Monthly Archives: November 2013

「技術」を巡るヲタクな思いについて

多分ひと頃の「日本の第二次世界大戦中の兵器技術礼賛」のようなものへの反動で、この頃は「零戦なんて名機でもなんでもない。各国のコピー技術の寄せ集めから戦闘機に絶対必要な防御装備を省いた『空飛ぶ戸板』みたいなものだった」というような意見が横行しているのを眺めていた(^^ 他人に訊かれることもないと思うが、訊かれてもためらいなく「いや、そんなことないよ、零戦はやっぱり良い戦闘機だったのね」と答える用意はあって、それはなぜかというと、出典も権威の引用もいらなくて「技術に興味をもって育った人間なら共通して判る健全さをゼロ戦という戦闘機は持っているから」であると思う。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/12/29/壊れた時間/ https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/07/05/零式艦上戦闘機/ https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/08/31/f4f-ワイルドキャット/ 機体の強度不足のために急降下が出来ず浅深度降下しか出来なかった。 防弾装備がなかったためにパイロットの死亡率が高かった。 無線が実用の域に達していなかった。 20mm砲が初速不足のために見越し射撃が不可能だった。 ゼロ戦にも欠点は無数にあるが、零戦が戦線に登場した1939年においては、ふつーに、公平に見て「名機」だったと思います。 子供というものは「公正」ということに敏感なので、わしガキの頃、いちばん売れていたイギリスクリスマスギフト用「第二次世界大戦飛行機名鑑」に「零戦」がでていなくて、なぜか日本の戦闘機からは中島のキ27 http://en.wikipedia.org/wiki/Nakajima_Ki-27 だけが載っているのに憤慨して出版社に手紙を書いたこともあった。 もし零戦が欧州戦線の戦闘機なら問題外のダメな戦闘機だった。 欧州戦線は常に戦線が接近しているので被弾確率が中国戦線や太平洋戦線に較べて格段に高く零戦のように火を噴きやすい戦闘機は「棺桶」と呼ばれて終わりだったと思うが、 戦闘に遭遇する確率が桁違いに低かった太平洋戦線では、(日本軍は中国戦線から頭を切り換えられずに格闘戦にこだわって採用しなかったが)基本的には敵を発見すれば大円周行動をとりながら遠くから態勢を整えて相手より高い高度からいっせいに突撃する一撃離脱の戦場だったので、防弾装備の重要性も欧州戦線に較べれば遙かに低かった。 その代わり相手の戦闘機をsweepするための索敵行動に必要な長大な航続距離を必要とした。 わざとガダルカナル島を重要な戦略地点に偽装して海においては日本海軍の補給艦隊護衛能力の乏しさに目を付けて、日本海軍におおきな出血を強いようとし、空においては、航続距離が長大な日本軍戦闘機の長所を恃んで、日本の頭の固いというよりは教科書どおりの発想から一歩も出られないマヌケでしかなかった日本軍参謀たちが作戦可能行動範囲のほとんど末端に位置するガダルカナルまで零戦を飛ばそうと画策することを見込んだのはアメリカ人たちの頭に浮かんだ「良いアイデア」であったと思う。 日本人はアメリカ人たちの思惑通り麾下の操縦士達に往復10時間弱滞空させる行程で、挙げ句の果てに極く短時間の連合軍側が用意した空域での空戦を強いるという致命的な過ちを犯した。それがいかに無謀で操縦士達が生身の人間であることを無視したデタラメな命令であったかは坂井三郎 http://en.wikipedia.org/wiki/Saburō_Sakai という日本の撃墜王だった「兵卒パイロット」が書いた「Samurai!」というベストセラーになったペーパーバックによって英語世界でも広く知られている。 相手の注文通り長所をそのまま短所に変じる愚かな用兵によって零戦はいまでも「見かけ倒しの愚作」であると、たとえば中国の人は、やはり戦争中の恨みが消えないのでしょう、話してみると普通に信じているが、そういう意見が一般的なものにどうしてもなっていかないのは「技術ヲタク」という困った人達が、この世界には存在するからであると思う。 スペックを並べて戦闘機の優劣を論じる人は、どうにもならないトーシロであるのは言うまでもない。 たとえば、もうひとつだけ「零戦」について述べると、前述の「Samurai!」にも繰り返し凡そ飛行機の操縦を出来る人になら誰にでもわかる表現で書かれていることは、「零戦」のスペックシートにあらわれない「操縦性の良さ」「素直さ」「安心できる感じ」で、頭をめぐらせれば言うまでも無いことだと思うが、戦闘機も戦闘機である以前に飛行機なので、操縦する人間にとって、これほど重要なことはない。 わしなどはセスナを飛ばせるだけのPPLの持ち主にしか過ぎないが、それでも、グラマンに乗る人は余程かわった人で、セスナの、たとえばスカイキャッチャーのほうが格段に良い飛行機であると思う。 ダメな飛行機というのは、「なんでここでそういう挙動をするかなあー」と思う。 ヨットにとても似ています。 あるいは「良い技術」というものは到底言葉では表現しがたいもので、 小船舶用エンジンでいうと、フォードの5.0リッター8気筒ディーゼルなどは、ものすごく良いエンジンで、音を聴いているだけで安心する。 ボートの例では判りにくければ、 クルマで言えばMX5(日本名はたしかユーノスロードスター)は、一部のアホなひとたちが述べるような「ただの安物のロータスエランのコピー」などではなくて、乗用車のパーツと生産技術を使って、どれほど素晴らしいライトウエートスポーツカーが出来るか、という模範的な技術の結晶で、「名作」としか言いようがないスポーツカーであると思う。 MX5の成功を見てメルセデスが慌ててつくった愚にもつかないチョー駄作のSLKや、世界最小トラックみたいなドアホなシフトフィールのMGFを見れば、MX5という自動車が如何にものすごい前衛的な「マスプロダクションカー」であったかが簡単に見てとれる。 良い技術は殆ど「音」だけで判別がつく、再び第二次大戦中の兵器で言えば ドイツ軍の88mm砲 https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/07/30/88mm_flakとドイツ中世物語の終わり/ のいかにも初速が速い砲声を聴いてなんとも思わない人は、いかにも技術的に鈍感なひとである。 同様にスピットファイアのロールスロイスV12スーパーマリンエンジン のエンジン音を聴いてうっとりしない人は、酷い事を言うと、技術について云々しないほうがいいのではないかと思われる。 まったく余計なことでおおきなお世話だが、わしガキの頃、日本に行くたびに秋月電子に足をのばしていた頃、日本の「PC自作ブーム」というのが、ただのボードの抜き差しに終始するものだと知って、他人事ながら、日本のひとの「技術意識」はダイジョーブなんだろーか、と考えたことがある。 チップを買ってきてカードを自作する、というのならまだ判るが、マザーボードを選んでカードを組み合わせて電源を投入して動かす、なんていうのは英語世界では技術に何の興味もない人間でもコスト節約のためにやることで、そこで「スペックが」、「今度新しく出たグラフィックボードが」と、まるで一人前のエンジニアでもあるかのように語ってみせることで一市場が出来てしまっていることに、なんとも言えない情けない感じをもったのをおぼえている。 … Continue reading

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ノーマッド日記15

釈迦堂の切り通しへの道をのぼってゆくと、向こうから子供のときの自分自身がやってきそうな気がしたものだった。 子供の頃(1990年初頭)の鎌倉は、おだやかな鄙びた町で、2000年を過ぎた頃からの、その後のがらっと変わってしまった「ブランド住宅地」になってしまった鎌倉とは随分異なる町だったと思う。 東京の麻布あたり以外に知っている「日本」は長いあいだ鎌倉と葉山だけだった。 かき氷屋があったり、肉を買うと竹の皮に包まれてでてきたり、低い丘の頂がトランピングコースになっていたりして、東京とは異なるいちいちに妹とふたりで驚いたり喜んだりした。 最も楽しかったのは海があることで、砂浜はなんだか暗い感じがする、汚い小さな砂浜だったが、その上、海そのものも多分海底の泥が暗色であるせいで茶色い色調の海で、あんまりパッとはしなかったが、海は海で、かーちゃんシスターに連れられて、よくカヤックを出した。 その頃はまだカヤックが珍しくて、漁師のおっちゃんたちが寄ってきて、「こりゃ、なんだい? どっちに向かって漕ぐの?」というふうにかーちゃんシスターに訊いていたのをなつかしく思い出す。 相模湾はイギリスやニュージーランドの海に較べると格段に水温が高いので、そのぶん安全で、子供がカヤックで沖に出て遊ぶには良い海だった。 ニュージーランドなら低温ショックで15分ももたないような局面でも、葉山や鎌倉では、のんびり泳いで帰ればよかった。 泳ぐのは得意である。 ボンダイビーチから海にはいって、向こう岸にある友達の家まで泳いで3キロくらいの湾口を泳いで渡るくらいのことはいまでもよくやる。 義理叔父のモーターバイクを借りて、渋滞の海岸の道を避けて、山のひだからひだを縫って、葉山の長者ヶ崎というようなところに行くと、夏は砂浜にはびったりと人が寝転んでいるが、浜辺から50メートルも沖へ行くと誰もいないので、暖かい水のなかをどんどん沖へ泳いで、人間が小さくて見えないところまで泳いで、振り返ると、鎧摺りの山や他の背の低い山が、濃い青色の空と、立ち上がった、雄大な積乱雲を背景に見えて、心から「日本の夏はいいなあ」と思ったりした。 泳ぐとお腹がすいて、へろへろになりながら鎌倉ばーちゃんの家に戻って、ばーちゃんが呆然とするくらいの量の「ご飯」を食べた。 あるとき「カレーライス」をつくってくれて、お櫃にいっぱいのご飯も全部たべてしまったので、ごめんなさい、と謝りにいくと、心から可笑しそうに笑って、まあ、ガメちゃんは6人前食べてしまうのね、と言ったのをおぼえている。 ばーちゃんは「女学生」時代には有楽町の「ジャーマンベーカリー」に毎日の学校の帰りに寄る不良少女だったせいか、あるいは「洋行」の経験からか、あの年齢の人としては英語もわかるほうだが、まだ日本語が下手であったガキわしにとっては、数少ない「話す日本語が聴き取れる」日本人のひとりでもあった。 義理叔父はやる気も教養もないひとだが、美しい日本語だけは話せる人で、その日本語の秘密は鎌倉ばーちゃんなのであると思う。 このブログ記事を読み慣れている人は、人物がなるべく特定されないように、特に古い記事ほど、ディテールを少しづつ変えてあることに気が付くと思うが、もう随分ながいあいだ書いてあそんでいるので、わしが誰であるか気が付いたひともいる。 日本語が理解できる外国人は、そんなに数が少なくはないのです。 わしのほうでも、もういいかげんばれてもいいや、という気持ちもなくはない。 最近の記事ほど現実をそのまま投げ出すように書いてあって、これじゃ住所までばれちゃうじゃん、な記事が多いのはそういう気持ちの反映でしょう。 相変わらずヘンな人達があらわれて悪罵を投げつけていったり、な、なんてオモロイ手を使うんだろう、と感心するような巧妙であるよりは手が込みすぎて奇妙にみえる手で中傷したりするのは相変わらずだが、もうそろそろばらしてしまうと、彼等が考えて期待しているらしいほどのダメージは、考えてみればわかりそーなものだが、受けているわけではない。 日本語が外国語に過ぎない上に、日本に住んでもおらず、なんだか他人事なので、通常の生活を送っている本人から見ると、最近は特に、「大庭亀夫」を召喚する悪魔使いのような気持ち、というか、そもそも現実を共有しているだけの、別人格のような気がすることもある。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/29/勇者大庭亀夫はかく語りき/ では英語人格はどのくらい違うかというと、このあいだモニに説明していたら、 「それじゃ日本語も英語も人格おなじじゃない」と訝られて、こけたが、そんなことは決してなくて、英語のほうはもっとずっとオトナで人格者でマジメである。 英語社会の30歳というのは、日本語社会の40歳よりも成熟した人格が求められることを反映しているのだと思われる。 ノーマッド日記1 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/03/29/ノーマッド日記_1/ を見ると、まだ「ノマド」という日本語が出来る前だが、もうモニと結婚したあとで、いまはもう苦境に陥って必死に会社の防衛中の中東人と仕事上の付き合いをしていた頃のことだと判る。 日付を見ると福島第一事故が起きた直後で、マジメにビジネスクラスで移動している。 まだこの頃は、なんだかんだ言っても日本は現実に起きたことを直視して再生するだろうと考えていた。 Long Beachの「Open Sesami」 http://www.yelp.co.nz/biz/open-sesame-long-beach で、中東人たちを相手に日本人は危機に際しては別人のように強靱さを発揮すること。隣人と力をあわせあって、素晴らしいモラルをみせること、を話したのをおぼえている。 日本の支配層が国民をまったく信用しない方針を固め、ウソでウソを補強し、日本の人々の科学者への敬意と信頼を悪用してよりによって科学者たちが政府の「足止め政策」の第一の協力者となったことは、日本が将来にわたってもぬぐいされない汚点であると思う。 東京オリンピック招致のために海外特派員たちをサイトのなかにいれたのを皮切りに、現実が外国人たちの目にさらされてしまったので、TEPCOの驚くべき無責任ぶりとやる気のなさや、日本人科学者が政府側に立ってどういう役割を担ったか、ということは、いまもうすでに書かれ始めているので、ここで繰り返す必要はないことだと思うが、世界じゅうの人間の無関心をよいことに日本の支配層がとった方針の浅ましさは、それを見つめていた少数の外国人たちにとっては「衝撃」というような言葉でいいつくせないほどのものだった。 多分、削除しないまま残っているのではないかと思うが、このブログ記事の極く初期の頃に初めて福島を訪れたときの感動が書いてある。 あとでは、それが日本の人のあいだではありふれた感じ方だと判って、なあんだ、つまんねーと思ったが、細い畦道を歩いて、水を張った水田のまんなかまで行ってみると、そこには文字通り空と陸と合わせ鏡のようになった二枚の青空を、夏の白く硬質に輝く積雲の巨大な群れの広がりが素晴らしい勢いで移動していて、息をするのが難しいような興奮を味わったものだった。 「日本の美」というような言葉は安っぽいのではないか、と思うほうだが、否応もなく「日本の美」という言葉が思い出された。 … Continue reading

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さしのべられた手の美しさについて

もうすぐ31歳になろうというのに、30歳になるまえに死亡する予定だった当初の予定と異なって未だに生きていて、刑務所に居を定めることもなく、こうやってブログ記事を書いているのが座敷牢のなかでもないのは、要するにモニさんと会ったということのほかに理由はない。 現実に暴力をふるったことはルールがそれを許しているとき以外にはないが、わしは友人達の観察によれば「暴力的な人間」であって、怒るとなけなしの意志が筋肉を抑えつけているだけで、ほんとうは何をしたいのかが十分に顔の表情を見ただけで感得されるのだそーで、現実に、わしは目の前で恐怖でおしっこをもらしてしまう男の人、というのを何度かみたことがある。 ものすごく、こわい、のだそーです。 ひとが暴力的な人間をどういうときにそこまでこわがるかというと、単に体格がおおきいとか筋肉が雄大なので殴られると痛そうだ、ということだけではなくて、相手が十分自分を殺してしまいかねないくらい頭がいかれてる、と感じるからだろう。 つまり怒りに駆られたわしを見たあの人びとは狂気にとらわれた若い男の爆発が間近なのを感じるから生理的におしっこをもらしてしまったのであって、あの夜の町のスキンヘッズのにーちゃんやモブのおじちゃんたちは、彼等の長い、しょもない経験に照らして「こいつは危ないやつだ」と判断していたのだと思われる。 さいわい(おおきな声ではいえないが)モニさん以前のガールフレンドのひとびとも、いま考えれば猛獣使いの心境だったのだと思うが、わしに、たとえばガールフレンドに対して失礼なことを述べた男に対してわしが暴力をふるう、というようなことを決して許さなかった。 暴力というものに対する軽蔑を常にわしに言い聞かせた。 しかし、これも、いまから思い返してみれば、やはりわしが「危ないひと」だと思っていたからだろう(^^;  30年の甲羅を経たので、わしはいま他人が「成功している」と見なしているわしの生活が100%幸運の結果であることを知っている。 わしは何によらず「わし、えらい」に翻訳することが好きなノーテンキな人間であるが、自分が「成功」して幸福であることを自分の実力であると思い込めるほどノーテンキではない。 人間の一生などは、もっと極端なほどえーかげんなもので、「成功した」人間の一生など自分では精いっぱい努力して人生を戦い抜いているつもりでも実際にはサイコロを転がしてゾロ目が5回続いただけにしか過ぎないことのほうが多いのだと思います。 人間が自助の努力によって自分を幸福にしてゆくという考えはなんらかの理由によって倫理的には良い考え方なのかも知れないが、人間の一生の実相とは遠く隔たっている。 ひどい例をもちだすようだが、美しい天使のような子供に生まれついて、素晴らしい聡明さに恵まれたとして、13歳のときに一生記憶に貼り付いて離れない性的被害に遭ってしまえば、残りの一生で、どれだけ破壊された心を立て直してゆけるというのだろう? 「神を信じる」ということさえオメデタイ人間のたわごとだと、その人が感じたとして、それを非難しうる「神」など純粋の論理の上からも存在しうるとは思えない。 だから運良くこの世界を決定的ダメージを受けないでここまで生き延びてこられたものには、傷ついて蹲っている仲間の横に腰をおろして、彼もしくは彼女のつっかえがちな、ときどきは沈黙のなかに落ち込んでしまう話を聴く義務があるのだと思う。 「義務」という言葉がヘンならば、「必然」と言い直してもよい。 きみやぼくが誤解の上に誤解を重ねて(じゃ、十階だねwとかゆわないよーに) ほとんど訳がわからないほどの行き違いを繰り返しながら執念深く言葉を使って伝達を試みるのは、真の闇のなかで、なんとかか細い蝋燭のような光でもよいから光をつくりだそうと考えるからであると思う。 漆黒の暗闇のなかで、うまく使えない言葉をなんとか組み合わせて有効に作動する語彙の組み合わせができると、ちょうど組み合わせ番号の金庫の鍵があくようにして、微かな光があらわれることがある。 そのときに、その頼りない須臾の光芒に照らされて一瞬みえる相手の顔が意外なほど自分の顔に似ているのを発見してハッとする経験をどんな人も持っている。 そのとき初めて、われわれは「他人」という存在の意外なほどの自分への近しさを実感するのだと思う。 われわれは人間の言語には伝達の能力が決定的に欠けているのをよく知っている。 AがBに「愛している」と述べるときには、AはBに向かって「自分が『愛している』と述べたい気持ちの高まりにある」ことを理解させようとしているのであって、愛する人が相手であればあるだけ、相手に、それ以上の理解を期待する人間はいないだろう。 人間はお互いに理解しあうことが出来ない。 人間はお互いの切ない気持ちを相手に伝えることが出来ない。 人間は自分にとって相手が何であるのかを伝えることは出来ない。 人間は自分が思い詰めた「愛情」を相手に伝える能力に決定的に欠けている。 でも、だからこそ、人間はあきらめずに言葉を使い、通じない言葉を懸命に口にし、目に涙をためながら、なんとしてでも自分の沈黙を相手に伝達しようとする。 人間の絶対の愚かさが、人間の本質なのであると思う。 そうして、人間の真の価値は、愚かさのなかで、何千年の歴史を経ても決してあきらめようとしない、その二重の痴愚のなかにこそ存在する。 わしは人間の「成功」や「達成」を人間の主体的な努力に理由を求めることには、本質的な不健全さが宿っていると考える。 不健全の理由は簡単で、それが本当ではないからです。 失敗した人間も「成功」した人間も、それがただ神様のチョーええかげんな気まぐれの結果であることを思えば、われわれは皆、この同じ時に生まれ合わせた愚かさを価値とする集団の仲間であって、だから、 夜更けのシドニーのセブンイレブンの前で、物乞いをする若い男の両脇に座って、差し出した「BENTO」を一緒に食べながら、一緒に笑い、一緒に泣いている女の高校生たちには、出来の悪い神様よりも、この宇宙の理屈がよく理解されているのだと思う。 8番街のビレッジに近い交差点で、麻薬中毒の結果死んだ62歳のホームレスの女びとのために、ろうそくを灯し、目を真っ赤にして泣いているひとびとは「偽善者」などではないのだと思う。 「せめても、この同じ時に生まれたことを歓びあって」という。 いまは見知らぬ仲間たちへの労りの気持ちをもって、どっちみちたいしたことのない一生を、お互いに親愛の気持ちをこめて、からかいながら歩いてゆくのが良いのだと思います。

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Mさん

「歯をくいしばって」という言葉をみるとMさんのことを思い出す。 Mさん、と言っても見知っているわけではない。 インターネットで見かけたり、言葉を交わしたりすることがあるだけの人です。 わしからみると、とーちゃんの世代よりもう少し年が上のひとである。 じーちゃんの世代よりは下になる。 もっとも英語世界では十代で父親になる人間も多いので、その場合はじーちゃん世代と言えなくもない。 Mさんは日本語世界では有名な人なようだが、 わしは有名なひととは仲良くしないことにしている。 (書いてから気が付いたので書き足すと英語世界には「有名人のお友達」がたくさんいるが、あれは有名な人とお友達になったのではなくて、なぜか、むかしから、わしの友達には有名になってしまう人が多いので結果として「有名な友達」が常に増加しているだけである。) 第一の理由は有名な人は忙しいので、一緒に遊んでもつまらない。 わしのようなチョー不良な人間にとっては「忙しいひと」というのはいない人であって、電話をかけて、「ちょっと角のパブで会うべ」と述べて、10回に9回は出てこられる人間でなければ友達とするに値しない。 もうひとつは有名な人間のまわりには、有名な人間のまわりを’うろうろしていればなんとなく良いことがあるのではないかと妄想している退屈な人間が群れているものなので、こういう人と話をするのが、もうめんどくさい。 この手の人は言葉にも顔つきにも、「楽をしてオカネをもらって有名になりたい」という哀れな心根が明瞭に刻印されているが、自分だけがそれを知らないところが、いよいよ哀切であるというか、「亡者」というものは、こんなものか、と思わせられる。 ツイッタを見ていても、いま京都でこれから東京、羽田にいてこれから札幌、と「人間的生活」ということが永遠に理解できない呪いがかかった国民として有名なアメリカ人なみに多忙である。 いいとしこいて、家庭や自分の健康というものを省みないらしい。 ある種類のイギリス人には、若いときに既成社会を破壊する衝動をもたなかった人間をほんとうには人間として信用しない、いまに続く、長い、口にされない伝統がある。 逆に、40歳をすぎても体制(と本人が信ずるもの)のわるいところばかりをあげつらって、単純な勧善懲悪の古制を適用して、ほころびがある服をおまえはなぜ着る、ほころびがある服など捨てて、まるごと新調しないおまえは偽善者だ、というようなことばかり言う人間を、これはこれで、憎みはしないが、困ったおひとだ、と考える習慣がある。 不正義が横行する社会にあっても正義ばかりを連呼する人間は信用するに値しない、という、社会の伝統がある。 Mさんが大学時代に所属していた「中核派」は、ねころがってゴロゴロしながら本を読んだり、トーダイおじさんたちの話に耳を傾けていると、学生運動の諸団体のなかでも、もっとも暴力的で破壊的、理論なんか知るけ、おれはおまわりをぶん殴りたいだけなんじゃ、という人が多かった党派だったようで、「政治理論」などは寝言にしかすぎないという革命の現実の歴史を考えると、最も「革命」という言葉に近かった集団であるように見える。 70年代に最も盛んで、80年代になると、革マル派を相手にお互いの幹部を名指しで個人に向かって憎悪をたぎらせ、路上で、電車内で、大学構内で、集団で相手を襲って鉛管でなぐり殺す、という陰惨さがふつうの社会に嫌気されて、一瞬で彼等が生息していた小世界においてすら力を失ってゆく。 赤軍派や叛旗派、青年解放同盟、… いま外からやってきて眺めている無責任な傍観者には、政治運動が形成される手前で、お互いへの憎悪ばかりが増大して、社会から孤立し、政治団体であるよりは文学同人のような様相を呈して、やがては消滅する当時の「学生団体」は興味をひく日本の歴史だが、この記事はMさんについての記事なので、Mさんにとっての「大学生時代」が中核派とともにあった、ということを述べるにとどめる。 日立という会社は不思議な会社で、おおきなモーターのような重電を背景としているせいか、ちょっと常識では理解できないくらい退嬰的な会社であると思う。 日本という国を下から上までまるごと理解したかったわしは、むかし、しかるべき伝手を頼って、日本の社会の支配層の要とおもわれるひとたちにインタビューしてまわったことがある。 日立の人にも会ったことがあります。 日立という会社はね、ガメちゃん、とこのひとは堂々と述べた。 3つの消費者市場をもっているのですよ。 ひとつは国内市場。ふたつに輸出市場。みっつめは社内市場なんです。 外国の方には信じるのが難しいかも知れないが、日立は何万人という従業員を養っておりますのでね、このみっつめの大市場を確保する、ということも日立にとっては大切な企業努力なんです。 わしは、笑うのを懸命に我慢してひきつけを起こしそうになったのを憶えている。 この同じ人は会社の役員でありながら、「インターネット革命といっても、わたしはね、『後ろ向きのインターネット革命』というものがあってもいいと思う。eコマース、121と言ってとびつくだけがIT革命とは言えないのではないかと思うんです」とも述べていた。 Mさんが日立で何をしていて、どういう経緯でDECに出てゆくことになったか、わしは知らない。調べる、というほどでなくて、義理叔父に訊くだけで簡単にわかるが、あんまりそういうことをする気にならないのは、このブログ記事をずっと読んでいる人にはお馴染みの、いつものものぐさです。 義理叔父がむかしDECのS3グラフィックチップが載っているデスクトップコンピュータを持っていたのをおぼえている。 このS3というグラフィックチップはコンピュータの歴史のなかでは有名で、何で有名であるかというとGUIベース(つまりは当時でいうとWindows 3.1)におもいきって的を絞ったので有名で、当時はまだ現役だったDOSベースのソフトウエアを動かすと、悪ふざけでもしているように遅くなるのを義理叔父が実演してみせてくれたことがある。 VAXとPDPのミニコンシリーズで有名なミニコンの老舗DECが、この思い切ったマーケティングのPCを出したのは1990年か、そのあたりのことだと思うが、この1980年代後半から1990年初頭という時代は、コンピュータの混乱期にあたる。 コンピュータのようなものに「混乱期」が生じるのは技術的なブレークスルーがなかなか出来なくて、マーケティング過剰の状態になったときにほぼ限られる。 スカリーのアップルは、いまから振り返ればオンラインの時代への展望がまったくもてないOSを抱えて、OSを根本から変えなければならないときに、スタンドアロンコンピュータとしてのマーケティングに拘泥して傷を深めている時期だった。 1985年に書かれたビル・ゲイツの「アップルOSを共有できるOSにするなら協力を惜しまない」という、ビル・ゲイツの長期戦略を考えると不思議な感じがする手紙から始まった「共有OSとしてのアップルOS」という考えは、アップルのだんだんと深まる業績不振につれて、現実的な問題として考えられるようになる。 1990年になるとアップルOSを巡る市場はおおきな混乱におちいるが、義理叔父の友人であるSさんが、その頃、韓国系アメリカ人が創業した会社のアップル互換機のディストリビューションについて打診されたりしていた。 そのときに日本市場側から出てくるのは、なぜかアスキーというような名前で、しかも出身会社は日立関連の会社ばかりで、「誰それさんにはむかし世話になったから、多少高くても、あそこにハードディスクを頼まないわけにはいかない」というような日立系のひとびとの「むかしからのつんがりを大事にする」姿勢に嫌気がさしたSさんは、呆然とするひとびとを前にして、「いっさい、つきあいはできない」と述べたもののよーだった。 … Continue reading

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ほっといて

マリーナからの帰り道に豚まんを買ってモニに可笑しがられた。 「この頃ガメは包子ばかり食べていて中国人の子供みたいだ」という。 中国人ならば大人も包子を食べるのではないかと思うが、結婚生活にややなれてくると、些細な反問というものがその後の展開を成さないのがわかっているので、メンドクサイのでしません。 「そーですか」という。 でも、この豚まん、おいしいんだけど。 いつかツイッタのアカウントに「お弟子さん」みたいなヘンなひとびとと共に大挙して攻めてきた小説家の人が、「個人として幸福な人間は皆悪人である」と述べていたのをおぼえているが、この人が言うことがほんとうなら、モニもわしも悪人なのである。 そーか悪人なのか、ではもっと悪人ぽく「グリンッ」と笑えるように片頬で「もの凄い笑い」をする練習をしないとダメだよねー、と思いながら、ほんらいはモニさんのクルマである緑色のBMWを片手運転しながら3個目の豚まんを頬張っている。 モニさんは臭いが嫌だと言って窓をあけています。 モニさんはアジアのものはびっくりするほど極く自然に嫌いである。 嫌い、というよりはほとんどまったく関心がないよーである。 日本の人たちのなかには、モニのような人をみると「人種差別だ」「反日だ」とゆって大騒ぎをするのが大好きな人がたくさんいるのを経験上しっているが、わしはそう思わないので、特に政治的な感想というものはなくて「アジアのものに興味がないのだな」という認識があるだけです。 日本の人が自分と意見が異なるもの、自分が受けいれたくないものを、看過して、そのへんの床の上に放っておけないのは、面白い国民的な癖であると思う。 自分が嫌いなものが目に付くところにあるのがいてもたってもいられないくらい嫌なようで、ツイッタで観察していても、反原発の考えがあわないと、直に「あなたはおかしいのではないか」と話しかけだす。 そのうちに東電のスパイだと述べだす。 東電の工作員などは良いほうで、わしなどはインターネット上でオオマジメに北朝鮮のスパイだと言われたことがなんどもある。 わしのような酷い浪費家をスパイにしたら北朝鮮の脆弱な経済では倒産してしまうのではないか、というような正当な疑問はもたないもののよーです。 見ていると、あれあれあれと思っているうちに死闘になる。 周りでみていたひとが双方おもいおもいの側についてグループ乱闘が始まる。 直撃弾を浴びたくない「いつものひとたち」がせいいっぱい知性的に見えるように懸命に工夫した皮肉をのべる。 同じように知的に見られたい、これも良くみれば「おなじみの面々」がRTをリレーしてゆく。 多分、受験勉強時代の名残なのでしょう、日本のひとのこれも(他国民に比して)際立った特徴である「まとめ大好き癖」が発揮されて、togetterで相手の言う事を恣意的に「まとめ」て悪意ももちやすいように一覧性を編集する。 わしの大好きな友達である「頭がいかれた」内藤朝雄が話しかけてきて、「われわれはネット上にデマも怪しい話もどんどんRTで流通させて、それを評価の篩にかけるシステムを確立しなければならぬ」と述べたときにも、わしは「そんなん無理なんちゃう」と思わず答えてしまって自分でぶっくらこいてしまった。 考えてみれば、内藤朝雄が対ナチレジスタンスの計画のように述べていることは英語の世界ではあたりまえのことであって、もともとの初めからネットはそういうものなのである。 無意識のうちに自分が「日本語のインターネット世界は極めて特殊な空間である」と考えている事が見透かされたような気がして、狼狽してしまった。 わしは自分の土俵から出ると相手のルールに順うことにしているので日本語インターネットのルールにしたがって「確からしいこと」以外は述べないことにしているが、 英語世界のインターネットのルールでは「発言者が故意にコミュニティを混乱させる目的で虚偽を述べる」のでなければ、別に発言が「デマ」であっても構わないことになっている。 一種の親切心から「きみがゆっていることは事実に照らして誤っておる」というひとはいるが、大半はどういう反応をもって迎えられるかというと「そのへんに放って」おくのです。 ときどき日本の人が議論ということが苦手なのは、この、「放っておく」ということができないからなのではないかと考えることがある。 相手がまちがっていると思えばいちいち相手が「謝罪」するまでかみつきつづけ、相手が反応しないで自分が「放って」おかれると、いよいよ怒り心頭になって、かき集められるだけの手勢を集めて攻撃にかかって、嘘でもいいから土下座しろとわめきたてる。 よく考えてみれば「なぜ自分の(真理であるに決まっている)主張に敬意を払わない」とキリキリしているだけの自己満足への希求以外のものでないのは相当に悪い頭でもわかりそうだが、ごぼうから放射能の正しい怖がり方まで、題材が変わっているだけでやっていること自体は気が遠くなるほど退屈な、いつも同じ繰り返しである。 相手が返事をしないのは自分たちが軽蔑されているからではないか、と最も初めに疑うべきことを疑わないで、黙っているから逃げた、おれの勝ちがわっはっは、と大笑していたりするのを眺めていると、こんなところで「自由主義的な議論」というようなことまで夢見た中江兆民というひとは、どういう夢想家であったのだろう、と思いたくなってしまう。 わしは「東海アマ」という人が大好きだと考えるが、そうツイッタに書くと、「どうしてあんなデマばかりの人を信頼できるのですか?失望しました」という人がでる。 大陸欧州は「こういう場所のこういうときにはこういうかっこうをしてこういう振る舞いをしなければならぬ」という「言われないコード」が細密に定まった息苦しい社会で、その息苦しさの体系が頭にはいっていない人間は文明人とみなさない厳しい社会だが、その一方で「ほうっておく」ことに関しては昔から発達していた社会で、バルセロナの町に立っていても、(有名な人だが)大きさが自慢らしいち○ちんをまるだしにして、誇らしげに立っているじーちゃんがいる。 あるいはアメリカのように「他人をほうっておけない」ところまで退化した文明をもってしまった国でもタイムズ・スクエアにはほぼブーツにアンディ、カウボーイハットにギターという扮装のおっちゃんがいて、特にどうということはなくて風景になじんでいる。 そういう「外観がヘンなひと」はもちろんアジアの国にもいるはずだが、ここでメンドクサイことをいうとバルセロナのでかいちん○んじーちゃんやNYCの裸カウボーイは「頭がおかしい人」として街頭に立っていることを許されているわけではない。 「自分というヘンな人と等価にヘンな人として交差点に立っている」のです。 ここに友達が教えてくれた2chの記事 http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1777560.html があるが、この記事を見てふつうのひとが「吐き気がする」ような気になるのは、この警察に通報した若い人に「未開性」を感じるからであると思う。 「野蛮」を目撃したときの、なんとも言えない嫌な感じを見たからである。 … Continue reading

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Credimi se puoi

ニュージーランドは「国」というものへの帰属意識が薄いひとが多い。 紙幣にエリザベス女王の肖像がつかわれる国の歴史のせいもあるが、最近はイギリス以外からの移民が多いので、インド人なのかインド系ニュージーランド人なのかニュージーランド人なのかは同じインドから移民してきた人でも本人の意識のみに拠っている。 もっと愛国心をもたなければ、というひとたちももちろんいて、「ニュージーランドファースト」という政党は何代も前かにスコットランドやウエールズ、イングランドから移民してきたひとびとと、さらにそれ以前からポリネシアの島から移住してきたマオリ人をくいものにして成長した。 年齢層でいえば「年寄り」にあたるひとたちに支持された。 アジア人を目の敵にすることによって一時は40%という支持を獲得したが、ジャーナリストたちが党首のウインストン・ピータースが、そのときどきにポピュリストの勘に従って「敵」をつくって攻撃してみせているだけで、主張に実質が乏しいことを暴いてみせて、その上に連合王国のジャーナリズムが加勢にでて「ニュージーランド人はアジア人差別に熱中しているのではないか」と報道しはじめたりして、急速に支持を失っていった。 若い世代のほうには「愛国心」=「排外主義」=「老人の退嬰」=「だせー」という図式が頭のなかにほぼ出来上がって、愛国心がない、というより、「愛国心」という概念そのものが問題にされることはほぼなくなってしまった。 ニュージーランド人は国民の15%内外が常に外国に住んでいる。 中国や韓国、日本からの移民のひとたちはオーストラリアとニュージーランドと較べてオーストラリアのほうが「国の格が高い」という、なんだか意味がよくわからない理由でオーストラリアに移住するひとがいるそうだが、当のニュージーランド人はタスマン条約その他によってほぼ二国が経済上はオーストラリア=ニュージランド連邦化している上に、普通の人は何らかの理由でオーストラリアのパスポートに切り換えたければ簡単に切り換えられるので、アジア人移民の国籍に対する屈折した気持ちがよく判らないところがある。 オーストラリアに移住したりパスポートをオーストラリアのものに切り換えたりするのは、最も多い理由が「オーストラリアのほうが天気が良いから」で、年をとると寒さが身体にこたえるのでオーストラリアに家を買って引っ越す人は多い。 天候が理由でオーストラリアに越す人は、だいたい退職した老夫婦で、一年中気候温暖なクイーンズランド州に引っ越すもののよーである。 次が「オーストラリアのほうが仕事のチャンスが多い」。 ニュージーランドは仕事口が少ないのでオーストラリアに移る人が多いが、 たとえばわしの知り合いの自動車の整備工の人は、それまで働いていたカーヤードをやめて独立したら商売に失敗したので、また自動車の整備工になって働くことにしたが、求人広告をみたら、いまはオーストラリアもニュージーランドも一緒くたの求人で、ここは条件が良いなと思って選んだ会社がオーストラリアのブリスベンの会社だったと笑っていた。 いまはブリスベンに住んでいます。 英語世界の内部で起きていることは「グローバリズム」というようなおおげさなものでなくて、もっとだらだらとええかげんな、なし崩しと呼べば呼べなくもない、国と国が混淆してゆく動きであると思う。 生物の細胞のイメージで言えば、それまでは細胞膜の内側だけで原形質が流動していたのが、細胞膜を越えて他の細胞と原形質を交換して流動しだした、というか、群体から多細胞生物への変化の過渡期にあるというか、そういうイメージがいちばんしっくりくるもののようです。 この「多国間原形質流動」の動きは普通の人間にとっては高校生くらいのときから感じられて、たとえば南島の小さな町であるティマルには質が高く「良い家」の子供が集まるので有名な寄宿制の女子校があるが、ここでたとえばローイングをやって成績がおもいがけず良いと、あっというまに手元にニューヨーク州のコーネル大学から奨学金とアコモデーションのパッケージの申し出が届く。 1年も好調が維持されると、びっくりするほどの数のオファーが全米全英からくる。 オーストラリアのビクトリア州で、オレンジ色の夕陽がさしてくるメルボルンのヤラ川の艇庫にボートをしまう高校生の女の学生のもとにも同じようにオファーが来ている。 スポーツや数学、物理というようなことに特別な技能がなくて、地元のオークランド大学に入った都市工学の学生には二年目にはカリフォルニア州のバークレー校で学ぶおおきなチャンスがある。 交換学生がバークレーに行った場合、そこで払う学費は(高い)バークレーのものではなくオークランド大学のものなので、一年目からバークレーに入学するチャンスがあっても、わざと見逃して、交換制度をつかってバークレーに行く学生がいる。 ビジネスのほうは言うまでもない。 たとえばソフトウエア産業なら、有名なもので言えば「Bioshock」はオーストラリアの2Kが開発したソフトウエアで、おびただしい数のソフトウエアがオーストラリアでつくられているが、そういうこととは別に、たとえばアメリカのカリフォルニア州のレッドウッドにいけばアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、アイルランド…ありとあらゆる「英語圏の国」から人がやってきて働いている。 もちろん英語圏以外からもたくさん人はやってきていて、わしの友達であるjosicoはんも、ほんとうはおいしいたこ焼きが食べられなくなるので大阪で仕事をしていたかったようだが、いまは仕事上の必要に順ってロスアンジェルスのゲーム会社で仕事をしているが、英語圏のなかでの国境を越えての移動は、日本人であるjosicoはんの移動よりも、習慣と言語の共有のせいで、遙かに日常性の強いもので、いわば「ぶったるんだ」まま、ずるずると英語圏のなかを移動する。 MMOでいつも一緒にチームを組んでいたのがアメリカ人たちであったせいで、なんとなくアメリカに住むことになってしまったニュージーランド人20歳のDや、作文をほめられて夢中になって書いているうちにいつのまにかアメリカのマンハッタンに住んでライターをすることになった24歳のT、若い世代ほど英語圏のなかでの移動は国内の移動と変わらないものになって、クライストチャーチからオークランドに引っ越すのも、ロスアンジェスルに越すのも、あんまり変わらない、という実感を述べたKのような人もいた。 一見すると、グローバリズムの影響にみえるこうした動きは、しかし、よく目をこらしてみると、自分の魂が帰属する先が集団であるよりは自分自身そのものになってきた、という「動き」のほうにより多く理由があるように見える。 神にも国家にも帰属しない魂しかもちようがない現代の若い人間にとっては、「愛国」などと言われてもピンとくるわけがない。 熱烈な愛国者が目の前にあらわれたとして反射的に考えるのは「自分の国を愛するのは良いことに違いないけど、なぜあなたは自分の国のことにばかりそう熱中できるのか?」という不可解さにとらわれた気持ちであると思う。 まして愛国心が結局は、その発露である場合が多いゼノフォビアに囚われたひとに至っては、「どうしてこのひとは特定の外国人をこれほどまでに憎悪しうるのか?」という不思議な気持ちに打たれないわけにはいかない。 仕事上ことあるごとに自分の前にたちはだかろうとして、常に自分の仕事の達成を妨害しようとする同僚や、それほどおおげさなことでなくても、一向に庭の芝を刈ろうとしない隣人、フラットメイトのグループをつくって高級住宅地の一軒屋を借りたはいいが、毎夜パーティを開いて、家の前に散乱したビール瓶を拾おうともしない新しい隣人というようなものに憎悪をたぎらす、というのならまだ理解の範疇にあるが、たとえば自分に、きっかけさえあればドイツ人をそれほどまでに憎む能力があるかといえば、はなはだ怪しいと感じる。 過去に欧州やニュージーランドやオーストラリアでの激しいゼノフォビアを目撃したときも同じことを考えたが、「外国人たちが自分たちの職を奪っている」「外国人たちが自分達の税金で賄われた教育・福祉を盗みにくる」というもっともらしくすらない理屈を別にしても、外国人排斥運動は自分自身を憎悪しているとでもいうような不思議な印象を常に与えるものだった。 この頃、19歳から23歳くらいの若い衆に会う機会が多いが、若い世代は初めからそういう事情を見抜いているようで、「自分という一生の仲間」にしか興味をもっていないように見える。 あらゆる質問、あらゆる希望が「自分」をよりよいものすること、自分をより幸せにすることに集中したもので、インターネットのおかげか、同じ英語圏の国のあいだの違いを思いの外うまく把握していて、自分にはイングランドの大学町Oでしばらく過ごすのが良いと思うが、あなたはどうおもうか? というふうに始まる質問も具体的である。 そうして、この「自分の2本の足で地球のうえにしっかり立つ」最近のワカモノのはっきりした傾向は、20年前の数百倍はある個人がアクセス可能な情報量に支えられた「新個人主義運動」とでも言うべきムーブメントで、人間が自分個人の生活の質を上げる、というのはとりもなおさず世界の質が向上するための、人間の文明のおおきな跳躍期にさしかかっているようにみえる。 いままで地に伏すようにして、おおきくもちいさくも、共同体を頼りに一生を組み上げるしかなかった個々の人間が、同一言語圏(とはつまり自分の意識と同じ思想デザインであるということです)というものを手がかりに、個人いっこで完結する小宇宙としての、ひとりの人間として地平の向こうまですたすたと歩いてゆける時代にやっと到達したのだ、と感じる。 人間が自分の魂の二本の足だけに頼って広い世界を統一的に見渡せる時代がようやっとやってきた、と考えると、ここまで長かったような、(多分インターネットの発達のせいで)意外とあっさりとたどりついてしまったような、なんだかくすぐったい、微妙な気持ちになるのです。

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邯鄲の夢

子供のときは現実と夢がそれほど違うわけはないと考えた。 夢の中で恋に落ちて恋人に裏切られ人を殺して銀行強盗をはたらき潜伏生活を行って警察に捕まり絞首刑になったところで目が覚めた男の話をむかし読んだことがあったが、眠りに落ちてからの5分間で、このひとは人間の一生に匹敵する生活を夢のなかで送ったのだと子供向けのその本には書いてあった。 5分間で人間の一生を細部を伴って経験しうるなど、あたりまえではないか、なぜことさらに言い立てる必要があるのだろう、と子供心に考えたのでよく憶えている。 ケクレは夢のなかでベンゼン環の構造を思いついたという。 ケクレはたしか自分ではこの「夢のなかでベンゼン環の構造を見いだした」話を否定していたと思うが、科学者で自分の発見は夢のなかで起きたのだと述べているひとは複数いる。 一方で異常で美しい夢をみるたびに目を覚まして枕元のノートブックに書く癖をつけた小説家は、夢のなかで異常と思えたものが覚醒しているときの目には拍子抜けがするくらい凡庸で退屈なものしか過ぎなかった、と驚きをもって述べている。 夢は自分を取り巻く現実の諸条件の強い拘束があるからこそファンタジーたりうるので、どうやら、常に過大評価される運命のものであるらしい。 ひとつの社会の未来は過去のその社会の人間がみる夢に最も性質が似ている。 たとえば戦後の日本社会は、かなり細密なところに至るまで明治初年の日本人がみた「夢」に似ている。 50年代60年代の日本でお題目のように繰り返された「西洋人から見て恥ずかしくない社会を」という言葉は、明治時代の本を読んでいると、実際には当時の日本人が感じたことであるというよりは、敗戦という出来事をはさんで、70年という時間を渉って返ってきた明治人の木霊であるように聞こえる。 司馬遼太郎という作家があらわれて異なるイメージの「明治時代」をつくりだすまでは、明治時代という時代が途方もなく暗い時代であったことは、日本人にとっては常識だった。 自分の力が100ならば120の力がでるまで血を吐いても頑張れと言われた時代で、個々の人間が自分が出せる力以上の力をだすことを求められるのがあたりまえの社会で、社会にとっては都合が良くても、考えなくても直ぐに判るというか、個人にとっては地獄でしかない苛烈な競争社会だった。 「末は博士か大臣か」という「権威」のチャンピオンである博士か、あるいは権力のチャンピオンである大臣になりおおせることをめざしていっせいに競争に参加する、というのが明治時代の日本社会だった。 博士にも大臣にもなりようがない女のひとたちは、ただ子供を産んで育てる人間の姿をした家禽でしかなかったのはいうまでもない。 死という長い眠りについた明治人たちの魂は、まどろんで、現代の日本社会を夢見ていたのだと思う。 ニュージーランドという国がロンドンの下町の冷たい部屋で死んだ、何百万人という数の、どれほど働いても人間らしい生活を許されなかったビクトリア朝時代の労働者階級が夢のなかに投映した国として現代に存在している、それとちょうど同じやりかたで、現代の日本は明治人たちの夢のなかで、明治人の目に映った西洋人たちの「幸福」と繁栄を模している。 夏目漱石の「三四郎」には駅でみかけた西洋人夫婦について 「どうも西洋人は美しいですね」という三四郎と、それに対して 「お互いは哀れだなあ」と述べる広田先生の有名な逸話がある。 (こういうことをわざわざことわらなければいけない気持ちにさせられるところが日本語世界の鬱陶しさだが、この箇所をとらえて漱石の西洋崇拝と嘲る人を何人も見かけたことがあるので、念のために書いておくと、このすぐまえのところに、三四郎がそれまでみたことがある西洋人は外見が醜いひとびとであったこと、しかも、そのうちのひとりは「運悪く」せむしであった、という漱石一流の気が付かなければ何の気なしに読み過ごしてしまいそうなファルスまで仕込まれている) ついでに余計なことを書いておくと、福沢諭吉がサンフランシスコで最も驚嘆したのは「若い女の美しさ」で、このびっくりするほど大胆な若い侍は、これはと思う若いサンフランシスコ人に声をかけて、ふたり並んで写真まで撮っていたそうだった。 閑話休題 ニュージーランドに住んでいると、社会のありかたについて、「夢から生まれた現実」と「現実から生まれた現実」の違いということをよく考える。 アメリカ合衆国という国もそうだが、ここではニュージーランドを引き合いに考えると、ニュージーランドのようにヴィクトリア朝の労働者たちの夢、「正直に勤勉に働けば自分の一戸建ての家が買えて、子供を持ち、教育を与えることができて、幸福な家庭が築ける社会」、当時もいまもイギリス本国のブルーカラーにとっては、ほぼ架空な夢にしかすぎない生活を実現するために生まれた国では、うまく言えないが、現実がもっているべき「陰影」が欠落してみえることがある。 あまり良いたとえではないが、プールの水が胸まであると思っていたらくるぶしまでしかなかった、という感じと少し似ている。 あるいは、欧州では100ユーロも出せば、飲み始めは爽快で、ボトルの半ばでは、フルーティでスパイスが利いた感じがして、飲み終わりにはなめらかな味わいを見せる、というような飲んでゆくにつれて味わいが変化していく言わば「複雑な」ワインが飲めるが、ニュージーランドのような国は、第一級の味だが「まっすぐな」味わいの、夏の陽射しのしたで飲むソーヴィニヨンブランクのようである、というのでも良い。 (やっぱり例としてヘンか) 全然うまく言えないが、現実であるよりは100%精巧につくられた現実の模倣とでも言うような感覚が社会全体を覆っていて、これは、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、という諸国に共通していると感じる。 日本の歴史を振り返ってみると、とりわけ文学者たちが記録した「日本」を遡ってゆくと、明瞭に見て取れるのは「現実から生まれた現実」と「夢から生まれた現実」の混淆であった近代日本が1945年に終わって、日本が「夢から生まれた現実」へ向かう経緯である。 鎌倉の裏通りは、50年代までは中世以来の真ん中が凹んだU字型断面の道とまんなかに石畳があって両脇に人力車の轍が渉るための土が続く「リキシャ道」だったが、まずU字型断面の道(川端康成が門脇に住んでいた甘縄神社の前の道はこれであったはずである)が消滅して、その後、「リキシャ道」がまんなかの敷石がコンクリート化されて観念化されてゆく。 あるいは炬燵という習慣は「現実から生まれた現実」だが、その炬燵がある「テレビのある居間の団欒」という60年代から80年代にかけての現代日本の「家庭の幸福の象徴」は「夢から生まれた現実」であると思う。 容易に想像がつくことだが「夢から生まれた現実」は腐りやすい。 過去の現実と現在の現実は隣り合って連続しているが、過去の夢と現在の現実は連続の維持すら観念に依存しているからである。 日本語によってものを考えるのが年年困難な作業になってゆくことの最大の理由は、日本という国が「夢から生まれた現実」を生きているからであると思う。 日本はまた、「欧米」という、言葉そのものが、指しているものの観念性を暗示している世界から人間の仕草に始まって技術や観念そのものに至るまで絶えず輸入してきた。 そうして、100%精確にコピーされた他者の「現実から生まれた現実」の「夢から生まれた現実」へのコピーの終焉が福島第一発電所の爆発であったのだと思う。 「夢から生まれた現実」は「現実から生まれた現実」と寸分たがわず100%同じであっても、根をもっていない。 日本の原子力発電について昔から言われる「社会的に根をもたない技術」という言い方は、どちらかと言えば理屈よりも実感から生まれた言い方だと思う。 富国強兵の時代が終わって、日本には社会として「追いつき追い越す」という必然性がないのに、社会から個人への要請は常に「個人が堪え忍ぶことによって社会を盛り立てる」ことだった。 日本の歴史をみると「忠君愛国」の明治から始まって、「欲しがりません勝つまでは」「モーレツ社員」「カローシ」「ブラック企業」、言葉が変遷しているだけで、社会の最大の病根は常に個人が社会の部分としてしか認識されないことだった。 … Continue reading

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