算された日本社会指導層の強い意志が反映していた。 … Continue reading

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平凡な日々

「小さい人」の声がしていて、モニの声がしている。 モニを手伝って小さい人の世話をしている人と3人で笑っている声がする。 17歳で「人生なんてどうでもいい」と考えていたナマイキわしがいまのわしを見たら、どう思うだろうか? あまりの凡庸さに失笑するか、「平凡な幸福」特有の臭気に顔を歪めて、踵を返して立ち去るだろうか。 わしという人間はおおむかしからチョーなげやりな人間だった。 夏期に短期間だけ編入したニュージーランドの学校で「重大な不祥事」が生じたとき、わしがやったのだと讒言した級友がいて、新任の教師が信じてしまった。 妙な経緯になるときはなるもので、譴責処分で退校、という雲行きになった。 出来たばかりの友達にも、「きみが、あんなことをする人間だとは思わなかった」と述べに来て、これからは友達だと思わない、と言う人びとがあらわれた。 わしはどうしていたかというと、「黙っていた」ところがチョーなげやりである。 絶交である、と言われても、日本語の訳語が分からないので英語のまま書くと 「Right」と述べただけであった。 教師にも「なにか釈明したいことがあるか?」と言われたが、「別にない」と答えた。 ずっとあとになって、自分に特徴的な反応だと理解できるようになったが、自分には相手を軽蔑するといっさい反応しなくなる、という癖があるよーだ。 数日、学校に来なくていい、と言われたので家で数学をやって遊んでいた。 かーちゃんに「どうしたのか」と言われたので事実関係を述べて納得してもらった。 かーちゃんの返事は「私自身が納得がいかなくて腹が立ったら文句を言いにいくが、そうでなければ自分で良いと思う対応をすればよい。あなたの一生に関わるような事態になれば、それはまたそのときに話しましょう」だったと思う。 ヘンな親だと思ったが、ヘンな息子なのだから、親にだけヘンでないようにしろと求めるわけにはいかない。 ヘンなまま、放っておくことにした。 校長にバカ息子と並んで座ったかーちゃんは、静かに「わたしには信じられない話なので、あなたとお話できることは何もありません」という息子を甘やかしそうな親が必ず言う短い科白を述べて校長を呆れさせただけだった。 暫くして学校に呼ばれたので行ってみると他の級友たちから冤罪であること、讒言した本人が真犯人であることなどが学校に報告されて、証明され、新任の教師は謝罪にあらわれたが、学校の考えで辞めさせられたようだった。 この気の毒でなくもない新任教師は校長がリファレンスを書くのを拒否するという日本で言えば「懲戒処分」に近い学校の対応に遭って教師としてのキャリアはそこで終わってしまった。 讒言した級友は司法によって裁かれた。 このときのことを、とーちゃんに怒られたのをおぼえている。 なぜ正当な主張を怠るのか、きみは世界を甘くみすぎているのではないか。 ラスベガスでブラックジャックで大負けに負けて、20歳で、アメリカのクレジット会社は前もってクレジット枠を確保するせいで、これだけは支払いの心配をしなくてよかったレンタカーで郊外の赤い岩の山にでかけて、岩の上に寝転がって雲ひとつない大空を見ていた。 まだ若くてあまりオカネがないときにはブラックジャックの「バッドシュー」にあたると、実際に足下をすううっと冷たい風が吹き抜けてゆくような気がするものである。 ディーラーが配ったカードが絵札だが、ディーラーの手元には「8」が置かれる。 二枚目が「2」なので、もう一枚ひくと絵札である。「Bust」 自分の目の前には絵札が二枚でディーラーの手元には6がある。ディーラーは、普通プレーヤーに勝たせたいと願っているものなので、「良かったわね」という気持ちをこめてウィンクする。 ところが次のふだが「5」で少し嫌な感じがする。 3枚目は絵札である。「21」 ディーラーだけでなくてピットマネージャーもやってきて「やりきれない」というふうに首をふっている。 手元に20が出ればディーラーは21である。 18ならば19が出る。 8でもAでもスプリットは必ず負ける。 高額のダブルアップになると必ず僅かな差で負ける。 立って歩き去れば良いだけなのに、それがもう出来なくなっている。 30万ドル、というような金額を負けると、やる気がなくなる。 若いときには、そのくらい負けると精神自体が音をあげて軋み出す。 ボロな潜水艦が限界深度を超えた深度に潜って水圧に艦体を軋ませるのに似ている。 … Continue reading

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神の火、人間の火

英語世界の側で、ぼんやり話を聞いていると、原発業界人が日本の業界人たちの行き方について「これは拙(まず)い」と思い始めたのは2012年の夏くらいからであるように見える。 原子力発電が始まった経緯のうち最も重要なことは「原子力発電所が爆発のような重大事故を起こすことは可能性としてゼロである」という確信に到達した、ということがある。最も重要、というよりは人間組織とハードウエアとを何重にも組み合わせて、発電業界と利害をもたないサードパーティに依頼してリスク計算をしてみて「これで数千年というような期間内に事故が起きる可能性はない」という結論が得られたことが原子力発電に踏み切った前提だった。 チェルノブルで、起きるはずのない原子炉の大爆発が起きると、当然、原子力発電業界人は原因を検討した。 当時のソビエト連邦の原子力発電所は見慣れないデザイン、というか、西側では採用される可能性がないRBMK http://en.wikipedia.org/wiki/RBMK であったうえに事実上フェイルセーフ機能の「穴」になる操作がいくつか存在する原子炉デザイン(この場合、デザインには操作手続きも含まれる)だったので、原子力業界人は安堵した、と言ってもよい気持ちになった。 実際、事故が起きる前、という仮定でリスク計算をしてみても当時のソ連の体制では、立派に数十年に一回という範囲で事故が起きる可能性があったようです。 チェルノブルは例外だ、ということになった。 チェルノブルは「事故発生可能性ゼロ」という原子力発電所デザインの大前提を無視した設計だった。 西側の原子力発電所とそもそも安全への思想が異なる。 あれを原子力発電所の安全性についての思考に含める必要はない。 以前にこのブログにも書いたように、ゴルバチョフの回想によると当事者のソビエト連邦政府は主に財政の面から国民の救済を取るか国家と共産主義の崩壊を取るかという選択を迫られて国家の崩壊もやむをえないという決断をして、自らの破滅を甘受する、という国家の歴史でも未曾有の決断をすることになる。 西側諸国の原子力発電の安全性への自信は揺るがなかった。 RBMK自体が軍事ベースの安全性の低いデザインであり、運用も言わば軍事ベース的で、リスクを逓減させて最終的にはゼロにするところまで危険性を押さえ込む、という思想がそもそもソビエト連邦の技術者には欠けている。 そういう話をするときに、原子力技術者の脳裏にあったのは艦内で原子炉が事故を起こして死者を出したというソビエト原子力潜水艦の噂であり、万事「荒っぽい」ので有名なロシア的な技術思想だった。 福島第一発電所は海抜35メートルの崖の上につくるはずだったのだ、と菅直人が最近の、ニューヨークで行われた講演で述べている。 それを東京電力が冷却水を35mまで揚げるのではカネがかかりすぎる、というので勝手に崖を崩して、海抜10mの台地を造成して低地に原子力発電所をつくってしまった。 崖の途中に無理に造成してしまったので崖のある丘から浸みだして伏流水となる地下水が常に発電所内を水びたしにしようとする、という副次的問題が起きて、それが結局現在の「汚染水」という問題を引き起こすことになった。 福島第一原子力発電所の事故が世界じゅうの原子力発電業界の人間のあいだに引き起こしたショックはたいへんなものだった。 日本の政府と業界人は「事故は起きるものだ。大騒ぎするほどの量の放射性物質がばらまかれたわけではない」と述べて、奇妙なくらい、まったく衝撃を受けた様子はなかったが、それは日本ただ一国の反応で、欧州やアメリカの原子力業界にとっては福島で「起きる可能性がゼロのはずの事故が起きてしまった」のは深甚な打撃だった。 2012年夏にアメリカ人達が福島の事故地を訪ねてみると、彼等が見たフクシマの状況は、それまで彼等が日本人たちに聞かされていた説明よりも遙かに酷かった。 そのあたりからアメリカ人や欧州人たちの日本の日本政府と原発業界人および電力会社人たちへの不信が始まったように見えます。 オリンピックの東京への誘致を経済回復の起爆剤にしよう、という方針で安倍政権が一致すると、招致の最大の障害である福島第一発電所を報道人に公開せざるをえなくなった。 有名なMycle Schneiderも、そのときに現地入りしたひとりだった。 BBCのMatt McGrathがMycle Schneiderにインタビューして書いた記事が2年間言語のカーテンの向こうで行われていたことについて英語記事が報道したはじめで、 「water is leaking out all over the site and there are no … Continue reading

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I want to be something 

英語では I want to be something という。 「なんだかになりたい」という意味ではなくて「何者か意味のあるものになりたい」という意味です。 死んでからも誰かがおぼえていてくれるような、あるいは、他のひとでは出来なかったことをachieveしてから死にたい。 欧州人の鬱病の原因で最も多いのは文化背景的には正にこれで、自分に特に他人にすぐれた才能がないことに気が付いて、自分など価値がない者だと感じ はじめると止まらなくなってしまう。 ずるずると、奈落への傾斜を落ちていく。 酷い敗北感のなかで睡眠薬を飲んで浴槽にお湯を張って手首を切って目を瞑る。 somethingであるためには競争に勝ち抜いて勝っても意味がないので、他のひとと質的に異なる精神の跳躍がなければsomethingにはなれはしない。 トーダイを出て役人のトップになるという話とはもちろん関係がない。 気が付いたひともいるでしょうが、当然、この苦しみは個人主義社会に特に多いものでもあります。 モニはまじめなひとなので、よく「いまの自分ではダメだ」と思うようだ。 もともと絵に才能があるひとなので夜中じゅう絵を描いている。 遅くまでカウチで本を読んでいる。 いつも外国語をひとつは勉強している。 自分は怠け者だとつぶやいて、ひとりで落胆している。 妹も似たようなもので他人よりも早く学校を卒業して研究者になったのはいいが、他人に対して口には出さないものも、「こんなに恵まれた環境に育って、たったこれしか社会に貢献できなくていいものだろうか?」とアホのような題目で悩んでいる。 一般にわしの家のひとどもは、「社会への義務」とか「恵まれた人間の債務」とか、ばっかし言っておって、なんとなく「義務おばけ」のひとびとの集まりのようである。 ただ、わしだけが健全に遊びほうけている。 わしは、妹や家族のような「義務」みたいなことは考えたことがない。 前にも何度か書いたが、わしは、人間がこの世界に生まれてくるのは魂が肉体をもたなければかなわない感覚の悦楽を思い出すためだと思っている。 いかに高貴な魂であっても、肉体の助けがない魂だけでは、恋人の肌にそっと触れてみる指先の感覚の楽しみや、頬にふきつける風の心地よさ、雄大なカーブを描いて跳躍する筋肉の瞬間の緊張も、ワインやウイスキーに溺れて、バカ騒ぎをする歓びすらない。 実は肉体のなかにあってすらそうだが、魂は盲目で音も聞こえない。 微かに音を立てているような感覚が満ちている温度もない暗闇のなかで思考だけが明晰で、そのくせ世界そのものは茫漠としている。 魂が魂であるためには肉体の記憶が必要なのは明かであるように思われる。 二十代の義理叔父がケンブリッジの町にあるハーバード大学を用事で訪問していたときに丁度ビル・ゲイツがパーティの招待客として来ていた。 ハーバードの友達たちと一緒にでかけていったら、ビル・ゲイツは開口一番、 「ぼくがきみたちを雇う事は金輪際ない」と言う。 「退屈な講義ばかりの大学で4年も我慢して卒業したうえに、大学院にまで行くなんて、よっぽど退屈な頭の鈍い人間なのに決まってるからね」と続けると、ビジネススクールの学生たちからおおきな笑い声があがったが、 「でもHBSの学生たちを見る目が笑ってなかったな、あのひと」と言っておった。 よく知られていることだと思うが、たいていの場合「something」になろうと思っても、そもそもどんなsomethingになれる可能性があるのか見当がつかないうちに一生は終わってしまう。 「something」のほうから偶然の邂逅を装って自分に必要な魂を物色の挙げ句、やってきて、誘拐するように連れ去って行く。 実際ビル・ゲイツもハーバードに入学はしたものの、講義に出てみても頭のなかはメモリマップやプログラミング上の問題でいっぱいで、ふつーのオベンキョーはまったく手がつかなかった。 結局、やめてしまった。 有名な例であるコリン・ウイルソンのようにごく若いうちから「社会の通念上『成功した人生』を歩めば自分はきっと最後は「社会にみせるための自分」と「ほんとうの自分」との懸隔に耐えられなくなって、天井の梁から首をつるしかなくなるだろう」と考えて、授業にはろくすぽ出席せずに、16歳で学校を止めて、食いつなぐためだけの時間仕事を転転としながら、自分の魂が共存できるゆいいつの職業であるはずの作家になるために25歳までの9年間、ただひたすら原稿を書いたというひともいる。 コリン・ウイルソンは、あちこちで、「たとえば医師のような社会的には最も安定した職業が自分にとっては自殺に導かれるしかない職業であることはよくある。一生の安全の保障は個人個人によって異なる。自分にとっては世間では最も不安定で自殺的だと思われている「作家志望」こそが、そういう意味で最も安全な人生の選択だったのだ」と述べている。 ビル・ゲイツもコリン・ウイルソンも、この先の歴史がおぼえているかどうかは判らなくても、 … Continue reading

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ニュージーランド・4つの小景

1 空港 オークランド空港へはよくでかける。 本業のひとびとは意外なくらい「実際に顔をあわせて話す」のが好きだが、こっちは何しろええかげんな人間なので「スカイプじゃ、ダメ?」と述べて顰蹙を買う。 業を煮やして向こうからやってくるので、サービス精神に富んでいるわしとしては空港までお迎えにあがる。 ニュージーランドはビンボな国なので、ファーストクラスがある飛行機は少ない。 リースで借りたちっこいジェット機で来るひともいるが、おとなしく、つつがなく、ビジネスクラスでやってきて「新婚旅行のときみたいだね、と女房とふたりで話してたんだよ」という性格の良いおっさんもいます。 クライストチャーチに飛行機ででかけるときは空港のデザインそのものがよく出来ていてオンラインで駐車場を予約しておいて、予約に使ったクレジットカードを駐車場の入り口の端末でスワイプさせると、腕木が「ススス」とあがって、クルマから降りると、もうブリッジの向こうはチェックインカウンタなので、自動チェックインの画面にオンラインの予約番号を入力すると、「ぶ」とボーディングティケットが印刷されてでてくる。 そのまま飛行機に搭乗して、それで事が足りる。 あまりに簡便なので、ぶったるんで、これまでに都合3回飛行機に乗り遅れていて、アメリカの航空会社のように鷹揚に次の便にまわしてくれたりしないので、そのたびにぶわっか高い正規料金を払って次の便に乗るが、これまでを航空会社のせいにしては、やはり気の毒であると思われる。 よく出来ている国内線ターミナルに較べて、歩いて10分くらい先にある国際線ターミナルはチョーひどいデザインで、屋内駐車場がそもそもターミナルビルから歩いて5分は優にかかるとんでもないところにある上に、駐車場のなかを鳩がとびまわっていて、居並ぶベントレーやポルシェやレンジローバーが糞にまみれて白い斑状になっている。 一度、大雨の日にメルボルンから帰ってきて、クルマに辿り着くまでにずぶ濡れになったので、それ以来、国際線に乗るときは自分のクルマで来るのはやめて空港リムジンを頼むことにした。 オークランドのタクシーは出鱈目で有名で、運転が下手なひとが多い上に、家まで来ておいて、門から向こうのドライブウエイに行くのは嫌だ、と言ったりする。 門から家までスーツケースと一緒にはるばる歩かされるのはたまらないので、「そんなこと言わないで行きなさいよ」と言うと、ここから向こうは行ったことがないので、何があるかわからないではないか」と抗弁する。 運転手が勝手に門の中をドライブしたことがあったら、そっちのほうがたいへんだが、中東人は理屈を組み立て出すと、組み立てるのに熱中してしまうので、そういうことは考えないもののよーです。 だからタクシーもやめて空港リムジンだけにした。 だいたい決まった人を呼んで送り迎えをしてもらいます。 特にプロいふたりの人は庭に来てお茶を飲んで帰ったりする。 友達のようで、たいへんに気分がよい、と思う。 わしガキの頃は着陸寸前の低空から空港を眺めるのがニュージーランドでの楽しみのひとつだった。 大気がド汚いロンドンと異なって、澄み切った空気のなかで、クライストチャーチ空港は果樹園に囲まれていて、オークランドは周囲一帯が「馬牧場」だったので、妹とわしと馬さんが大好きな兄妹ふたりして、毎度毎度、「ああああー、馬だ! すげえー」と狂喜するのを常とした。 いまでもそうだが、ニュージーランドの美点は国ごとド田舎であることで、空港がそれを象徴しているように見えた。 初めはマクドが二軒しかないなんて、いったいどういう了簡で国をつくっておるのだ、タワケめが、と思っていたが、だんだんにニュージーランドに馴染んでくると、どこにいてもマニュアのにおいがするようなニュージーランドの徹底的なド田舎ぶりが、ガキわしにすら好もしく思われるようになった。 空港は、その象徴だったのだと思う。 いまはオークランド空港のまわりはビジネスディストリクト、ということになって、空港シフトで働くひとたちのための24時間オープンのスーパーマーケット「カウントダウン」や巨大よろず屋のウエアハウス、24時間空いているカフェ、なんでもある。 30歳ともなるとジジむさい感慨がでて、「馬さんが走り回っている頃はよかったなあー」と思うが、それをたまに口にだしても、移民の国なので、ホテルのレセプションでもベーカリーでも「へえええー? そんな頃があったんですか?」と疑わしそうな顔をする。 一挙に3光年くらい年をとった、気が遠くなるような気がします。 2 門 わし家は、モニとわしと小さな人が住んでいる区画、というか家の部分には誰かが門柱の呼び鈴を押しても聞こえないようになっている。 スイッチをいれて呼び鈴が鳴るようにすることも出来て、あんまり不意に人が訪ねてくる、ということはないが、土曜日などは待ち構えていると、おお、来た来た、新興宗教の勧誘じゃんね、しめしめ、という人びとの姿がCCDカメラの画面に映ることがある。 友達と話していたら、最近は日本人の移民が多いので、それを狙って、なんだか怪しい新興宗教の勧誘が日本人を狙い撃ちにしているよーだ:日本人の若い男と女の2人組が(日本人が多い)マウントエデンに行くと毎日曜日にうろうろしているのだ、と述べているひとがいたが、こっちは勧誘されたくてうずうずしていても、どうやって名前を調べるのか、日本名でないと来てもらえないそうで、わし家にはあらわれてもらえない。 マウンテンバイクにシブイ背広、背広とぜんぜんあわないおちゃらけた色彩のヘルメットをかぶった若い男のふたり連れ、というニュージーランドでは有名な「モルモンルック」で身を固めたモルモン教の勧誘というような退屈なひとびとしか来ません。 あとは、庭仕事を探しながら隙があると窃盗団になる、という根強い噂があって、ときどき警察につかまって名前が出てしまったりする「庭師泥棒団」のひとびとが稀にはやってくる。 ラウンジの液晶スクリーンに誰かが映ると、鼻をつまんで「わたしはニッポンジンなので、英語わかりませーん」と日本語混じりの英語で述べたり、フランス語でニュージーランド人なので英語がわからんのじゃ、と叫んだりしてからかって遊ぶ。 (自分で書いていてもたちがわるい) いちど酔っ払ってカメラを早まわしにして映していたら、門の前に「貞子」が立っていて、ぶっくらこいたことがあった。 長い髪が顔の前に垂れていて、よく見ると血走った片方の目が「ぎろっ」と覗いている、あの「リング」の貞子さんです。 どひゃああああ、と思って1倍速にゆるめてあらためて眺めて怖がっていたら、門をよじのぼらずにしゃがみ込んで、げえげえと嘔いていて、どうやら酔っ払いの大学生かなにかのようであった。 ニュージーランドには若いひとびとのあいだに高級住宅地の家を5人くらいで家賃を払って一緒に住む習慣があって、最近の流行でもあるので、近くの通りかなにかの家を借りたワカモノのひとりが迷い込んできたに違いない。 しかし地面に四つん這いになって嘔きまくる姿勢まで貞子にそっくりで、もうこれからは、あんまり「呪怨」や「リング」を繰り返し観たりするのはやめたほうがいいかも知れんな、としみじみと思ったことでした。 3 デイリー … Continue reading

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