ライスカレーを、もう一杯

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部屋を片付けていたら銀座のすき焼き料理屋のレシートが出て来た。
吉川英治が筆をふるった屋号で有名な店です。
すき焼きが二人前で32000円
追加肉が16800円
玉子400円
ワインが10000円
サービス料5920円
席料6000円
で合計が71120円
消費税が3556円ついて、合計が74676円
と字面を見ているうちに、その晩のことを思い出した。
霜降り肉があんまり好きでないので「赤身肉」のコースにしたのに、まだ牛脂の脂肪がたくさんはいった肉で、「どひゃっ」と内心で思ったが、おもいのほかおいしくてモニとふたりで、おいしいものをおなかいっぱい食べた人の楽しい気持ちで、にこにこしながら、すき焼きって、おいしいねえー、ねー、と帰りがけに話したのだった。

ふたりで食事をして70000円を越えてしまうのでは、高くてあんまりな感じがするが、為替の知識を応用して円をスターリングに翻訳して計算してみたり、頭を巡らせて、考えてみると、いまの世界では、どこの大都市でも同じで、東京だけというわけではないので、「ぼって」いるわけではない。
6個320円のタコ焼きも70000円のすき焼きも同じようにおいしくて、行きたいほうにいけばいいだけ、ということなのでしょう。

食べ物と値段の関係はおもしろい。
ニュージーランドのネルソンという町の海辺に行くと、タイ版スープカレーの巨大な丼のなかに、欧州の小ぶりなミュール貝とは異なる、でっかいニュージーランドのミュール貝が20個ほどはいった食べ物があって、ときどき思い出すと、オークランドからボートでクック海峡を渡ってでかけたくなるが、これは12ドルで、いまの為替レートだと1000円ということになる。
ネルソンはなにしろ風景が綺麗なところなので、夏の、なんだか非現実じみた美しさのマルボロの入り江を眺めながら、テラスに出たテーブルでよく出来た料理を食べる楽しさを考えると安いと思うが、ニュージーランドの食べ物の値段のつけかたがヘンなのはトップノッチレストランでも同じ料理が同じような量で12ドルなことで、ニュージーランド人は外食の歴史が浅いせいか、レストランの雰囲気やサービスによらず「食べ物の質」だけで値段を決めている気がする。
インド料理になると、もっと顕著で、「オー・カルカッタ」のような内装やサービスが売り物のレストランでもインド人街の屋台じみたカレー屋でも、どっちで食べてもカレーは同じ値段なので、というのはつまり京橋の「伊勢廣」で焼き鳥を食べても有楽町のガード下で食べても値段が同じであるようなものなので、理屈として合っているような、話が根本から間違っているような、奇妙な気持ちになって、頭がぼんやりする。

ロンドンは高くなければ不味いという点で明瞭な町で、ふたりで1000ポンドくらいもださないで「ロンドンにはおいしいものがない」と言っても、ある種のロンドン人になら「なるほど」と言われて憐れみの表情を押し殺した、くだんの、そういう種類のイギリス人だけが持つ奇妙な表情に遭遇するだけであると思われる。

東京は、ロンドンのようなオカネと味の関係が明快な町とは大きく異なって、安いのにおいしい店があるので、とても困る。

いやラーメンだ、というひともいるだろうが、あいにくラーメンは苦手なので、東京で「安くておいしいもの」の筆頭はカレーライスとおもう。
成田のANAラウンジのカレーライスはおいしいので、成田空港の位置から言ってきっと東北の米を使っているに違いないと考える放射脳ガイジンどもを「食うか食わざるか」という疑問で煩悶させるが、銀座の泰明小学校の近くにある、名前を忘れてしまった蕎麦屋のカレー丼であるとか、神保町の中華料理屋「月世界」、あるいは、いっそ、お腹が空いたのでクルマを駐めて東戸塚の近くの名前がもともと不分明な定食屋で食べたというだけの「カレーライス」であるとか、あの、スパイスの味なんてほとんどなくて、頼りない、自己主張がはなはだしく小さいカレーライスを思い出すと、なつかしくて、日本へ行きたくなる。

以前に、義理叔父にカレーライスとライスカレーはどう違うのか、と訊いたら、「500円以下がライスカレーで、それより高いのがカレーライスさ」という明快な答えだったが、ほんとかどうか知らない。
カツカレーというへんてこな食べ物が好きで、日本で食べた味を思い出して、ときどき自分でつくってみるが、最近は腕があがりすぎて、日本の食べ物屋で食べていたカツカレーよりおいしくなってしまって残念であるような気がする。
味が上品すぎて、箱根富士屋ホテルのカツカレーを出前で食べているような親和のない上滑りな感じになってしまっている。
そういうことでは困るので、カツカレーは700円で70000円のすき焼きとは異次元の幸福をもたらすからカツカレーなのであると思う。
カツカレーの幸福には、ほんとうは値札をつけることが出来ないのではないだろうか。
すき焼きに支払うのとは異なって、おいしいカツカレーを食べたあとに置いていくオカネには、どことなく「幸福」という本来オカネで買えないものへの喜捨じみたところがある。

ニュージーランドで最もおいしい牡蠣の「ブラフオイスター」は的矢牡蠣などよりもずっと小粒で、小さな小さな牡蠣だが、フライにして、タルタルソースや、ニュージーランドでも普通に売っている「ブルドッグ中濃ソース」をかけて食べると、東京のことを思い出す。
このブログ記事に何度も出てくる「おばちゃんの定食屋」に行くたびに、季節には、「ポークソテー定食」を頼んでも「豚生姜焼き定食」を頼んでも、「ガメちゃん、いくつ欲しい?」と訊いて、4つか6つか、広島のどこかで穫れたブラフオイスターのように小さな、味までそっくりな、それがおばちゃんの癖で、焦げ茶色に近くなるまで揚げた牡蠣フライをただでつけてくれて、あの牡蠣を食べるたびに、いったい自分はこの国でなにをしているのだろう、こんなことをやっているのはやめてニュージーランドに帰りたい、と思ったものだった。

せっかく日本語で書いているのに、言葉で言い表せない、あの日本のひとのさりげなくて自然な、まるで宇宙が自分に対して持っている愛情を人間の所作に置き換えて表現してでもいるようなあたたかさを思い出す。

いま書いていて気が付くが、以前にはまたきっと戻ることがあるから、と考えて名前を伏せて「おばちゃんの定食屋」と書いていたが、ほんとうはもう実名で書いても何の変わりもなくなってしまった。

おばちゃんの定食屋には壁に、おばちゃんの誇らしさがいっぱい詰まったような「当店のお米は新潟産コシヒカリを使用しております」という筆で書いた張り紙がある。
それを見て、「新潟のコシヒカリなら、そんなに汚染されてないな」と思うような客としておばちゃんの店を訪ねるのは、気持ちが嫌でもあれば、行為として悲惨であると思う。

だから、もうきっと、一生あの店には行かないだろう。
銚子のおいしい秋刀魚がはいったから、食べていきなさいよ。
ガメちゃんが来たら食べさせようとおもってとっておいたのよ、と述べて、
どうせオカネを受け取ってくれるわけはないまま出してくれた秋刀魚を黙って手をつけないままカウンターに残してしまう勇気は、どんな人間にもあるわけはない。

自分が訪問する国が書き込まれた、日本という存在が欠落した地図を頭のなかに広げてみて、こんなことが現実に起きることもあるんだなあー、と呆然とした気持ちになる。
死んでしまって、もう会えなくなった友達を思う気持ちは、こんな感じなのだろうか、と自動的に考えている自分を発見して、もうそんなふうにしか考えられなくなってしまっているのか、と自分自身の感じ方に驚いてしまう。
どんなふうに考えればいいのか見当がつかなくなって、ぐるぐると同じ場所を目隠しをして歩いているような気持ちになるのです。

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