オダキンへの手紙

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オダキンがツイッタで、わしが書いた「I want to be something」
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/10/10/i-want-to-be-something%E3%80%80/
について、
「ガメさん、これすごく心に残りました」

と途方もなく無防備でやさしい気持ちに満ちた言葉でほめてくれたときに、わしはすっかりパニクってしまって、わしが最も嫌いなはずの「斜に構えた言葉」で答えてしまったことが、このブログ記事を書いている理由だと思います。

オダキンは研究者の常として鈍感であると思う。
古来、射撃と学問は鋭敏な神経の人間には無理だと言われていて、例外はあるが、おおむね現実に合致している。
IQテストのような「quick mind」に働きが強い人たちが研究者として大成するのが難しい理由であるとされている。

わし大叔父はノーベル賞候補に何回かあがって、その都度落選して、「正当な人選だろう」と痩せ我慢をしながら、その実わしを呼び寄せて泥酔する程度の物理学者だったが、
いつも詩があまりに判らないので、わしをがっかりさせた。
このおっさんはなんという低能だろうと嘆かせた。
プロい詩はわかりそうもないので、英語が理解できれば誰でも理解できるに違いないW.H.Audenのrefugee blues

Say this city has ten million souls,

Some are living in mansions, some are living in holes:

Yet there’s no place for us, my dear, yet there’s no place for us.



Once we had a country and we thought it fair,
Look in the atlas and you’ll find it there:
We cannot go there now, my dear, we cannot go there now.



In the village churchyard there grows an old yew,
Every spring it blossoms anew:
Old passports can’t do that, my dear, old passports can’t do that.



The consul banged the table and said,
”If you’ve got no passport you’re officially dead”:
But we are still alive, my dear, but we are still alive.



Went to a committee; they offered me a chair;

Asked me politely to return next year:

But where shall we go to-day, my dear, but where shall we go to-day?



Came to a public meeting; the speaker got up and said;

”If we let them in, they will steal our daily bread”:

He was talking of you and me, my dear, he was talking of you and me.



Thought I heard the thunder rumbling in the sky;

It was Hitler over Europe, saying, “They must die”:

O we were in his mind, my dear, O we were in his mind.



Saw a poodle in a jacket fastened with a pin,

Saw a door opened and a cat let in:

But they weren’t German Jews, my dear, but they weren’t German Jews.



Went down the harbour and stood upon the quay,

Saw the fish swimming as if they were free:

Only ten feet away, my dear, only ten feet away.



Walked through a wood, saw the birds in the trees;

They had no politicians and sang at their ease:

They weren’t the human race, my dear, they weren’t the human race.



Dreamed I saw a building with a thousand floors,

A thousand windows and a thousand doors:

Not one of them was ours, my dear, not one of them was ours.



Stood on a great plain in the falling snow;

Ten thousand soldiers marched to and fro:

Looking for you and me, my dear, looking for you and me.
を読んでもらったら、
「なんだか、悲しいお話だな、これは」と言ったので、それ以来、わしは大叔父は詩の話はいっさい(訊かれても)しないことにしている。
  オダキンという人も、この大叔父に似て「教養」というようなものはないひとだが、わしが、それにも関わらず、オダキンの悪趣味なアニメ趣味にも関わらず、好きなのには理由がある。
 
わしはオダキンの「愚かさ」が好きである。

オダキンはものごとが「日本的」でないと嫌であるようだ。
歴然として、西洋人に「こうしなければダメではないか」と言われて「そうですね」と言えない人である。
「西洋人がなんだ。おれは日本人だ。おまえたちの助けなんかなくてもやっていけるんだ」という人であるのが明瞭である(^^
わしは、それをくだらないこだわりであると考えるが、ではそういう類の「愚かさ」が嫌いかと問われれば「好きである」としか答えようが無い。
村上憲郎という人もそうだが、「こだわり」と言えば聞こえがよすぎると思う。
オダキンや村上憲郎のような「愚かさ」がなければ、人間に生まれて何事かを成すことが出来ないのは、ややマンガ的であっても、おじちゃん風でも、われわれがうまく折り合いをつけがたい理屈によって、ブラック企業風ですらあっても、依然として真実なのであると思う。

神が「人間はあまりにバカで粗暴なので、もう滅ぼすことにした」と述べにやってきたとして、人間にはどんな抗弁が出来るだろう、と考えて遊ぶのは、わしと妹の夕食後、めいめいの子供部屋に行くまでの時間の人気のある遊びだった。

妹は人間がマジメなのでヒュームやスピノザや舎利子を例にあげて人間の知性は見捨てるほど価値がないわけではないこと、人間には数学という透明(=論理的)な言語があって神の想像力を越えるほど神の情緒に近付いたこと、ナザレのイエスのような一部の人間は自分を神の一族と仮構することによれば神の考えを理解とはいえなくても感得できたこと、をあげるが、わしの意見はまるごと異なる。

神様の持つ本質的な問題は、その十全な理解力が「愚かさ」を理解できなかったことであると思う。
考えるのが難しければバンジージャンプを思い浮かべてもよい。
人間は自分の人生において、思想において、あるいはそれ以上の投企において「考えを停止して跳躍」するゆいいつの生き物である。

音楽が聞こえてくれば肉体をリズムにあわせてゆらせ、ステップを踏み、そのステップのリズムと震動が脳にフィードバックして彼女/彼の思考そのものに影響する。
曇って、低い空が窓の外に広がる冬の午後に、自分の部屋をじっと眺めてドアを開けて、冷たい大気の中に出て、花屋へ行って抱えきれないほどの花束を買って部屋にもどって誰にみせるのでもないのに飾ってためいきをついている。
「結婚」を発明して、誰にも頼まれないのに、他の人間と性交することを厳しく自分に禁じて、自分を社会制度の100%の奴隷の身に落とすことで果てしない幸福を感じる。
「ぼくは年をとってしまった」と述べる夫に、平然と「そんなことないわ。あなたは、なんて美しいのでしょう」とウソをつく能力を身につけてゆく。

別にきみに信じてもらおうと思わないが、人間の「知性の優越」など秋田犬がラブラドールに較べて感じる優越程度のものにしか過ぎない。
人間が「自分達の達成した文明」などと言えば、天国の門の前のピーターでなくても、彼の足下の猫でも大笑いするだろう。

…だいぶん酔っ払ってきたので、オダキンのツイッタにほんとうは答えたかったことをここにまとめて書いておきます。

「そだね。ガメのいうことは完全に正しいんだけど、なんというか、自分の存在の意味のなさに耐えられなくて、なにか自分が自分として存在した痕跡を宇宙に残したい、とどうしても感じるのだと思う。」

自分の存在の無意味さに耐えられる人間なんていないのさ。
実は「人間の一生には、そういう面もある」というような、それならばハッピーエンドになんとかつなげられそうな話ではなくて、人間の一生が無意味だというのは事実としての「前提」であって人間には「もれなくついてくる」事実であると思う。
解釈の余地はないのです。
だからほんとうは人間の一生がすべからく無意味であることのほうに人間の真実の重みがあるのだと思います。

オダキン:ほんで「このままでは俺はなにものにもなれないまま終わってしまう」という焦燥感は俺にもものすごくあって、たとえば他の
http://profmattstrassler.com/2013/10/08/the-twists-and-turns-of-higgstory/ …
この素粒子論屋の文章に伏流する哀しみみたいなものにもそれをおれは感じる。

その焦燥感がある人間だから(圧倒的に悪趣味としか言いようがない未成年ポルノじみた二次元アニメへの嗜好にも関わらず)オダキンはわしの友達なのであると思う。
その「焦燥感」は明らかに正当なもので、実際に正当かどうかは他の奴が説明すればいいじゃんね、と思うほど自明的に正当であると思う。

ほんでガメさんの哲学って正しいんだけどあまりに正しく虚無的で

わしは「虚無的」と思わない。
「正視」というものですよ。
ものごとをあるがままにみる、ということは訓練すれば達成しうる能力です(^^

日本って民主制の国じゃないので、逆にそういうエリート意識というか、「お返ししなきゃ」という気持ちを、エリートが持ちにくいんじゃないかなーと思いました。

日本は民主制の国と思う。
「民主制」自体は一片の紙切れに書かれた政治の「制度」にしか過ぎない。
「自由」とはなんの関係もない。
ブログ記事で書いたが制度は完璧に機能しているがそこに個々の人間として参加しているはずのひとりひとりの「日本人」がほんとうには自由を希求していないほうに(より大きな)問題があるのだと思う。

たとえば「千鳥」や「すべりひゆ」なら、もうここまで読んで気が付いているが、わしがオダキンを友達だと思うのは、
「ガメさん、これすごく心に残りました」という言葉の表現の無防備さにある。
いいとしこいて、こんなに無防備で、無垢な文を書くたわけがいるだろうか。

途方もなくうらやましいとも思うが、サンジョベーゼの1.5リットル瓶を二本飲んだので、もうだいぶん酔っ払ってしまった。
もう筋道だった話をするのが難しいみたい。
あのさ、いつか、会おうね。

わしは「日本人」というと、いつもきみのことを思い出します。
会えて、よかった。

でわ

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