さよなら、フリーダム

SI (3)

木戸孝允は、何を聞いても呑み込みが早い人だったが西洋の政体では「個人の自由」が保障されていると聞いて、それだけはダメだ、日本の国民にそんなものを与えたらたいへんなことになる、と狼狽した。

幕末や明治時代の最初期に日本にやってきた外国人たちの日本滞在記を見ると、妙に尊大で交渉となると一向に要領を得ないが威儀だけは堂々としてお行儀の良いサムライたちに好奇の目を光らせる一方で、大半の日本人が、昼間から酒を飲んで、土埃のたつ横町で小博打を打ったり、ちょっと目を離すと小さな泥棒を働いたり、なにごとか都合が悪いことがあると、普段は気の良い人物が平気で嘘をついたりすることに呆然としている。

木戸孝允の頭にあった「日本人」は自分と同じサムライたちではなくて、まだ江戸時代のうちから階級的に低い人間たちを集めて「奇兵隊」というようなものをつくった長州藩時代から身近に見聞きしていたはずの、すばしこく抜け目なくて、自分の利益になるものならなんでも取ってやろうと目を爛々と輝かせていた、農民や町民の「日本人」たちだったろう。

ほとんどなんの計画も持たずに徳川私有政権を倒して政治権力を握った薩摩・長州・土佐・肥前の人間たちは、(実際には途方もなく良く切れる刀をふりまわす剣呑な人間がうじゃうじゃいる割には、国がまるごと貧乏で、これといった資源もない日本を侵略する気は欧州側にはあまりなかったことがいまでは判っているが)、なにしろ隣の超大国「清」が西洋人たちの手でボロボロにされたのを聞き知っていたので、急いで「近代国家」らしいものをつくらねばならなかった。

徳川260年の支配のあいだに植え付けられたキリスト教恐怖症は、断固たるもので、そんな危ないものを輸入するわけにはいかなかったが、ずいぶんわがまま勝手な人間たちらしい西洋人を、それでもなんとかひとつにまとめているのは「神様」らしいことが判ると、戦争のときに急造おもいつきの「錦の御旗」で味をしめた「天皇」を万世一系で、ずっと神聖だったことにして、十字架にかけられた辛気くさい男の代わりに、大礼服を着せて、「神様みたいなもの」として玉座に座らせることにした。
多分、征夷大将軍と天皇権威型の関白太政大臣と、たしか日本は交代でやってきたのだから、今度は征夷大将軍の次で関白太政大臣だろ、という程度のことで「太政官」をつくり右大臣、左大臣で、古代にかえってしまったような大時代な制度をつくったりした。

だが国民個々の自由だけは許すわけにはいかなかった。
土から生えてでもきたような粗衣蓬髪の、ぞっとしない人間たちに尊厳を認めよ、と言われても、ピンと来なかったのでもあるに違いない。

太政官の人間たちに顔を顰めさせる、見ていて恥ずかしくなるような夏にはねじり鉢巻きに褌一本で一日を過ごす、あんまり外国人たちに見せたくない見てくれが極端に悪い「日本国民」たちは、しかし、一方では識字人口よりも売れるという奇想天外なベストセラーになった「学問のすすめ」を貪り読むような世界の歴史に照らしても前代未聞の向学心をもった国民でもあった。
「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」
「サレドモ今広クコノ人間世界ヲ見渡スニ、カシコキ人アリ、オロカナル人アリ、貧シキモアリ、富メルモアリ、貴人モアリ、下人モアリテ、ソノ有様雲ト泥トノ相違アルニ似タルハ何ゾヤ」
と書かれた本を読んだ日本人の熱狂は大変なものだった。
長い隷従の屈辱のあとで勉強さえすれば「人間」として扱ってもらえる、というのだから、熱狂しないほうがどうかしている。

この本を書いた福沢諭吉という人は、しかし、「自分が死ぬまで公表するな」と門人や家族に言い含めて篋底深く秘匿していた「明治十年丁丑公論」を書いた人だった。
この西南戦争を戦った日本の歴史の掉尾を飾ったサムライたちの絶滅への愛惜に似た、だが政府への激烈な非難をつらねた文章には、たとえば
「新聞記者は飼い犬に似たり」というような部分もあって、いまにそのまま継承される日本型の抑圧機構がこのころからのものであることを示している。

1868年に出発した「近代日本」は、やがて指導層の無能と可視的な法的手続きを無視した「多数の人間が正しいと感じたことが絶対の真理である」という情実主義とでも言うべき社会の頽廃によって、あるいはもうひとつには、自分の意見を絶対として集団をひきつれて相手の意見を完膚無きまでにたたきつぶすことを目的とした集団サディズムの蔓延によって、1945年に至って破滅する。

「破滅」と書いたが、実際、近代日本ほど徹底的に世界じゅうの人間から存在を否定され憎悪をもって破壊された国家は歴史上珍しい。
古代ローマ人はフェニキアを滅ぼしたあと、街路をことごとく破壊して更地にしてしまい、しかもその上に塩を撒いてフェニキア人たちが耕作できない土地に変えて歴史に悪評を残したが、アメリカ人を中心とした殆ど「日本以外のすべての世界の人間」の日本人に対する憎悪は、それよりもすさまじくて、塩どころではない、外側から渦巻き状に小型ナパームを投下して子供から誰からすべての市民を殲滅したり、終わりには広島と長崎の2都市に原爆をさえ投下して文字通りの「死の街」に変えることすら躊躇しなかった。
アジア大陸のあちこちで主に弛緩した軍紀が原因の集団強姦や市民の大量殺人を行った日本に対する世界じゅうの人間の憎悪には歯止めがなくなっていて、「日本人を皆殺しにする」と公言するアメリカ人の将軍たちを熱狂的に支持したのだった。

1945年から1951年まで続いたアメリカ軍とその連合軍による「日本が日本であること」自体を否定する苛酷な占領の後半には、しかし、アメリカの持病だった「共産主義恐怖症」によって、アメリカは一転日本を国家として復活させようと考える。
いまの経済学の知識からみると目をむくような巨大な過剰投資を日本に対して行う。
その100円くれと言ったら1000円を寄越すようなアメリカの日本に対する大盤振る舞いを、日本の公職追放から公的世界に復帰した国家社会主義者たちは満州や戦時経済で研究した国家社会主義経済の手法を使って国家で企画した事業へ集中投資を繰り返してゆく。
その民主国家であるアメリカの想像を遙かに越えた国家社会主義経済戦略によって、日本は、戦後わずか十数年で強力な経済国家として蘇ってくる。
その象徴が1964年の東京オリンピックだった。

日本のアキレス腱はアメリカに対して民主主義国家の体裁がとれないと支援がえられないことだった。
たくさんのアメリカ人政治家たちが「日本の政治家は狐のように狡猾だ」と述べているが、無論、政治の世界ではこれは称賛の言辞である。
面従腹背、またしても平然と嘘をつき、問題を指摘されても一向に認めようとせず、約束の履行を迫られれば先に延ばし、挙げ句の果てには「問題そのものがなかった」ことにする日本の伝統的な「解決手法」にアメリカは手を焼き続けるが、日本がまるで国家の政治ごとゲリラ化したような、サボタージュだと言ってアメリカの担当官が激怒するような、そういう常軌を逸した戦略をとっていけるのも、アメリカの目に「日本は民主主義の国だ」と映りつづけていることが大前提だった。

あたりまえのことだが、民主主義は自由主義とは異なる。
民主主義は制度の名称であって思想の名称ではない。
非自由主義の人間が民主主義という政体を選択することは論理的に可能で、そんな本地垂迹は歴史的な必然性がありようがないので人間の歴史にはなかっただけである。
ところが、アジアの東のはての島国では、その「必然性」があった。

1951年に沖縄を除いて独立を回復した後、日本の公職追放から解放された国家社会主義者たちが採用した方法は真に驚くべきものだった。
民主主義という容器のなかで国家社会主義を実現したのである。
民主主義という政体を保ちながら国家社会主義を実現するためにはどうすればいいかと考えた結果は、個々の人間として意志を発揮すべき国民ひとりひとりを社会の側の色に染め抜いてやることだった。
そのために学校教育を使った。
そのために新聞を使った。
そのためにテレビを使った。
そのために企業の社員教育を使った。

パナソニックが長いあいだ習慣にしていた幹部候補もその他の社員も皆おなじ制服を着て社屋の屋上に軍隊式に整列し、社歌を斉唱する異様な姿は、日立グループの褌ひとつで冷水を浴びながら「バカになります!バカになります!」と一心に叫ぶ「社員教育」の映像とともに西洋ですっかり有名になったが、そうした異常さの底には冷徹に計算された日本社会指導層の強い意志が反映していた。

マスメディアに対しても記者クラブという翼賛報道を結果するような組織をつくった。
簡単に言えば、日本指導層は常に人間の怠惰につけこむことに長けている。
日本にいたときにインタビューした指導層の要にある老人は、ちょっと舌なめずりするような顔をして、「きみ、どんな育ち方をしたかしらないが、人間というのはね、どんなにすましかえっていても、結局はカネか女なんだよ。そのどちらかで落ちない男はいないんだ」と100%の自信を持って述べていたが、カネ、オンナ、の他に怠惰もつけくわえたほうが良いと思う。
記者クラブは、極端に言えば「椅子に腰掛けていればニューズが集まって紙面が出来る」制度である。
そうすると勢いどの新聞社の紙面も同じになってしまうが、日本では最近まで「真実はひとつだから信用ある新聞の紙面が同じなのは当たり前だ」というマンガ的、と言ってはマンガに申し訳がないような理屈がまかりとおっていたと言う。

余計なことを書くと、このブログ記事によく出てくる、わが日本語教師たる義理叔父は初めてでかけていったアメリカのキオスクで新聞の紙面がてんでばらばらなのを見て、「なんて好い加減な新聞だろう。信用できない」と考えたそうだから、どんな異常なことでも社会のなかで長く続いてしまえば当たり前のことになってしまうのだろう。

初等教育と中等教育においては生徒は全員が国家によって検閲された教科書を使うことを強制された。
前に教科書検閲のことを書いたら「検定と検閲はちがう」という人がいたが、なんというか、そこまで教育の成果が発揮されると、言葉がないような気がする。
中国と日本の関係の歴史を調べてさかのぼってゆくと中国が日本の教科書に「侵略」の文字が消えて「進出」という言葉に変わったのを見て激昂してみせるところがあるが、中国が怒ってみせたのは日本の子供たちが使う教科書が国家によって検閲されているものであることを知っていたからで、それだから「国家の意志の表明」とうけとって激昂する演技をしてみせたのである。
英語世界では、当たり前のように事情が解説されたようだが、日本の記事には検閲教科書という事情が言及されなかったように見える。

日本に滞在していたときのことを思い出すと、この日本の「国民のほうを国家の部品化してしまう」、企業の社員というものは金太郞飴のように、どのひとりをとっても同じ意見、同じ考え、同じ感じ方でなければいけないんですと真顔で述べた日本の老企業家の話をこのブログに前に書いたことがあったが、日本の指導層は戦後の目論見に完勝したと思う。

今日の日本では「まったくの個人」であると感じるひとに出会うのは難しい。
みな親切で気持ちの良いひとたちだが、日本の人には「自分の周囲が納得する範囲」で自分の意見をつくるはっきりした傾向がある。
歴史的必然性のなかでわがまま勝手な個人を、なんとか集団してまとめていくために民主主義を、いわばポンコツだが、それ以外には手段が存在しないという理由で採用してきた欧州諸国家とは異なって、日本の場合は民主主義という容れものがまず先にあって、民主主義を無事故で運転することによって自由社会であるかのようにみせかける必要があった。
福島第一事故以後、放射能の害に怯える人達によって、やや可視的になった日本の社会の特殊性は、皮肉なことに、日本政府がオリンピックの東京招致を切望したことによって、英語世界にも周知されつつある。

個人の自由という個々の国民から社会全体に働きかけるベクトルとは正反対の、社会側から個人の自由を規制する意志に基づいた「民主主義社会」が、このあと、どんなふうになってゆくのか、無論、想像がつかない。
みせかけの建前である「民主主義」と本音である「全体主義」の矛盾の軋轢に耐えられなくなって社会全体が全体主義に向かって暴走をはじめるかも知れないし、日本のひとのことだから、案外、奇想天外な方法で、最後の大逆転というか、個人が社会のなかで一個の「完全意志」として閉じている前代未聞の社会をつくりだすのかも知れない。

経済の復活を願って、民主主義という制度自体に拠って民主主義政体を否定することさえ辞さないように見えるネオ自民党を国民が支持してみせた、この中間点では、現状を述べる言葉として(わざとだけど)ケーハクなもの言いの言葉をおおきな転換点に立つ日本のひとたちに送っておこうと思う。

さよなら、フリーダム。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s