Just for Fun

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(おお、隙がある)

(チャアアアーンス!)

タイミングをはかって、部屋の隅からやおら駆け出し、ベッドの脇からヘッドスライディングしてシーツの上を滑って、いけないところにタッチしてしまうわし、本を読んでいたモニさんが払いのける手が一瞬おくれて、一秒の十分の一の差でわしのタッチのほうが早い。
欣喜雀躍、「セーフ!」と叫ぶ、わし。

ぬはは。
今日は朝から二盗塁。
イチローもびっくり、であると思われる。

いいかげんにしろよ、ガメ、あとでこわいぞ、とモニさんは言っているが目が笑っているので、こっちもセーフである。
あんまりやると「リラックスできないではないか」と言って1ヶ月くらいふざけるのをいっさい禁止にされてしまうが。

モニの国もわしの国も本来ベースボールには縁がないが、モニはニューヨーク暮らしが長かったのと、わしはもともと、なんでかコロラド・ロッキースのファンだったのとで、ふたりとも野球になじみがある。
ときどきエポックの野球盤を出してきて、夕闇が迫る部屋で、ふたりで、真剣に勝負する。
チェスではモニさん相手では無敵の50連敗を誇るわしも、野球盤は良い勝負で、モニさんの消える魔球のタイミングがつかめればわしの勝ちで、そうでなければ負ける、というくらい。
ときどきは夜部屋(よべや)に消える大ホームランも出て、ラリー・ウォーカーのMLBの歴史に残る大ホームランのミニチュア版と言えばいいか、暗くした部屋の闇に犇(ひし)めいて、固唾を呑んでモニさんとわしの白熱の試合を見つめるために集まった妖精たちも微かだが熱狂的な歓声を挙げて、くやしがるモニさんの、上気した頬や、悔しさに燃え上がった美しい緑色の炎のような眼の輝きが薄暗い部屋のなかにぼんやり浮かびます。

遊んでばかりいるわしの一日は、あっというまに経ってしまう。
最近は年齢のせいかマジメに暮らしたい衝動がこみあげてきて、朝食と一緒にシャンパンを飲む習慣はやめたし、昼食のワインも一本は飲まなくなった。
おかげで頭がすっきりして、近所のジョンさんをピーターと名前をおぼえまちがって呼んで、寂しそうな顔をされる、ということもなくなった。

午後になればマリーナへでかけて、小さいほうのボートを出して、ランギトト島の岬をまわって、無人の島めざして泳ぐ。
誰もいない砂浜に寝転がって、小さな入り江を横切って、目と鼻の先のデイリーまでちょっと買い物に行くといってディンギーに乗って、そのまま帰らなくなって、ディンギーは流れ着いたが本人の身体は到頭みつからず終いになってしまった若い医者のことを考える。
夏の青空に浮かぶ積雲はどうしてあんなに美しいのだろうと思う。
あまりに綺麗にすみきった空なので上下が逆さまの高所恐怖症にとらわれたような奇妙な感覚に囚われる。
このまま空に落ちて死んでしまうのではないか、と考える。

ニュージーランドの空がどこへ行っても途方もなく大きいのは、高い建物を建てるオカネがなくて、人口もクルマの数も日本のような国に較べれば二桁も少なくて、要するにビンボな田舎であるからで、そーしてみるとビンボでオカネがないということはなんて素晴らしいことだろう。
ビンボなほうが貧乏くさくなくて貧乏でない国にビンボくさい社会が多いのはどういうことなのか。

次から次にうかぶ、しょうもない考えにひとつづつ答えてみながら、skyはギリシャ語ではなんて言うんだっけ? ουρανός(ウラノス)だんべか?
そーいえば寺山修司の短歌にはウラヌスという馬が出てこなかったけ、あれは空か、
ほんなら「暗闇を突き抜ける蒼いウラヌス」の「蒼いウラヌス」は蒼井空で、まるで中国人が熱狂的に好きな日本のハードコアポルノ女優の名前のようである。

独り言は面白い。
独り言は、自分のなかの言葉が言葉が話しかけているのだと思う。
学校でも習ったではないか。
精神がくたびれて病んでくると、頭のなかに議場が出来てしまって、たくさんの自分が現れて、議論をするようになってしまう。
たった今日の午後母親に電話をかけるべきかどうかというだけのことに「本会議」を開いて、喧喧諤諤と議論して、あるいは相手を罵り、論難し、あまつさえ野次をとばすことまでして、収拾がつかなくなってしまう。
自分が自分でなくなってしまったときに、もっとも自分の頭のなかで雄弁になって、やがて独裁者に育っていくのは「他人」なので、本来の自分である会議場を埋める代議士たちのほうは沈黙して、愚民の代表になって、演壇で胸を張り、自信たっぷりに演説する「他人」の意見に従ってしまう。

シャロン・テートを天井から吊して惨殺したチャールズ・マンソンたちが地獄からの啓示と感じたイギリス語のヘルター・スケルターは、ほんとうはただの「螺旋形の滑り台」という意味で、くるくるまわって頭がパーになるので、転じて「頭がヘンになる」という意味がくっついたが、イギリス人の「音」への不思議でずっこけた感覚がアメリカ人の常に単純な妄想を刺激した例である。

ひとしきり脈絡のないことをお温習いして、また海を横切ってボートに戻る。
気が向けば途中で銛で魚を刺して担いで帰る事もある。

人間は30歳を過ぎると自分自身に帰ってゆく。
「ベンキョー」という言葉で一括して表現できる、他人の意見を体系的に聞く段階から、自分の好尚に従って、科学なり歴史なりの適切な方法を見いだして、社会という鏡のなかの魂の前後が逆になった影とは異なる自分の真の姿を見いだせるようになる。

しかも、およそ30歳を過ぎた人間などは、どこに向かって歩いていても、ほんとうは、彼女もしくは彼は自分の家をめざして、家路に着いているだけである。
その他の目的地はすべて幻影でしかありはしない。
丘の上にたっている、あの家は、かつてもいまも、未来においても、実は自分の生まれて育った家なのだと思う。

毎年、一年一年経つごとに時が短くなっていって、足早に道を急ぐ人のようになってゆくのは、魂のほうでは、あたりまえのこととして、前半の茫漠としてあてもない途方にくれるような風景をすぎて、自分の家がもうすぐであることを知っているからだろう。

遠くから聞こえてくる「微かな声」に耳を澄ませて道を急ぐ。

いまは、その家へ行く。

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One Response to Just for Fun

  1. katshar says:

    自分などは、30歳になってやっと自分の中から這い出したばかりで、
    自分自身に帰るなんてのはきっと死んだ後のことではないかと思えます。

    それで特に困ったこともないのですが。

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