Private Universe

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日本にいたときに、あるひとが「インターネットは真贋を見分ける目が大切で、それがないひとはインターネットをやってはいけないのだ」という意味のことを書いていて、読んで、大笑いしたことがあった。
チョー日本人ぽいというか、三流の骨董屋みたいなことを言うので「日本はたいへんな国だな」という印象をあらためて強くもった。

小林秀雄という人は公平に言って面白いひとで、大切にしていた掛け軸をある日じっと眺めていて、日本刀でまっぷたつに切ってしまう。
刀剣について書いていることから察して「贋物と見ていて痛いようにわかった」掛け軸を切った日本刀も贋物だったのではないかと思うが、あんまり意地悪なことをいうと化けてでるかもしれないので、止すことにする。

日本のひとほど「真贋」が好きなひとびとはいないと思う。
歴史的に言って日本の人が衒学と言っては角が立つが、ありとあらゆる細かいことにまで「これ豆知識な」みたいことが好きかというと、1945年に戦争が終わるまで、日本人は「知る事」を抑圧されてきたからである。
1945年8月までの社会は日本の社会では「知ろうとすること」は遠慮すべきことだった。「余計なことを詮索する」ことは感心できない態度だった。
政府の外交政策から農業の出来高、浜から遠望した軍艦の名前も、轟音とともに低空を通り過ぎた銀翼の低翼機のプロトタイプの名前も、まして、神武天皇がほんとうに存在したかどうかなど「知ろう」とすることはとんでもないことだった。

戦争が終わると少年誌から婦人誌、オトナの雑誌に至るまで、「雑学帖」や「ひとくち知識」が必ずコラムとして連載されるようになり、テレビでも「こんなことを知っていましたか?」というような企画の番組が流行ったのは、雑多な知識を吸収することが自由への営みと感じられたからである。
フィラデルフィアはがんばって英語っぽく読むよりも「古豆腐屋」と述べたほうがアメリカ人にはわかりやすいというようなことから天皇家の血筋には実は半島人の血が混ざっているというようなことまで戦後日本人はほぼ熱狂的に知識として吸収していったが、それは、「民主主義の明るさ」によって照らし出された、いままでどうしても見えなかった暗がりのようなものだったのだと思う。
当然、よく考えてみると何の役にも立たない知識を蓄えて行くことには自分が戦後人であることをたしかめるよすがにもなった。
知識を求めることは、どこというでもなく「自由になる」こととオーバーラップしていたのだと思う。

インターネット上の「ほんとうの」情報は何で「ニセの」情報はなにかと考えると、見ている方向が完全にピント外れであることに気が付く。
そういう見方が成り立つのは「欺そうとする人」がいて「欺されまい」とする人がいる構図があるときだけである。
ところがインターネットの思想はもともとグーグルの社是そのもの「Don’t be evil」なので、真贋を見極めなければ「インターネットをやる資格がなくなる」ようなネット世界は、そもそもネット世界として崩壊している。
崩壊している、というのがわかりにくければ、存在の意味がないインターネット世界なのであると思う。

日本語インターネット世界は伝統的現実世界の手垢がつきすぎているのではあるまいか?と、考え出したのは、だいたい、この「真贋の目をもってインターネットを見る」という噴飯物の意見を読んだことからだったと思う。

言葉が悪くてごめんごめんすまんと思うが、日本語インターネット世界がトイレ臭くて、あんまり長く滞在していると体中に臭気がついて失神しそうになるのは、インターネットの世界で名前を知られたひとびとが、インターネットには絶対に必要な向日性のノーテンキな性善説をもてなかったせいだと感じる。

英語世界でインターネットに馴染んでいる人には普通に判ると思うが、インターネットは平均的な英語人にとっては「楽しい経験をしにいくところ」である。
誤解する人がいるといけないので慌てて付け足しておくと英語世界にももちろん「真贋を見分ける目をもたなければ」バカを見るようなインターネットコミュニティは存在する。雰囲気の悪いMMOなどは戯画化された典型であると言ってもよい。
主に自他共に認める「頭がわるいひと」が集まるコミュニティに行けば「西洋人の使ったあとのトイレの臭い」を満喫できると請け合える。
でもあのひとたちは、自分でもバカなことをしていると知っているのだと思う。

ときどき日本語インターネット世界はなぜ「有効な」コミュニティを作るのに失敗したのだろうと考える。
感覚にしか過ぎないが日本の「草の根言論」はインターネットの普及とともに質が低下したと考える根拠は歴史のあちこちに痕跡が残っている。
英語世界と見較べると、その「後退」はインターネット世界を活字の世界と見誤ったことから生じているように見える。

インターネット上で、たとえばブログの形で「意見を発表」することを雑誌に記事を書いたり、酷い場合には本を出版するのと同値だと感じたのではないだろうか。
活字は沈黙がおおい世界で、(英語世界でなら)活字の世界でひとつのセンテンスの後ろに10の沈黙があるとすればブログは0.1くらいしかない。
インターネット世界とはもともと本来「批評精神」が働く時間である「沈黙時間」が極端に乏しい表現世界なのです。

新聞社サイトのような「活字世界のルールで出来ている」サイトは、もちろん異なるが、インターネット上にも「言論」があるとすれば、それはまず第一に「編集機能」という第三者による見直しと批評フィルターを経ない「無批評」のポンと出てくる情報・表現であって、次には熟考よりは知性の反射神経におおきく依存している。

正常に機能しているインターネット世界はしかつめらしくて前時代的、いかにも畳の臭いのする「個人の真贋」みたいなバカバカしい能力よりもコミュニティ全体が真贋を常識の機能によって判別していけるものでないと、そもそもインターネット上に存在するだけの価値がない。

発言者が懸命にベンキョーして、真贋を研究して、やっとものが言えるのでは楔形文字の石板は似合っても、そんなものは、オンラインで結ばれた個々人がニューロンの役割をはたすかのように情報が瞬時に伝播して、あっというまに真贋が決定してしまうオンラインコミュニティとは千光年くらいの距離があると言わなければならないと思う。

このブログ記事で何度も論じてきたように日本のインターネットコミュニティの救い難い後進性は、重箱の隅をつつきまわるようにして、あるいは教科書をなめまわすように読む頭の悪い秀才のようにして、訓詁的情熱を発揮した挙げ句、居丈高に、例をあげれば自分の生涯をかけた「いじめ研究」研究者を、ほんの二三日の俄勉強でバカにしにわっと押し寄せる軽薄な集団サディズムに典型的に見られる。
社会が、そういうサディズムを深い場所で許容していることの深刻な問題は言うまでも無い。

日本語マスメディアが完全に腐敗崩壊して「洞窟の入り口から入ってくる光」の役割を果たさなくなった以上、せめてインターネットが健全なコミュニティを築けなければ日本語が言葉として無意味な喚き声のようなものに堕ちてゆくことは避けられない。

それに、ほら、太陽を向けない植物は枯れるのですよ。
思想においても事情は同じだと思うのだけど。

(次も多分「思想の向日性」ということを考えると思われる)

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One Response to Private Universe

  1. DoorsSaidHello says:

    ここしばらく、「密室性」と「乖離」「ふりをすること」の三つについてぼんやり考えている。

    内藤朝雄さんが提唱しているのは、いじめが「教室の密室性」に依っているということだが、これは家庭における家父長制や、地域における町内会制度、大きなところでは国民にとっての国家制度でも同じ構造になっているのではないだろうか。弱い者を無力化して逃げられないようにすることは、権力を行使するにあたっての基本だからだ。

    家庭から職場そして国家まで、赤ん坊から大人になって老いるまで、逃げられないようにして命令に従わせるというやり方が繰り返されるとすると、そこで育つ子どもは、自分の感情を棚に上げて目上の者の都合に従う練習をすることになる。棚上げがあまりに完全すぎて、自分でも自分の感情がどこにあるのか分からなくなるのが「乖離」だ。

    自分の感情が分からなくなると、自分は何をしたいのか分からなくなる。その場合は自分よりも強い者、密室を支配する者の感情を自分のものとして振る舞うのが手近な解決になる。大勢に逆らわないので損が少ないし、真の自分が決めたことではないので良心の痛みを感じる必要もない。誰かの「ふりをする」あり方は目先の痛みが少ないという点で「賢さ」と呼べなくもない。

    生まれたときから密室の暴力にさらされ、その中で生きるために痛みを乖離させ、何かのふりをすることを身につけさせられる。ふりをする人生には、生の喜は訪れない。失った喜びの代わりに、熱狂的に支配者に同調しようとする私たちは、ストックホルム症候群の犠牲者達によく似ている。日本の社会は私たちの認識を越えて、水面下ではずっと恐怖による支配が行われていたのではないか?

    きれいにつながりすぎると疑いたくなる性分なので、もうしばらく検討を続けると思います。
    あとは日本語が「神(絶対性)を持たない言語」であることがこれにどう影響しているのかが見えてくれば、ジグソーパズルが完成できるかも、と思ったり。

    来年の抱負、というか希望です。

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