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先進国、後進国

「先進国」という言い方は、なにがなし、下品であるような気がする。 自分でも便宜上つかうので、他の人もたいていは便宜的に使うだけの人が多いのだろう、と思いはするが、ひとつの国が他の国よりも「進んでいる」という考えには、どうにも、そこはかとなくただよう品の悪さがある。 先進技術はよいが先進国は困る。 先進文化、などと書いてあると、なんだそれは、としばらく意味の実体について考えこむことになる。 なにが先進文化か、思いをめぐらして、だいたいめぐらし損に終わるので、だんだん字面そのものを見たくなくなる、ということもあるのかも知れない。 こう言うと、ニュージーランド人やオーストラリア人のなかには目を剥いて怒る人がいるはずだが、ニュージーランドやオーストラリアが「先進国」であると思ったことは一度もない。 先進国でないから住んでいるので、進まれてしまうと困る。 「開発途上国」という表現が発明されて、言葉として存在しなくなってしまったが昔はちゃんと「後進国」という言葉があって、むかしは後ろ向きに進んでいる国があったのかというと、そんなことはなくて、後ろの方を進んでいる、という意味だったらしい。 だとするとオーストラリアやニュージーランドは「後進国」で、文明という集団の後ろのほうを、のんびり、ヨットやカヤックに乗ったり、マウンテンバイクで遊びに行ってしまったりして、やる気なさそうについてくるから、遊んでばかりいる自分としては選択したのであると思う。 そう息せき切って「文明」の先頭を走られたのでは、迷惑である感じがする。 日本語サイトなどを見ていて「日本はまだまだ後進国です」というような言い方に接すると、そーか、日本は先進国になりたかったのか、と皮肉なことを考える。 後進国のほうが、楽しいのに。 ニュージーランドやオーストラリアはごくごく自然天然に人種差別があるところで、わしが仲良しのあたたかい気持ちの持ち主で人柄のよいマリーナスタッフのAと話をしていたら、新しく出たアウディ・デザイン、フォルクスワーゲン製マリーンエンジンの話をしている途中で、 「ほら、彼らアジア人の脳は既存の技術を洗練させていって生産性をあげることに関しては素晴らしい才能があるけど、新しいことを考えるように出来ていないと医学的にも証明されているでしょう?」 という。 医学的に証明、されてるのか? と訊くと、うなづいて、National Geographicかなんかに記事が出ていた、という。 おい、A、おまえ、と言いかけて、ほんとうに信じこんでいる様子なので、可笑しさがこみあげてきて、こらえきれずに大笑いすると、きょとん、としている。 そういうときに、しみじみ、この国は後進国だよなあー、と考える。 こう言うと今度は日本の人が怒るが、わしは、ニュージーランドやオーストラリアの人間の素朴なこの手の頭の悪さが嫌いではない。 どちらかというと好きであると思う。 いや、すごく好きなのだと考える。 そういうときに「後進性」を感じるのだから北欧人に先進性を感じなければならないが、大学のときに仲がよかった女スウェーデン人留学生のIと話していて、「そういえば、ガメ、今度、イッパツやらない?」というので、コーヒーをふきだしてしまいそうになったことがある。 人間は人種によってどんな違いがあるか、北欧人、イギリス人、南欧人、北アフリカ人、中央アフリカ人、南アフリカ人、南アジア人、東アジア人、といろいろな男を試してみて、個体差によらない一般的な違いの傾向、というようなものがわかって面白かったが、考えてみると「身体のおおきさ」というものについての違いがよくのみこめないので、身体がめだっておおきいガメと、ちょっとイッパツやって考えてみたい、という。 いやいや、(ガーナ人の)あんたのボーイフレンドに悪いですから、と遠慮すると、あの人はもう実験が終わって、役割も十分はたしてもらって、別れたからいいのよ、と知的な微笑を浮かべながら述べている。 心配ないって。 それが、だいたい、北欧人の「先進性」に触れた初めだったのではないかと思われる。 わしは後進性を発揮して辞退したが、この場合は、後進、というのは、もちろん「後じさり」という意味です。 義理叔父は、パーティで、アメリカ旅行で酷いめにあった、と述べている広東人の女のひとに、自分も店にはいっていって、こちらから挨拶しても挨拶もなにもなくて、まるで存在してないように扱われて、後ろからかーちゃんシスターが入ってきた途端に、いかにも「おお、人間が来た」という調子で愛想よくカウンターをまわって挨拶を述べる店員、というようなものに会ったことがある、と言ったあとに、 「人種差別というのはするほうの問題で、されるほうの問題じゃないんだから、ほっとけばいいんだよ。それは白人の病気なんだから」と明瞭に(というのは、普段からよく考えている問題であることが判る調子で)述べていたことがあって、わしは横で聞いていて甥としてやや誇らしい気持ちになったことがある。 もちろん口にだしたりしないが、長いつきあいで、義理叔父がそんじょそこいらの欧州人や合衆国人よりも自分のほうが、遙かに文明に対して深い理解をもち、思惟を深めていて、「先進的」であることを自覚しているのを、わしはよく知っている。 或る、あまり感心できない自説を持つイギリス人の歴史学者と話をしていたときに、わしのほうを一瞬むいて、「ジゴロだな、こいつ」と微笑をうかべたまま日本語でつぶやいたことすらある。 あの腹の出た風采のあがらないじーちゃんイギリス人がどんな女びとのジゴロなのかと訝しんだら、そうではなくて、義理叔父の父祖の町では、どうしようもない頭の悪い田舎者のことを「地五郎」というのだそうでした。 民族的なことを述べると、日本人はアジア人のなかでただ一民族、はやくから(現実の生活がおいてけぼりで観念ばかりが精妙になっていった、という傾向はあるが)高い文明をもって、義理叔父のように西洋人たちよりも高い地平から世界を俯瞰する能力をもつ人間たちを持った。 先進や後進という概念がいかに偏狭で傲慢な概念かを直感的に知りうる立場にあった。 先刻の広東人の女のひとは、「それは白人たちの持病なだけで、向こうの問題だから」と義理叔父がいうのを聞いて、一瞬、感に堪えたようにしていたが、 そうね、そのとおり、あなたの言う通りだわ、と述べてから、 でも、日本のような国に生まれて、普通にそういう観点がもてるあなたをうらやましいと思う、とつけくわえていた。 先進性や後進性は、むろん、19世紀欧州人の、世界が一律に物質的進歩の単一なベクトルのなかにある、というそれこそ「後進的」な迷妄のなかで生まれた考えにすぎない。 … Continue reading

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