平凡な日々

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「小さい人」の声がしていて、モニの声がしている。
モニを手伝って小さい人の世話をしている人と3人で笑っている声がする。
17歳で「人生なんてどうでもいい」と考えていたナマイキわしがいまのわしを見たら、どう思うだろうか?
あまりの凡庸さに失笑するか、「平凡な幸福」特有の臭気に顔を歪めて、踵を返して立ち去るだろうか。

わしという人間はおおむかしからチョーなげやりな人間だった。
夏期に短期間だけ編入したニュージーランドの学校で「重大な不祥事」が生じたとき、わしがやったのだと讒言した級友がいて、新任の教師が信じてしまった。
妙な経緯になるときはなるもので、譴責処分で退校、という雲行きになった。
出来たばかりの友達にも、「きみが、あんなことをする人間だとは思わなかった」と述べに来て、これからは友達だと思わない、と言う人びとがあらわれた。

わしはどうしていたかというと、「黙っていた」ところがチョーなげやりである。
絶交である、と言われても、日本語の訳語が分からないので英語のまま書くと
「Right」と述べただけであった。
教師にも「なにか釈明したいことがあるか?」と言われたが、「別にない」と答えた。

ずっとあとになって、自分に特徴的な反応だと理解できるようになったが、自分には相手を軽蔑するといっさい反応しなくなる、という癖があるよーだ。

数日、学校に来なくていい、と言われたので家で数学をやって遊んでいた。
かーちゃんに「どうしたのか」と言われたので事実関係を述べて納得してもらった。
かーちゃんの返事は「私自身が納得がいかなくて腹が立ったら文句を言いにいくが、そうでなければ自分で良いと思う対応をすればよい。あなたの一生に関わるような事態になれば、それはまたそのときに話しましょう」だったと思う。
ヘンな親だと思ったが、ヘンな息子なのだから、親にだけヘンでないようにしろと求めるわけにはいかない。
ヘンなまま、放っておくことにした。
校長にバカ息子と並んで座ったかーちゃんは、静かに「わたしには信じられない話なので、あなたとお話できることは何もありません」という息子を甘やかしそうな親が必ず言う短い科白を述べて校長を呆れさせただけだった。

暫くして学校に呼ばれたので行ってみると他の級友たちから冤罪であること、讒言した本人が真犯人であることなどが学校に報告されて、証明され、新任の教師は謝罪にあらわれたが、学校の考えで辞めさせられたようだった。
この気の毒でなくもない新任教師は校長がリファレンスを書くのを拒否するという日本で言えば「懲戒処分」に近い学校の対応に遭って教師としてのキャリアはそこで終わってしまった。
讒言した級友は司法によって裁かれた。

このときのことを、とーちゃんに怒られたのをおぼえている。
なぜ正当な主張を怠るのか、きみは世界を甘くみすぎているのではないか。

ラスベガスでブラックジャックで大負けに負けて、20歳で、アメリカのクレジット会社は前もってクレジット枠を確保するせいで、これだけは支払いの心配をしなくてよかったレンタカーで郊外の赤い岩の山にでかけて、岩の上に寝転がって雲ひとつない大空を見ていた。
まだ若くてあまりオカネがないときにはブラックジャックの「バッドシュー」にあたると、実際に足下をすううっと冷たい風が吹き抜けてゆくような気がするものである。
ディーラーが配ったカードが絵札だが、ディーラーの手元には「8」が置かれる。
二枚目が「2」なので、もう一枚ひくと絵札である。「Bust」

自分の目の前には絵札が二枚でディーラーの手元には6がある。ディーラーは、普通プレーヤーに勝たせたいと願っているものなので、「良かったわね」という気持ちをこめてウィンクする。
ところが次のふだが「5」で少し嫌な感じがする。
3枚目は絵札である。「21」
ディーラーだけでなくてピットマネージャーもやってきて「やりきれない」というふうに首をふっている。

手元に20が出ればディーラーは21である。
18ならば19が出る。
8でもAでもスプリットは必ず負ける。
高額のダブルアップになると必ず僅かな差で負ける。
立って歩き去れば良いだけなのに、それがもう出来なくなっている。

30万ドル、というような金額を負けると、やる気がなくなる。
若いときには、そのくらい負けると精神自体が音をあげて軋み出す。
ボロな潜水艦が限界深度を超えた深度に潜って水圧に艦体を軋ませるのに似ている。
前にも書いたがブラックジャックのひと晩の勝ちの記録は4600万ドル(44億円)だが、負けの記録は60億円だかなんだかで、ハイローラー・テーブルでも、それだけ負けるには相当な体力が要る。
普通の人がイギリス系のカシノには存在する「ハイローラークラブ」で遊ぶのは(USドルで言えば)上限5000ドルのテーブルだが、5000ドルのテーブルでひと晩じゅう負け狂っても案外と15万ドルくらいも負けると実際に気分が悪くなって、体力も気力も消耗して、なんだか頭がぼおおおーとなってテーブルを離れたくなるものであると思う。

賭博自体はわしが家では家系というか、とーちゃんの側でもかーちゃんの側でも、じーちゃんもひーじーちゃんもひーひーじーちゃんでもひーひーひーじーちゃんも、ひーxnじーちゃんもやっていたことであって、チョーまじめ人間のとーちゃんでも他にやることのない金曜日の夜にはカシノくらいは行く。

賭博の良いところは現実が引き起こす虚無的で惨めな感情から自分を乖離させる方法が自然と身につくところだが、悪いところもまさに同じで、依存が始まると人間らしい感情に乏しくなる。

人間は誰でも自分のなかにデーモンを飼っている。
このデーモンは、いつもは飼いなされているような顔をしているが、理由にもならない弾みのような契機によって姿をあらわすことがある。

わしは結婚するまでボクシングを趣味のひとつにしていた。
クラスはヘビー級です。
日本のジムのように職業化をねらったものではなくて、ニュージーランドならパーネルにあるような、普通のフィットネスジムより、やや過激な運動を求めるひとをマーケットにしたものです。

いちど、見知らぬ相手と遊び半分にスパーリングのようなことをしたことがあった。
わしは敏捷な体質で、あまりパンチをくらうということはないが、この相手は後で聞けば元は成功しなかったプロで、勝手が違った。
巧かった。
ボディブローを決められた。
そのパンチがはいったときに相手が目で笑ったのが見えた。
その笑いかたが嫌だったのだと思う。

わしのクラブには「頭を殴ってはいけない」という、会員が「お嬢様ルール」と呼んでいたルールがあったが、次の瞬間わしは相手にアッパーカットを打っていた。
許されないことであって、リング上を2,3フィート飛んで気絶してしまった相手に後で謝罪しなければならなかった。
自分が一刹那で自分でなくなる、その瞬間をいまでもおぼえている。

「自分が自分である」ということは、普通いっぱんに人間が考えるほど確かなことではないようだ。
「自分」というものは何かと考えると、まず文字通り自分の手足をなして、自分の意識が格納された頭脳を運び、感覚を収集し、「自分」というものの梗概をなしている肉体がある。
幅が2mの断崖と断崖のあいだを飛び越していける人と、それが出来ない人の一生はまるで異なるものであると思う。
10キロの距離を泳いでゆけるひとと泳げない人、でも例としては良いと思う。

それから、その「意識」の実体をなしている言語がある。
ツイッタで「思考には言語自体の意味集合による制約があるのだ」と書くと、そうではなくて、その言語を使っている人に問題があるのだ、と書いてくる人が必ずいるが、「言語を使う」ということが可能だと思う点で聞いているこちらがなんだか不思議な気がする。    もっと簡明に言ってしまえば「人間が言語を使う」というのは論理的に言って矛盾である。
言語が人間を使役しているのであって、人間の頭脳に可能なことはせいぜい錯綜する言語の交通整理にしかすぎないが、それですら「言語ではないなにものか」が交通整理を行う主体であるとすると、一挙に人間の意識を解説することが難しくなってしまう。

ゆいいつ有名な「射撃手が的を狙う前に無意識はすでに的を射撃している、意志はそれを追認して自分が決定したと錯覚しているだけである」という実験がほんとうならば言語と意識の乖離は成り立つ。
あの実験がほんとうなら、真のAIコンピュータもいまの技術で(コンピュータにより上位のコンピュータを設計させることによって)出来ることになるが、いまのところ、やや信じがたい気分がする。

したがって、そこから導き出される結論は凡庸なもので、肉体が軽々とまるで質量がゼロであるかのように動き、意識をなす言語を、可能ならば数学と系統の異なる言語ふたつで思考できる能力を身につける、というようなことが人間が若いときにめざす目標になるだろう。

小さな人は小さな人なりに心から幸福を満喫するのを知っているようで、モニに抱きついて顔を胸にくっつけているときの表情は天使が嫉妬しそうなほどの幸福に満ちている。
びっくりするほど強い力でわしの指を握りしめて「ちゃんとメンドーみろよ」と訴えたかと思うと、おもいきりキックをくらわせて、自分の肉体の実力を誇示したりする。
つきあって、一緒にいると、モニもわしも振り回されて、へとへとになる。
親というものは、子供に疲労困憊させられて、へろへろになるのに、不明な理由で幸せで、へらへらしている、なんだか訳がわからない生き物だとしみじみと考える。

だが家のひとびとがみな寝静まった夜更け、まるで森林の夜のように静かなレミュエラの家の書斎に座って自分の心をみつめていると、視界の隅に、なんだか見慣れない「自分」がいる。
ひっそりと立って、まるで自分の存在を消そうとしているかのように見えるが、わしは、あの影の制御できない力、いったん鎖から解き放たれると、世界を覆そうとしているかのような破壊の力をもっているのを、もう知っている。

爆発的な恋愛の感情や怒り、あるいは、おもいもかけない感情の暴走によって、彼はわしをあっさりと滅ぼすことができる。
その影こそが、案外と(悪魔ではなく)「神」そのものなのではないかと思うことがあるのです。

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6 Responses to 平凡な日々

  1. おいちゃん says:

    読みましたよ。カメさんのゆってることはよく解ります。って、簡単に分かっちゃいけないんだったっけ?
    俊賴髄脳って、不肖初めて聞きました。ちょっと調べただけだけど歌論書ですね。「自分の言葉で述べなさい。それが一番優れた文章です。」ってゆってるやうな気がしました。
    カメさんの文章は確かに自分の文脈で語っています。おいちゃんみたいに 折口信夫は、「野生を持った都会人」になりたい みたいなことを言ってますよ。  なんてコピベっぽい文は書かない。
    自分の文章だから世代を超え人種を超えて 人の魂に訴えかけるんだと思っています。
    人の内なる野生を認めてこそ、理性の何たるかがわかる んじゃないかと。
    齢い30にして斯の人生観、恐れ入ります。さぞご苦労なさったんでせうね・・・・って、さういへばおいちゃんも中学生ぐらいからあんまり変わってないや(。・ ω<)ゞてへぺろ♡(てへべろ  って何だ?)

  2. J.H. says:

    人は自分自身をしつけるために言葉を発明したのではないかと思うことがあります。
    己の中にある獣性に恐れを抱いて

  3. 寅吉 says:

    記事にある写真を見て
    「みそ汁が入った器があるような?箸を持ってる!ショウガがある!もしかして、回転ずしのお店か!」
    と驚きました。

    お店の作りが日本と異なり、作り手がお客さんの脇で調理していたり、客席が対面するようになっているのが新鮮です。
    私は、目線の高さに不透明なすりガラスなどの仕切りが入って、お客さん同士が対面しないようになった回転寿司のお店しか行ったことがありません。

    それにしても写真からは、ゆったりとした時間の流れが感じられ、皆とても幸せそうです。イイ写真だと思いました。

  4. Hypocrite says:

    Reblogged this on Hypocrite.

  5. kano says:

    こんにちは。はじめてコメントします。

    数年前、恋人にひどい捨てられ方をしてから、ときどきすごく意地悪になる瞬間があります。
    意地悪なことを言っているとき、私の身体は何かに乗っ取られたようになって、あとではっとします。自分でも抑えられないくらいに。私はガメさんのようにボクシングをしたことはありませんが、いま初めて自分の中の怪物のようなものと出会ったのだという気がします。自分の中にこんなに訳のわからない何かがいるというのは、すごく面白いとも思うし、この訳のわからないものに身体を明け渡すとき、痛みと共に、ねじれるような大変な快感が訪れることもあります。

    ガメさんの記事を読んでいると、ときどき魂とか身体とか、あるいは悪魔のお話が出てきますが、わたしにはずっと理解できないことばかりでした。ただ、魂が案外離れやすいものなのではないか、ということについて、最近になって、もしそうならば、いろいろなことが理解できると、ようやく納得しました。そして、私も、ガメさんのいう、大分邪悪な人間の一人で、魂が半分どこかへかえって行こうとしているのかもしれないということも。

    ガメさんが日本語をもうやめてしまおうかな、と思ってしまうのもわかるような気がするのですが、私みたいな、つまらないうえに、悪い人間が、すこしでもいい方に変わろうと思うような、すごい力を持った文章は、ガメオベールさんの文章だけです。ガメオベールさんの文章は、日本語、そして日本語インターネットの世界に絶対に必要なものです。

    ガメさんのブログと出会わなかったら、気づかないことがたくさんありました。悪魔のことなんて、一生考えなかったのではないかと思います。日本の近代詩を読むのも、もっとずっと先の話だったかもしれません。鋭くて、果てしなく厳しく、同時にやさしいガメさんの日本語は、私とはまるきり違う法則で書かれていて、なんだか不思議な日本語でもあるのですが、いつもびっくりするくらい面白いのです。現代の日本語の世界で普通に生きていると、なかなか出会うことがありません。

    知性がこんなにも温かくて優しいものだという確信は、身体を捨てていこうとする魂を振り返らせることができると思います。私も含めてのことですが、ひとりひとりが幸福になるという選択を勇気をもって選べるようになるのは、こんな風な、あたたかな人間の知性への信頼がなければできません。
    私は長らくそんなことにすら気づかない日本語人の一人でした。小さなころから、少しずつ削られて、そんな不幸せな、部品の一生が当たり前の風景だったのです。十全の知性なんて、見たことも聞いたこともなく、存在することも知りませんでした。知性はただ冷たい旋盤であり、自分がはめ込まれる型に過ぎないと心のどこかで思い続けていたのです。

    ガメさんの見ているような世界があるなんて、多くの日本人は存在することも知らないのだと思います。だから、日本の社会でうまくやっていくには、冷たい知性を取るか、知性すべてを捨ててしまうかの二択しかありません。けれど、ガメさんのブログを読んで知った三つ目の選択肢は、今の日本に住む人々、日本語を使う人々、多くの「見捨てられ」、あるいは「虐げられた」人々が、回復してゆくための一つの鍵になるはずだと信じています。

    なんだか、変なことをぐずぐず書いてしまっていたら、すみません。
    単純に言うと、ガメさんのブログが大好きで、いつも楽しみにしています。
    これからも、ずっと読めるとうれしいなあということです。

  6. 眠れる森のおっさん says:

    >ツイッタで「思考には言語自体の意味集合による制約があるのだ」と書くと、そうではなくて、その言語を使っている人に問題があるのだ、と書いてくる人が必ずいるが、「言語を使う」ということが可能だと思う点で聞いているこちらがなんだか不思議な気がする。 

    ↑これおれのことだよねぇ。
    亀さんが前、日本語に対する疑いがはれるまでブログ書けないとツイッタで言ってた時に、「おれも同じような疑いを日本語に対して持っていたけど、日本語練習帳読んで考えが変わった。それはただ単にもともと亀さんが英語を使う人だったからというだけかもしれないが、、云々」みたいなこと亀さんあてに書いたんだよね。
    いや、言葉は怖い。考えのボロさが見事にでちゃったね。
    引用した文章に続く文章読んで思い出して「うわちゃー確かにその通りだーっ」ってなっちゃったよ。
    でも、「以前日本語を関係性ばかりに拘泥して真実に興味のない言語だと思ってたけど、このブログを読み始めて日本語に対する認識が変わった」というのはホントにホントだよ。

    もっと理由を詳細に説明できるように考えてみるよ。

コメントをここに書いてね書いてね

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