影の痛み

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夜11時の六本木の「さくら坂」でモニさんとふざけて踊っている。
日本の人たちが人目を気にしないバカガイジンのカップルをおもしろがって遠巻きにしている。
カメラやスマートフォンを取りだして写真を撮っているひとたちまでいたから、モニとわしの姿は日本の家庭のどこかでいまでもシリコンの上の影になってとどまっているわけである(^^;

過剰な自意識をもてあます人間の聖典である「ライ麦畑でつかまえて」には、主人公の言葉使いが悪いクソガキが、この道路をぼくが渡ってゆくとして、向こう側に着くまでにぼくは消滅しないでいられるだろうか?と訝るところが出てくるが、それは、およそ人類と名前のつくすべての生き物が共有する疑問であるべきだろう。

いったい全体なにを根拠にきみは自分がたしかに存在していると思っているのだね。
なぜ、きみはそれを信じているのか。
フォーラムでジョン・タイターがつぶやいたときに、その疑問を一笑にふせたひとは考える習慣を持たないという点で健全だが、リアリティという概念を検討するという経験はもっていないひとだったろう。

人間は時間を光源にして地表にうつしだされた影に似ている。
影はうまれ、光が射すあいだはゆらめいて、やがて光が去るのと一緒に消えてしまう。
人間の一生も同じことで、ただひとつ異なるのは、傷ましいことに、この影は意識をもっている。
その意識も影の消滅とともに消えてしまうのだが。

現実の記憶なのか、「過去」というものにつきものの幻影が記憶の形をとって脳髄の表面に残像を残しているのか、もう判然としないが、かーちゃんに連れていかれた広島の「原爆記念館」で核爆発の熱風で捩れたガラス瓶の「美しさ」にたじろいでしまったことがあった。
たくさんの人間を殺して苦しめた原爆が残した造形を「美しい」と感じてはいけないのではないかと子供心に考えたが、その、かしいだ、得も言われない(非人間的であるという点で)残酷さに満ちた流線形は、あらがいようなく、美しかった。
そのときに、ふとこの世界に「神」などいないのではないかと考えた。
こんなことを考えては日曜日の教会が出す無料のハムサンドイッチと(こちらがより重要だったが)きゅうりのサンドイッチが食べられなくなるのでよくないと考えたが、そのあとまで野放図な生命力をもった熱帯性の蔓のように心に絡みつく疑問の始まりはあのときだった。

原爆記念館の出口にあったノートブックの最後のページに書かれていた
指で作ったおおきなVサインの絵と「ざまあみやがれ。おまえらがたったこれだけしか苦しまなかったことが俺は残念だ」と書いたオランダ人の「記帳」とともに、いまでも記憶に残っている。

影にも痛みがあることを知ったのは、だから日本にいたときのことだった。
この地上に長くとどまることを許されない儚いものたちにも永遠の普遍性をもつ苦しみがあることを考えたのは日本にいるときのことだった。

とりわけ日本語をひとしきりつかって考えて、ブログ記事を書いたあとに、ほんとうの筋肉痛のように痛む魂の痛さ(笑ってはいけません)にたえかねてモニを誘って、六本木に出かけた。
六本木は滅茶苦茶な町でむきだしのセックスとオカネで、ただそれだけで、壊れかけてボロくなった魂を入渠させるには良い町だった。
影の痛みのせいでいたたまれない気持ちになったのに、町そのものにまで陰翳があったのではたまらない。

そうしてモニの手をとって一緒に舗道で踊ることがあった。
モニさんの風のように軽いスカートが足のまわりでくるりとひるがえると、なんだかぼくの心も軽くなって、日本語が運んできた「痛み」を忘れ去る役にたったものだった。

(頼まれもしないのに)日本のことを考えると、自然と唇をかみしめて、ちくそー、と思う。
こんなバカな話があるか、と腹を立てる。
こわがることが科学的に正しくてもまちがっていても、そんなこと知るかバカめと思う。
このイナカモノ科学者めらが、自分が正しいと思うことがそんなに嬉しいのか、おまえたちの「科学」など、ただの自己満足ではないか、このクソバカタレが、こうなったら雷神に頼んでおまえらの研究室をすべて焼き払ってくれるわ、と憤る。
雷神がもしかして「いやだもん。そんなんめんどくさい」と述べたら式神を派遣してファイルキャビネットのなかにうんこしてこさせてやる、とまで思い詰める。

客観的条件(1 要するに自分と全然関係がない外国のことを自国のことのように怒っている 2 そもそも軽く一万キロ離れた土地に住んで原子炉の上に腰掛けているひとのように切歯扼腕している 3 日本語すら外国語である…等々)から考えると、無意味というか、なんのこっちゃわからない怒りだが、考えるたびにものすごく腹が立つ。
それから途方もなく悲しくなる。
こんなバカなことが現実であっていいわけはない、と思う。

You never give me your money
You only give me your funny paper

とポールマッカートニーが静かに述べているのは、おおかたの解説に反して、あれは実は少女売春婦の繰り言だが、ギリシャ以来の人間の一千の哲学の夢が消えてしまうと、あるいは一千の英雄的な物語が去ってしまうと、世界は売春婦と客だけがひっそりと暗がりで交渉する惨めな場所になんと似てくることだろう。
魂を売却して相手が自分を弄ぶ、その這い回る手のひらの汚らしさと抗うことさえ出来ず(オカネをもらってしまったからね)に突き崩されるに従ってまるで腐り落ちてゆくゆくような「自己」のバランスによって、現代のひとりひとりの人間の一生は出来ている。

もっともらしい理屈の薄皮をいちまいいちまい剥がしていけば、現実の発電所として複雑すぎて醜悪な姿のシステムを地上に出現させた「原発」も、明日の糧のために人間が誇りを捨てて自分の肉体にはそもそも受け入れがたいまるごとの自然そのものを自分の肉体のなかに受け入れた結果にしかすぎない。
そういう大時代な言葉が好きならば、「知性の敗北」とゆってもよい。

明日の朝になれば覚めるはずだと思いたくなる、この惨めな「文明のなれのはて」の姿は、明日になってもあさっても一年後の今日になっても覚めることがない現実になってしまった。

「鳥のように叫び 猿のように話せ」と詩人は書き残したが、
(そして永遠に文句を言い続けた例のひとびとは「猿のように話せ」とは日本人への人種差別だと怒鳴り込んできたがw)

Shall I at least set my lands in order?
というつぶやきも、所詮は不毛を前提にしたものにしか過ぎなかった。

(London Bridge is falling down falling down falling down )

(falling down !)

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2 Responses to 影の痛み

  1. satoshi440 says:

    アカウントをとって、コメントを残せるようになったので少しお話させてもらいます。半年前くらいにあなたのツイートが流れてきてガメさんの存在を知りました。それから、ガメさんのブログ・ツイッターをたどっていろいろ読ませていただきました。ウソのような本当の話で、驚きの連続でした。中でも一番可笑しかったのは、ガメさんの方が日本人である自分よりも、日本語がうまく、日本に対する想いが深いことでした。今はガメさんの影響で、現代詩をいろいろと試してみてます。

    僕の知らなかった日本の魅力を教えてくれてありがとう。

    記事に関して少し、今の日本のことを考えると“痛み”を伴うことが多いです。もらったオカネの代償のこと、秘密保護法(こちらはまだ自分の中で整理できていませんが)のこと。周りにこれらのことについて深く話しあえる人がいなくてなんだかなという気持ちになったり、日本のこれからの行く末を憂いたり。けれど、自分にも自分の一生があり、暗い気持ちになってばかりもいられないので、『未来はいつも面白い』という言葉を持って先に進んでいきたいと思っています。

  2. 眠れる森のおっさん says:

    うんと子供の頃、光速というのは一秒で地球を七周半するのだ、と友達に聞いて「えっ」っと思ったことがある。

    「なにそれヒコーキよかよっぽど速いやんか。」

    その後僕は図書室に行って図鑑などを引っ張り出して宇宙のことについて調べた。それだけでは飽き足らず、オカルトが好きで、妖怪と「北斗の拳」の残虐描写を愛してやまないY君の、日中も中に日が届くことのないお化け屋敷のような家に、宇宙についての図鑑やら絵本やらマンガ本があると聞いたので押しかけて、「宇宙についての本を読みたいのだが。あ、それからポテトチップスとセイントブラッド(ファンタグレープのことである)も頼む。」と言って、「もう帰ってくれよ。」というY君をしり目に宇宙の図鑑やらなんやらを読みまくった(妖怪の図鑑なんかも読んだ。面白かった。)

    図鑑には星の持つ(人間に比べれば)途方もなく長い寿命、それからそれらの途方もないサイズ、例えば太陽のサイズを知っただけでも眩暈がするのに、同じ恒星であるベテルギウスの理解を遙かに超える馬鹿馬鹿しい馬鹿デカさが記してあったりして目が点になるばかりであった。しかも一秒間で地球七周半という驚きの速さを誇る光さんの光速を以てしても、ベテルギウスさんから地球さんまでウン百年かかるという。

    そういう宇宙についての諸々を知って、途端に自分が取るに足りないとてもちっぽけなものに思えて怖いような、なんだか不思議な気持ちになったのを覚えている。それからは、布団の中で暗闇を見つめながら、能う限りの想像力を駆使して宇宙の果てやその宇宙の片隅でひっそり生きている自分達人間について空想をめぐらせるのが眠りにつくまでの遊びのひとつになった。

    中島らもという変わったおじさんがある文章の中で、「夜空に瞬く星の姿はその星の過去の姿で、彼らの光が僕らの目に届いている今この瞬間、実際にはいくつかの星はもう存在していないのかもしれない。」と書いた後で、例えば自分の恋人なり友達なりが遠くで自分に手を振っているとして、その自分が見ている彼らは、もう存在していない彼らの過去の姿なのであって、そう考えるとよくわかんないけどなんか切ないよね、というようなこと(詳しく覚えてない)を書いていて、「大袈裟というか、感傷的にすぎるなぁ」と思う一方で、人間という存在に対する認識としてなんとなくわかるような気もするなぁと思ったことがある。
    それを大袈裟と思うのは、ただ、自分とその恋人なり友達なりとの隔たりが、人間の知覚に収まる程度、人間に与えられた身体が持ちうる感覚の幅に収まる程度の隔たりにしか過ぎないからで、現象としては何百光年彼方の星を見るのと何ら変わらないのかもしれない。

    >人間は時間を光源にして地表にうつしだされた影に似ている。
    影はうまれ、光が射すあいだはゆらめいて、やがて光が去るのと一緒に消えてしまう。
    人間の一生も同じことで、ただひとつ異なるのは、傷ましいことに、この影は意識をもっている。
    その意識も影の消滅とともに消えてしまうのだが。

    ここはすごく好きな文章である。
    例えば普遍という言葉が指し示すところに到達するためにはあまりに小さく、頼りなく、そして短い時間しかもちえない肉体に意識を拘束されている人間というものの存在の寂しさを思わずにはいられない。
    何百光年彼方で何億年と光を放ち続ける恒星のことを思えば、人ひとりの一生などは畢竟一瞬の瞬きのなかで辛うじて捉え得る微かな影のようなものにすぎないのかもしれない。

    例えば、超超超超長時間露光で、超高解像度の、地球表面におけるある一定の場所の衛星写真を撮ることが出来たとして(1万年間露光とかwこれじゃあ何も写らないかw写真機のことはよくわからぬ。)、もしかしたらその写真には人間の姿はおろか、その痕跡すらも見いだせなくて、地球の表面以外は何も写っていないかもしれない(あの杉本博司の映画館のスクリーンを写した一連の写真のように)。

    或いは、さっき話したベテルギウスが意識を持ち、目を持っていたとして(しかも地球の表面まで見渡せるような目を)彼の意識の中に、彼の感覚が捉えられる範囲に僕ら人間たちの姿は写りこむことができるのだろうか。

    うーん。何が言いたいのか自分でもよくわからなくなってきた。

    ただ、「人間は時間を光源にして地表にうつしだされた影」というアイデアがとても美しいと思ったのね。そんだけです。

    うーむ。一寸、「ここの文章がすごくカッコいいではないか。」と言うだけのつもりがまた長くなってしまった。今日はここら辺でよしときます。うんだば。

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