邯鄲の夢

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子供のときは現実と夢がそれほど違うわけはないと考えた。
夢の中で恋に落ちて恋人に裏切られ人を殺して銀行強盗をはたらき潜伏生活を行って警察に捕まり絞首刑になったところで目が覚めた男の話をむかし読んだことがあったが、眠りに落ちてからの5分間で、このひとは人間の一生に匹敵する生活を夢のなかで送ったのだと子供向けのその本には書いてあった。
5分間で人間の一生を細部を伴って経験しうるなど、あたりまえではないか、なぜことさらに言い立てる必要があるのだろう、と子供心に考えたのでよく憶えている。

ケクレは夢のなかでベンゼン環の構造を思いついたという。
ケクレはたしか自分ではこの「夢のなかでベンゼン環の構造を見いだした」話を否定していたと思うが、科学者で自分の発見は夢のなかで起きたのだと述べているひとは複数いる。
一方で異常で美しい夢をみるたびに目を覚まして枕元のノートブックに書く癖をつけた小説家は、夢のなかで異常と思えたものが覚醒しているときの目には拍子抜けがするくらい凡庸で退屈なものしか過ぎなかった、と驚きをもって述べている。

夢は自分を取り巻く現実の諸条件の強い拘束があるからこそファンタジーたりうるので、どうやら、常に過大評価される運命のものであるらしい。

ひとつの社会の未来は過去のその社会の人間がみる夢に最も性質が似ている。
たとえば戦後の日本社会は、かなり細密なところに至るまで明治初年の日本人がみた「夢」に似ている。
50年代60年代の日本でお題目のように繰り返された「西洋人から見て恥ずかしくない社会を」という言葉は、明治時代の本を読んでいると、実際には当時の日本人が感じたことであるというよりは、敗戦という出来事をはさんで、70年という時間を渉って返ってきた明治人の木霊であるように聞こえる。

司馬遼太郎という作家があらわれて異なるイメージの「明治時代」をつくりだすまでは、明治時代という時代が途方もなく暗い時代であったことは、日本人にとっては常識だった。
自分の力が100ならば120の力がでるまで血を吐いても頑張れと言われた時代で、個々の人間が自分が出せる力以上の力をだすことを求められるのがあたりまえの社会で、社会にとっては都合が良くても、考えなくても直ぐに判るというか、個人にとっては地獄でしかない苛烈な競争社会だった。
「末は博士か大臣か」という「権威」のチャンピオンである博士か、あるいは権力のチャンピオンである大臣になりおおせることをめざしていっせいに競争に参加する、というのが明治時代の日本社会だった。
博士にも大臣にもなりようがない女のひとたちは、ただ子供を産んで育てる人間の姿をした家禽でしかなかったのはいうまでもない。

死という長い眠りについた明治人たちの魂は、まどろんで、現代の日本社会を夢見ていたのだと思う。
ニュージーランドという国がロンドンの下町の冷たい部屋で死んだ、何百万人という数の、どれほど働いても人間らしい生活を許されなかったビクトリア朝時代の労働者階級が夢のなかに投映した国として現代に存在している、それとちょうど同じやりかたで、現代の日本は明治人たちの夢のなかで、明治人の目に映った西洋人たちの「幸福」と繁栄を模している。
夏目漱石の「三四郎」には駅でみかけた西洋人夫婦について
「どうも西洋人は美しいですね」という三四郎と、それに対して
「お互いは哀れだなあ」と述べる広田先生の有名な逸話がある。
(こういうことをわざわざことわらなければいけない気持ちにさせられるところが日本語世界の鬱陶しさだが、この箇所をとらえて漱石の西洋崇拝と嘲る人を何人も見かけたことがあるので、念のために書いておくと、このすぐまえのところに、三四郎がそれまでみたことがある西洋人は外見が醜いひとびとであったこと、しかも、そのうちのひとりは「運悪く」せむしであった、という漱石一流の気が付かなければ何の気なしに読み過ごしてしまいそうなファルスまで仕込まれている)

ついでに余計なことを書いておくと、福沢諭吉がサンフランシスコで最も驚嘆したのは「若い女の美しさ」で、このびっくりするほど大胆な若い侍は、これはと思う若いサンフランシスコ人に声をかけて、ふたり並んで写真まで撮っていたそうだった。

閑話休題

ニュージーランドに住んでいると、社会のありかたについて、「夢から生まれた現実」と「現実から生まれた現実」の違いということをよく考える。
アメリカ合衆国という国もそうだが、ここではニュージーランドを引き合いに考えると、ニュージーランドのようにヴィクトリア朝の労働者たちの夢、「正直に勤勉に働けば自分の一戸建ての家が買えて、子供を持ち、教育を与えることができて、幸福な家庭が築ける社会」、当時もいまもイギリス本国のブルーカラーにとっては、ほぼ架空な夢にしかすぎない生活を実現するために生まれた国では、うまく言えないが、現実がもっているべき「陰影」が欠落してみえることがある。
あまり良いたとえではないが、プールの水が胸まであると思っていたらくるぶしまでしかなかった、という感じと少し似ている。
あるいは、欧州では100ユーロも出せば、飲み始めは爽快で、ボトルの半ばでは、フルーティでスパイスが利いた感じがして、飲み終わりにはなめらかな味わいを見せる、というような飲んでゆくにつれて味わいが変化していく言わば「複雑な」ワインが飲めるが、ニュージーランドのような国は、第一級の味だが「まっすぐな」味わいの、夏の陽射しのしたで飲むソーヴィニヨンブランクのようである、というのでも良い。
(やっぱり例としてヘンか)

全然うまく言えないが、現実であるよりは100%精巧につくられた現実の模倣とでも言うような感覚が社会全体を覆っていて、これは、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、という諸国に共通していると感じる。

日本の歴史を振り返ってみると、とりわけ文学者たちが記録した「日本」を遡ってゆくと、明瞭に見て取れるのは「現実から生まれた現実」と「夢から生まれた現実」の混淆であった近代日本が1945年に終わって、日本が「夢から生まれた現実」へ向かう経緯である。
鎌倉の裏通りは、50年代までは中世以来の真ん中が凹んだU字型断面の道とまんなかに石畳があって両脇に人力車の轍が渉るための土が続く「リキシャ道」だったが、まずU字型断面の道(川端康成が門脇に住んでいた甘縄神社の前の道はこれであったはずである)が消滅して、その後、「リキシャ道」がまんなかの敷石がコンクリート化されて観念化されてゆく。

あるいは炬燵という習慣は「現実から生まれた現実」だが、その炬燵がある「テレビのある居間の団欒」という60年代から80年代にかけての現代日本の「家庭の幸福の象徴」は「夢から生まれた現実」であると思う。

容易に想像がつくことだが「夢から生まれた現実」は腐りやすい。
過去の現実と現在の現実は隣り合って連続しているが、過去の夢と現在の現実は連続の維持すら観念に依存しているからである。

日本語によってものを考えるのが年年困難な作業になってゆくことの最大の理由は、日本という国が「夢から生まれた現実」を生きているからであると思う。
日本はまた、「欧米」という、言葉そのものが、指しているものの観念性を暗示している世界から人間の仕草に始まって技術や観念そのものに至るまで絶えず輸入してきた。
そうして、100%精確にコピーされた他者の「現実から生まれた現実」の「夢から生まれた現実」へのコピーの終焉が福島第一発電所の爆発であったのだと思う。

「夢から生まれた現実」は「現実から生まれた現実」と寸分たがわず100%同じであっても、根をもっていない。
日本の原子力発電について昔から言われる「社会的に根をもたない技術」という言い方は、どちらかと言えば理屈よりも実感から生まれた言い方だと思う。

富国強兵の時代が終わって、日本には社会として「追いつき追い越す」という必然性がないのに、社会から個人への要請は常に「個人が堪え忍ぶことによって社会を盛り立てる」ことだった。
日本の歴史をみると「忠君愛国」の明治から始まって、「欲しがりません勝つまでは」「モーレツ社員」「カローシ」「ブラック企業」、言葉が変遷しているだけで、社会の最大の病根は常に個人が社会の部分としてしか認識されないことだった。
日本の社会では常に個人が社会によって浸蝕されている。
社会と個人のあいだの境界が明瞭でないところがあって、まるで社会と個人のあいだで原形質を交換しあうような不思議な社会であると思う。

日本の社会のあちこちの隅っこから「現実から生まれた現実」を拾い集めて、観念性が排除された「日本」の姿をみいだそうとすることには、おおきな現実的な意味があるのだと思います。

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One Response to 邯鄲の夢

  1. 眠れる森のおっさん says:

    >100%精確にコピーされた他者の「現実から生まれた現実」の「夢から生まれた現実」へのコピーの終焉が福島第一発電所の爆発であったのだと思う。

    絵の話になってしまうのだけど読んでいて色々思い出すことがあったのでコメントします。

    明治時代には油絵具で描かれた日本武尊や龍騎観音、印象派の筆致で描かれた日本の漁村というような、一見して良く出来てはいるがこれは何かがおかしいというか、致命的な「歪み」を感じさせる代物が沢山あるのだけれど、これまで画家達やその周りにいた人たちは「なかなかよく描けているじゃないか。そのうちに本家にも比肩するくらいのものができるさ」というふうに言い合って、あまりその「歪み」を直視することを怠ったってきたのではないかと思う。
    コピーはどれだけ精巧に作ってみても結局はコピーにすぎず、どれだけ洗練してみても根本に生じた「歪み」は矯正できるものではない。

    まるで自分に言い聞かせるような感じのする「和魂洋才」という言葉は、今の自分の目から見るとひとつの詭弁としか映らないが、そんな苦々しい詭弁を弄してまで西洋というものを取り入れなければならなかった明治の人達の、存在しえないゴールを目指して進むような努力を思うと暗澹たる気持ちがする。
    でもそういった「歪み」に対する葛藤があるうちはまだマシだったのだと思う。
    少なくとも「実際の自分たち」というものが見えていた証しだと思うからだ。
    でもそれも時代を経るごとに失われてしまって、そういう「歪みに対する真剣な眼差しも、それを精査しようとする精神活動も鈍化して形骸になってしまい、「海外の目を気にする」とか、ときおり発作のように出てくる「日本賛美」、或いはその両極を斜に構えて論評する、というような、日本の数ある中の習慣、よほど気を付けていなければ思わずしてしまう無思考でお決まりの行動様式の中のいくつかになってしまった。

    「痛み」の感覚を失ってしまった人はどれだけ自分の身体が傷ついても気付くことができない。僕の目には僕等日本人は満身創痍に見えるが、周りを見回すとどうもそういうことにはなっていないようだ。まるで自分の身体にナイフを突き立ててそれを誇らしげにみせびらかしているような人さえ散見される。憎い相手を攻撃しているつもりで実はそれが自分自身をも損壊しているということに気づきもしない。そういう人を見ると言葉を失う。話が通じるとはとても思えないと考える。僕らは「痛み」を思い出すことができるだろうか?

    さっきの和魂洋才の元ネタというか、和魂漢才というのがある。和魂洋才は西洋に対して、和魂漢才は大陸の中華文明に対して、ということらしい。どうやらこれが初めてではなくて日本の人は昔からこういうことをやってきた人々だったのだ。

    また絵の話になるが、水墨画というのがあって、中国の発祥で、彼の地で発展した後、禅と共に日本にもたらされたそうだ。日本の水墨画を語るうえで雪舟という人が必ず出てくるが、彼は日本独自の水墨画(山水画)を確立した人であるらしい。
    僕は何度か、この雪舟という人とその師である周文、それから彼らが模範とした夏珪、馬遠という大陸の画家の絵を同じ場所で見比べたことがある。
    雪舟や周文の山水画は、素人目に見ても十分に水準以上のものがあるし、技量も随分と洗練されたものであると思われたが、夏珪や馬遠のそれに比べると、スケール感を欠いて、描かれた風景から推定される空間の広がりが浅く、どこか曖昧で箱庭のように見えた。

    このスケール感の欠落は、恐らく日本の山水画が大陸からもたらされた絵の模写から始まっていることに起因すると思う。
    日本にも妙義山のような奇観はいくつか存在するけれど、中国にあるような神仙が棲んでいそうな切り立った断崖はない。
    絵の模写をしたことがある人ならなんとなく心当たりがあるかもしれないけど、身体を通して経験する実際の「感じ」や実物の構造に対する理解を欠いた状態で絵を描くと大抵、座りの悪い、曖昧さのある絵ができる(雪舟は中国に、周文は半島にそれぞれ留学しているんだけどね)

    他にも、ガメさんは「陰影」という言い方をしているけど、表面からは見えづらい背後にあるべき何かが欠落しているようにも思われた。
    それでも不思議なことに、雪舟の絵でも、山水画ではなくて、例えば、横長の画面で前景に樹木が生えていて、鷺がいて、中景に湖、後景に雪山が聳えている、というような日本でも見かけそうな景色の絵を見ると、中空を漂うようにして彷徨っていたスケール感がフィックスされて、描写の解像度も上がってくる。

    禅林の僧侶の余技として始まった水墨画が禅林を出たあと、漢画と大和絵を自在に描き分け、またそれらを混合して絵が描けたという狩野元信という天才や、或いは時代の権力に取り入って安土城の障壁画を一手に担ったという狩野永徳という人を初めとした名のある人達、或いは数多くの無名な人達の人生を通過しているうちに「陰影」をその内部にため込んで、例えば永徳のライバルであったという長谷川等伯の水墨画を見ると歴然と
    残留思念というか亡霊というか、等伯が住み暮らしてきたであろう土地土地に住まう人々の間で共有されてきた記憶とか経験とかの蓄積めいたものが画面に固着されていて、霊気が漲っているのがみてとれる(こういうことを言うと「ああ、オカルトの人ですか。間に合ってるので結構です」とか言われそうだけどね)

    さらに時代を下ると曽我蕭白という人がいて、彼は奇矯な絵を描くことで有名な人だが、(あくまで僕の主観に過ぎないが)模写から始まった日本の山水画という出自に対する皮肉のような山水画を描いていて、俗世とは隔絶した理想郷であるという山水の基本設定を逆手にとって、山水画を虚構と割り切って(というかそこに可能性を見出して)描いているようなところがある。幻想であるという前提を頼みにして思いっきり幻想を描いて突き抜けてしまっているというか。
    記号のような筆致の反復で描かれる彼の山水画は今でいうと(と言ってもかなり古いが)ファミコンの頃のドットで描かれていたドラゴンクエストのフィールド画面のような趣がある。時間を経れば負い目を利用してこんな相対化が出来るようになるのかと驚いたことがある。

    そういった経過を調べていて、もしかしたら時間がまだ十分に経過していないだけで、歪みもいつかは消えていくのかもしれない。「嘘からでた真」というのもありうるのかもしれない、と思い始めていたころに地震が起こって原発がぶっ飛んでしまった。

    明治以来の「歪み」というのは画学生だった僕にとって何処か美術史に限った話で、ましてやそれが現代の日本社会を蝕んでいるかもしれない、というようなことを考えるのは僕の手に余ることだった。でも、あの後の経過を観察したり、このブログを読んだりして、頭の働きの鈍い僕でも考える手がかりが多少なりとも掴めてくると、「歪み」は消えるどころかより一層性質の悪いものになって今の日本を覆っていることがわかってきた。

    この「歪み」は大きく、根が深い。僕らの方が馴化してしまっていて、それは僕らにとってはほぼ不可視であること。何処から手を付けていいのかさえわからない。最近はこのことを考えようとすると、頭の中で「無駄だ」と囁く声がしてうまく考えられない。第一自分は正気を失いそうになって怖くてドイツまで逃げてきてしまった。「どうすればいいんだろう」と思う。 ばくらは、この問題を解決できるだろうか。

    コメントにしては長くなり過ぎたのでこの辺でやめときます。だらだら思いつくこと書いちゃってすまんね。んでは。

コメントをここに書いてね書いてね

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