南の果ての

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短い、というよりは初めからずっと開店休業中のようなチョーええかげんなわしの仕事歴のなかで、最も眺めのよいミーティングルームはマクグロウヒル本社の役員用会議室であったと思う。
誰かが「きみは、この会議室に足を踏み入れた最も若い人間であると思う」と述べたのをおぼえている。
マンハッタンの夜景が360度見渡せるガラス張りの部屋で、会議はどうでもいいから、一杯カクテルをつくってもらって、ここでのんびり考え事をしたい、と考えたりした。

この頃マンハッタンに戻っていないのは一に「小さい人」のためだが、正直に言って、なんだか都会がめんどくさいという気持ちがどこかに芽生えて、年齢が30代に至っただけではなくて、心がおじちゃん化しているのだと思われる。
オークランドのCBD(都心)にさえ行かなくて、新しく出来た(国営の)アートギャラリーにでかけたり、デパートメントストアのSmith and Caughey’s
http://www.smithandcaugheys.co.nz/
に出かけたくらいで、到頭インド人たちの一大祭典であるDiwali Festival
http://www.aucklandnz.com/diwali
にも行かないで終わってしまった。

「都会に行かなくなったのは私と結婚して綺麗な人あさりをしなくなったからでしょう」とモニさんは怖いことを言うが、それは、わしの過去の素行を悪い方に誇張しているのだと思われる。
マンハッタンでは、ふたりで交差点に立っていて、向こう側にチョー美人の若いおかあさんがチビちゃんの手をひいているのを指さして、「あの子、面差しがガメに似てるな」と無表情につぶやいて、びびらせるのを得意技としたモニさんだが、最近は言わなくなった。
言わなくなったが、そのやさしい眼差しには、なんとなく、網走で努めあげて更生した前科者を見守る目の光のようなものを感じる。

ニュージーランドに欧州やアメリカから移民してきたひとたちのExpatサイトや個人のページ、ブログを見ると、全篇呪詛の言葉に満ちているのが普通である。
仕事がない。
ニュージーランド人は思っていることを正直に言わない。
知性への敬意も興味もない。特に理論的なことにおいて想像を絶するくらい無関心である。
どこの他国へ旅行に行くにも遠い。
それらのお決まりの不満に加えて、アメリカ人たちは、
「家がセントラルヒーティングでないなんて信じられない。
窓もダブルグレージングではなくて、ただの一枚のガラスである」

読んでいて、ぬはははは、と思う。
知らなかったのか。
愚か者めらが。

連合王国人ならば「ニュージーランドに移民するということは収入が5分の1になることを意味している」くらいは、よく知っている。
80年代の「失業率より就業率で就職状況を示した方が数字が小さくて見栄えがいいのではないか」と言われたほどの、ものすごい「仕事のなさぶり」からは脱したが、いまでもニュージーランドは「世界一仕事が見つからない国」である。
先進国のなかでは珍しいくらい、とよく書いてあるが、わしはむかしからオーストラリアやニュージーランドを先進国だと思ったことがないので、いつも読んでいて「前提が間違っておる」と考える。
わしガキの頃は、遊びに行った果樹園に物理学博士号をもった季節労働者(りんご拾いのパートタイムです)が3人もいたりして、アイザック・ニュートンとリンゴの玄妙な縁に感じ入ったりしたが、いまも同じようなものでコロンビア大学の学生ならばパートタイムのアルバイトにファッションモデルをやっていると思われる容姿のオークランド大学の学生が、このあいだ家に遊びに来て話していたら、バイトが「チェリー摘み」だった。
どうも、あんまり状況は変わっていないよーな気がする。

おまけに天気が悪いことスコットランド並みである。
わしは南島のクライストチャーチ郊外にある「牧場の家」で雨が地面から降ってくるのを発見して「きゃあ、スコットランドみたい。なつかしい」と言って、かーちゃんに同意してもらったことがある。
雨が空から降ってくるような柔弱な土地に住んでいる日本の人には判らないと思うが、スコットランドでは通常、冬の冷たい雨は地面から降ってくる。
強風でふきあげられた泥水が顔と言わず身体と言わずバシャバシャあたって、ずぶ濡れになる。
南島も同じで冬は雨がスコットランドの古式に則って、ちゃんと地面からふりつける。
「ガイジンは少しくらいの雨なら傘をささないって、ほんとなんですね」と、雨のなかを傘なしで歩くわしを見て述べた東京人の若い女びとがいたが、それは当たっておらぬ。
クライストチャーチにいるあいだに雨の日に傘をさすという行為の無益さを身体が学習して、習慣がなくなっただけのことである。

のみならず道のまんなかに出来た巨大なみずたまりを渡るかどうか逡巡しているとポプラの木が折れて倒れかかってくる。
風でふきとばされたシェッドのトタン屋根が、人類を救いにあらわれたガメラのごとくクルクルと回転しながら空を舞ってやってきて、首の高さを高速低空飛行をする。
そういう気候なので夏のあいだは愛想の良い店員も無茶苦茶機嫌が悪い。
ぶすっとして、なにか言おうものならどう怒鳴りつけてやろうと待ち構えている。
特にでっぷりしていて頬が真っ赤で眼鏡をかけているタイプの店員が危険である。

午後になって穏やかな陽がさしてくるとモニを誘ってボートを出しに行く。
わしは自慢ぽくなるとカッコワルイので、いつもいろいろに曖昧に書いているが、遠慮していても「自慢したいだけ」「脳内お花畑」「ほんとうは国内のどこかで失業している中年のおっちゃん」とかゆわれるだけなので居直ってはっきり書くと、複数のボートを持っている。
いちばん小さい7mのフィッシングボートは洗浄に出したらボート屋がまちがって売ってしまって、わるいわるい、でも売ったのは事実だからコミッションはもらうからね、という驚くべきKiwiロジックによって9%もの手数料をとられた上に売られていってしまったが、9mのプレーニング(あんまり水に深く座らないで、ほんの少しお尻をつけただけで高速(30〜40ノット)で走る。小さい魚雷艇をイメージすると近い)や13mのディスプレースメント(どっかと水に座って、舳先で波をかきわけて進む。普通のおおきな船はたいていこれ)
40フィートのスピードボート、45フィートのヨット、あんまり人に言わない方がよさそうなおおきさの外洋航海ボート。
その他に昔からもっている31フィートのボロイヨットや、25フィートのもっとボロイヨット、カヤック、ローイング、ディンギイ、「ボート」と名の付くものがいっぱいある。

11mを越える船には、どれもトイレとシャワーがあり、キッチンがあって、寝室がある。
3G用の増幅器やインターネットがあって、テレビも壁についている。
スカイのチャンネルなので家で観るのと同じ番組を観られます。

マリーナのセキュリティロックのキーパッドをビビビと押して、桟橋をスタスタ歩いて行って、後ろのステップスルートランサム(ボートの後ろに付いている「柴戸」のようなドア)からボートに乗って、そのままグオグオグオとディーゼルのエンジンを響かせながらマリーナを出ると、もうそこは人間の世界とはまったく異なる海の理屈で出来た海洋がある。
ハウラキガルフを中心としたオークランドの沿海の楽しさについては、前にも書いた。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/03/23/「とても単純だが言葉によっては説明できない理/
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/09/01/ボート遊びの春/

もっと他にも書いたかも知れないが、いまはメンドクサイので探す気がしない。

海は人間の社会の近くに残された最も素晴らしい自然である。
鯨たちが、のんびりと尾びれをあげながら、のったりのったりした泳ぎ方で湾口を横切り、イルカたちは忙しそうにボートのまわりをぐるりと囲むようにしてから追い越してゆく。
ところどころに、なんだか、そこに神様がいたずらで置いていった rubber duckyのようなブルー・ペンギンたちが漂っている。
そうしてもう何度も書いた、雄大な姿のシャチが、プレーニングどころではない、物理の法則に反するような、ゆっくりした、しかしびっくりするほどおおきな弧を描いてジャンプしながら沖合から泳いでくる。

陸地の影のないところまでくると、「沈黙」という、この世界で最も分厚い「音」がボートを包んで、言葉という人間にとってもっとも危険な呪いからモニとわしを守ってくれる。

午前3時のベタ凪ぎの海のなかに、自分たちだけでいて、甲板のベンチに腰掛けて空を見上げていると、「自然」というものがもともと人間とは対立的な「絶対美」を存在理由としてそこにあること、100年や200年しか生命と意識をもたないものは宇宙のルールとして、一瞬の時間のゆらぎ、壁を走り抜けてゆく影、須臾の幻にしかすぎないことが、言語の奥のほうに眠っている意識の言葉で、抗弁するすべもないほど明瞭に判ってくる。

人間が肉体をもって生まれて、衰えて、肉体が滅びるとともにこの世界を去ってゆくのだという単純な事実が、「神」や「価値」というような夾雑物なしに直感的に受け取られてゆく。

考えてみれば、日本ではおおきな存在であるらしい「悪人正機」の哲学にも、もうひとつの理解をあたえる角度というものがあって、人間の哲学が十分に評価できるほどの遠い距離をもって見れば、人間が須臾の間でしかない一生のあいだに、悪人であっても、善人であっても、そもそも、そこには問題にしうるほどの有意な差が存在しないのだ、と考えることは正当である感じがする。対立的な概念も十分に遠くからみれば同一の点にしかすぎない。
一瞬の閃光のなかに青い火があっても赤い火があっても、それがどれほどの違いだというのだろう?

人間が鏡を見つめながらつくった自己評価の誤謬は、(これも日本の人が好きであるらしい)「人間は考える葦である」という神秘主義者の気難しい数学者が述べた言葉のようなものも含めて、自分の存在そのものが徹底的に無価値であることを、伝達を断たれ、時間の連続性だけがあって滑らかな空間的連続性や広がりをもちえなかった人間の言語が、どうしても納得できなかったことにある。
知性の働きが強い者ほど、悪意をもっているかのように静まりかえる圧倒的な美に満ちた宇宙の生命に較べて、人間の短すぎる生命が、人間の意識になにごとか価値を認めうるほどの活動を許さないという事実そのものが耐えられなかった。
どんな人間も始皇帝の不老長寿の夢を笑うことはできない。
人間がかすかにでも意味をなす言語の構築をするためには、生物としての人間の一生は短すぎるどころか、瞬間を細分化した、そのまたひとかけらが永遠に見えるほど短いのである。

海は、まず第一に沈黙によって、第二には饒舌な表情の変化によって、第三には油断すればいつでも表面にいるものを殺してしまう非情さによって、わしを魅了する。

わしの頭のなかでは自分が住んでいるのはハウラキガルフで、オークランドはそれに付属している町にしかすぎない。
もっと正直に言ってしまえば、ニュージーランドは国であるというよりもモニとわしにとっては寄港地で、国ごとホリデースポット(は酷いが)のようなものなので、仕事があるほうが不思議な気がする。

あの頃はまだ未成年だったが、ミーティングのあと、驚くべきことに出版担当の役員のおっちゃんが、ジンのカクテルをふたつつくって、持ってきてくれた。
他の役員たちが退出した部屋のなかで、肩を抱いて、
「ほら、ご覧よ、ニューヨーク人は皆愚か者だが、この町の夜景の美しさはどうだろう! 愚者に乾杯!」と述べて、しばらく一緒に夜景を眺めるのをつきあってくれた。
きみみたいな若い奴がブルースやジャズを好きなのは珍しいな、と言って、あちこちのクラブや知り合いを教えてくれた。
学校はハイスクールしか出ていないギリシャ移民の叩き上げだそーで、紛いようもなく聡明で、隠すことのできない、暖かい感じのする知性が相手を包み込むようなおっちゃんだった。

そのとき「だが愚か者の美は長続きしない」とおっちゃんが述べたのをおぼえている。
「人間は結局自然に帰ってゆくのさ」
「人間にとっちゃ、自然は、居心地のわるい、冷淡な家だが、他に帰る場所がないからね」

あの「素晴らしい」という言葉がぴったりの知性をもった、おっちゃんは、先月もらった絵葉書によると、アッパー・イースト・サイドにあるカッコイイアパートは放っぽらかしで、いまはケンタッキーの大自然のなかで、ひーこら言いながら山小屋生活を送っているそうでした。

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