鏡よ、鏡

「中韓以外、みーんな親日〜クールジャパンが世界を席巻中〜」酒井亨
「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」竹田恒泰
「イスラムの人はなぜ日本を尊敬するのか」宮田律
「日本はなぜアジアの国々から愛されるのか」池間哲郎
「住んでみたドイツ8勝2敗で日本の勝ち」川口マーン恵美
「日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争」井上和彦
「日本の文化 本当は何がすごいのか」田中英道
「呆韓論」室谷克実
「そして日本経済が世界の希望になる」ポール・クルーグマン
「日本は世界1位の政府資産大国」高橋洋一
「愛される国 日本」日本戦略研究フォーラム

……キリがないので、この辺で止すが、アマゾンの読者レビューで見る限り、読んだ人の評判もよくて、こうやって題名を見ていても、あるいは「なぜ中国はもうダメか」「韓国がすでにダメである10の理由」というタイプの題名が並ぶ、一方の中国や韓国についての本の題名を見ても、日本の未来は安泰で、韓国も中国もいずれは自爆するので、日本が東アジアに再び君臨する日は近いのであると思われる。

試みに「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」という本のトップのカスタマーレビューを見ると、

「『日本は世界中で嫌われて孤立している』と聞いたことはありませんか。
私は今までに何度も聞きました。特にテレビから。
それは悪い『呪い』です。

Facebookに登録して、世界中に知り合いができました。
外国人である彼らによって、私が当たり前に思って意識していなかった「日本」が、
どれほど海外で素晴らしいと称賛されているかを、思い知らされました」
と書いてある。
祝着至極、という表現は、こういうときのためにあるのだ、と考える。

ヴィルヘルム・グリムとヤーコブ・グリムが書いて、ルードヴィッヒ・グリムが挿絵を描いた「白雪姫」の王妃は、白雪姫が7歳になった朝、鏡に「世界で一番美しい女性は誰か?」と訊ねて、いつもの「王妃様に決まっていますとも」の代わりに「それは白雪姫です」という答えを聞いた瞬間に発狂したのだという説がある。
物語の筋を忘れてしまった人のために付け加えると、王妃は、物語の最後、白雪姫と王子の結婚祝いの席で、真っ赤に焼けた鉄の靴を履いて、死ぬまで踊り狂う。

英語世界でも、あまりに面白いのでひとしきり話題になったASEAN会議での秋本康と安倍晋三の蜜月関係の象徴であるお座敷芸について、バジルさん(@basilsauce)がツイッタでこんなふうに述べている。

「友人の英国人女性に見せたら「これはポルノ。アベは伊のベルルスコーニとお友達になれそうね」と言われました。@dztp これは喜び組…国辱…マジ勘弁 @kengo_man ASEANの首脳の前で披露された安倍晋三が誇る自慢のAKBショー。pic.twitter.com/54d1yjFpGM」

それに対して「京都大学大学院生」にして「オックスフォード大学学生」の「ただやす!」さん (@yasu_l) が、

「オクスフォードの友人達(院生ね)に見せたら、「日本の伝統芸能はあまりに有名すぎるし、ポップカルチャーは新しい世代に訴えるのに有効だから、戦略としては正しいんちゃうか?日本はソフト強いんだからいいだろ。見る側も機会ないだろうから面白いだろ」と返ってきた。なかなか」

と日本の人らしい間接的な反論を試みている。
どこの学寮なのか、関西弁の英語を話すオックスフォード大学の学生は珍しいと思うが、「でっちあげ」というわけではないのでしょう。
それは、この「ただやす!」という人が「確かに自分の耳で聞いたこと」なのである。

英語人としての自分の頭に聞いてみると、自分と同じ英語人がこの写真を見せられて、このニュアンスで「いい考えなんじゃない?」と反応するというのは考えるのが途方もなく難しいが、ま、ひとの言う事はまず信じてかかるべきで、そうでなければ(ただでさえ困難な)人間の言葉を使っての意思の伝達など、困難を極めることになるので、ほー、そーですか、と言って聞いておくのがよいと思う。

日本人は、いま、自分たちが置かれている現実とは思われないほどの状況に泣いているのだと思う。
泣いて、という言葉が軽みにすぎるなら、打ちひしがれ、呻いているのだと言っても良い。

そもそも自分達の社会がなぜここに至ったかも判らず、なぜ、これほど辱めをうけるのか理解できず、自分達ひとりひとりに向けられた韓国人と北朝鮮人たちの激しい憎悪や、もっと悪い事には実質的な復讐心を含む中国人たちの日本人への激しい敵愾心にとまどっているのだと思う。

「ブレードランナー」の原作の「電気羊はアンドロイドの夢を見るか?」という一種偉大な小説には、そこまで無垢な魂の持ち主であるアンドロイドの女びとが、テーブルを横切る蜘蛛を摘み上げて、「なぜ蜘蛛は足が8本あるのかしら?」と訝しむところが出てくる。
「昆虫は、みな6本足なのに」と呟いて、足を2本むしりとってみる。
フィリップ・K・ディックは、現実と非現実の境を越えて何度も往復して、現実も非現実も同じものだと悟った人特有のやりかたで、「人間のアイデンティティとは何か?」という疑問と一緒に、「魂の無垢とはなにか?」という問題も、いつものこの人のやりかたで提出しているのであると思う。

ときどき日本の人たちは無垢な魂をもった子供のようである。
極めて残酷なことを、あっさりやってのけたかと思うと、それをおとなたちに咎められると、「自分はやっていない」という。
大人達の尋問と周囲の証言によって、いよいよ「うっかりやってしまったヤンチャ」を認めざるをえなくなると、「でも、そんなの○○君やXXちゃんだって、やってることじゃない!なんで、ぼくだけが怒られなきゃいけないんだよ!自分だって、子供のときはやっていたことじゃないか!」と大声で叫びだす。
オトナたち皆が尋問を諦めて家に帰るまで引き延ばそうと試み、ダメだと判ると、責任があるのは自分ではないと言い張る。

こういうものはすべて子供の属性だが、日本の人がオオマジメに子供の役割を演じるのは、持って生まれた「無垢な魂」のせいなのでしょう。

悪いことに、もともと賢いので、自分達がおかれている状況を理解しているよーでもある。
皮肉ではなくて、2005年からいままで観察してきた日本の人の(社会文化としての)高い知能から考えて、福島第一事故の結果生じた、「すさまじい」という言葉では足りない潜在的リスクを日本の人が、意匠をはぎとった心の底でまで知らないとは到底信じられない。
どちらかといえば、ありとあらゆる知識を動員して「大丈夫だと思い込もうとしている」のだと思います。

単純に意匠として政府や東電への非難に合唱し、「体制的」だと感じればなんでもかんでも激しく攻撃する人間たちを見つけたときには、だから、日本の人たちは嬉しそうに見えた。
自分達が「放射能に大騒ぎする人間はバカで、現実は大丈夫なのだ」と思い込むための格好の材料を見つけたのだから、喜ばないほうが不自然だと思う。

しかし現実はどう抗っても現実なので、木霊が反響しやすい日本語世界のなかでは自分達を騙しおおせることは出来ても、皮肉なことに安倍晋三がオリンピックを東京に誘致したい一心で応じた年来の諸外国人からの要求であった「福島第一事故現場の開示」に応えて以来、英語さえ読めれば、相当鈍感なひとびとにも自分達がおかれた「現実」が否応なく見えるようになってしまった。

どれほど辛いだろう、と思うことがある。
皮肉ではない。
トーダイおじさんのひとりは、割と日本社会では名の知られた科学者で、「放射性物質による汚染などたいしたことない」と述べていた自分より若い科学者たちを鼻で笑っていたが、自分の「弟子筋」の若い研究者が、なにをおもったか自分の軽井沢の別荘の土壌の汚染レベルを測定して、「先生、先生の別荘の裏庭は福島なみに汚染されているようです」と報告したのを聞いた瞬間に「いいかげんな測定をするな!」と怒鳴りつけて、あとで考えて、自分でもボーゼンとしたそうである(^^;

わしは、それを「人間の自然の感情ですよ」と述べてなぐさめたが、「先生」は、「ガメ、おれは恥ずかしい」と言って悄気ていた。

特定秘密保護法案に対しての普通一般の人の反応も要するに福島第一事故に対する反応に似ている。 「この人はまともなのではなかろうか」と考えていた多くの人が「この法案で自由がなくなるなんて言うアメリカ人たちはとんでもない。法案を読んでいないのではないか」と言っているみたいよ、とある若いアメリカ政府人に伝えると、この温厚なワカモノには珍しく軽蔑の口調で、「そーゆーマヌケはナチの法案をよく読んでみるがよい」と言った。

わしの意見は、残念ながら彼と同じで、日本の人は、自分の住んでいる社会を社会の外側に立って 観察しなければ自分たちがどこへ向かっているか判らないところまで来てしまったのだと思う。
その原因の第一は自分で求めたわけでもない自由に耽りこんで倦んで飽きてしまっていた日本の「国民」自体
第二は長く深いマスメディアの腐敗
だと思うが、もうずいぶん長くなってしまったので、続きはまた今度にしたいと思います。

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3 Responses to 鏡よ、鏡

  1. tetsujin says:

    ガメ様

    以下、切れ切れの感想。

    > 福島第一事故の結果生じた、「すさまじい」という言葉では足りない潜在的リスクを日本の人が、意匠をはぎとった心の底でまで知らないとは到底信じられない。

    フクシマのずいぶん前に亡くなった中島らもは、「運が悪いと死ぬだけだ」という言葉を残しました。おクスリのお話だったか、ヤクザをおちょくる話だったか、話柄は忘れた。とにかく何かやる、すると最悪、死ぬ、それだけのこと、という吹っ切れたお話。中島らも御本人は、なま悟りではなくて、そうやって最悪の運に出逢って死んだ。合掌。

    それぞれの人が生まれて、生きて、英語の人だと「flourishing」と言うのかしら、うまい日本語ないですね、どうも、で、まあそういう状態を経験する。その、それぞれが花開く(?)ことをお互いよろこぶ、という気持ちが無いのね、今、日本に。人は(花開かずに)死ぬる、それが何か?という冷酷な見切りが、カッコイイことのように通用する。

    これは苦しい生き方だから、長くは続けられないと思う。

    らも大人をけなすつもりは全然ありません。らも大人とは似つかぬなま悟りの人が、他人の運命に冷酷になる世の中を、憂しとやさしと思うのです、自省を込めつつ。

    >「日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか」という本

    誉めてもらえるんじゃないか、というけなげな心で勉強を重ねて、「欧米」に出かけて行ったら、ま、ものの数ではないという視線を感じ、国に帰るやいなや「オレが国には富士山がある」とか「日本よい国、つよい国」とか叫ぶにいたった多くの勉強家がいた(のでありましょう、細かく調べてはいない)。平泉澄とかそうだったような。西尾幹二さんというお人もそうかな。

    そして、なんというか、こういう悔しい気持ちは、分かるところはある。人気が有るとか無いとかどーでもよい、というところにごく自然に立っている日本人インテリは少ない。というか、いない。

    よりによってAKBをご近所のお偉いさんの前に出さないで欲しかった、というわたくしの感覚は、生まれた国はそういうふうであって欲しくないものである、という素朴な気持ちなのでありまして、これでバカにされるのはたまらんなぁ、というぼやきです。いちいちバカにするヒマ人はごく少ないと期待しますが。

    AKBは無かったことにしたいが、やっちまったんだから無理だな、と思う気持ちは、RNK(the R*p* of Nanking)を無かったことにしたい人たちのお気持ちと、かすかにつながっている。AKBはけっこう行けてるという意見だってある、というキョーダイ@オックスフォド生の心事を推し量ると、おぬしの祖国には良いところもある(たぶん)のだから、欠点まで誉めるのはやめておけ、と言ってやりたくなります。

    (可哀想に、苦労してるんだろうな。「誉めていただく必要はござらぬ」という気持ちになることができたら、少しは楽なのだろうが。)

  2. Ray says:

    自分のことを振り返ってみると、何かの会合でみんなに紹介された後、雑談の時に向こうから声を掛けてきて、いきなり「日本人ですか?」と聞かれることが多い。ムラカミハルキのお蔭やけど、スズキさんも似たような体験するやろう。話を聞いてみると日本語を勉強していたり、親族に日本人と結婚した人がいたり、日本に言ったことがあると言う。

    自分はスペイン語圏ではメキシコのアカプルコに一回行っただけやし、その時にちょっとスペイン語を勉強しただけやけど、もしスペイン語圏の人が会議に来ていたら、雑談タイムになった途端、その人のもとに駆け寄って自己紹介して、自分のスペイン語体験を話すと思う。もしメキシコの人ならアカプルコは最高に楽しい街やったと言うやろう。もちろんだいたい大喜びしてくれるけど、その人はスペイン語は世界で最もクールな言葉、アカプルコは世界最高の観光地なんて思わへんと思う。

    鉄腕アトムの「宇宙の対決」という話で、超文明に勝手に地球代表に選ばれた鉄腕アトムと金庫破りが、落第したら銀河を危険に晒す文明ということで地球を滅ぼすという条件でテストを受ける話があるけど、自分しか日本人しかいない場では勝手に日本代表にされてしまうことが時々ある。でもそれは日本という国を尊重してくれてるのではなく、せっかくその場に居合わせた人の出身を大事にしてくれてるだけの話。

    個人を大事にする文脈で、出身国としての日本をその人のために尊重してくれているのを、日本の人は、なぜか日本が凄い国やからと勘違いしてしまうんとちゃうかなあ。そんな場で、相手の出身国の悪口言う人なんか普通はおれへんし。

  3. mint says:

    以前、ガメさんのブログ “Il Pranzo” へのコメントにすでに書いたように、『白雪姫』のお妃様が、白雪姫が7歳になった時に「お妃様、あなたはここでは一番美しい、しかし白雪姫はあなたの千倍も美しい」と鏡に告げられて嫉妬のあまり怒り狂うのは、それは、鏡が真実を述べることを知っていたからでした。

    しかし、今の日本人は、鏡を差し出されて、「ほら、ここに写っているのがあなたの姿ですよ」と見せられても、「いや、こんな姿のはずはない」とか「この鏡はおかしい」とか「この鏡は真実を映し出していない」と言っているように見えます。

    お妃様は鏡が真実を言っていることは知っていました。でもその真実を受け入れることは耐え難かったので、現実の方を変えてしまおう、つまり白雪姫を殺そうと画策します。お妃様は狩人に殺させようとしたり、紐や櫛やリンゴで何度も白雪姫を殺そうとしますが、そのたびに失敗して、最後は、ガメさんが紹介しているとおりに真っ赤に焼けた鉄の靴を履いて死ぬまで踊ることになります。

    現実を直視して受け入れることのむずかしさをこの物語は語っているようです。『白雪姫』にはいろいろな解釈があるけれど、今の日本にとって、こんなに教訓になるお話はありません。

コメントをここに書いてね書いてね

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