日本語インターネット

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インターネットの情報は質が低い、と日本語インターネットの世界ではよく書いているひとがいる。たいてい本読みらしい人が多いので、含意は「活字のほうが情報の質が高い」ということだろう。

インターネットの初期にはかつての「アマチュアリズム」議論を思わせる議論がよくあった。たとえば社会学的な訓練を受けていない人間はどこまで社会の動態を理解できるか、物理学の訓練を受けていない人間はどこまで宇宙を理解できるか。

「数式のいらない相対性理論」というような本はどの国の書店にも売っていて、科学系の啓蒙書編集者が売る本のアイデアがなくなると、ひとつまたあれでちょっと稼ぐか、と出版する。
読んでみて面白い本はあるが、多少でも「乾き物」系の科学の訓練を受けたことがあれば「数式なしで物理法則を理解する」ということはありえないことは誰にでも判っている。ひまつぶしの本で、ひまつぶしならば、田舎じみた表情の女の子が裸で横たわってこちらを見て笑っているぞっとしない写真がついた本よりも上品な趣味の娯楽である、と言えなくもない。

医学などは最悪の分野で、信じがたいことだが、「自分は医者よりも医学知識がある」という妄想の持ち主は一般に考えられているよりも遙かにたくさんいる。
ツイッタで病気と食べ物の関係について云々したり、なんとか療法があるよ、などと述べることが多い人は要注意で、訓練というよりも、独学の身体や心に関する知識は、信じるとチョー危ないのは当たり前のことで、寛潤な心で他人の書いた記事を読むのをモットーにしているひとびとも、「健康」「病気」「食事」というようなことを口にしたがる書き手には気を付けた方がよさそうに見える。

インターネットは「訓練なしでも宇宙が理解できる」と妄想した人が跋扈する場所だが、それが理解したうえでならば、こんなに楽しい場所はない。
ある人は歴史学者を気取り、他の人は経済学者を気取って、政治を語り、経済に蘊蓄を傾けて倦むところがない。
ほとんどの場合、重要な見解を述べていると信じているのは本人だけで、もったいをつけて話してみても噴飯もののことのほうが多いが、愛嬌というものだろう。

違う方向の話をすると現実に「活字の情報は質が高かった」かというと、実際に言葉にするに値するほどのことはそんなことはなくて、たとえば科学上知的興奮を生むようなことが一般書店の棚に並んでいるなどということはほぼありえないが、普通の生活者にとどまっている限りは、ほんとうの意見であると思う。
紙に印刷して流通させ小売店の棚に並べて売るというのは元手がかかる行為なので胴元の出版社としては、慎重になる。
慎重が慎重に重なって、手順化され、伝統にさえなって、編集者という「手元批評機能」を職能とする職業人の一団が生まれ、内容を選択し、青焼きモードにはいってものも言わずに原稿をにらみつけ、もうこれ以上よくはなりませんと信じるところまでたどりついて、疲労困憊のタメイキとともに本を世の中に送り出す。

いっぽうで、あんまり質が高くなるとまた売れないのも自明なので、ほどほどにして、その辺にころがっている、やや賢げなにーちゃんに判りそうな本を出版した。

真に価値があるものを受容するためには莫大な時間と労力を費やした「訓練」がいる。この事実を悪用して「わしは専門家だもんね、いっひっひ、トーシロのおめえの出る幕じゃねーんだよ」というチョー下品な態度に出る「専門家」は話の外だが、ほとんど訓練を積んでいないのに専門家に議論をふっかけた場合、専門家のほうはまず相手に自分が訓練を欠いているのだと判ってもらわねばならず、しかるのち「考えてもまったく無駄な選択肢」「理解するために必要な知識や技量」…と自分が大学の学部の頃から歩いてきた道をほんの数時間で説明しなければならない羽目に陥って、そんなことは不可能なので、口をつぐむと、相手は勝ち鬨を挙げて去って行く、というこれ以上ないバカバカしい目に遭う。
インターネットで自分の専門の話をしなくなる所以であると思われる。

価値がおおきいものほど受容者に訓練を要求するというこの事実は、しかし、インターネット以前の活字の本でも同じことで、科学ばかり例を挙げるのはつまらないので文学を例に挙げると、どのような言語でも文学の精華である現代詩は、同時代に100人も「読める」人がいればいいほうだろう。
本は(プロに聞くと)「ほんとうにその本の内容が読める人の10倍くらいまでは売れる」ものなそうなので、1000部は売れるとして、1000部で「ショーバイ」になるかというとなるわけはないので日本の現代詩は死んだのだとも言える。

田村隆一は現代詩を読むための訓練を「観念の垂直な高みを得る訓練である」と述べたが、現代詩を読むためには言語が少し、皿を洗う音や、クルマのクラクション、電車がホームにはいってくる前のアナウンスの音が響いている地上から浮遊していなければならない。
その高度を得て初めて言語は論理のベクトルから分離した言語本来の生命の姿、言語の輝きや尖鋭をあらわすことが出来るからである。

日本にいるときは趣味だった一冊100円のむかしの本を読んでいたら川上宗薫という当時のベストセラー作家が、自分がどんどん豊かになっていく割に「名声」というようなものには縁がなくて、たとえば同じ人気作家でも「売るための本」と「マジな本」を使い分けて書く狡猾さを身につけていた遠藤周作というような作家とは別のカテゴリにいれられるのにストレスを感じて、「自分には300万読者がついている。あんたらは高尚かも知れないが、誰も読まないではないか」と悪態をつくところが出てきた。
誰でも気が付くと思うが、この川上宗薫という人は自虐的というか、自分でも知っていたはずで、自分が書いた本が100万部もオカネを出す人に買われる、ということ自体が、自分の才能を白紙のページに塗りつけて切り売りするようにして、すり減らせていった、この人の一生を雄弁に語り尽くしている。

テレビは数千万人という単位の「視聴者」の獲得をめざすので、もっとすさまじい、というべきか、活字よりもさらに人間の好尚の低いほうにあわせる。
日本語の表現には「泣ける」という嫌な言葉があるが、人間を物語の「綾」によって泣かせるのは、なれてしまえば意外と簡単であるという。
ハリウッド映画が常用する手で、悲惨な生い立ちを乗り越えて成功する人間や、父親を見失った子供が再び父親として相手を確認する物語、もっと安直なら動物を使って定石的な物語をつくれば観ている人は皆が皆、泣く。
それを感動と呼ぶ人もいるだろうが、実体は技師が配電盤を開けて、えええと、こことここをつなげて、こっちのほうにつないでやれば、スイッチ・オン、はい、涙が出ましたあー、というようなもので、悪く言えば風俗業の女のひとびとが密室で行っていることとたいした違いはない。

むかし自慰行為が頭を悪くする、といちもにもなく頭から人間が信じていたのは、その行為のなんともいえぬ無目的性と快感を伴うのに単調どころではない、まるで賦役でもあるかのような機械的作業が、知性を混乱させて、知性が混乱したときの最も素朴な反応である「罪の意識」を呼び起こしたからだろう。
当然のことながら、だから、テレビ番組を観るという行為は、無限にその感覚に似てきてしまう。

インターネットが玉石混淆である、という意見にはいまのところ組みするのが難しい。
やや丸い石と見るからに醜悪な石の混淆、というぐらいで、インターネット上の情報でも最も充実しているのは新聞・雑誌という(歴史を通じて情報を再編成するプロシージャが確立している)紙メディアがそのままネット上に移行してきたものがほとんどで、それに小売の価格情報を含む市場の情報、天気のような即時情報が加わるくらいだろうか。

人間の思索を媒介とするような「情報」に至っては活字の時代から更に後退して、ますます程度が悪くなったように見えるが、「一億総白痴化」と大宅壮一という当時の評論家が表現したテレビの普及の時代と、あるいは相呼応しているのかもしれない。

日本のように高等教育(つまり大学)への進学率が高い国ではもしかすると常識なのかも知れないが、生物学なら生物学という「学部」では通常「科学雑誌が読める程度」に若い人間を教育することが目的になっている。
「科学リタラシー」などともったいをつける遙か手前の段階で、たとえて言えば「漢字が読めるようになった」段階ということだろう。
科学でいえば、学部だけを修了して、科学的精神を受容できる観念の高みを獲得しうるのは数学他、ごく限られた分野であると感じられる。

日本語インターネットはいまのところ、見渡す限り瓦礫の山だが、希望がある、と思うことがあって、前にも述べた「インターフェース」というような雑誌の存在を思い出すと、日本の社会にはいまでもあちこちに「学びたい」と素朴な情熱を持っている人が存在して、その要求の強さ熱烈さは神秘的な程である。
かつて識字人口よりも多い部数の「学問のすすめ」が売れる、という世界の歴史にも珍しい大事件が起きた国には自分の努力によって自分の観念の高みをよじ登りたいと考える人がたくさんいる。

日本語インターネットの荒涼が解決されるには、おおまかに言ってふたつ方法があるだろう。
ひとつは、日本語はやめて英語にする、という方法で、最も簡便、というか、現実には、観ているといまでも日本人で「理系研究者」のひとびとは職業上の必要からインターネットは英語世界のもので、そういう嫌な言い方をすると「どうでもいいこと」だけを日本語インターネット世界でひまつぶし、あるいは(特に日本以外の国で勤務している場合には)母語への渇きをみたすために使っているらしい。
もうひとつの方法は、おもいきって「編集機能」を導入することで、結果を考えるとインターネットでないものみたいになってしまいそうだが、小さい日本語リソースを有効に使うためには、総花式をやめて、批評機能によって選択した情報にしたほうがよいのかも知れない。
現実には難しそうに聞こえるかもしれないが、実名だけのインターネットを構築してしまえば、意外と簡単に出来そうでもある。
匿名をやめてしまえばいいだけなのかも知れない。

英語インターネットにおいても、たとえば1998年以前の情報は日本語インターネット同様極端に少ない、アカデミックな内容の報告は読めても、その報告が普通の人間に理解されるような訓練の機会はスタンフォードやハーバードの講義をiTunesなどで公開するというやりかたで、原始的な形で、提供が始まったばかりである、というように質の高い情報があらわれはじめたばかりだが、情報量そのものは人口比などは遙かに越えて、日本語の数百倍はあって、まったくの虚偽から、検証されない仮説、ほぼ全員が認証して次の段階への足場とするに足ると認めた堅固な「真実」まで溢れはじめている。
この真偽に至るまで動的な「情報爆発」に日本語世界全体はついていけないことは自明だが、日本語には日本語のインターネットのありかたがあるはずで、たいへん日本的と感じられる「はてな村」のようなやりかたは、特にブックマークという機能において日本語コミュニティを住み心地が悪いものにしたと思うが、あるいはあれこそが日本語世界の本質で、日本人というもの全体があれなのだ、と考えると、「はてな村」のようなところから日本独自のインターネット文化が生まれるのかもしれない。

実際は、遠くからみると活字の頃も、いまの「はてな」や「2チャンネル」を特徴とするような日本的インターネット文化と程度も特徴もたいして変わってはいなくて、インターネット以前では立ち読みだけでオカネを払わないで立ち去っていたものが、「タダだ」というので終いまで読むようになっただけではないだろうか。

匿名インターネット文化についても、たとえば、むかしの文芸批評の歴史を遡って、職業的作家たちが好んで読んだという東京新聞の「大波小波」の連載を読むと、もともと文化的に素地があるのだと簡単に観てとれる。

インターネットがなにも変えなかった「日本」が紙からスクリーンに引っ越して、なじり、気の利いた皮肉を述べようとして、じっと考え込んでる姿が見えてくると思います。

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