Daily Archives: December 31, 2013

2013-2

見ようによっては2014年という年は無事に済んだら、そっちのほうが不思議だわい、に見える年なので「行く年、来ない年」という題名で、このブログを書こうと思ったが、それはいかになんでも悪趣味なのでやめた。 もっかの日本が直面している問題など解決は簡単といえば簡単で日本自体に(いつか謎の怪人ナゾーを学習したときに発見した件の)「マブチ水中モーター」を切り取った日本の底にペタと貼り付けて、ぷるぷるぷるとアメリカ大陸の方向に太平洋を移動させればよいだけである。 頭の地図のなかで、平行移動を完成させてみると日本が近い将来において抱えそうな問題は核汚染以外はすべて解決されてしまう。 ほんで「核汚染」などは日本では「なんでもない」ことになっているので、ようするに問題はなにもなくて、みなハッピー、なのだと思われる。 だが問題はマブチの水中モーターは発売中止になってしまったことで、仮に復刻されても最近の、よく話題になる、日本の工業製品の質の低下ぶりでは日本を移動させるだけの出力はでなさそうである。 日本が調子がよいときにはつきまくっている博奕打ちのようにテーブルに黒や白のチップがどんどん積み上がる手が付けられない好調さなのに、どこかに挫折がはいると、今度はまた面白いように没落するのは、要するに失敗を失敗と認める装置が日本というマイクロ文明の内部には内蔵されていないからである。 いつもは日本などおおきな国のなかでは音沙汰が聞こえない国の典型で、アニメを別にすれば、普通の西洋人にとっては、そういえばそういう国あったな、という程度なのに、2013年という年は日本がよくニューズに登場する年で、伝えられるたびに福島第一の事故処理というが実は2年間なにもやってなかった、(え?)やらなかった理由は「事故処理をするとオカネがかかるから」という膝カックンな理由だった(えええ?)、とか、日本の人は案に相違して2年経ったいまも福島第一の近傍から逃走していなくて、放射能をこわがらないのはなぜかというと、名の有る科学者がこぞって、「危ないからそこにいなさい」と科学的ご託宣を述べたという一回読んだだけではそもそも頭にはいってこない不思議な理屈によってとどまったと解説されたりしていて、「日本のひとびとは変わっておるのだな」と唸らされるようなことが多かった。 昨日も書いたが、来年か10年後か、どのくらい時間がたてば実現するのかということは別にして、日本と中国が戦火を交えるほかにないコースが定まった年でもあって、アメリカはさまざまな可能性のひとつとして、ずっと前からこの事態を予期していたのは「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」の頃から明らかだが、安倍晋三がモーニング姿も颯爽と、早足で靖国神社に参拝してしまったので、「ば、ばか、そんなことやったら準備が終わらないうちに戦争になっちゃうじゃないか」と慌てふためいたので、父親が息子を叱責するようなナマな感情がこもったままの外交史上でも珍しい非難ステートメントをだすことになったりした。 アメリカやイギリスと日本に共通した社会の特徴は「自分の幸福よりも社会の幸福を優先して考えよ」という考えがいきわたっていることで、この3国のどれかに生まれると実際に小さな頃からうんざりするほどこの考えをふきこまれる。 膝蓋腱反射みたいというかなんというか、こういう話をすると日本のひとは、すぐ 「Max Weberがあー」と壊れたカラスのおもちゃみたいに繰り返すが、そういう問題とは別に、通りにでてみるだけですぐに判る、誰がみても日本はプロテスタント社会に極めて似た社会で、ポリネシア文明があるはずのところに忽然と欧州文明が存在するオーストラリアやニュージーランドと同じ眩暈というか、儒教あたまがならんでいるはずの場所にプロテスタント倫理が鎮座しているので、初めて訪れた観察者は「なんで、こんなところに」と面食らう。 しかも、それにしても極端にピューリタンなやつらだな、と考えて、ふと戒壇に目をやると、そこにはお馴染みの「神に裏切られた男」はいなくて、今出来のできのわるい玉座(しかも誰も座っていない)が「民主主義」の風に吹かれて揺れているだけである。 神がいなければ、その教会の内部で交わされる言葉には絶対の真理もあるはずはなくて、だから、この教会のなかでは現実もそのときどきの参加者によって自由に書き換えられる。 「絶対」によらず人間と人間の相対的な「あいだがら」から真理がうまれる社会では、自分たちのともがらが南京でおこなった虐殺も広大な中国の各地でおこなった集団強姦と殺戮も、簡単に消しゴムで消せる。 ひとつの「史実」があれば、歴史には、それとまったく相反する「史実」が必ずある、というのは赤毛の歴史の教師が第一時間目に述べて、15歳のガキどもを混乱させたひとことだったが、「歴史に対する解釈ということでしょうか?」と反問した最後列の生徒に向かって、「ミスター・オベール、そうではなくて、相反する歴史的現実が必ず存在するという意味である」と彼は述べたが、15歳だったわしらには、ひっぱってみせる顎髭がその頃はまだなかった。 日本人の失敗を失敗と決して認めない性癖の裏には「厳しすぎる罰」という問題があるのではないか、と考える。 いちど、東京でストローラーのなかの泣き止まない子供を叱りつける母親を観察していたことがあったが、その叱責の厳しさは常軌を逸したもので、声をあげて、たたきつけるような声で絶叫しているので、一緒にいたアメリカ人が、もじもじした様子で「警察を呼ばなくていいものだろうか?」と言い出すほどだった。 この国じゃ、普通なんだよ、と述べると、 それは怖いな、というようなことをむにゃむにゃと口のなかで呟きながら、それでもアメリカ人はまだ落ち着かない気持ちのようだった。 そのあと、しばらく彼を相手にむかしの日本ではたかが上司の奥さんとエッチをしたくらいでもハラキリだったのだと解説して、ひと頃「カチョーさんの奥さん」の長くて細い華奢な指へのあからさまに性的な羨望を述べたりして、しかももっと世間体の悪い事には、そのあと突然「カチョーさんの奥さん」についてはまったく何も言わない時期が生じて、おもいあたることがなくもなかったはずのアメリカ人の顔を蒼白にしたりした。 もしかすると待遇がよかった日本企業を唐突にやめてアメリカに帰ってしまったのは、あの日の会話が原因だったか、とあたたかい気持ちで、なつかしくおもいだす。 日本語インターネットの最大の問題は「集団サディズム」であるのは明らかである。 「集団サディズム、ってなんですか?」と思う人は、ツイッタでよいから社会学者の内藤朝雄のように「ひとりで社会に対して抗議する人」の後ろをついて歩けば直ぐにわかる。 集団サディストたちの特徴は「自分は絶対に正しい」と思い込んだ狂人がまんなかに座っていて、たいていは屁理屈屋でもあるマヌケな皮肉屋たちがまわりを囲んでいて、いれかわりたちかわり、しかも内藤朝雄から見れば視界のすみっこにあたるところで、さまざまな、しかし芸として独立させてみれば感心するくらい巧妙な中傷を行って内藤朝雄という存在の信ぴょう性そのものを低下させようとする。 社会的な信用度を低下させて発言を無力化させようと試みる。 日本のような社会では、なぜかこの退屈で凡庸な方法が極めて有効で、わしが日本語インターネットを見始めた6年前からでも、この「集団サディズム」によって、日本語インターネットの世界から排除された(そういう事件が起こされなければ日本語言論にたくさんの貢献をしたはずの)人間をいったい何人目撃したかしれない。 さらに問題を深刻にしているのは、この「集団サディズム」が最も猖獗しているのは、日本社会においては他の社会なら「リベラル」とラベルがついているはずの社会の部分であることで、言論のありかたとしては「反動者」のほうが遙かにまともなのは眺めていて面白いほどである。 この「集団サディスト」たちの実名や職業を調べてみると、人間の一生の悲惨というようなことを思いおこさせる面白いことがいろいろわかるよーだが、そんなことをここで述べても仕方がないので割愛する。 たとえばニュージーランドでは「インターネット中傷法案」とでもいうべきものがすでに工程に載っていて、来年くらいには法律化されそうだが、いままでの日本のインターネット関連の法案の作り方をみていると、安倍政権風の国家社会主義的な味付けを伴って、やがて日本でも法案化されるだろう。 そうなれば中傷者も場合によっては被害者も一網打尽でおよそ匿名性に依存するような発言を繰り返していた人間は少なくとも社会的には「国家の制裁」をうけることになる。 実質的には5年ほどは遡って「中傷者」の実名が公開され、インターネット上での発言は実名でしか行えなくなるのかもしれないが、いまの「集団サディズム」の不品行の実績をみると、インターネットの匿名発言者の側に抵抗する力が社会の側から与えられるとは到底おもえない。 「自業自得」という言葉をおもいだす。 日本は68年間の国民的努力を宙に放り投げて、西洋社会が向かっているのとは反対の方向にすたすたと歩きだしてしまった。 アメリカが残していった借り着じゃ、やっぱり身体にあわなかったな、あいつらの貧弱な身体じゃだぶだぶだもの、と悪態をつく人がいる。 「日本のアジア化だろう」という人もいれば、なに、ずっとおさえつけていた本性が出ただけさ、という人もいる。 一般には「やっぱり」という反応が多いように見受けられる。 しかし、「日本人」というのっぺらぼーな呼び名の皮の下に、憂鬱なサラリーマンのネナガラや、感情に不思議で爽快なスピードがあるゲームデザイナーのjosicoはん、社会の理不尽に怒っているおかーさんのナス、書くイタリア語を見てもほぼイタリア人化しているのにあーだこーだと述べて未だに日本のパスポートを持っているすべりひゆ、息をのむほど健全な知性のじゅら、自分のやさしい気持ちのせいで苦しみながらなんとか生きていこうとする優さん、高すぎる知能で自爆寸前のとらちゃん、ふてくされたまま生活者として精神の健康を保つ方法を探すラザロ、… ひとりひとり(あたりまえだが)異なる顔があって、ひとつひとつ別々の宇宙を造営して現代日本という知的な精神にとっては苛酷な荒れ地に最も似た土地に定住しているともだちをもつわしとしては、「日本人」とひとくくりにされたものの個々の実質を少しは知っているので、安倍晋三たちの、最近では意図を隠そうともしない日本の国家社会主義への回帰を耐えがたい動きと感じる。 東アジアのそのまた辺境の田舎に奇蹟のように咲き誇っていた自由社会がいま死のうとしているのである。 他の自由社会の人間がぼんやりと手を差し伸べないでいて良いわけがない。 振り返って、2013年という、もうすぐ過ぎていってしまう年を眺め渡してみると、見事なくらい「希望」というようなものは払拭されていて、どこにもありはしないが、それでも「なんとか、もってくれ」と危篤の病床の友達のために祈るような気持ちになるのです。

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