人間になりたい

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1972年のスポーツ新聞に虫明亜路無という人が、日本の戦後民主主義は「鉄腕アトム」がつくったのだ、という文章を書いている。
そーゆーことがあるものだろうか、と思って買ってみた「鉄腕アトム」というアニメDVDは、暗く、悲惨で、人間と同じ意識と感情をもちながら決して人間扱いされないロボットの絶望と苦悩を描いた、極めて深刻な物語で、これがほんとうに子供向けに土曜日の午後6時から放送されたアニメ番組だろうか、と、ボーゼンとするようなものだった。

アフリカ人の友達に会いに水戸市へでかけてみると、そこには「国際交流協会」という建物があって、さまざまな協賛企業が寄付したらしい装飾タイルに飛島建設という会社が「八紘一宇」という文字を焼き込んだタイルを献納している。
友達を待っているあいだじゅう、かつての大日本帝国が西洋世界に対抗するために発明して、いまでは当のアジア人たちから、かつての日本の残虐と傲慢、徹底的な蔑視の象徴として忌み嫌われている「八紘一宇」という言葉を眺めながら、「日本のひと」というものについて考えないわけにはいかなかった。

多分80年代頃まで、日本のテレビには、正統右翼の大立て者笹川良一自らが出演して「人類一家、世界は皆兄弟」と述べるコマーシャルが存在したはずだが、簡単に言えば、
この「人類一家、世界は皆兄弟」は八紘一宇の口語訳です。

山本五十六におもしろがられることで頭角をあらわしていった、かつての右翼青年は、岸信介(いまの日本国首相安倍晋三の祖父です)と通じて、アイゼンハワー来日の治安を守る為に「抜刀隊」を組織したり、中華人民共和国に莫大な金銭的支援を行ったりして、現代日本史の流れの舞台裏に見え隠れしながら日本の権力層に随走してゆく。

外国人で日本語を勉強する人間にとっては「笹川財団」は親しみのある名前で、海外のいまの日本語教育は、そういう文化事業にはいっさいオカネをださなかった日本という国の文化に対しては冷淡を極める日本政府の代わりに笹川良一が行った巨大な寄付がなければ存在しないものであることは誰でも知っていると思う。

日本の今の若い世代は、この国が初めてもった文明人とでもいうべき人達で、tumblrをみていると、あれほど上の世代がもてはやす安岡正篤をあっさり「俗物」と切り捨てていたりして、なんとなく読んでいてニコニコしてしまうが、安岡同様、(それが日本正統右翼のひとつの特徴で)詩的跳躍がまったくない魂の持ち主であったものの、「八紘一宇」は、あとに軍部や卑しい欲望を美辞麗句で固めてアジアから利を貪りつくそうとした日本指導層とは異なって、(ちゃっかりと自分の財布に拾ったオカネを放り込んでしまうのは忘れなかったが)笹川たち大アジア主義者の実際の信念だった。

「太平洋戦争は白人の有色人種差別に対するやむにやまれぬ防衛戦争だった」というふうに大アジア主義に基づく戦争解釈が人種差別の戦いへと矮小化されてゆくのはずっとあとのことで、当時の日本人は「白人と日本人がこの世界のふたつの優等人種だ」という明瞭な意識をもっていたようにみえます。
「白人たちによる日本人の劣等民族視」という意識は、どちらかというと戦争にぼろ負けして、どこからどうみてもパーにしか見えないGIとその家族に犬なみに扱われたことから生じた意識であるようにおもえる。

敗戦の結果、戦前の「アメリカ人、ドイツ人と肩を並べる優等民族」という固い信念から一気に「欧州人種と同じ人間であると妄想した頭のおかしなアジア人」の立場にまで自分達の意識の上で転げ落ちた日本人は、現実には自分達の仲間が戦場で行った蛮行への反応にすぎないことが多かったアメリカ人たちの日本人への軽蔑と憎悪を伴う反応を、根本的な人種の優劣の問題と受け取って、ある意味においては哲学的な苦境へ陥っていった。
もともと自分達自身が「人種の優劣が存在する」という前提に立って、「自分達は優等民族である」と規定していたことが、そもそもの苦しみの源泉であったのが、当時のいろいろなひとへのインタビューを読むと見てとれる。

手塚治虫の「鉄腕アトム」は、初め「アトム大使」で企図されたファンタジーから、弱さも人間と同等の感情もあるロボットという設定に変えたことで、作者自身が意図しなかった世界へ踏み込んでゆく。
後半になると、市民権を求めるロボットたちの側に立つか、「人間の番犬」と罵られながら人間の正義と善良さを信じて本来なかまであるロボットたちと戦うか、というような物語が多くなってゆく。

虫明亜路無が「鉄腕アトム」のなかに見たのは、アジア人でありながら、アメリカ人の側に立って、アジア世界と敵対する日本の「戦後民主主義」の姿でした。
日本人を決して自分達と同じ人間と認めていない、という西洋人たちに対する根の深い疑惑に戦後日本人は終始悩まされていた。
一方で、西洋的人文の価値や自由の価値を信じ、共産中国に代表される主人公を変えた「新・大アジア主義」と対立して、日本人は明治以来自分達が信じてきた西洋由来の「文明」を信じようとした。
日本の戦後を通じて、さまざまな日本人が西洋に対して発した「わたしたちは人間ではないのか? きみとは違う生き物なのか?」という叫びは、多分、これからの歴史の上でも、ただ日本人だけが、ほんとうの気持ちを理解できる痛切な響きを伴っている。
自分は人間ではないのか?
という問いこそは、日本人が西洋文明に対してもっている最も本質的な、それだけに強烈な痛みを伴う問いであると思います。

アニメの鉄腕アトムは、陰惨すぎる、と作者自身が述べた原作の最後と異なって、太陽の活動を抑制するためのロケットを制御するために太陽のなかへ消えてゆく英雄的なアトムの姿で終わる。

現実世界の鉄腕アトムたる日本人は、ほかのすべての現実と同じく、英雄的な輝きも自分達を看取るたくさんのひとびとの涙もなしで、あれほど自分達を苦しめた人種差別がほぼ消滅した世界のなかで、ただ自分たちの固有の信念のようにして「人種差別がはびこる世界」を妄想して、日本語世界のなかに閉じこもってしまっている。

小さな単座単発機に乗って南太平洋の海と空以外はなにもみえない戦場を何百キロも孤独に苦しめられながら飛んで死闘した少年兵たちや、万策がつきて塹壕をとびだして「バンザイ、バンザイ」と絶叫しながら機関銃になぎたおされて死んだ若者たちの死体も歴史記憶の後景に退いて、同じアジア人同士のいがみ合いに明け暮れている。

日本のひとたちが、砂浜に勢揃いして立って、遠くの過去を眺めているのが目に浮かぶような気がする。
せめても、日本人が人種差別の悪夢のなかで見た「戦後民主主義」という儚い夢をどこかに記録しておかなければ、と思う。

もう、誰も日本人たちが立っていた場所に帰って来はしないだろうから。

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