Daily Archives: October 24, 2013

さよなら、フリーダム

  木戸孝允は、何を聞いても呑み込みが早い人だったが西洋の政体では「個人の自由」が保障されていると聞いて、それだけはダメだ、日本の国民にそんなものを与えたらたいへんなことになる、と狼狽した。 幕末や明治時代の最初期に日本にやってきた外国人たちの日本滞在記を見ると、妙に尊大で交渉となると一向に要領を得ないが威儀だけは堂々としてお行儀の良いサムライたちに好奇の目を光らせる一方で、大半の日本人が、昼間から酒を飲んで、土埃のたつ横町で小博打を打ったり、ちょっと目を離すと小さな泥棒を働いたり、なにごとか都合が悪いことがあると、普段は気の良い人物が平気で嘘をついたりすることに呆然としている。 木戸孝允の頭にあった「日本人」は自分と同じサムライたちではなくて、まだ江戸時代のうちから階級的に低い人間たちを集めて「奇兵隊」というようなものをつくった長州藩時代から身近に見聞きしていたはずの、すばしこく抜け目なくて、自分の利益になるものならなんでも取ってやろうと目を爛々と輝かせていた、農民や町民の「日本人」たちだったろう。 ほとんどなんの計画も持たずに徳川私有政権を倒して政治権力を握った薩摩・長州・土佐・肥前の人間たちは、(実際には途方もなく良く切れる刀をふりまわす剣呑な人間がうじゃうじゃいる割には、国がまるごと貧乏で、これといった資源もない日本を侵略する気は欧州側にはあまりなかったことがいまでは判っているが)、なにしろ隣の超大国「清」が西洋人たちの手でボロボロにされたのを聞き知っていたので、急いで「近代国家」らしいものをつくらねばならなかった。 徳川260年の支配のあいだに植え付けられたキリスト教恐怖症は、断固たるもので、そんな危ないものを輸入するわけにはいかなかったが、ずいぶんわがまま勝手な人間たちらしい西洋人を、それでもなんとかひとつにまとめているのは「神様」らしいことが判ると、戦争のときに急造おもいつきの「錦の御旗」で味をしめた「天皇」を万世一系で、ずっと神聖だったことにして、十字架にかけられた辛気くさい男の代わりに、大礼服を着せて、「神様みたいなもの」として玉座に座らせることにした。 多分、征夷大将軍と天皇権威型の関白太政大臣と、たしか日本は交代でやってきたのだから、今度は征夷大将軍の次で関白太政大臣だろ、という程度のことで「太政官」をつくり右大臣、左大臣で、古代にかえってしまったような大時代な制度をつくったりした。 だが国民個々の自由だけは許すわけにはいかなかった。 土から生えてでもきたような粗衣蓬髪の、ぞっとしない人間たちに尊厳を認めよ、と言われても、ピンと来なかったのでもあるに違いない。 太政官の人間たちに顔を顰めさせる、見ていて恥ずかしくなるような夏にはねじり鉢巻きに褌一本で一日を過ごす、あんまり外国人たちに見せたくない見てくれが極端に悪い「日本国民」たちは、しかし、一方では識字人口よりも売れるという奇想天外なベストセラーになった「学問のすすめ」を貪り読むような世界の歴史に照らしても前代未聞の向学心をもった国民でもあった。 「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」 「サレドモ今広クコノ人間世界ヲ見渡スニ、カシコキ人アリ、オロカナル人アリ、貧シキモアリ、富メルモアリ、貴人モアリ、下人モアリテ、ソノ有様雲ト泥トノ相違アルニ似タルハ何ゾヤ」 と書かれた本を読んだ日本人の熱狂は大変なものだった。 長い隷従の屈辱のあとで勉強さえすれば「人間」として扱ってもらえる、というのだから、熱狂しないほうがどうかしている。 この本を書いた福沢諭吉という人は、しかし、「自分が死ぬまで公表するな」と門人や家族に言い含めて篋底深く秘匿していた「明治十年丁丑公論」を書いた人だった。 この西南戦争を戦った日本の歴史の掉尾を飾ったサムライたちの絶滅への愛惜に似た、だが政府への激烈な非難をつらねた文章には、たとえば 「新聞記者は飼い犬に似たり」というような部分もあって、いまにそのまま継承される日本型の抑圧機構がこのころからのものであることを示している。 1868年に出発した「近代日本」は、やがて指導層の無能と可視的な法的手続きを無視した「多数の人間が正しいと感じたことが絶対の真理である」という情実主義とでも言うべき社会の頽廃によって、あるいはもうひとつには、自分の意見を絶対として集団をひきつれて相手の意見を完膚無きまでにたたきつぶすことを目的とした集団サディズムの蔓延によって、1945年に至って破滅する。 「破滅」と書いたが、実際、近代日本ほど徹底的に世界じゅうの人間から存在を否定され憎悪をもって破壊された国家は歴史上珍しい。 古代ローマ人はフェニキアを滅ぼしたあと、街路をことごとく破壊して更地にしてしまい、しかもその上に塩を撒いてフェニキア人たちが耕作できない土地に変えて歴史に悪評を残したが、アメリカ人を中心とした殆ど「日本以外のすべての世界の人間」の日本人に対する憎悪は、それよりもすさまじくて、塩どころではない、外側から渦巻き状に小型ナパームを投下して子供から誰からすべての市民を殲滅したり、終わりには広島と長崎の2都市に原爆をさえ投下して文字通りの「死の街」に変えることすら躊躇しなかった。 アジア大陸のあちこちで主に弛緩した軍紀が原因の集団強姦や市民の大量殺人を行った日本に対する世界じゅうの人間の憎悪には歯止めがなくなっていて、「日本人を皆殺しにする」と公言するアメリカ人の将軍たちを熱狂的に支持したのだった。 1945年から1951年まで続いたアメリカ軍とその連合軍による「日本が日本であること」自体を否定する苛酷な占領の後半には、しかし、アメリカの持病だった「共産主義恐怖症」によって、アメリカは一転日本を国家として復活させようと考える。 いまの経済学の知識からみると目をむくような巨大な過剰投資を日本に対して行う。 その100円くれと言ったら1000円を寄越すようなアメリカの日本に対する大盤振る舞いを、日本の公職追放から公的世界に復帰した国家社会主義者たちは満州や戦時経済で研究した国家社会主義経済の手法を使って国家で企画した事業へ集中投資を繰り返してゆく。 その民主国家であるアメリカの想像を遙かに越えた国家社会主義経済戦略によって、日本は、戦後わずか十数年で強力な経済国家として蘇ってくる。 その象徴が1964年の東京オリンピックだった。 日本のアキレス腱はアメリカに対して民主主義国家の体裁がとれないと支援がえられないことだった。 たくさんのアメリカ人政治家たちが「日本の政治家は狐のように狡猾だ」と述べているが、無論、政治の世界ではこれは称賛の言辞である。 面従腹背、またしても平然と嘘をつき、問題を指摘されても一向に認めようとせず、約束の履行を迫られれば先に延ばし、挙げ句の果てには「問題そのものがなかった」ことにする日本の伝統的な「解決手法」にアメリカは手を焼き続けるが、日本がまるで国家の政治ごとゲリラ化したような、サボタージュだと言ってアメリカの担当官が激怒するような、そういう常軌を逸した戦略をとっていけるのも、アメリカの目に「日本は民主主義の国だ」と映りつづけていることが大前提だった。 あたりまえのことだが、民主主義は自由主義とは異なる。 民主主義は制度の名称であって思想の名称ではない。 非自由主義の人間が民主主義という政体を選択することは論理的に可能で、そんな本地垂迹は歴史的な必然性がありようがないので人間の歴史にはなかっただけである。 ところが、アジアの東のはての島国では、その「必然性」があった。 1951年に沖縄を除いて独立を回復した後、日本の公職追放から解放された国家社会主義者たちが採用した方法は真に驚くべきものだった。 民主主義という容器のなかで国家社会主義を実現したのである。 民主主義という政体を保ちながら国家社会主義を実現するためにはどうすればいいかと考えた結果は、個々の人間として意志を発揮すべき国民ひとりひとりを社会の側の色に染め抜いてやることだった。 そのために学校教育を使った。 そのために新聞を使った。 そのためにテレビを使った。 そのために企業の社員教育を使った。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | Leave a comment