足首にからみつく髪の毛

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成田空港のJALで携帯電話のレンタルを申し込んだ人が手続きのめんどくささにうんざりして、「どうして、こんなに書類を書かなければならないのか?」と訊いたら、中国の人で悪い人がいっぱいいるから仕方がないのだ、とJALの社員が言い訳したというので大笑いしてしまった。
中国の人は便利に使われて気の毒だが、他に言いようがなかったのでしょう。

「めんどくさいことはやらない」ということは、いまの世界を生きる人間にとっては美徳とまでは言えないかもしれないが、あたりまえのことにしかすぎない。
同じことをするために3クリックが必要なサイトは1クリックですむサイトに敗北するし、紙書類に住所・電話番号・国籍…と延々と書かせるレンタル携帯電話店は自動販売機でクレジットが購買価格の80%付いてくるプリペイド電話ビジネスに負ける。
1クリックですむはずの取引に3クリックかかるのは、「間違いが起こらないようにするため」であることが多いが、1クリックで起きる間違いに対応できるシステムを工夫しなければ、そもそもビジネスとして成功しないことには頭がまわらないらしい。

実質を伴わないことや思ってもいないことを相手を喜ばせるために口にしたり、本質と関係ないことをただ場をやわらげるために述べたりする人を英語ではrubbish talkerという。
「rubbish」はもともとゴミのことで、だから、rubbish talkerというのは「実のないことばかり言う人」で、それまで言われるままにじっと我慢して区役所の係員から渡される書類の山にありとあらゆる宇宙の事象を書き込まされていた妙にでかい流暢でなくもない日本語を話すガイジンが、突然、ペンを放り投げて、「こんなrubbishは、もうたくさんだ」と言って、唖然とする区役所のひとびとを尻目にすたすたと歩いて区役所を出ていってしまったりするときも、そーゆーときのrubbishは「くだらないことばかりさせやがって」という意味です。

日本にいるときに、へえ、と思ったのは、
「もちろん意見が違うひともいるわけですが、私は、いまの政権は少しヘンではないかと思います」というような言い方をする人がたくさんいたことで、なかなか不気味な体験だった。
「意見が違う人もいる」のは当たり前だからで、なぜ、そんなことをわざわざ枕詞のように文の頭にくっつけるのかという理由を考えると、社会全体がホラー小説に出てくる架空の共和国かなんかに似たチョーホラーな仕組みなのがわかるからです。
英語人なら「いまの政権はヘンだぜ」と簡潔に言う。

「もしかすると私が間違っているかもしれませんが」
「100%たしかとは言えませんが」
「これはぼくの独断と偏見ということになりますが」
いずれも同じで、薄気味が悪い、と思う。
のみならず、ツイッタにも書いたがコンドームを2枚つけなければどうしてもセックスできないボーイフレンドのようで、鬱陶しい。
わしなら、そういうボーイフレンドは願い下げであると思う。
(譬えが下品でごめんなさい)

念には念をいれて、念念には念念念をいれて、ありとあらゆる無駄なことをやらせる割には、まんなかのところではマヌケなくらいの大穴が開いていて、例を挙げれば、不動産取引で、さんざん訳の判らない書類を読まされたあと、「じゃ、こことここに捨印を捺して」というが、日本の法律では、あの「捨印」を捺した契約書を持っている側は、契約を自分の好きに書き換えて捨印を、その承認であると主張することが出来る。
あるいは、契約が合意されて、銀行へ向かうと、バンクチェックで簡単に支払ってしまう場合もあるが、たいていは、そこには銀行支店長と司法書士が座っていて書類をチェックして、では現金の授受という段になれば金銭を受け取るほうが振り込み用紙に支払う側が注視するなかで金額を書き込むという習慣になっている。
「間違いを防ぐ」というためには経験的な知恵に裏打ちされた方法だと思うが、しかし、領収書の受け渡しに至って、「あのお、申し訳ありませんが、2億5千万と2億6千万のふたつの領収書にサインして欲しいんですが、いいですか?」
という。
いいですか? って、いいわけがないので、なぜでしょう、とやや怖い顔をつくって言うと、銀行の融資は2億6千万円だったので、実際の買値の2億5千万円の領収書とは別に銀行に「見せるために」融資額丁度の領収書がいる、という。

買い手は義理叔父の旧知でもあり、めんどくさいから二枚領収書にサインしたら、この人は親切な人で、「じゃあ、こうします」と述べて、目の前で銀行用の2億6千万円の領収書のほうは破ったが、銀行員たちも見ている前だったので、銀行のほうも要は「書類を整える」だけが目的だと見当がついた。

「大量にある些末なこと」が、どれほど社会の変化の足をひっぱるか、という話をしようとしている。

念には念を、念念には念念念を、念念念には念念念念念を、と無駄な「ダイジョブ固め」をしているうちに、社会がほんの少しでも変化すると、稠密な整合性が崩壊して無茶苦茶なことになる。
外国人が日本に居住するときには本名と通称を用いる。
本名はパスポート通りだが、たとえばアラビアの人やタイの人だと、大半の日本の人には、そもそも発音の手がかりすらつかめないので、「大庭亀夫」というような雅な日本名をつけて通称にして良いことになっている。

かーちゃんシスターが日本に来たとき、通称をセシリア・ファーガソン・ルイーズ(←仮名)という本名のカタカナにしたかったが、当時のコンピュータのバイト数制限で、
「セシリア・ファガソン」でないと入らないと言われた。
ファガソンなんて、ファガファガな歯が抜けたばーちゃんが株で大損をこいてしまったようなヘンな名前は嫌なので、義理叔父の姓をくっつけて「島津セシリア」にしたそーです。

ところがところが。
いざ義理叔父が家を売るというときに家の所有権を二分の一ずつ持っている義理叔父のほうは問題がないが、かーちゃんシスターのほうは謄本がセシリア・ファーガソン・ルイーズなので、印鑑証明の印鑑にある「島津シス」が使えない。
セシリア・ファーガソン・ルイーズの、部分しか登録できなくて、「セシリア」という印や「ルイーズ」あるいは、「セファ」でも「シリア・ファ」でも、なんなら「ファ」だけでも登録できるが、普通の日本の習慣である旦那の姓を用いた通称では自分が自分であることを証明できない。

民主党政権のときに、やっと外国人にも住民票が出来て、日本の人にもガイジンに対する慈悲心が芽生えたのか、多摩川に迷い込んだオットセイと同じ程度の人権は認められたが、そのときに制度を変えたのがものすごいことになった理由だそうで、なんだか、よくわからないが、苦労したよーでした。

いつか内藤朝雄が「ツイッタで正しい情報も誤りが含まれる情報も重要で緊急と思われるものはとにかく皆でRTのリレーをしていって、皆で信憑性を検討する、というような仕組み(あるいは合意)をつくる必要があるのでないか」と述べて、冷笑が趣味の「例の一団」の人達から盛んに冷笑と嘲笑を浴びていた。
わしも、うっかり「それは、無理なんでわ」と朝雄さんに返答してしまったが、考えてみれば英語の世界では別に朝雄さんが提議しなくても、初めからSNSはそういうもので、「福島第一発電所事故の漏洩放射能のせいで突然変異が頻発!生命の危機か!?」というガメラの写真付きの「ニュース」や、ニュージーランドの風光明媚な砂浜に方角の感覚を失って無惨に打ち上げられた鯨たちの死骸の画像を記事の先頭に貼って「福島事故の汚染水垂れ流しで殺された鯨たち」というツイートはいまでも流通している。

そういう虚偽のニュースはどうなっていくかというと英語世界では「インターネットコミュニティ全体の常識」によって選択されて葬られていくので、信憑性がブラック&ホワイトではないというか、グラディエーションがかかっているなかで、「ダメぽい」「ほんとポイ」のいろいろな判断があって、「これがたしからしい」というソースや個人が決定されてゆく。

福島事故後で言えば日本では、いかにも業績をつみあげた偉大な科学者らしいあたりを払う威風が口調ににじみ出た菊池誠や早川由起夫のような、まつろわぬ民を教導する「無謬の学者」があらわれて無学な衆生の無知を罵り必死に勉強しろ、そうでなければ死ぬぞ、瓦礫、バカか安全に決まってるだろうが、というようなことで、頭の良い人はこわい、専門外のことでも(なんだかよくわからないが)とるものもとりあえず科学的なので社会全体が「お説」を絶対のものとしてひれ伏す展開だったが、英語人はたとえばケンブリッジの偉い学者が高説を述べても、簡単に言えば「へえ」というマヌケな反応で、しばらくは何も木霊しないであろうと思われる。

その代わり「燃料棒が抜きとりの途中でロックから外れて落ちた!」というツイートが仮に流れれば、懸命に真偽を確かめて、ほんとうらしい、となれば、全速力で逃げる。
現に福島第一発電所が爆発したときには、まずemailで、実際にはモニとわしは事故の頃にはとっくの昔に日本滞在を終えてオークランドの家でふにゃふにゃしていたが、日本にまだいるのではないかと思っている友達もいて、アメリカ大使館、フランス大使館の退避勧告emailから始まって、ありとあらゆる情報が洪水のように流入して、やがて留学生たちのようなひとびとを中心にツイッタでも情報が交換されているのが見えるようになっていった。

ツイッタでまで「真か偽か検証」「デマをRTした責任」とかご公儀のお白砂が目に浮かびそうな大時代で田舎者然とした虚仮威しなことを言っているのは日本語だけで、朝雄さんに「日本語では無理では」という途方もなくアホーな返答を書いたのは、いいわけをすれば日本語で書いているときには半ば日本語人格であることが影響したのだと思う。

日本は諸条件がスタティックな時代、つまりコンセプトが固定した製品像があって、効率的で質の高い大量生産が産業の中心であった時代には、不良率を減らすための「カイゼン運動」のようにQCを洗練させていったり、たとえばオーディオならオーディオで、「ステレオ」という技術の模倣が模倣にとどまらずに、いちだん深い音響学の製品化に辿り着いたりして、「変化しないものを洗練させてゆく」ことについては優れた民族的才能を示したが、「諸条件」そのもの、社会が求めることそのものが流動的になった新しい時代には、ついていくことができなかった。
フリップ式の電話を改良しているうちにタッチパネルというヒューマンインターフェースがあっというまに広まり、ノートブックの軽量化に打ち込んでいたらタブレットに全体の市場がシフトする、というような目にみえるマーケティングのうすのろぶりに加えて、もっと深刻なことは、政治においてもアメリカを中心とする太平洋外交の枠組みの変化にも「そんなことはありえない」という前提に立ったまま「自主防衛力」そのための憲法改正というような前世紀の寝言を21世紀の朝になってやっと目をさまして起きてから演説するような悲惨な事態に陥っている。
経済においても、20世紀末に目標にした経済モデルをいまごろになって達成しようと再決意している。

社会全体が動的に世界全体の変化に対応していくためには、数学史で言えば微分の導入の時代にあたる、一枚一枚静止写真を撮影して画像を並べていたのを動画に置き換える努力が必要だが、規則がどんどん増えて適用も「厳格」になってゆく日本の社会を見ていると社会全体が文字通りの自縄自縛になっているように見える。

このあいだ日本語の本を読んでいたら司馬遼太郎という近代の日本の歴史をまるごとでっちあげてしまった、小説家としてなら天才としか呼びようがない人が講演で
「日本を含めた東アジアは、全体が、朱子学というヘリクツに長い間支配されてきた。
それが長い停滞の原因だった。ばかばかしいことでした」
という意味のことを述べていて、はははは、ほんとじゃんね、やっぱり、このひとはよく見てるなあー、と思ったが、
いまは日本を「教科書に書いてあった西洋」という新しい朱子学がすっぽり包んでいるように見える。
新・朱子学がどんなに権威を帯びてみえても、司馬遼太郎の言う通り、ヘリクツはヘリクツにしか過ぎないので、傍観者のわしとしては、さっさとやめちゃえばいいのになあー、と思う。

足首にからみつく明治から昭和までの過去の時代の死人(しびと)たちの群の髪は、新しい時代に向かって歩く意志をもたないときには気が付くことすらなくても、いざ動きだそうと心に決めたときには、しっかりと足首をとらえて、「われわれと一緒にここで共に死のう。それが日本人としての国への愛情だと思う」といいだすに決まっているからです。

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