さしのべられた手の美しさについて

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もうすぐ31歳になろうというのに、30歳になるまえに死亡する予定だった当初の予定と異なって未だに生きていて、刑務所に居を定めることもなく、こうやってブログ記事を書いているのが座敷牢のなかでもないのは、要するにモニさんと会ったということのほかに理由はない。

現実に暴力をふるったことはルールがそれを許しているとき以外にはないが、わしは友人達の観察によれば「暴力的な人間」であって、怒るとなけなしの意志が筋肉を抑えつけているだけで、ほんとうは何をしたいのかが十分に顔の表情を見ただけで感得されるのだそーで、現実に、わしは目の前で恐怖でおしっこをもらしてしまう男の人、というのを何度かみたことがある。
ものすごく、こわい、のだそーです。

ひとが暴力的な人間をどういうときにそこまでこわがるかというと、単に体格がおおきいとか筋肉が雄大なので殴られると痛そうだ、ということだけではなくて、相手が十分自分を殺してしまいかねないくらい頭がいかれてる、と感じるからだろう。

つまり怒りに駆られたわしを見たあの人びとは狂気にとらわれた若い男の爆発が間近なのを感じるから生理的におしっこをもらしてしまったのであって、あの夜の町のスキンヘッズのにーちゃんやモブのおじちゃんたちは、彼等の長い、しょもない経験に照らして「こいつは危ないやつだ」と判断していたのだと思われる。

さいわい(おおきな声ではいえないが)モニさん以前のガールフレンドのひとびとも、いま考えれば猛獣使いの心境だったのだと思うが、わしに、たとえばガールフレンドに対して失礼なことを述べた男に対してわしが暴力をふるう、というようなことを決して許さなかった。
暴力というものに対する軽蔑を常にわしに言い聞かせた。
しかし、これも、いまから思い返してみれば、やはりわしが「危ないひと」だと思っていたからだろう(^^; 

30年の甲羅を経たので、わしはいま他人が「成功している」と見なしているわしの生活が100%幸運の結果であることを知っている。
わしは何によらず「わし、えらい」に翻訳することが好きなノーテンキな人間であるが、自分が「成功」して幸福であることを自分の実力であると思い込めるほどノーテンキではない。
人間の一生などは、もっと極端なほどえーかげんなもので、「成功した」人間の一生など自分では精いっぱい努力して人生を戦い抜いているつもりでも実際にはサイコロを転がしてゾロ目が5回続いただけにしか過ぎないことのほうが多いのだと思います。
人間が自助の努力によって自分を幸福にしてゆくという考えはなんらかの理由によって倫理的には良い考え方なのかも知れないが、人間の一生の実相とは遠く隔たっている。

ひどい例をもちだすようだが、美しい天使のような子供に生まれついて、素晴らしい聡明さに恵まれたとして、13歳のときに一生記憶に貼り付いて離れない性的被害に遭ってしまえば、残りの一生で、どれだけ破壊された心を立て直してゆけるというのだろう?
「神を信じる」ということさえオメデタイ人間のたわごとだと、その人が感じたとして、それを非難しうる「神」など純粋の論理の上からも存在しうるとは思えない。

だから運良くこの世界を決定的ダメージを受けないでここまで生き延びてこられたものには、傷ついて蹲っている仲間の横に腰をおろして、彼もしくは彼女のつっかえがちな、ときどきは沈黙のなかに落ち込んでしまう話を聴く義務があるのだと思う。
「義務」という言葉がヘンならば、「必然」と言い直してもよい。

きみやぼくが誤解の上に誤解を重ねて(じゃ、十階だねwとかゆわないよーに)
ほとんど訳がわからないほどの行き違いを繰り返しながら執念深く言葉を使って伝達を試みるのは、真の闇のなかで、なんとかか細い蝋燭のような光でもよいから光をつくりだそうと考えるからであると思う。

漆黒の暗闇のなかで、うまく使えない言葉をなんとか組み合わせて有効に作動する語彙の組み合わせができると、ちょうど組み合わせ番号の金庫の鍵があくようにして、微かな光があらわれることがある。
そのときに、その頼りない須臾の光芒に照らされて一瞬みえる相手の顔が意外なほど自分の顔に似ているのを発見してハッとする経験をどんな人も持っている。
そのとき初めて、われわれは「他人」という存在の意外なほどの自分への近しさを実感するのだと思う。

われわれは人間の言語には伝達の能力が決定的に欠けているのをよく知っている。
AがBに「愛している」と述べるときには、AはBに向かって「自分が『愛している』と述べたい気持ちの高まりにある」ことを理解させようとしているのであって、愛する人が相手であればあるだけ、相手に、それ以上の理解を期待する人間はいないだろう。

人間はお互いに理解しあうことが出来ない。
人間はお互いの切ない気持ちを相手に伝えることが出来ない。
人間は自分にとって相手が何であるのかを伝えることは出来ない。
人間は自分が思い詰めた「愛情」を相手に伝える能力に決定的に欠けている。

でも、だからこそ、人間はあきらめずに言葉を使い、通じない言葉を懸命に口にし、目に涙をためながら、なんとしてでも自分の沈黙を相手に伝達しようとする。

人間の絶対の愚かさが、人間の本質なのであると思う。
そうして、人間の真の価値は、愚かさのなかで、何千年の歴史を経ても決してあきらめようとしない、その二重の痴愚のなかにこそ存在する。

わしは人間の「成功」や「達成」を人間の主体的な努力に理由を求めることには、本質的な不健全さが宿っていると考える。
不健全の理由は簡単で、それが本当ではないからです。

失敗した人間も「成功」した人間も、それがただ神様のチョーええかげんな気まぐれの結果であることを思えば、われわれは皆、この同じ時に生まれ合わせた愚かさを価値とする集団の仲間であって、だから、
夜更けのシドニーのセブンイレブンの前で、物乞いをする若い男の両脇に座って、差し出した「BENTO」を一緒に食べながら、一緒に笑い、一緒に泣いている女の高校生たちには、出来の悪い神様よりも、この宇宙の理屈がよく理解されているのだと思う。
8番街のビレッジに近い交差点で、麻薬中毒の結果死んだ62歳のホームレスの女びとのために、ろうそくを灯し、目を真っ赤にして泣いているひとびとは「偽善者」などではないのだと思う。

「せめても、この同じ時に生まれたことを歓びあって」という。
いまは見知らぬ仲間たちへの労りの気持ちをもって、どっちみちたいしたことのない一生を、お互いに親愛の気持ちをこめて、からかいながら歩いてゆくのが良いのだと思います。

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2 Responses to さしのべられた手の美しさについて

  1. じゅん爺 says:

    久しぶりにガメの記事読みました。キャロライン・ケネディが父親暗殺50年後に日本大使になって赴任してくるとはね、おもいもよらなかった。

  2. いわき、というと知っている人は海のイメージを持つだろうが、山あいの六地蔵を祀った社を下ったところにその家はある。もう6.7年前になるだろうか、親戚筋を文字通り今生の別れと思って訪れた。すでに90歳を超える高齢であった祖母のあんちゃんは、元はといえば小学校時代にひとり革靴を履いていたという没落した商家の長男であったが、そのことを笑い話として語れる懐の深さを持った、それ故にか硬直した考えを持たない人で、私はそんなおんちゃんが好きだった。
    地蔵もそうなのだが、おんちゃんの婆ちゃんは神が降りる霊媒体質だったので、さまざまな仏様(死者)がその口を伝って現世の人間に思いを伝えに訪れた。
    あるとき、不動(明王)が掛かり(降りてきて)俺を出さないとはどういうことだ、と憤怒を述べたという。「不動さま、不動さま、不動さまはどこからおいでなさったか」と聞くと、我が家の掛軸を忘れたかと言い。この屋(家)に火事とお産で死んだ者があるかと言ったという。言われてみるとなるほどその通りであり、確かに掛軸もあることから、この不動様が現れたのだということになり、年に一度は掛軸を下げることになったのだという。

    おんちゃんは他界していたが、原発事故に際して、考えてみれば遠い親戚にあたる、あの人たちのことを考えたのはそういう経緯があったからであって、未だあの土地に地蔵や不動が生きているとすれば、お前たちを蓑になり傘になり守っているぞよと述べるに相違ないだろうと思うのだ。

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