流砂の上に立つひと

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島田雅彦という1961年に生まれた作家について1924年生まれの吉行淳之介が、この人には珍しく嫌悪感を剥き出しにした調子で、「この作家はどこに立ってものを言っているのか皆目わからない。無責任であると思う」と述べている。
日本語をうぬぼれでは日本人なみになったと思う程度に学習してからは、ときどき吉行淳之介の「どこに立って意見を言っているのか」という言葉の意味を考える。

吉行淳之介という作家は鋭敏な日本語への感受性を持っていたので、現実には島田雅彦という人の「優しいサヨクのための嬉遊曲」という小説の題名に対してカタカナで「サヨク」とは、どういうつもりだ、と気色ばむ気持ちがあったのかも知れません。
想像力を働かせると、いまで言えば50代くらい以上の日本のひとびとのなかに「w」に対する嫌悪を表明する人が多いのと似た事情なのではないだろーか。

たとえば日本の新聞社が自社を説明したものを読むと「公正中立・不偏不党の立場から社会に警鐘を鳴らす」というようなことが書いてあって、ピンと来ないので英語に訳してみて、そのあまりの幼稚さに気持ちがつんのめってしまうことがある。
人間の語彙がとどくかぎりの世界で「公正中立」でありうるためには「なにが公正か」を認識できる必要があり、それが認識できるのは神様以外にはない、というのが英語世界で育った者が馴染んだ教えで、それゆえに神は傍観者であり、神が傍観者であることの意味は、神のみが傍観者として存在することを許されていることによって保障されている。
ところが日本の新聞社の立場は「私は神である」と宣言しているのと等価で、その知的傲慢さに、へろへろとした気持ちになってしまう。

なぜ「自分が傍観者である」と述べるようなあからさまな傲慢が日本では大手を振ってまかりとおるのか、ということを考えると、もともと西洋社会にもひとつだけ「仮定として中立公正であるふりをする」役割が是認されている職業があることに気が付く。
学校の教師がそれで、英語の世界で(多分、日本語世界でも同じなのではないかと想像するが)よく教師が独善的で自画自賛ばかりしている権威主義的な「裸の王様」にたとえられるのは、生身の人間が公正中立であると思い込めるマヌケさ、と言ってひどければ知的能力の低さにおかしみを感じるからだと思われる。

40代くらいから上の日本の人は、就職面接のときに「普段講読している新聞はなんですか?」と質問されたほどだというので、「言論が中立でなければならない」という、言論においては常識においてまったく無効なスタンスを、これほど広汎な日本人が、床屋政談から知識人の文章まで、信奉しているということには、「新聞の影響」ということがあるのでしょう。

嫌ないいかたをすると、神のみが公正でありうる以上、公正な意見を求めることには「自分が神になった気持ちになりたい」という自己満足以外にありえないが、福島第一発電所事故以来、特に東京オリンピック誘致を契機に、少しずつ洩れ伝わってくる「日本人がなぜ放射能を怖がる能力をもたないか」ということへの理由がわかってくると、英語人の目には、一個の「巨大自己満足社会」とでもいうべき日本社会の印象が出来てきたのだと思う。

「えー、わたしたちは燃料棒の移動を危ないとは思っておりません」と、さしたる根拠もなく「ダイジョブ・ロボット」のような無表情で述べるTEPCOのエンジニアや、インターネットで発言の中心をなしているらしい人たち、テレビで盛んに発言している人達、どの人も「傍観者」としての発言が多いように見えて、傍観者として座る外野席には「科学者」「知識人」「タレント」「インターネット賢人」というペンキの塗り分けがあるだけで、みなが実際の作業に携わる作業員や子供を守る為に投げつけられる罵倒や冷笑を腕をかざして避けている母親たちを眺め、いまのよけ方は案外よかった、
作業員の給料はいくらなんだ?というようなことを「評価」している。
誰もゲームに参加したがらないので、ゲームに参加するのは権力の側にある人間だけである。

傍観者であることが返って賢げに見える、という社会を畸形である、と思うのは、かつて60年代には散々に世界中で論じられたことだが、また元の黙阿弥に戻ってしまった。

高校の時の英語(つまり国語)の教師が、公正中立は右と左のまんなかにあるわけはない、と述べたことがある。
公正中立な観点は天上にしかありえない。
だから、きみたちは自分が公正な立場をめざしている人間であるとか、知的な傍観者であるというような傲慢なことを述べてはならない、と述べた事があって、そりゃまあそうだろう、と考えたが、いま考えてみるとあの教師は研究者として外国人のための英語を勉強したこともあるひとで、英語世界以外の国では「公正な視点」を持っている人間が存在することにショックをうけたことがあるのかもしれない(^^;)

日本語ならば「吉本隆明」というような作家の書いたものを読めばわかるが、真理にたどりつくためには行動と結びついた思想において「過激」の極みに赴く以外にはない。
吉本隆明が街頭に立って投石することすらなく「政治」や「思想」を述べる人間を不必要なほど軽蔑し毛嫌いしたのは、宗教への感覚をもっていた作家が、人間が神の役割を演ずることのインチキさを強く憎んだからだろう。

「訳知りの傍観者」が大量に発生した結果、日本の社会、とりわけ言論社会というようなものは、はてしなく痴愚の群れに似てきてしまったが、なにしろ人間にとって最も尊敬しやすいのは「なにもしないナマケモノ」なので、こういうことをいうと嫌がられるが、もう取り返しがつかなくなってしまった。

言論の自由など行政の胸先三寸で簡単に剥ぎ取ってしまえる社会になっても、「無知なあなたの杞憂にすぎない。法案をよく読め」と言い、吉松育美と言う人が信じがたい勇気をもって、日本の金融から道路上の屋台に至るまで、文字通り「あますところなく」支配しているやくざという巨大な力(やくざは政治の世界にも力があるのですか?という質問に答えて、「中曽根までは首相がやくざを呼びつけたが中曽根以降は首相のほうからやくざの親分のほうに行くようになった」と述べた元警察官僚のおっちゃんがいた)に立ち向かおうとしたひとりの若い女びとに対して、「(余計な世話を焼く)ガイジン対やくざ」のゲームになった、と観客席で述べる国では、ただのひとうけのする知的意匠こそが「叡知」なのである。

遠くから見ていると、たとえば、「右と左のまんなか」にあるはずのものが、「あいだがら」という相対座標のせいで、最も左側のはしっこでもイギリスでは右のまんなかにしか見えない程度にずれてしまっていて、極右的思考の仕草がどんどん社会の中心に堆積しだしているのが手に取るように見える。

「賢い傍観者」という立場をクールな知的スタンスと誤解した社会が堕ちていってしまった先を見て、「なぜ日本の『インテリ』は何度も何度も何度も同じ謬りを無反省に繰り返すのか」と考えてみるが、もういまさら考えても仕方がない、というふてくされた気持ちもあるのか、そんなこと考えても意味ないわい、と午後のあいだじゅう考えていたのでした。

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