ノーマッド日記15

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釈迦堂の切り通しへの道をのぼってゆくと、向こうから子供のときの自分自身がやってきそうな気がしたものだった。
子供の頃(1990年初頭)の鎌倉は、おだやかな鄙びた町で、2000年を過ぎた頃からの、その後のがらっと変わってしまった「ブランド住宅地」になってしまった鎌倉とは随分異なる町だったと思う。

東京の麻布あたり以外に知っている「日本」は長いあいだ鎌倉と葉山だけだった。
かき氷屋があったり、肉を買うと竹の皮に包まれてでてきたり、低い丘の頂がトランピングコースになっていたりして、東京とは異なるいちいちに妹とふたりで驚いたり喜んだりした。

最も楽しかったのは海があることで、砂浜はなんだか暗い感じがする、汚い小さな砂浜だったが、その上、海そのものも多分海底の泥が暗色であるせいで茶色い色調の海で、あんまりパッとはしなかったが、海は海で、かーちゃんシスターに連れられて、よくカヤックを出した。
その頃はまだカヤックが珍しくて、漁師のおっちゃんたちが寄ってきて、「こりゃ、なんだい? どっちに向かって漕ぐの?」というふうにかーちゃんシスターに訊いていたのをなつかしく思い出す。

相模湾はイギリスやニュージーランドの海に較べると格段に水温が高いので、そのぶん安全で、子供がカヤックで沖に出て遊ぶには良い海だった。
ニュージーランドなら低温ショックで15分ももたないような局面でも、葉山や鎌倉では、のんびり泳いで帰ればよかった。

泳ぐのは得意である。
ボンダイビーチから海にはいって、向こう岸にある友達の家まで泳いで3キロくらいの湾口を泳いで渡るくらいのことはいまでもよくやる。

義理叔父のモーターバイクを借りて、渋滞の海岸の道を避けて、山のひだからひだを縫って、葉山の長者ヶ崎というようなところに行くと、夏は砂浜にはびったりと人が寝転んでいるが、浜辺から50メートルも沖へ行くと誰もいないので、暖かい水のなかをどんどん沖へ泳いで、人間が小さくて見えないところまで泳いで、振り返ると、鎧摺りの山や他の背の低い山が、濃い青色の空と、立ち上がった、雄大な積乱雲を背景に見えて、心から「日本の夏はいいなあ」と思ったりした。

泳ぐとお腹がすいて、へろへろになりながら鎌倉ばーちゃんの家に戻って、ばーちゃんが呆然とするくらいの量の「ご飯」を食べた。
あるとき「カレーライス」をつくってくれて、お櫃にいっぱいのご飯も全部たべてしまったので、ごめんなさい、と謝りにいくと、心から可笑しそうに笑って、まあ、ガメちゃんは6人前食べてしまうのね、と言ったのをおぼえている。
ばーちゃんは「女学生」時代には有楽町の「ジャーマンベーカリー」に毎日の学校の帰りに寄る不良少女だったせいか、あるいは「洋行」の経験からか、あの年齢の人としては英語もわかるほうだが、まだ日本語が下手であったガキわしにとっては、数少ない「話す日本語が聴き取れる」日本人のひとりでもあった。
義理叔父はやる気も教養もないひとだが、美しい日本語だけは話せる人で、その日本語の秘密は鎌倉ばーちゃんなのであると思う。

このブログ記事を読み慣れている人は、人物がなるべく特定されないように、特に古い記事ほど、ディテールを少しづつ変えてあることに気が付くと思うが、もう随分ながいあいだ書いてあそんでいるので、わしが誰であるか気が付いたひともいる。
日本語が理解できる外国人は、そんなに数が少なくはないのです。

わしのほうでも、もういいかげんばれてもいいや、という気持ちもなくはない。
最近の記事ほど現実をそのまま投げ出すように書いてあって、これじゃ住所までばれちゃうじゃん、な記事が多いのはそういう気持ちの反映でしょう。

相変わらずヘンな人達があらわれて悪罵を投げつけていったり、な、なんてオモロイ手を使うんだろう、と感心するような巧妙であるよりは手が込みすぎて奇妙にみえる手で中傷したりするのは相変わらずだが、もうそろそろばらしてしまうと、彼等が考えて期待しているらしいほどのダメージは、考えてみればわかりそーなものだが、受けているわけではない。
日本語が外国語に過ぎない上に、日本に住んでもおらず、なんだか他人事なので、通常の生活を送っている本人から見ると、最近は特に、「大庭亀夫」を召喚する悪魔使いのような気持ち、というか、そもそも現実を共有しているだけの、別人格のような気がすることもある。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/29/勇者大庭亀夫はかく語りき/

では英語人格はどのくらい違うかというと、このあいだモニに説明していたら、
「それじゃ日本語も英語も人格おなじじゃない」と訝られて、こけたが、そんなことは決してなくて、英語のほうはもっとずっとオトナで人格者でマジメである。
英語社会の30歳というのは、日本語社会の40歳よりも成熟した人格が求められることを反映しているのだと思われる。

ノーマッド日記1
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/03/29/ノーマッド日記_1/
を見ると、まだ「ノマド」という日本語が出来る前だが、もうモニと結婚したあとで、いまはもう苦境に陥って必死に会社の防衛中の中東人と仕事上の付き合いをしていた頃のことだと判る。
日付を見ると福島第一事故が起きた直後で、マジメにビジネスクラスで移動している。

まだこの頃は、なんだかんだ言っても日本は現実に起きたことを直視して再生するだろうと考えていた。
Long Beachの「Open Sesami」
http://www.yelp.co.nz/biz/open-sesame-long-beach
で、中東人たちを相手に日本人は危機に際しては別人のように強靱さを発揮すること。隣人と力をあわせあって、素晴らしいモラルをみせること、を話したのをおぼえている。
日本の支配層が国民をまったく信用しない方針を固め、ウソでウソを補強し、日本の人々の科学者への敬意と信頼を悪用してよりによって科学者たちが政府の「足止め政策」の第一の協力者となったことは、日本が将来にわたってもぬぐいされない汚点であると思う。
東京オリンピック招致のために海外特派員たちをサイトのなかにいれたのを皮切りに、現実が外国人たちの目にさらされてしまったので、TEPCOの驚くべき無責任ぶりとやる気のなさや、日本人科学者が政府側に立ってどういう役割を担ったか、ということは、いまもうすでに書かれ始めているので、ここで繰り返す必要はないことだと思うが、世界じゅうの人間の無関心をよいことに日本の支配層がとった方針の浅ましさは、それを見つめていた少数の外国人たちにとっては「衝撃」というような言葉でいいつくせないほどのものだった。

多分、削除しないまま残っているのではないかと思うが、このブログ記事の極く初期の頃に初めて福島を訪れたときの感動が書いてある。
あとでは、それが日本の人のあいだではありふれた感じ方だと判って、なあんだ、つまんねーと思ったが、細い畦道を歩いて、水を張った水田のまんなかまで行ってみると、そこには文字通り空と陸と合わせ鏡のようになった二枚の青空を、夏の白く硬質に輝く積雲の巨大な群れの広がりが素晴らしい勢いで移動していて、息をするのが難しいような興奮を味わったものだった。
「日本の美」というような言葉は安っぽいのではないか、と思うほうだが、否応もなく「日本の美」という言葉が思い出された。
あれほど美しい光景との邂逅は、人間の一生に何度もあることではない。

ずっとあとで富山で見た光景は、同種で、さらに悽愴な気味のある光景だったが、福島のときは初めてだったので、「日本の美」ということを考えると、自動的に「福島」という名前を思った。

福島人たちにウソを信じこまなければ生きていかれないように仕向けていった日本の政府と社会のやりかたを、残酷であると思う。
日本政府に本来は選択肢はなくて、もし政府にも「心」というものがありうるものならば、「心」を鬼にして危険がありそうな、せめて外国人であるアメリカ人たちが命令されたように半径50マイルの県民を「強制退去」させるべきだった。
福島人は、それでも怒り、泣いて退去に抗議しただろうが、そういうときに危険の可能性を考えて県民に対して冷酷に命令するのは国家というもともと存在の根源が「絶対暴力」である組織の役割なのである。

日本の政府と社会は、そのかわり、驚くべき事をおこなった。
「応援するから、そこにいて頑張ってください」と述べた。
ツイッタでも書いたが、この、やさしい、ぞっとするほど冷たい言葉で、事実上福島人が未来に向かって人間として生きていく道は断たれてしまったのであると思う。

この福島人たちへの仕打ちを見て、戦争中の沖縄を思い出す人も多かった。
洞窟に沖縄人を「人間の盾」として前面に出してたてこもり、アメリカ兵の火炎放射器で焼き尽くされる子供たちの悲鳴の奥深くで息を殺して隠れ、夜陰に乗じて沖縄人たちの家を襲って、「貴様ら、民間人のくせに皇国兵士のおれたちよりも美味いものをくいやがって」と述べて整列させた沖縄人を皆殺しにする日本兵たちの様子は、死体の山の下で、じっと息を殺して父親がなぶり殺しにされるのを見ていた娘のBBCでの証言によって、たくさんのイギリス人が知る事になった。

今上天皇が初めての民間出身の皇妃である美智子と結婚したばかりで若い皇太子であった頃、昭和天皇皇后と沖縄新聞2紙の講読をめぐって争ったことの深刻さは隠そうとしても隠せなかったのを見てわかるように真剣な、皇太子が自己の存在をかけた争いだった。
息子は父親の沖縄への態度を肯んじることが出来なかった。

上流階級は家庭内でも敬語と決まっているので、日本の天皇家も、たとえばそれが息子であっても家庭内で「高松宮さまは」と称号で呼ぶはずである。
必然的に家庭内の争乱も外観は外交交渉に似る。
柔和な外観に似ず強い信念の持ち主であるらしい今上天皇は、宮内庁まで総掛かりになった反対にも関わらず結局講読をゆずらなかった、という。

そういうことを考えれば、私見を述べることを許されていない今上天皇夫妻が福島人のおかれた境遇をどう思っているかは見当がつきそうな気がする。
「無力の王」は、しかし、いまも帝王なのである。
彼の怒りをみいだすことは、画像技術が発達したいまでは、それほど難しいことではないように見える。

2010年に日本にもっているものをすべて引き払ったのは5年のあいだに11回も日本にやってきて「飽きた」からだった。
他人の国に勝手にやってきて「あきる」やつがいるか、失礼な、といって日本の人は怒るだろうが、いつまでももやもやと頭にあった「日本」という存在が、2010年の最後の滞在ではずっと小さいものになっていた。

自分でこんなことを言うのはヘンだが、それでも外国人と一国の関わりとしては、長く、深いほうでもあったと思う。
はてなの方角から、なんだかヘンな人が集団でやってきたときは、みなで示し合わせて実験したり、からかって遊んだりはしたものの、やはり心の奥での日本人への失望は隠せなかった。

福島第一事故のあとで、不思議なことが起きた。
インターネットで出会うひとの人間的な質が明らかに事故以前とは比べようがないほどあがった。

前には集団サディスト同士が永遠に抗争しているとでも言うような、滑稽で退屈なマンガじみた図式のみで出来ていた日本語のインターネット世界のなかに、低くて小さいが「生活者」の声が木霊するようになっていった。
かすかな声にしかすぎなかったが、よく耳をすますと、それは、それまでの言わば「上滑り」な一生を歩いているひとたちの妙に甲高い、理屈が理屈に反射してカンカラ音を立てているような、あほらしくなるような浅薄な声ではなくて、現実に地面を踏みしめて生活を重ねてきたひとたちの声だった。

まず母親たちの声がした。
「科学者」たちに嘲笑われ、無学だと言われ、無知だと嘲笑されても、しかし一向にやまなかった。
「なんと言われても、わたしは自分の子供が心配です」と言い切る人がたくさんいた。

わしは、見ていて不思議な気がしました。
それまで日本語インターネットでみたことのない光景だった。
もっと言えば、日本の歴史を通じて、聞いたことのない「声」だった。

新しい人たちと会ってみると、このひとたちも、通常の反応が出来るひとだった。
こういうふうに言えば、通常はこういう反応が返ってくる、という生活の感覚にあっていた。
ルールが彼我において同じなので安心して議論ができた。
それまでのインターネットの世界では、
「今日は天気がいいなあ」と述べると、
「根拠を示せ」
「天気がいいという出典はどこにあるのか」
「天気がいいと日本人を油断させようとして、おまえは北朝鮮のスパイなのではないか」
というような反応が大半だったので、実をいうと、表面の無意味な頷きの仮面のしたにある実際の日本人の頭のなかは、そういうものではないか、と疑いはじめていたのです。

集まる場所をみていると、「天気がいいという根拠は?」のひとびとは、はてなのようなブログ、とりわけブックマークサービスに蝟集していて、「まとも」と感じる人(大庭亀夫が「まとも」と感じるのではキチガイの集まりに違いない、という人もいるだろうが)はツイッタやタンブラに拠っている感じがする。
だから意外に「形式による」ということもあるのでしょう。
はてなのブックマークサービスはあれほどの繁栄をしているのだから、傍観者に文句があるわけはなし、やはり日本的な心性に結びついたサービスの成功例なのだとは思うが、
日本語インターネットを通じても「友人」としか呼びようがないたくさんのひとびとがあらわれて、そのことが最後の最後に起きたので驚いた、というだけのことだと思う。

こうやって考えてみると、なんのことはない、日本語世界といえど、他の言語世界と同じだとわかった、というだけのことにすぎないが、よかったなあー、と単純に思っています。

もうすぐ現実とインターネット世界を混ぜてしまうことや、言語別にしてあるのも混ぜて、全体にはインターネットで過ごす時間を縮小して、もう少しマジメに労働する時間をつくろうと思ったりもするが、なにしろ、これを読んでいる人は、みながよく知っているええかげんな人間の考えることなので保障はつかない。

でも、友達に、あえてよかったと思ってる。
日本語も、子供のときの中途半端な日本語能力を仕立て直しして、えがったべなああー、と思っています。

ありがとう、おともだち、とは日本語では気色悪いから、言わないのか。
でも、いいや。

みんな、ありがとう。

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3 Responses to ノーマッド日記15

  1. miyeursi says:

    前に一度、たぶん違う名前でコメントしたことがあったと思いますが、あらためてはじめまして。ガメさんがいつも書いている理由によりネット上では何も人格は持ってないけれど、いつも楽しみに読んでます。

    しばらく前に、職場の研修制度を利用してスコットランドで数か月ホームステイしてました。ガメさんの文章に出会う前だったら絶対に踏み切れなかったことだと思うけど、思い切って出かけて本当に良かった。最初の緊張が少しずつほぐれてできることが増えるにつれ、なんだかとてつもなく毎日がらくちんで、日本では自分がどれだけ息をつめて生活しているのか初めてきちんと理解できました。ホストファミリーにも恵まれて、夕ご飯の後にみんなで YouTube のしょうもない動画を見てげらげら笑ったり、家族との問題を聞いてもらったり、そういう経験を一つ積むごとに、私は本当はこれだけ自由なはずなんだなって実感することができて、あの雨と風ばかりの国でぱっと一瞬だけ見えるけぶった青空や星と一緒にそのときの自由な感じをよく思い出します。

    なぜか Kindle でも詩だけは品ぞろえが貧弱で、Auden も Elliot もずっとまとめて読めずにいたけど、何かのついでに寄ったその町でいちばん大きい Waterstones でペーパーバックが何冊もそろってるのを見て大興奮して買って帰った夜、ホストファミリーのお母さんに戦利品を見せながら「日本で買うとこの5倍の値段なんだよ(本当に!)」と話しているところに親戚の人が訪ねてきて、その人は文学と法学の博士号を持って教会で働いている人だから「あら、あなた Elliot がわかるの、私だっていまだにわからないのに」って笑いながら自分の好きな詩のページを開いて「こういう詩なのよ」「ここで繰り返しが出てくるでしょ、この効果はね」って(博士っぽく)教えてくれたこともありました。うまく言えないけど、ああ、こんな素敵なことがあるだなんて日本では想像もできなかったと強く思って、それからまとまった時間が過ぎたのにまだきちんと言葉にできないままです。もしかして英語だったらもうちょっとうまく言えるのかもしれません。

    日本に戻ってきてから、本当はガメさんの言う通り、ここでの生活をリセットしてしまえればいいんだろうけどなかなかにそういうわけにもいかず、相変わらず息をつめて暮らしているのに変わりはないけれど、それでもあの自由な感じを知ることができて本当によかった。毎日みじめで悲しい思いをたくさんしながら生きていくのは当然のことなんかじゃないと、頭ではわかっていても、きちんと実感できて、何より自分の気持ちが前よりずっとクリアに聞こえるようになりました。この先もうちょっと望むような生活が手に入れられるかどうかは運が左右するところが大きすぎて何とも言えないけれど、でも、うまくいくといいな、と思います。もしうまくいかなかったとしても、我慢するのが当然だと思わされたままあっという間に人生が終わってしまわなくて良かったです。負け惜しみっぽく聞こえるかもしれないけど、でも、本当に。

    前に何度かガメさんは「普通の人には自分の声は届かなかった」って書いていたけど、そんなことないよ、少なくとも私にはちゃんと届いて、私の人生は少しだけ変わりました。これから大きく変えられるか、ジャンプできるかどうかは自分次第だけど、変えたいな、少なくとも6歳の自分が、14歳の自分が見たときに納得できるようなものには変えなきゃいけないなって思ってます。

    ずっと長いこと、ちゃんと伝えられるうちにお礼を言わなきゃと思ってました。ありがと。がんばります。

  2. tao says:

    はじめまして。いつも読んでいますがコメントするのは初めてです。

    > 福島第一事故のあとで、不思議なことが起きた。
    > インターネットで出会うひとの人間的な質が明らかに事故以前とは比べようがないほどあがった。

    その観察は全く正しいと思います。
    ツイッタとはてなの違いは私には分かりませんが、もっと根本的な変化は人口の99%を占める
    放射能ダイジョブ星人達に迫害され、または彼らに愛想をつかした1%の人達が、情報と仲間を
    求めてインターネット世界に出て来たということでしょう。むろんこの世界でもダイジョブ星人達が
    火を吹いて暴れているけれど(ツイッタのアイコンまで火を吹いている「科学者」もいましたね)、
    インターネット世界は住人の性質に応じて自ずとクラスタに分かれるし、害をなす住人は
    (どこかの汚染水と違って)ブロックすることができるので、現実世界の日本と比べると
    格段に住みやすいのだと思います。

    > もうすぐ現実とインターネット世界を混ぜてしまうことや、言語別にしてあるのも混ぜて、全体には
    > インターネットで過ごす時間を縮小して、もう少しマジメに労働する時間をつくろうと思ったりもする

    もしかしてこのブログを閉じようとされているのでしたらそれは困ります。大変に困ります。
    私はガメさんの書く記事を、日本人の針路を照らす灯台とも思って頼りにしているのです。
    五千海里の彼方からなぜそのように揺るぎない照射ができるのか、記事の過半数を読んだ今でも
    不思議に思わないことはありませんが、遠くにあるからこそよく見えることも多いのでしょう。
    今までコメントの一つもしなかった私がお願いしても聞きいれて頂けないとは思いますが、
    あなたは日本のご友人達のおかげでこの国の内情にも通じ、日本語の練習も十二分にできたのだから、
    彼らが乗った船がいよいよ沈みつつあるこの時に灯台の火を消すなんて非情なことはしませんよね。
    私もこの船はもう救えないと思っていますが、せめて子供たち若者たちを乗せた救命ボートが
    海面に浮かび上がるまでの間、あなたの光をこちらに向けておいて頂けませんか?

    兎にも角にも、今まで書き続けて下さったことにお礼を言います。
    どうもありがとう。

  3. meg says:

    >「なんと言われても、わたしは自分の子供が心配です」と言い切る人がたくさんいた。
    本当に、原発事故後、ツイッタ上に子供を思う母親たちが大勢出現したと思う。 そして、彼女達のおかげで日本語のインターネット世界がずっとよくなったと思う。 一年位前に、自分がビザの問題で困っている友達の話をツイッタでしたら、「早く安心して住めるようになるといいね」と数人の女性から返事があって、びっくりした。(「きちんと規則を守らないからいけないんだ。犯罪行為なんだから自業自得だよ。」という人も相変わらず現れた。) 彼女たちは原発事故後に海外に移住した女性で、彼女達のツイッタ仲間には、たった、140字なのに、涙なしに読めないことを書く人もいて、読んでいて胸に詰まったこと数知れない。 きっと、今までは、何か意見を言うと叩かれるだけで何も良いことがないから、ずっと黙っていた人達なんだと思う。 こうやって彼女たちに出会えたことは嬉しいけど、「こんなことで変わるのなら、あのまんまの屁理屈の巣窟で良かったのに。。。」と思う。

コメントをここに書いてね書いてね

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