disappointment

日本の人の英語の能力を云々する興味はないし、まして日本の人の英語能力をくさそうという気持ちはぜんぜんない。
人間性の良し悪しということではなくて、わしは自分には最も意地悪な日本の人の5千倍くらい意地悪になる能力があると思っているが、他人に意地悪をすることには興味がない。
そういうことは遊びとして退屈だからで、式神を派遣して匿名で攻撃しているつもりの人の家のドアを叩いて、いきなりパンチをくらわせる、というようなことはあるが、めんどくさいので意地悪したりはしません。

ちょっと失礼みたいだが日本の人と英語の話をするのがいかに虚しいことかということも、例の「はてな市民大挙襲来事件」や「ニセガイジン騒動」を通じてよく判っている。
親切心を起こして限定した語彙と構文で英語でも書いた日には、「こんなおれが簡単に判る英語を書く英語人がいるわけはない」と怒鳴り込みにくるひとがいっぱいいて、外国人たるもの、日本の人が構文事典を引きながらでないと読めない謎の怪人ナゾーな英語を書かなければならないのであるらしい。

というようなことがいろいろあったので、めんどくさいので英語の話はしないことになっている。
最近はときどき日本語を調べるのが億劫な気がすることがあるのと、どういう関連があるのか2011年の3月11日を境に、それまでは数人しかいなかった、英語国に何年も住んでいる人や、配偶者が英語人である人、というような人に限定されていた実際に英語が判る人が桁違いに増えて、アメリカで生まれて育った人や片親が英語人の人、というような英語が母語の人も増えたので、たとえばクリスマスの挨拶のような日本語ではどうしても「ヘンテコな感じになってしまう」ものや、自分の核に近いところにある感情は英語で書いても良いとルールを変えることにした。
それでも英語は最低限に限ろうと思ってます。

ところが「英語」の問題をどうしても書き留めておきたくなるような面白い事件が出袋(しゅったい)して、これだけは書いておいたほうが良い気がしてきたので書いておきます。

なんのことかというと、例の、アメリカ大使館が安倍晋三の靖国神社参拝のあとに出した、
「Japan is a valued ally and friend. Nevertheless, the United States is disappointed that Japan’s leadership has taken an action that will exacerbate tensions with Japan’s neighbors.
The United States hopes that both Japan and its neighbors will find constructive ways to deal with sensitive issues from the past, to improve their relations, and to promote cooperation in advancing our shared goals of regional peace and stability.
We take note of the Prime Minister’s expression of remorse for the past and his reaffirmation of Japan’s commitment to peace.」
という簡明なステートメントのことで、このステートメントへの日本社会の反応ほど見事に日本の、社会としての英語との関わりの畸形性を現す事件はなかった。
もうひとつ、日本ではなぜ「現実」や「真実」が人間の手で製造されてしまうのか、という問題についても、その仕組みをわかりやすい形で見せてくれた出来事だったと思う。

the United States is disappointed …
という表現を中心にした大騒ぎそのものについては、

「英語力のない馬鹿が大騒ぎしてます(米大使館 安倍首相の靖国神社参拝についての声明)」というブログを読んだり、ツイッタを通じて、アメリカで何年も仕事をしている「英語の達人」のひとや、はては外務省のエリート外交官だった人が「そんなに深い意味ではない。軽い意味だ」と保証していて、日本の三大新聞のひとつである読売新聞が
「disappointedは、緊密な関係の証しである」と、読む人に「たいした発言ではなかった」というヒントを与える記事を書いている
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20131231-OYT1T00501.htm

が、ま、認めたくない人がいっぱいいるのは知っていて、どの人も英語の理解に関しては日本では指折りで満腔の自信をもって持論を説いているのは理解しても、
英語はわしの母語で、
しかもdisappointed という言葉は、どう言えばいいか生活感情にびったし密着した語彙なので、説明するのも情けない感じがする、というか、こういうと日本の人のことだから、「ほおら説明できないじゃないか!」と居丈高になる人がいっぱいいるのは判っているが、
きっと説明していると三角形に角がみっつあるのはなぜか、ということを半ベソをかきながら説明する算数の先生みたいな気持ちになるのに決まっているので、やっぱりする気がしない。

そっちは、この先も続きそうな「何十年も英語で戦っているバイリンキャリア」の人や「英語の権威」「外地勤務数十年の外交官」という、いま喧喧諤諤と論争している人たちに任せたいと思います。
だって、軽い意味のわけないじゃん。
ツイッタにも書いたが、英語人が「disappointed」と聞いてまっさきに連想するのは、自分に向かって「I’m disappointed in you」と述べている母親の姿であって、そんなことが起きてしまった日には2週間は絶対に立ち直れない。
一生立ち直れない人もたくさんいると思う。
不等号で言葉の意味の強さを表すような議論をしている日本の人をたくさんみかけたが、そんなもん意味ねーよ、というか、言われた途端に、ああ、もうダメだ、おれの一生は終わりだし、と思うタイプの言葉なので、重いも軽いもへったくれもあるもんけ、と考える。

ついつい乗せられて理屈っぽいことを言うと、この言葉は面白い言葉でもあって、相手の存在が軽い (例:この本はdisappointingであった)場合には、日本人が待望する「軽い意味」でもありうる。
対象が話し手にとって、重ければ重いほど意味も重く、初めから期待していなくて、軽ければ軽いほど意味も軽いと考えられなくはなくて、遠くから「軽い意味だ」と主張している人を観ていると、なんとなくニヤニヤしてしまうところがなくもないよーです。

ステートメントを発したアメリカ人たちのほうは、簡明簡潔、明快単純で、誰がどう聞いても誤って受け取りようがない声明を発表したつもりに決まっているので、その後の騒動を見て、「日本って、社会としてこんなに英語を理解できないのか」と、ぶっくらこいてしまったに違いない。
どうなってるんだ、と考えたことでしょう。
なにしろアメリカ人といっても外交官たちなので、1941年の日米開戦に至る前の、アメリカでは有名な故事、英語のエキスパートを並べて外交交渉やロビー活動、町町を巡業しての講演を中心とした無茶苦茶効果的な宣伝活動を行った中華民国に対して、対照的に、「汚い歯並びから空気がもれてくるような」、発音が不明瞭で意味が判然としない日本の野村𠮷三郎大使の英語、いらいらしながら不快で意味不明な野村大使の英語を呪詛するコーデル・ハルのメモワールというようなものを思い出した人もいるだろう。

この話を友達に見せたとき、わしは自分の意見としてはアメリカ大使館は日本語で声明を発表するべきだったと思うけど、と述べたら、ロンドンの友人たちに「 この英語で意味が把握できないのなら日本語でも無理に決まっている」と大笑いされてしまった。

実際、日本語で声明を出しても日本人の友達のひとりが上のブログ記事
「英語力のない馬鹿が大騒ぎしてます(米大使館 安倍首相の靖国神社参拝についての声明)」
を指して、「あれは実は予備校の英語構文の授業そっくりなんだよ」と、げんなりした口調で述べていたが、英語では英語構文の授業だったものが、日本語では現代国語の構文の授業になるだけのことかもしれなくて、納得できてしまいそうなところが、いかにも途方にくれさせる。

アメリカ大使館の人間たちが明瞭に悟ったというか、これでもかというように再認識させられたのは、日本人に通有の、(去年の終わりのブログ記事に書いた)
「信じたくないことはなかったことにする」
「認めたくないことは相手がウソをついていることにする」
「致命的なことが起きてしまった場合には、たいしたことではない、といいつのる」という福島事故を通じて改めて世界中によく知られた国民性から派生する、
「現実を精妙な理屈を駆使して自分が信じたい別の現実に変えてしまう」という、手慣れた手品のような、「現実なんて、ぼくのこころ次第よ」の日本人病で、これは戦前から国民性として知れ渡っていることなので、福島第一事故後の国を挙げての詭弁などは日本に関心がある英語人のあいだでは「いまでも、やっぱりそうなのか」という文脈で受け取られていたと思う。
しかも日本の人の場合は傍から眺めてどんなにヘンなことでも自分が正しいと信じたことが絶対の真実で、それ以外の意見が聞こえてくると、自分の信奉者をひきつれて気が狂った人のように、というのはどんな卑劣な手も厭わない攻撃を加えることのみに専念する、という特徴をもっている。
日本の人の正義に駆られてしまったときの「集団サディズム」というはっきりした文明の特徴は、誰にも否定できない明瞭な刻印として、どの日本の人の額にも刻まれている。
捕鯨にしろ、なんにしろ、詭弁を述べるのは論理を述べても報いられなかった一生にしか恵まれなかった人間たちに世界共通の傾向だが、日本の人の場合は何千人単位、酷い場合には国を挙げて自分たちがでっちあげた理屈を信じ込んでしまうところが異なる。しかも自分たちこそが正しいと日本語という洞窟のなかで反響する「正しさ」を頭のなかにも木霊させて、反響する「正しさ」の音にかき消されて、自己の意見を疑うという知性の機能は初めから省略されているようにさえ見える。
戦前からハリウッドや欧州の映画で日本の人が「薄汚い策謀者」として描かれることが多いのには現実の理由があるのではないか、と思いたくなるほどである。
福島第一事故のあと放射性物質が危なくないことになって、福島に取材にでかけた欧州人が夜中にほとんど泣きながら、「ガメ、信じられるか、子供たちが遊んでいるすぐそばに除染した放射性物質の袋がつみあげてあるんだぞ」と電話をかけてきたことがあったが、もともと日本では社会ごと放射能は危なくないと信じこんでしまっているので、信じられるもなにも、日本社会全体が放射能の危険について白痴同然の状態に陥ってしまったのは当たり前のことなのであると思う。
日本は危機にある。
と、書いても、ゲラゲラ笑いが聞こえるだけで、日本がいかに危機とは縁遠いところにいるか、と述べる人は文字通り何万人もいて、「右」も「左」も、リベラルも保守もない、インターネットでも雑誌でも新聞でもテレビでも、しかめつらで、あるいは笑顔で述べられた「日本がいかにだいじょうぶか」という神さま達の声に満ちているので、まったく意味がないのは判りきっている。

でもなあ、と思わないわけにいかない。
これほど日本の「狂泉」中毒
https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/02/日本のくらし/

を端的にあらわす「奇妙な事件」が起きたのに、書かないで放っぽっておいては、曖昧な気持ちがいよいよ曖昧になって、模糊に模糊をかさねた気持ちになってしまうので、やっぱり書いておこう、と考えなおす。

もしかしたら、何年かしてインターネットの電磁的な壁をひっかいてみた人が、日本語で、
「危機」と誌された微かな痕跡をみつけて、日本語の世界でも2014年の初頭に日本が危機にあることを認識する、数が少ない人間たちがいたらしいことを見つけてくれる端緒になるかもしれない。
そのひとが、それまでの日本文明への深い軽蔑をポケットにしまいなおして、この東のはての島に、西洋人たちが皮肉とともに述べるただのコピーなどではない
 不思議なマイクロ文明が存在したことを理解してくれるかもしれない。

そう考えて、この記事をここに置いておきます。

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2 Responses to disappointment

  1. yaggy says:

    “disappointed”
    「アンタにはガッカリや」というトコでしょうか?
    米国にしてみれば、北東アジアでの安全保障戦略を担うパートナーであるはずの日本が
    その任に堪えないように見えているのかもしれませんね。

    日本人の間でしか通用しない考え方に固執して、外国からの批判は屁理屈をつけて
    無視するという態度が、改まるどころかどんどん酷くなるように、私にも見えます。

    靖国神社参拝に関しては、「日本人の精神性」のような一般的な問題ばかりではなく、
    戦没者の慰霊にかこつけて国家神道を復権させる政治的意図も背景にあると考えられます。

    米国が日本の保守層の中枢部に首輪を着けてから70年近く経ちました。
    綻びが来てないか、そろそろ気を付けた方がよいのでしょう。

  2. ‘disappointed’という言葉は言われるほうもそうでしょうが、毎日こう述べなければならない相手がネット上の知らない人ではなく、実際の職場や身内の人間であることは本当に絶望を感じることもしばしばです。それでも何とか踏ん張れているのは安心して意見が言える場を提供してくださる亀殿はじめ善意のお友達の存在のおかげです。記事に書かれている日本人は特殊な人ではなく、日常よくかかわる人たちで彼らに反論すれば’出自’を疑われるのです。’出自’などということばはたいへん下品で人に投げつけてよいことばではありません。かれらに共通しているのはよくよく聞いていると自分の意見をまったく持っていないということです。評論や知識のひけらかしはあっても、こちらから感想や意見を訊くと怒りだすのです。意見の基準軸が自分の中にないひとが多いようです。それでも最近はこの国でも自分にできることを黙々とやる人がちらほらと見え始め、少しの希望を見出したりもしています。未来のために自分になにができるか、そのために必要なことはなにか、今日も考えて考えて疲れ果てて眠りにつくと思います。

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