新しい生活へのメモ

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午後のあいだじゅう、鉄球が建物を破壊するのを見ていた。
古くて、いまにも崩れ落ちそうなコンクリートの建物は意外なくらい丈夫で、鉄球の打撃に耐えて、抵抗しているようにさえ見える。
まるで、この世界みたいだ、とぼくは考える。

砺波から富山に抜ける県道の途中で見た、鋼鉄の鳥の嘴に似た日本の機械はもっと直截に残酷だった。
木の柱をくわえ込んで、ねじ切り、ひきちぎる。
それでもなんとか形を支えていた木造家屋が、柱のひとつを嘴にもぎとられて、膝から崩れ落ちる人間のように地面に向かって倒れ込んでゆく。
モニが小さな悲鳴をあげる。
ぼくも、家の悲鳴を聞いたような錯覚にとらわれる。

破壊はほんとうに建設をうみだすだろうか?
セントジェームスから折れた小路にある建物の二階のバーでフランス人の友達と話した夜のことを思い出す。
革命は新しい世界をつくりだすことはできなかった。
それはどちらかというと世界の悲惨を脚色して受けいれやすいものにしただけだった。
(精神の世界における破壊であり革命である)宗教は、人間の心を決して救わなかった。人間のつくりだした神の幻像は、人間の痛覚を麻痺させて、血みどろの魂のまま、人間が平穏な気持ちで生きていけるようにしただけである。

そうして、この世界は永遠に生命を生み出し続け、生命を奪い続ける。
ネパールのバダリアという町の裕福な権力者の家に生まれた風変わりな男が述べたように、
人間は生まれて年老いて、病んで、死ぬだけの存在なのである。
電車の隣の席に腰を下ろしてきみを薄気味の悪い目つきで盗み見している男も、きみがこのひとのためなら死んでも良いと思い詰めた女も、きみの母親も、きみの子も、ただ生まれて死ぬだけの存在であるという事実には、普通の人間の知性には耐えがたいほどの干涸らびた無意味ときみの人生におけるすべての努力を嘲笑うだけの、空虚のまばゆいばかりの白さがある。

21歳のあの春の午後、きみはマンハッタンのユニオンスクエアに近いアパートの15階の窓際に腰掛けて、同性愛者の女友達が息苦しいほど細密な描写で始まりから終わりまで語り尽くそうとする女同士の性行為のやりかたを聴いている。
「pampeana」という言葉を思い出して、その唐突な思いつきに笑いをこらえている。
行為自体に似て延々と続く話が終わったあとで、聴いているあいだにブランディと葉巻ですっかり酔っ払ったきみは「無論、右と左のあいだに平衡があるわけではないのさ」としかつめらしい顔で述べている。
平衡は、右ともっと遠くの右の、そのまた向こう側にある。
左の更に遙かな左の涯先にある。
右と左のまんなかにあるのは、ただの凡庸というものさ。
おとなしくて、うけいれやすくて、もっともらしい、嘔き気がするような凡庸にぼくは指を当ててみせて、自分の一生の終わりにつぶやくだろう、「ほーら、釣り合った、なんて見事な黄金の中庸だろう」
同性愛者の女の友達は、突然狂ったように笑い始めて、それから眠る。
ぼくは、そっと服を着て、ドアを出る。

低い冬の空の下で、自分が男に組み敷かれる存在だということに最後まで激しい嫌悪をもったまま死んだ女王の名前がついた丘の上で遠くまでつづくヒースをみていた。
女であることは地獄に生まれつくことである。
この地上の女という女は、ただ他にも地獄の業火に焼かれている「女たち」が見渡す限り存在するというただそれだけの理由で自分が女あることに耐えている。
普段、自分が思考するために「使う」言語さえ男の都合によって出来ている。
女びとの書いたものを見ると一見して、女である自分を、自分の、(男である)言葉が観察して、いわば男である自己が女である自己を観察して「自分の気持ち」を述べているという奇妙で複雑な思考の仕組みがみてとれる。
女は世界についての直截な思考さえ奪われている。

「初めから壊れた平衡」である男と女をもちだすまでもなく、この世界が破滅に瀕している、あるいは堂々巡りに終始しだしたのは、もともとあまりすぐれているとは言い難かった人間の言語を初めとする初期デザインが、どれほど工夫してもうまく機能しなくなったからであるように思える。

前にも書いたが人間の初期言語はどうやら意味が与えられるよりも先に声調が規定され、定義されたものであって、鳥の啼く声の模倣であったらしいその「声」は意味よりも感情を先に伝えた、という。

時系列を見てゆくと、どうやら言語に意味が付与され感情と情緒が語彙の暗闇のなかの不可視の深い淵に沈んでいった頃は、ちょうど人間にとって厳しい生存競争の時代で、そこにおおきなひずみが生まれた。
思考においてすら、右と左のあいだに中庸が求められない人間の言語の特徴は、どうやら、その初期のデザインのひどいひずみに淵源がある。

破壊が建設をうみだすのなら、きみにもぼくにもまだ時間があって、考える余裕があり、考えるに足る未来がある。
まずどうしたら、この世界が破壊できるかを考えることによってものごとを始めることが出来る。
それは無論物理的破壊に拠るわけにはいかない。
なぜなら物理的破壊は実は古代以来の人間の考えの踏襲にしか過ぎないからである。
破壊はまず言語から始まるのでなければならない。
だが、破壊はほんとうに建設をうみだすだろうか?

記憶をのぞきこんでみると、女ともだちと別れてマンハッタンの雑踏のなかへ出ていったぼくとヒースの丘でポケットに手を突っ込んで遠くをみつめてたっていたぼくは同時に存在していた。
ビンボ人だったぼくがポケットから100ドル札を取りだして風のなかに飛ばしたのは、ぼくが自分のなかの誰かと別れを告げたかったからだと思う。
希望から絶望へ
絶望から希望へ
希望も絶望もない白茶けた陽のなかへ

明日へ

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