ひとり芝居

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香港人の友達と待ち合わせてCBDのフードコートに行く。
お腹が空いたので「ロータスライス」、糯米を鶏肉やしいたけやなんかと蓮の葉で巻いて蒸したのをドラゴンボートというレストランのディムサムを売る出店で買って食べます。インドネシア料理やタイ料理、インド料理、ベトナム料理と並んでいて、いわゆる「アジアン・フードコート」のこのフードモールは雰囲気がたいへんかっこよいので好きである。おおげさにいうとニュージーランドにやってくるアジアの人の特徴である「ちゃんと人生を生きていこう」という強い意志が感じられて気持ちが良いのでもある。
坂の上のウイルソン駐車場からここにくるまでに見かける「あばあああああ」のアホな若いコーカシアンたちとはエライ違いです。
ニュージーランドでは連合王国系人の伝統である「肌に色がついている人へのド偏見」に打ち勝ってアジア人を社会の一員として認めさせてきたのは香港系を中心とする中国人たちだった。

先に来て待っていた友達と駄弁りながら目の前の大画面スクリーンを観ていると、抗日ドラマをやっている。
日本人の憲兵が侮辱されて言い返した広東人の女びとの両頬に「往復ビンタ」をくらわせて、腕をつかんで、多分無理強いに綾取りをするのだと思うが、裏庭の小屋にひきずってゆくところである。
しばらくすると女の泣き声がして、ベルトを締め直しながら、ぐへへ、な顔で「山田伍長」が小屋から出てくる演出が50年代のインド映画ぽくて、その安易さが、なつかしくなくもない。
「あれは、あの店のマレーシア人のおっさんの趣味なんだよ」と香港系人が、わしの視線の先を追って笑っている。
「よく、あんなしょうもないドラマやるわ」
結構、人気があるんだけどね。

日本の人が観たら、嫌な気がするだろうな、と思う。
やってきたばかりの留学生などは、しょんぼりしてしまうのではないか。
中国の抗日ドラマはなぜか悪役に「山田」が多いので、マジメな留学生山田くんには受難の時である。

ドミニオンロードは、オモシロイ店がたくさんある道で、中国語専門の本屋、漢方薬店、四川料理、広東料理、湖南料理、華北料理、餃子専門店、包子専門店…もっとずっと道をくだってゆくとレバノン料理、トルコ料理、インドのドサ専門店…と並んでいる。
安い中華料理が最もおいしいのもこの通りなので、駐車スペースがたくさんあるのも相俟って、おやつがわりの包子(日本でいえば肉まん)や水餃子を買いに行くことがある。
テイクアウェイの料理ができるまで、見るともなしに壁にかかっているテレビを観ていると、尖閣諸島問題についてのドキュメンタリを流している。
歴史的背景から日本と戦争になった場合の彼我の戦力予測、戦闘帰趨の予測、というようなびっくりするような具体的なもので、もう明日から戦争を始めそうな勢いです。

あとで聴くと、毎日繰り返して流しているのだそーで、店の人に、「これ、なんの番組なの?」と聞くと、日本人がいかに非道か餃子が冷めそうな調子で延々と説明してくれる。

オークランドのわしが住んでいるところはRemueraというところで、CBDの東側になるが、家からタマキドライブという、前に書いた対日本上陸軍用のトーチカの廃墟が並ぶ海沿いの道に出て左にまがって、橋を渡ってゆくとNorth ShoreというLorde

が住んでいる(^^ 町にでる。
このNorth Shoreは、韓国系人が多く住んでいるので有名な町でもあって、道(Queen Street http://www.youtube.com/watch?v=XysdYHbPSv8 )の売春地区側にずらっと料理屋が軒を並べているCBDについで韓国料理屋が多い。
この頃注意していると「独島はわれらのものだ!」というポスターがときどき貼ってある。
ここでも「これは、なんですか?」と聞くと、胸を張って、やや楽しげな様子で日本がいかにして韓国から独島を奪ったかを説明してくれます。

前に何度か記事に書いたことがあるが、つい最近までニュージーランド社会で中国系人や韓国系人たちがおおぴらに「反日」を述べ立てることはなかった。
ニュージーランドでは中国人韓国人日本人は、それこそ兄弟のように仲がよくて、近所づきあいでも職場でも学校でも圧倒的に少数派の日本人たちを助けるのは中国人や韓国人たちであると相場が決まっていた。

話を聞いてみると、インターネットの力はすごいというかなんというか新大久保での「韓国人殺せ」デモなどを若い韓国系人や中国系人たちはちゃんと観ていて、「やっぱり日本人は変わらない」と思ったもののようでした。
ひとりひとりでいるときは、あいつら、おれたちが怖いものだから猫をかぶって愛想笑いしているだけなんですよ、と吐き捨てるように言った中国のワカモノまでいて、日本の人はたいへんだべなあー、とモニとふたりで話しあったりした。

もともと、いまの日本への好感情はジブリや鳥山明原作アニメのなかの世界とゴジラを始めとする特撮映画がつくりあげただけの脆いものだった。
20世紀から21世紀に世紀が変わるにつれて「日本人」というもののイメージが、かつての「尊大・卑劣・傍若無人」というイメージから「なんだかおかしなヘンなことばかりやっているオモシロイひとたち」に変わってきた。
日本からの移民が退職した夫婦から若いひとびとに変わってきて、この若いひとたちがマジメに働くひとたちで礼儀正しかったことにも理由があると思う。

ニュージーランドはもともと、右翼の大立て者笹川良一の尽力で高校の「外国語」に「日本語」を選択する高校生が多い国で、40代くらいから若い年代の人にはパブやバーで隣り合って、わしが子供のときに日本に住んでいた、というようなことを告げると、「大逆事件」の実際や日本の天皇制の実質的な社会のなかでの権威の変遷、というような話題を酒の肴にして話をしていける人が普通にいる国です。
日本研究者ですらなくて、ただ高校のときの「日本語」の延長で、そこまで辿りついてしまっている。

インターネットが普及するようになってくると、日本の「内部」の様子が如実に分かるようになってきた。
本人たちは日本語だから判らないと、ぼんやりと思っているのかも知れなかったが、連合王国でもニュージーランドでも日本の人のすさまじいゼノフォビアは覆い隠しようがなかった。
わしが2chやはてな市民を相手に実験してみせたときも、展開は予想どおりだったし、嫌悪の気持ちに勝てなくなって日本語を捨ててしまう人が多かった。
そういう動きが、やがてたとえば新大久保デモが英語字幕解説付きで大学フォーラムのような場所で流通するようになって、日本や日本語とは無縁な人間達にも知られるようになってきた。

最近、新聞やニュースサイトの福島第一事故処理の記事で「日本人は都合が悪い現実は直視できない国民性だ」ということを皆が知っている常識として扱う場面が増えてきたことには、そういう背景があるのだと思う。

安倍晋三や石破茂がときどき洩らす極右的言動が日本の広汎な大衆に支持されていることや、石原慎太郎や橋下徹の自分では意識すらされていない女性蔑視・ゼノフォビアを基調とする発言が、これも「なぜ問題なのか判らない。他の国の人間だって同じではないか」という反応で受け止められていることも皆がよく知っている。

ここに面白い図式が出来ていて、日本の周りの世界からは日本人が観られていると気づかないことまで透視されて見えているのに日本の側からはちょうど昔の映画の遠景の書き割りのように日本の恣意的な報道に終始するマスメディアに遮られて世界の実際の様子がまったく見えない仕組みができあがっている。
日本と他国民では同じ問題を見ているはずなのに現実に見ているものはまったく異なるものなので意見がまったく噛みあわずに、不必要に日本人の知的レベルを低いものとして印象づけている。
福島事故によってばらまかれてしまった放射性物質に対する一連の出来事は、その典型で、わし家に遊びに来たオークランド大学の学生たちが「日本人は放射能が危険だという知識すら持っていないので驚いた。子供のときの日本のイメージはハイテクで頭の良い人間がたくさんいる国だったのに、放射性物質の危険性すら知らないで、のほほんと危険な土地で暮らしている、あの程度の知的能力だったなんて幻滅もいいところである」と述べていたが、いや、あれは日本の科学者たちに折伏されて放射能は危なくないと宗旨変えしたのさ、と説明してやっても、科学者が全然科学者的でない態度で本来同胞であるはずの自国民を折伏するという訳のわからなさを頭のなかで克服できないので、わしの目をみつめたまま、頭頂から「????、?x12」のマークが飛び出してくるだけである。

日本にいるときに蒐集した60年代70年代の雑誌を寝転がって眺めていると、
「これでは外国人に恥ずかしい」
「欧米人がみたら、なんというか」
というような、外国人居住者どころか観光客ですら殆どいなかったはずの当時の日本を考えると、不思議というしかない科白がびっくりするほど何回も繰り返されているが、その割には「外国」のイメージは著しく具体性を欠いていて、知能も倫理性も人類よりも遙かに高い超人類的なエイリアンのイメージのようなものが思い描かれているか、人間性を認めなくても良いことになっている「自分達に似た動物」という扱いになっているかのどちらかで、どちらかと言えば日本のひとにとっては日本語を話す者だけで宇宙は構成されている、というイメージだったように見える。
一方で都倉俊一という多分作曲家の人が「北ヨーロッパの女の性器は臭いんだよね。指をつっこんでから鼻先に指をもっていって嗅いでみると耐えられない。北へ行くほど臭い」と自信を持って公開の対談で述べていたりして、読んでいる方はあまりの上品さに椅子からころげおちそうになったりする。
欧州人の女びとなどは性交可能な珍獣扱いである。
なにしろ同じ雑誌の号に学生運動についてのセンスの良い分析記事が出ていたりするので、読んでる方は、なんとなく夢のなかの国から送られてきた雑誌を購読しているような気分になる。

この次くらいにブログ記事で日本語で書いて考えたいと思うが、インターネットは一義的に破壊者であって、人間が歴史上邂逅し得た最大の破壊神であることに特徴があり、だからこそ、そこにこそ、希望がある。
でも、日本にとっては災厄なのかも知れないなあ、と思うことがある。
日本の言論は明らかにインターネットの普及とともに質が低下した、という西洋諸語世界と較べたときの際立った特徴がある。
それは多分個々の人間がお互いに「似たもの同士」の均質性に向かって強く働きかけることによってしか成立しえない日本社会の特殊性が原因している。
英語世界ではインターネットが伝統的システムの破壊者として猛威をふるっているのに、日本語世界では同じインターネットが思想統一の精巧な装置として働いているのは、それが原因だろう。

その結果、日本社会の特殊な孤立は、加速度的にひどくなっている。
いまの日本はマジックミラーで四方の壁が出来た部屋のなかに充満した「無数の自分」に苛立ちながら、ただ室内の明かりを消して外の照明をつければよいのだという単純な事実に思い至らずに、ついに鏡面のなかの他者とも自分とも見定めがつかない相手に殺意を抱いて、手首の上に刃を走らせ、自分の胸に切りつけて、自傷しつづける孤独な人の姿に似ている。
ダイジョーブか、日本、と思うが、
日本語インターネットのトイレ臭い薄暗がりには舌なめずりしながら「おおきなお世話だ」と言いたがっている人が犇めいていて、近くではツイッタを通じて福島第一事故の直後に勇敢に建設的精力的な発言を行った孫正義に対して「ここまでご苦労様でしたが、ここから先は、貴方のような外国人の手を借りなくても私達日本人だけで解決できますから、どうぞお引き取りください」とたくさんの人間が述べた、日本の人らしい鬱屈と、他人を傷つけようとするときの精妙な修辞の技量を考えると、
ダイジョーブか、と思うのも「失礼だ」と怒りそうなので、考えてもしょーがねっか、という結論になっていくのでした。

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One Response to ひとり芝居

  1. mint says:

    日本は被爆国なのに、なぜ放射能の被害を軽く見るのか、ずっと不思議に思っていました。為政者の側にはいろいろ理屈があるとしても、一般の庶民には、あれだけの被害を体験したら、どんなに科学者に「折伏」されても、理屈では説明できない、拭いようのない感覚的な恐怖というものが共有されていてもいいのではないか?化学物質などには、これだけ神経質なのに、と常々疑問に思っていました。

    ひょっとしたら、この放射性物質に対する楽観というか鈍感さは、広島と長崎を経験しているからこそではないのかと思い至るようになりました。つまり、原爆を落とされた広島も長崎もちゃんと復興したのだから、原発事故が起きた福島も大丈夫だ、という気持ちが何となくどこかにあるのではないかと。原爆が落とされた直後には、「草木も生えぬ」と脅されたのに、なんだ、ちゃんと生えるようになったではないか、ということになり、それがいつの間にか「放射能なんてたいしたことない」、「この土地から離れなくても大丈夫」という侮りにすり替わっているのではないでしょうか。

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