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個人と社会と

人間の歴史に最も影響を与えた「個人の死」はアルキメデスの死だろう。 バートランド・ラッセルたちが指摘しているとおり、アルキメデスが死ぬまぎわに考えていたことはアイザック・ニュートンの微分の概念に限りなく近かったと信ずべき理由がある。 地面に描いた円周に踏み込んだ泥酔したローマ兵を怒鳴りつけた結果、剣で刺し殺されて死んだ、短気で気難しい老人と同じ思考に人間が再びたどりつくのは、アイザック・ニュートンまで、なんと2000年も経ったあとのことだった。 アドルフ・ヒトラーを生み出したワイマール共和国の社会はヒトラーがたとえばソンムの塹壕で若い兵士として戦死していても、結局は他の「ヒトラー」を見いだしていただろう、という議論がある。 アドルフ・ヒトラーというひとの意外なほどの個人としての能力の乏しさを考えると、案外とそうなのかもしれない、と思わせられる。 描いた絵をみれば判るが、審美的感覚も通俗的で野卑だったこの独裁者は、軍事面においても、通常考えられるよりもかなりはやくから様々な戦略上戦術上の誤謬を犯している。 誤謬を犯している、というよりも初めから最後までデタラメな指揮ぶりでダンケルクでイギリスとフランスの軍隊を取り逃がしたときからモスクワの50キロ正面で膝を屈してしまうところまで、その後はさらに言うまでもない、デタラメにつぐデタラメで、ただひとつ軍隊という官僚主義のきわめつけのような組織に対して官僚主義的な縄張り主義やグダグダといつまでも続く言い訳をいっさい認めない(ヒトラーほど将軍や将校の処刑が好きな人間は共産主義諸国家以外では珍しかった)という「確信に満ちたド素人」の態度を保つことによって緒戦においては再生ドイツ軍の潜在能力を引き出しただけである。 同じように虐殺者として歴史に名前を残した人間でも、毛沢東は、やや異なる。 毛沢東は第一義的には「漢民族の回復者」だが毛沢東の脳髄から生まれた思想は極めて魅力的で世界中の人間の政治思想に刺激を与えた。 漢民族支配の回復と中国の統一という輝かしい成功から大躍進政策と文化大革命という惨めな大失敗に至るまで、どの事象にも毛沢東という人格の明瞭な刻印があって、彼以外では考えられない一種の青空へ突き抜けてゆくような、あっけにとられるような野放図さ、西洋の価値観に真っ向から挑戦する中国的永遠に基づく思考というべきものを感じる。 いまの中国は観察者には非常に興味深い国で、国内に「冷戦構造」というべきものを自前で持っている。新左派と経済派はことあるごとに対立し、双方が左手で人民解放軍を抑えつけながら右手では握手をしてみせたり殴り合いをしたりで、新法党と旧法党をおもわせる対立が続いている。 そこに緊張がうまれ、お互いを監視する力が働く政治力学的な様相は、ちょうど冷戦時代のソビエトロシアとアメリカ合衆国がもっていた構図に似ている。 そのダイナミズムが生まれた元をたどってゆくと鄧小平が短い首を肩に埋めるようにして座っていて、さらにその向こうには毛沢東が立っている。 ブログなので具体的なことは省くが中国という国全体にあまりにも毛沢東の色彩や体臭がこびりついていて、何が「中国的」で何が「毛沢東的」なのか区別がつかないほどである。 いまの表層だけをみれば(現実には決してそんなことはないが)共産主義を否定してしまったかのようにみえる「まず食べられるようになる」政策が鄧小平に発していることは世界中でよく知られているが、鄧小平は毛沢東の熱狂的な、「ファン」と呼びたくなるくらい素朴な、質朴な農民風の支持者であったことは、あまり世の中に知られていないのかも知れない。 日本では公的な個人は社会制度の一部で、表徴にしかすぎないので、歴史的に最も影響を与え続けて来た天皇という存在であっても、たいして個性をふるうことはない「社会から与えられた要求と役割の実行者」にしかすぎなかった。 トラウトマン工作を蹴っ飛ばして、戦争事態の終結を図った陸軍と海軍をびっくりさせるほどの機会主義者ぶりを発揮して日本がひきずりこまれてゆく地獄への門を直截ひらいた近衛文麿や、自分の、長い孤独なアメリカ生活の体験から生まれた奇妙で不思議なほど的外れなアメリカ人観に基づいてアメリカを挑発する愚を犯して、戦後においてまで昭和天皇に蛇蝎のように嫌悪された人物として知られるようになった松岡洋右のように、要所要所で個人の判断が国運を左右した箇所はあっても、それは執行者としての権能の内部での失敗で、個人の人格そのものがおおきく社会に影響する、というようなことは織田信長のような戦国大名を最後にみられなかった。 ふつう、個人にとって「自分が社会に与える影響」などはどうでもいいことである。 個人が社会に与える影響を強くすることが個人の達成であると考えられる傾向をもつアメリカ文明などは、通常の文明で育った人間にはうけいれがたい気がする。 アメリカ人ひとりひとりはそれぞれがショールームのようなもので、派手で美しいショールームの前には人垣が出来て、それに応じてショールームのなかの個人が富むようにできている。 アメリカではインターネット上の活動が実名で行われることが多いのは、主に自分の名前が知れ渡れば知れ渡るほど機会が生まれオカネガモーカルという身も蓋もない事情に拠っている。(逆に日本語世界では匿名が多いのは有名になることがオカネガモーカルにつながらない上に日本社会の体質である集団的サディズムのせいで悪いことが起きる可能性のほうが遙かに高いからだろう) アメリカ人は個々の自由でまったく独立なアメリカ人というひとつひとつが閉じて完成した一個の宇宙である人格が集積して「偉大なアメリカ」という自分たちの祖国が出来ているのだということを実感を伴って信じているので、個人が公開の存在であることに、他国人が考えるよりも社会にとって本質的な意味があるようにみえる。 だが、ふつうの人間は自分が社会に与える影響というようなことは二義的な結果にしかすぎないので、まず自分が幸福になることを考えるはずである。 英語世界にも家庭を犠牲にして研究活動に没頭してしまう、あるいは事業の拡大に夢中になってしまう、というひとびとはいるが、通常は病的な生き方であると忌避される。 グレイの詩だったかに、求愛された美しい少女が、あなたの瞳はなんて澄んでいるのでしょう、あなたの逞しい胸はなんと魅力的なのでしょう、と言い寄る若者の容姿を賞賛したあとに、 「でも、あなたは忙しすぎて恋には向かない、忙しい人に真の恋はできない」と述べる所があったが、聡明な少女というべきで、そのとおり、公的な活動に忙しい人間には、ちょうどF1レーサーがピットいりするときのように、つかのまの休息やつかのまの幸福感はあっても、真の幸福のなかで暮らすわけにはいかない。 忙しい人間には、もともと幸福になるための第一条件が欠けているのだと思う。 社会にとってきみの代替品はいくらでもあるが、というのはつまり社会の側からみるときみがどんなに貴重な人材だと自負していても必ずきみという存在は交換可能な部品にしかすぎないが、きみ自身にとってはきみ自身はかけがえのない存在で他のものと交換できる可能性は考えられない。 あるいは、たとえば最近のアメリカの富裕社会では、ちょうど古くなったクルマを売ってメルセデスの新車に買い換えるように、古くなると、妻を新品の見た目もよいものに変えるのが流行しているが、配偶者にとっては交換可能なパートナーにすぎなくても、ここでも依然として自分にとって自分自身はかけがえのない存在である。 社会や他人から見て互換性がある人格が多く存在して交換可能であるのに自分にとっては自分が交換可能でないという事実は、自分がどんなふうに生きていかなければいけないかを示唆している。 なるべく早いうちに自分の内なる声のなかから、たとえば両親の声であるとか、きみの数学と物理の成績への同級生の羨望であるとか、自らの声に紛れている他人の声を選り分けて捨ててしまい、たいていは微かな、やっと聞こえるかどうかにすぎない低い声で述べられている「自分自身の声」に耳を澄まさなければならないだろう。 たいていの場合、「自分の内なる声」は自分がふだん想像もできないことを懸命に述べ立てているので、「もうあんな学校には絶対に行きたくない」「もうがんばりたくない」というようなことを述べていることも多い。 そういうときに、ほんとうはもうがんばったりしないほうがいいのではないか、とじっくりと考えてみることは、ほとんどの場合、自分に自分の一生を与える、というか、そこでやっと「生きはじめる」という結果になることが多いように見える。 生まれてから死ぬまで誰か他人の一生を生きてしまう人というのは、びっくりするほど数が多い。 ドイツ人の社会には「頭さえ良ければ血を見るのも嫌な人間も医者になる」というチョーくだらない習慣がいまでも色濃く残っているが、ドイツがヨーロッパの辺境として、言わば国ごとイナカモノであった時代の名残で、不幸にも、頭の良い子供ほど、自分の一生ではなくて、他人が夢見る一生を医師としてすごす人が多かった。 ずば抜けて数学と物理と化学が出来ても、ほんとうはそれと共にずばずばずばずば抜けて文学の才能があって、ドイツにもシェークスピアが生まれたかも知れないのに、いつまでたっても注射のために患者の静脈をさぐりあてることすらおぼつかない自分にうんざりしながら、医師として働き、休憩時間に詩を読んで自分をなぐさめる凡庸な医師として死んでしまった人間は、きっと、これまでにもたくさんいたのに違いない。 読んでいて気が付いたと思うが個人が社会に影響することは滅多になくても、社会が個人に影響する力は間断なく働いて、しかも強い。 よほど気を付けて自分自身という自分の最大の友達を社会の眩惑から守らなければ、彼もしくは彼女は、あっというまに社会の方角へ掠われて、残された自分は社会が浸潤した、自分なのか社会の一部なのか、判然としない半透明体のようなものに変わってしまう。 たとえばテレビをいっさい観ないことにするだけでも良いから、社会から洪水のように自分のなかへ渦巻いて流れ落ちてくる共鳴音を断って、自分自身の魂があげる、微かな聴き取りにくい声を聴くことにしか始まりはありえないのは、そういう事情によっているのだと思います。 Advertisements

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