Monthly Archives: March 2014

PC9801

鎌倉ばーちゃんの家にあった義理叔父の例の「コンピュータ博物館」にはPC9801VMからPC9801RAまでの9801シリーズがあって義理叔父の解説で動かしてみたことがある。当時は「フロントエンドプロセッサー」と言ったはずの日本語変換ソフトウエアは日本語でPCを動かすには必須で、しかしアプリケーションソフトウエアが扱えるメモリ空間が640KバイトしかないMS-DOSが災いして、デバイスドライバをメモリに読ませてしまうと、350Kバイトくらいしかメモリが残っていないので(失礼にも)笑ってしまった。 350Kしかないということは、ソフトウエアが300Kちょっとメモリを使うとして、文書ならば30ページも書けば、当時はCPUの能力が低いのとハードディスクドライブが高すぎたのとでデータをオンメモリで保持していたはずのメモリはいっぱいになってコンピュータはフリーズしていたのではないかと思う。 その頃の日本人はどうやって苦境をしのいだかというと、ドライバを使ってコンベンショナルメモリ(MS-DOSがもともとアプリケーションに割り当てた640Kバイト)にリニアではないいわば「架設」のメモリ領域につながる「窓」を使って見かけ上メモリが3Mバイトなら3Mバイトあるような「ふり」をPCにさせることで凌いでいた。 60KバイトだかなんだかのEMSドライバが「コンベンショナルメモリ」に残るのはやむをえないとして、残りをEMSのメモリ空間に押し込む工夫をすることで580Kくらいのリニアメモリ(コンベンショナルメモリ)を確保できていたようです。 NECのPC9801というコンピュータは、ベースがEGAのIBM互換機らしく見えて、IOもISAぽいスロットだったりして、なんだかチョーおもしろいコンピュータだった。 PC9801VMで言えばCPUはV30という8086のパチモンぽいCPUで、なんだか全体に怪しげな雰囲気が漂うデザインである。 EGAの機能を拡張して24x24のドットで漢字を表現できるようにしてあるのはたいへんな工夫で、もっとすごいのは、Text V-RAMがついている。 いまの能力のCPUに慣れていると気が付かないが、この文字をきびきびと描画するための「Text V-RAM」を標準搭載するという工夫は、天才的、といいたくなるようなアイデアで、多分、PC9801というコンピュータが当時は「国民機」といわれたほどに普及したのは主にこの工夫に拠っているのではないかという気がします。 「日本語人のためのパーソナルコンピュータ」という思想が、この技術の採用によって強く出ている。 なかを開けて調べてみるとフロッピーディスクドライブのコントローラがマザーボード側にあったりドライブ側にあったり、同じ9801VMでも異なっていたりして、案外とフレキシブルなつくりになっている。 「自社規格」というものの気楽さが伝わってきます。 ソフトウエアは「移植もの」は意外に少なくて、「洋モノ」は、義理叔父の私設博物館にはアシュトンテイトのDBIII、ロータス1-2-3、あとは「Twin Star」という名前が付いていたが、どうやらWordstar http://en.wikipedia.org/wiki/WordStar に2バイトコードが通るようにして、VJEという日本語変換ソフトウエアをくっつけただけらしいおもろげな「日英バイリンガル」ソフトウエアがあっただけでした。 ゲームには「三国志シリーズ」や「提督の決断」があって、義理叔父はどうやら「三国志シリーズ」と「提督の決断」に狂って前者で2回、後者で1回、都合3回人生をすりかけたらしい。 Tさんという義理叔父よりもやや若い「トーダイおじさん」は、学年末の試験の直前になると新しいドラクエが売り出されて二年留年したそうなので、どうも聞いていると当時の大学生は艱難辛苦に満ちた学生生活を送っていたもののようである。 9801シリーズ用に日本の人が自分の頭で考えて自分でつくった日本製ソフトは義理叔父の私設ミュージアムに限っても文字通り「山のように」あって、鎌倉ばーちゃんの家にいて、天気が悪いと従兄弟や義理叔父に「これはなんて書いてあるんだ」「日本語めんどくせー」と悪態をつきながら、当時のヘロヘロな日本語を動員してコンピュータを使って遊んだ。 サムシンググッドという会社の「Ninja」という、その名もかっこいいワードプロセッサ+カード型データベースを使ってみると、多分、ソフトウエア全体を(たった640Kバイトしかない)オンメモリに読み込むようになっていて、しかも日本語は「Text V-RAM」でピッピッピッと出て、サイコーじゃんね、これ、とカンドーしたりした。 「画像アイリス」は肝腎の画像が4x3センチ程度しか使えないので椅子からこけて爆笑した。 考えてみると、日本語専用のコンピュータを日本語圏だけのためにつくってしまうということは大変なことで、おおげさにいうと日本の人が見ている「世界」というものは日本語の終わりで海が滝になって流れ落ちていて、リニアに扱える思考は日本語の640K限界でつきてしまっていることがよく判るような気がする。 日本というマイクロ文明は、自然なゼノフォビズムに基づいていて、「ゼノフォビズム」と聞いて慌てて怒り出したひとのために付け加えておくと、この場合はそういう意味ではなくて、日本という文明のアイデンティティには、おそらく、「外国ではないこと」という意識が強くあるのではないかという気がする。 あるいは「日本」という国のアイデンティティは「攘夷する」ことそのものにあったのではないだろーか。 日本語の成り立ちということを考えると、朝鮮族と大和民族がほぼお互いに(イタリア語人とスペイン語人がお互いに母語で話してわかりあえるという意味の程度において)わかりあえたはずの言語から、やがて、強大な中国文明がやってきて、その文章を読むための注釈として書き言葉としては発生したという。 いわば「ト書き」から生まれた数奇な出生を持つ(書き言葉としての)日本語は、しかし、意外にも言語体系としてのおおきな発展をとげて19世紀後半から20世紀においては、ほぼ普遍的な言語として機能することが出来た。 たとえば北村透谷の日本語は、まだ語義として未完成で、前にも述べたが「処女の純潔を論ず」という「処女」は現代の「処女」でなく、「純潔」は現代の「純潔」ではない。 それが猛烈な勢いで造語した夏目漱石を経て、普遍的な内容を語りうる言語に成長して、寺田寅彦、上田保や、あるいは江戸時代との連続性からみるならば岡本綺堂というようなひとびとを経て、普遍語としての体裁を整えてゆく。 西脇順三郎というような人は、意識して「普遍語」をめざしたせいもあって、日本語のピークの、あきらかな始まりを示している。 ではなぜ「普遍語としての日本語」が成り立ちえたかというと、日本の歴史を眺めてゆけば、やはり「中国でない社会」をつくりたかった強い衝動のせいだろう。 こういうと反撥する人がたくさんいるのは知っているが、しかし、日本にやってきて子供のときに耳おぼえにおぼえた日本語を手がかりに、ずっと後になって(本人のつもりでは)完璧を期すべく日本語をベンキョーした人間が、いままで日本語という言語や日本社会を眺めて得た日本のイメジは「中国にのみこまれたくなかった国」で、歴史を通じて富裕を誇る大陸の隣人に対して、せいいっぱい背伸びして、爪先で立って、両手いっぱいに広げた腕で屏風をささえて、つっぱりにつっぱって、なんとか「中国でない文明」を保持したまま、近代にたどりついたのが日本という国だった。 近代以降、「中国」は「イギリス」にかわり、1945年に無惨な敗戦を迎えた戦争のあとは「アメリカ」に変わった。 チョーあぶないことを言うと、しかし、この強烈なゼノフォビアがなければ、日本はいまごろは、もう存在していなかった。 中国の一部になるか、アメリカの一部になるか、文明的には従属の姿勢を示す、アイデンティティが失われた国になっていただろう。 朝鮮民族は地続きでしかも近すぎる中国という隣人に抗すべくもなかった。 「中国でない国」をめざすかわりに彼等がめざしたのは「中国よりも正統的に中国である国」だった。 儒教がそのバロメタで、当時の記録を読めば、いかに朝鮮民族が漢族よりも儒教の教えについて原理主義的であったかわかる。 笑い話だと受け取ってもらうと困るが、孔子が朝鮮の人でないことを訝る文章まで残っている。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | Leave a comment

奇妙な支払い

「60minutes」は英語圏ではよく知られた硬派のドキュメンタリ番組だが、オーストラリア版の60minutesで制作された福島第一事故3周年の番組はそれまで同じシリーズで取り上げた「フクシマレポート」に較べて遙かに厳しい内容のものだった。 東電の社員ふたりを名前いりで登場させて彼等ふたりが平然と虚偽を述べる様子をみせて、その嘘を糾弾する。 カルディコットを登場させて、「除染などは、ただのまやかしだ。日本の国民を欺くための行為にしか過ぎない」と言わせる。 日本式に「集団の一員だから集団の意見を代弁しているだけだ」、とは言わせない。 あなたの人間としての人間性の欠如を糾弾している、という、より厳しい姿勢をとる。 2020年のオリンピックを観に東京にでかけるのはバカげている。 選手団を送るのは論外である。 東京に行くのは危険だし、オリンピック自体取り止めにすべきなのはいうまでもない。 この3年間の日本社会の事故への対応の観察で得た、容赦のない「結論」をオーストラリアのメディアは投げつけている。 震災後、体育館のなかに段ボール箱を切ってつくった「家」に被災者が住んでいた様子をあらためて伝えたあとで、3年もの年月が経過したいま、 仮設住宅を訪ねていって、かつて6寝室ある家に住んでいた80歳を越える老女がワンルームアパートメントの大きさしかないプレハブで生き甲斐を失い、逼塞して暮らす毎日を伝える。 番組を見終わったあとに受ける印象は、日本の政府と東電のウソツキぶりと、同胞である日本人たちに完全に見捨てられた福島人たちの「自分達を捨てないでくれ」「忘れたふりをしないでくれ」という他の日本人たちへの虚しい祈りであると思う。 日本と日本人たちとの印象で、福島第一事故の前と後とで、最も変化したのは「聡明で正直な日本人」というイメージの消滅だろう。 戦後に世界を覆い尽くすようにあふれた日本人への激しい憎悪が70年代に弱まり、世紀の変わり目頃にほぼ完全に終わりを告げたあと、若い世代を中心に日本人は他のアジア文明に較べて正直・誠実な文明をつくったという新しいイメージが生まれた。 「新しい日本人」は非暴力的で、風変わりだが愉快な隣人であり、世界に対して害をなすよりは貢献しているひとびとである、ということになった。 福島第一事故のあと、「状況は全然アンダーコントロールではないのではないか」と迫るレポーターに、「われわれは、そう思っていません。放射性物質は着々と除染されつつあり、安全に向かっておおきく前進していると思う」と答える日本人たちを観て、「日本人の誠実」というような観念は持ちようがなくなった。 自分で自分の足下の地面を掘り崩すような、日本人のあいだだけで通用する屁理屈ないし嘘を繰り返したあげく、日本の人は自分達自身の述べる言葉の信頼性がまるごと失われてしまいつつあることに気が付くべきであると思う。 特に安倍首相のオリンピック招致の努力の過程で外国人ジャーナリストを現場に招じ入れて現実を公開せざるをえなくなったあと、世界じゅうで報じられた「福島の現実」は世界のひとびとを驚倒させた。 ひらたい言葉をつかえば、口あんぐり、という印象だった。 要するに2年半、なにもしなかったのですか? というレポーターの、怒るというよりも、あまりのことにあきれはてた表情をまだおぼえている。 技術的な限界よりもなによりもジャーナリストたちを心底から怒らせたのは日本政府と東電の「やる気のなさ」だった。 どこまで深く事実を掘り下げていっても、出てくるのは、底なしの「不誠実」と「無責任」で、いまさらながら、アメリカと原子村は、こんなひどい国に原子力発電というオモチャを与えていたのか、と衝撃をうけた。 ばりばりの原発推進派の人間たちのなかにも、日本政府と東電のような会社に原発を与えたのはおおきな謬りだった、という人間がたくさんでた。 政府や東電にとって都合の悪い、特に現実的なダメージがありそうなことはいっさい報じなかった日本のマスメディアを観ている日本人と、報道の数は少ないが「現実」を容赦なく報じてきた海外マスメディアの報道を観てきた外国人とでは、ほんとに同じ事態の話をしているのかどうか判らなくなってしまうほど事態への認識が異なってしまっている。 「科学調査」捕鯨や南京虐殺や慰安婦強制連行で小さな規模で観られた「海外の誤解に苦しむ日本」というあらかじめ描かれたシナリオに沿ってどんどんニュアンスを変えられ、都合の悪い現実は翻訳配信記事の部分を削除してまで隠して報道するという、いつもの報道姿勢で醸成された「日本に対する悪意への憤り」という気分に煽られて、マスメディアの枠をあふれだして、「国民感情」そのものになっていく、ゼノフォビアが明然と刻印された、ほとんど定型と呼びたくなる日本の歴史に特徴的な一連の「国民的狂気」の形成過程が、「フクシマ」においては、もっと露骨で無理押しする形で、しかし遙かに大規模に観られた。 その結果起きたことは、日本語で語られること全体への信頼性の、ひどい低下だった。 いまでは、たとえば慰安婦問題について日本がなにごとかを述べても「どうせ嘘だろう」という受け止め方をする人が多くなったが、そのことには日本がつくりあげてきた社会の誠実さ自体への疑問が強く影響している。 日本の人はいろいろな理屈を思いついて、夢中になると現実のほうには背中を向けてしまって、頭のなかのホワイトボードに向かって一心不乱に奇妙な理屈を書き込んでいって、理屈が自足したとみると、「ほーら、おれが正しい!」と叫び出す傾向があると思うが、そういう古代ギリシャ末期の詭弁家たちに類似した議論をすることの是非以前に、「日本のひとの言うこと」自体の信憑性がゼロに近くなってしまっている。 言うまでもなく、日本社会そのものへのreliabilityが失われることは日本という文明全体にとって途方もなく危険なことだが、結局、日本社会は全体として福島第一事故という「絶対に起きてはいけない事故」が起きてしまったという異常な事態を乗り切ろうとして、国内社会の安定・沈静や、国民の海外への逃亡やパニックを予防するために、かなり思い切った大規模な虚構を国を挙げてつくりあげて、その結果、国内は目論見どおり、うまく騙し仰せてなんとか乗り切れたが、引き換えに、世界から見た日本全体への信頼は放棄せざるをえなかった、ということなのだろうと思う。 考えてみると、日本人は深刻な意味においては自分たちの言語を捨ててしまったことになるわけで、悪い冗談のように聞こえたら謝るけれども、戦後のエズラ・パウンドと同じに、自ら言葉を捨てて、沈黙をめざして唖になった歴史上初めての国だろう。 意味を失った言葉を話す国民がどうなっていくか、というのは歴史上に例がないので、そういうことが好きな人にとっては興味がわく事態であると思う。 こういうことはすぐに歴然と効果があらわれるわけではなくて、生起したことが繰り返し検討されていくうちに慢性病の症状となってあらわれる。 日本語の場合、極めて閉鎖的な言語であるという事情も加わって、緩慢な進行だが、確実に言語は浸蝕されて、やがて虚しく洞窟に響き渡る意味のない反響のような言語になってゆくだろう。 忙しく唇が動いているのに、意味のある言葉がなにも発声されないのが、未来の日本人の姿である。 このブログ記事でも80年代に始まった商業主義による日本語の空洞化・意味の喪失は何度も話題として出てくるが、行きつく場所がこれほど世界にも歴史にも孤絶したところだったとは考えてみなかった。 きみがどんなにうまいその場しのぎのごまかしをおもいついても、すべての行為には結果が伴う。 しかも支払いをするのは、きみ自身なんだぜ、という台詞があるアメリカ刑事ドラマがあったが、まことにその通りで、しかも奇妙な行為には奇妙な支払いが待っている。 インドのひとびとが述べた、因果応報、という言葉を思い出します。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

アベノミクスが開いたドアの向こう側(その2)

小泉純一郎ほど日本の国内と英語世界で評価が異なる政治家はいないだろう。 この人が首相になったとき、わしは20歳だったと思うが、新聞の記事を読んで 「ずいぶん、わかりやすい人が出て来たんだな」と思ったのをおぼえている。 それまでの日本からのニュースは複雑というよりも脈絡がなく理解不能で、第一、首相になるどのひともこのひとも言うことがやることと整合性がなくて、チンプンカンプンで、なんのこっちゃな人が多かった。 政府がでかくなりすぎて非効率なので小さくする。 ついては郵政民営化を、その象徴にする、というやりかたは、いえば「西洋型」で、 政治目標として理解しやすかった。 経済の観点からは郵政民営化には別の意味があった。 日本の経済の停滞の最もおおきな理由だった、貯金好きが国民性の日本人が積み上げた莫大というのもバカバカしいようなすさまじい金額の個人資産を市場に向かって放出させる、という重要な意味があった。 一方で強烈な抵抗にあいながら金融を他国なみに自由化しようとしつこく財務省や銀行家に圧力をかけつづけていたところをみれば、政治家としての「郵政民営化」の意図は、こちらのほうにあったのが明かで、この改革がうまくいっていれば、いまの日本経済の目をおおいたくなるような凋落はなかったはずである。 もっともおおきいのは、郵貯の密室のドアを開けて個人資産を市場のなかで機能させ前世紀的な規制と現代数学的素養を欠いた運営で仮死状態におちいっている金融業界に再び金融機能をとりもどさせる試みに失敗した結果、社会のIT化に最も必要な若い世代の起業に必要な資金調達が不可能になってしまったことで、簡単に言ってしまえば、日本が自力で経済を回復する方法はここで閉ざされてしまった。 外から観ていて、ちょっとびっくりしたのは、この経済改革をご破算にして象徴的な名前をあげればトヨタや日立東芝というような旧勢力に国を預ける道を選んだのは、日本の場合、ほかでもない国民自身であったことで、当時はなぜ自分達の未来を自分達の手で閉ざすのか理解できなかったわしに「将来、日本に行ってみたほうがいいかな?」という気を起こさせた。 2006年から2010年まで断続的に日本へ出かけて、最長半年日本に滞在した事実は、いまでも軽井沢の山の家の裏庭の石碑に「十全外人文功」として誌されている。 (家を売り飛ばしてしまったので新しい持ち主が壊してしまったかもしれないが) その5年間11回に及ぶ日本遠征で学んだ事は、日本のひとが小泉純一郎の改革を「不平等」を助長するものとして嫌悪して、「反改革」を支持し、小泉純一郎に対しては社会格差を広げただけの政治家としてのネガティブな評価を与えているにすぎない、ということだった。 日本のひとは「不平等」を嫌う。 むかし居間でごろごろしながらテレビを観ていたら、三菱グループを取材した番組をやっていて、「日本では巨大企業の社長の年収が熟練工の年収の50倍を超えることは滅多にない」というのでびっくりしてしまったことがある。 例えばアメリカでは1000倍を超えることが普通にあるので、そんな社会があるのか、と新鮮な驚きを感じた。 日本の社会がソビエトロシアの社会にたいそう似ているのは、そのせいだろうか、という印象をもった。 小泉純一郎を社会の外に蹴りだして、「経済格差が少ない社会」をめざしだした日本はしかし、郵貯というオカネの巨大な塊が再び座り込んでしまったことと金融の自己改革否定を許してしまったことによって、当然のことながら、すさまじい不振に陥っていった。 変化の速度がはやくなって動的な状態の瞬間瞬間を把握しながらすすんでいくことに慣れてきた世界の動きに逆らって、「安定した」という変化についていけなくなった集団が必ず好む言葉をつぶやきながら、ちょうど単葉レシプロ機からジェット機に切り替わっていった世界に背を向けて、「格闘性能が足りない」と新型複葉機の開発に熱中しだすひとびとの情熱で、旧産業を盛り立てていった。 余計なことを書くと、テクノロジー開発のインフラの点で日本が最も脱原発に適した環境をもちながら、東海村JCO臨界事故や福島第一事故の究明もなおざりにしたまま、いちもにもなく原発の再稼働に向かって遮二無二走ってゆく理由のひとつは、日本が金融にダイナミズムを与えるのに失敗したこと、その結果として社会のIT化が不可能になったことが直截に関係している。 トヨタに代表される旧産業にとって国際競争力を維持するためには、原発停止で足下を見られて巨額の「ジャパンプレミアム」を余計に支払わねばならない状態のままでは、円安をすすめて価格競争力をつけても、それにつれてエネルギー調達コストがあがりすぎるので、貿易赤字はどんどん増えて積み上がってしまい、やがて経済ごと転覆してしまうに決まっているからです。 「風が吹けば桶屋がもうかる」という、風変わりな、あの論法をまねていえば、 「反郵政改革によって3番目の原発事故が必ず起きる」と、言えなくもない。 安倍政権が長期政権になる可能性が高いことは、安倍政権の第一期をふりかえってみれば判る。 安倍晋三が「美しい国」の失敗から学んだことは、自分の国家主義的主張に政策の比重を置きすぎると国民に嫌われるということで、国民は口ではいろいろな理想を述べても「おれはどこに行けばゼニがもらえるんじゃ」という、ほとんどそれだけで政治を評価する、ということだった。 金銭で苦労したことがない安倍晋三にとっては、国民の「本音」が要するに「カネクレ」だったことが新鮮な驚きだったと思います。 そこで「美しい国」の代わりに「アベノミクス」という言葉を採用した。 アベノミクスの特徴は小泉純一郎の政策が基本的に「郵貯に代表される市場から切り離された巨額の個人資産を金融革命をすすめる金融市場に放出して起業家を育てる」ことを目標にしていたのに較べて、「通貨の流通量を増やすことによってインフレを起こし結果的に個人資産を政府の軍資金をゆたかにして経済の選択肢を増やし、繁栄が回復されたあとに、出来上がった冨を再分配する」ことを目指している。 乱暴ないいかたをすると、産業構造そのものを新世代化してしまいつつあるアメリカ型の産業改革をやめて、欧州型の旧産業構造に依拠した経済回復を狙いだしたわけで、「ドイツはそれでうまくやっている」というのが経済官僚の心の支えなのかもしれません。 このあいだ英語のニュースを眺めていたら、28歳のオーストラリア人の女のひとがメルセデス・ベンツの親会社であるダイムラーAGの役員になったことが報じられていた。「ドイツ語はぜんぜんダメだが、別に困りません」「シェフになろうと思っていたが、会計も好きなのでやってみたら料理よりもおもしろくなってしまったのが昂じて会計担当役員になってしまいました」と屈託のない顔で笑っている。 もう長くなってしまったので、詳しく書いていかないが、この記事には日本とドイツのふたつの国の違いが凝縮されていると感じられて、 1 28歳という年齢で並み居る経験豊富で社歴がながいおっちゃんたちをごぼう抜きにして役員に任命されている 2 女のひとを男と区別なしに採用している 3 会社が属している国の言語(ドイツ語)をまったく話せない人間を採用している 4 外国人の登用を躊躇していない 5 特に割烹着を着ている必要がない というところが異なる。 ついでにいえば、このひとは有名大学の出身でもないので、ダイムラーグループでは人事評価システムが「仕事の効率」という面からだけ、しっかりとつくりこんであることが判る。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

ウクライナというロシア

水木しげるの初期の傑作に「しびとつき」というマンガがあるが、これは、いまではよく知られているようにゴーゴリの小説「ヴィイ」が元になっている。 大学生が田舎の町で一夜の宿を請うと、そこでは若い娘の通夜が行われていて、教会のなかで死んだ娘と朝まで過ごしてやってくれと頼まれた大学生は、夜更けに起き上がった娘の死体に追いかけ回され、娘とやってきた精霊たちから視えないように描いた魔方陣のなかで戦(おのの)いていると巨大な目の姿の土の精霊があらわれて、大学生を指さして、「ここだ、ここにいる」と言う。 英語ではゴゴルというゴーゴリの小説のなかでも極めてロシア的な物語で、読む人間はまるで行間からロシアの土のにおいが漂ってくるような気がして目を瞠る。 ….だがゴーゴリはウクライナ人なのである。 あるいは司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読むと、主人公のひとり騎馬旅団長秋山好古が、まるで巨人の集団に立ち向かう子供のようにして、懸命に戦って戦線を支える相手はコサック兵で、まるでロシアの大地の守護神のように槍をかかげて突撃してきては軽々と日本騎兵を槍にかけて屠ってゆくコサックたちはいかにもロシアらしい戦争神として描かれている。 コサックこそはロシアの大地が生み出した勇敢な祖国愛の象徴であって、実際にも戦車があらわれるまでは、神出鬼没、突然前線の後背にあらわれては補給線を断ち、背後から吶喊の声をあげて襲いかかって逃げ惑う歩兵を殺戮して駆け回るコサック騎兵は地上では最強の移動攻撃部隊だった。 …だがコサックもウクライナ人なのである。 フランシス・フォード・コッポラがつくった映画「地獄の黙示録」は大岡昇平のような、うるさ型の小説家の心まですっかり虜にしてしまったらしく、原作の「闇の奥」との比較について、大岡昇平は何度も書いている。 「闇の奥」の小説としての深みについても触れているが、この「闇の奥」は各国の教科書のなかで英語のなかでも優れた文章の例として取り上げられている。 外国語学習の話でよく出てくる話題だが実は作者のジョゼフ・コンラッドが英語を学びはじめたのは20歳を過ぎてからで、職を得たイギリス商船で英語を学んだ。 現代日本語を学んだのであれば「ニセガイジン大庭亀夫」と呼ばれたに決まっているが、コンラッドは28歳で初めての英語小説「Almayer’s Folly」を書く頃には、フランス語、ポーランド語、ロシア語、英語を母語同様に話した。 ところで「ポーランド人」ジェゼフ・コンラッドはベルディチュフという町に生まれて育った。 このあたりの地理に明るい人にはすぐに得心されると思うが、ベルディチュフはウクライナの町である。 …「ポーランド人」ジェゼフ・コンラッドはウクライナ人なのである。 ここからしばらくは人名の羅列なので飛ばして読むと良いが、おもいつくままに挙げても 作曲家のセルゲイ・プロコィエフ、 バイオリニストのアイザック・スターン、ピアニストのスビャトスラフ・リヒテル、画家のイリア・レーピン、舞踊家のニジンスキー、 科学技術ではヘリコプターのシコルスキー、ストレプトマイシンを発見して結核治療に革命をもたらしたセルマン・ワクスマン、60年代初頭のビッグ・バン理論の提唱者セルゲイ・コロリョフ、免疫学という学問を発明したメチニコフ、 文学では冒頭に挙げたゴーゴリに加えてトルストイ、シェフチェンコ、ブルガーコフ、エレンブルグ、 こちらはウクライナ人に言わせれば、ということになるがドストエフスキーもチェホフも「ウクライナ人」である。 えー、でも、このひとたち、みんな「ロシア人」ではないですか? と思った、そこのきみ、きみは正しくはないが、問題の本質を衝いているのであって、そーなんです、ウクライナの悩み、歴史的なくやしさ、というのは要するにそこにこそある。 孫基禎という、日本にとって初めての金メダルだった1928年の織田幹雄の三段跳びメダルから数えて、日本スポーツ史上通算11個目の金メダルを、しかもマラソンでとって後のマラソン大国日本の土台をつくった人がいるが、この人の月桂冠を戴いた写真には「日の丸」を塗りつぶされているものが多くある。 当時は日本の一部だった(いまの)両韓のひとびとが、自分達民族の誇りが、栄誉の場で、日の丸を胸に付けていることに耐えられなかったからで、日の丸を黒々と塗りつぶした写真をジッと見ていると韓国人たちの悔しさが胸に迫ってくるような気がする。 IOCの公式記録はいまでも孫基禎がとった金メダルを日本の金メダルのうちに数えているはずで、ウクライナの事情も、これと似ていなくもない。 ウクライナにプーチンが軍事的強圧を加えはじめた頃、日本語インターネットを見ていると、日本のひとのあいだに「戸惑い」があるのがよくわかった。 「ウクライナって言われても、知らないなあー。ちょっともわからない。誰か有名な人でもいてくれればいいんだけど」と、ゼノフォビアで有名(ごみん)な日本のひとびとにしては、穏やかな、やわらかい視線を感じさせる言葉で、「わからない」とつぶやく、インターネット上の姿を、わしは好感を持って眺めました。 (こうやって書いていても、なぜウクライナに限って、いつもの訳知り・知ったかぶりの俄専門家の類が湧いてこなかったのかは、とても興味がある) 実際には「ウクライナの人って、どんな人がいたかなあー、全然わかんないや」という日本の人のつぶやきそのものが、すでにウクライナとロシアのあいだに横たわる問題を説明しつくしていて、ウクライナ人がどうしても独立を死守したい理由のおおきなひとつは、「ウクライナ人の果実はロシアの果実」とばかりにロシア人たちが、ウクライナが生み出した無数の才能や文化産物に、なんでもかんでも「ロシア・スティッカー」を張ってしまうことにあって、日本が韓国の領土になって、湯川秀樹もスタジオジブリも韓国文化を代表する名前になっている、という状態を想像してみると判りやすいのかもしれない。 (さて、ここからが、ややこしい) ウクライナは「最果ての地」「ど田舎」という意味だが、もともとはキエフ・ルーシです。 キエフ・ルーシはモスクワ・ルーシよりもずっと古くて正統的な公国だった。 だが立地が悪いというか、なんというか、攻められやすい立地に複数言語を話す複数民族の土地という典型的な条件で、蒙古民族の侵攻くらいを境にして、いわば分家のモスクワ・ルーシにお株を奪われてしまいます。 気が付いたと思うが、この「ルーシ」から派生した言葉が「ロシア」で、つまり、本来はウクライナこそがロシアだったことになる。 「またかよ」と言われてしまうが、もう書いているのが飽きたので、このくらいでやめるが、ウクライナと日本は意外な関係があることが知られていて、日本の天皇家の「三種の神器」は起源がウクライナの住人であったスキタイ文化だろう、というのは英語で書かれた日本の歴史を述べた本によく載っている。 そのほかにも騎馬武者のあぶみの飾りがそっくりであったり、中国文明圏の王権の象徴である「玉(ぎょく)」ではなく、藤ノ木古墳から黄金の冠が発見されたように日本の王権は「王」=「太陽」=「黄金」のトルクメニスタン>インド・イラン文明につらなっているのが極めてという言葉では足りないくらい特異で、そういう点からも中国文明圏を北に迂回した経路を通って日本にスキタイ文明が直截逢着したのではないかと考える研究者はたくさんいる。 あるいはウクライナでは20世紀にはいってシベリアへの人間の大移動が起こったことがあるが、その一部は日本軍部と接触して対ソ連の共闘戦線の可能性を探ったりしていた。「奇妙な友人」で述べたとおり玉石混淆ではあっても、なかには純粋に「大アジア主義」の夢を燃やす人間もいた日本側にも、なんとかウクライナ人と手を組んで大アジア主義実現の当面の最大の敵であるソビエトロシアを倒せないものか、と頭をふりしぼったひとびともいたようです。 現今のウクライナとロシアの対立は、いろいろな日本語世界「識者」の意見とは異なってほぼ完全にプーチンの大時代で国権主義的な野心の産物にすぎないが、アメリカ・オバマ政権のヒラリー・クリントンが去ったあとの「マヌケ」としか形容しようがない無能ぶりを見れば、悲観するしかなくて、黙ってみていることくらいしか出来ないが、あるいは(ちょうどオーストラリアやニュージーランドで日本・韓国・中国のひとびとがそうであるように)欧州では同じ職場で肩を並べて働いていることが多くて、敵国同士になりそうな者同士が、同じカウチに座って、両方とも目に涙をためて黙ってニューズに見入っている光景は気の毒でたまらないが、どうにも、やれることはなにもない。 せめて、ウクライナの風土でもベンキョーして、ウクライナとは何か、を理解しようと勤めるくらいしかやれることはないかも知れないので、最後にウクライナの基礎データを挙げておきます。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | Leave a comment

天若不愛酒

酔って水に映る美しい月をとろうとして溺れて死んだのだ、と李白の死は説明されている。 李白、(酒)一斗、詩百篇といわれた詩人を悼んで当時のひとびとが作り上げた伝説だと疑う人が多いだろうが、李白という人を知れば、なんとなく、そんなこともあるか、と考えてそっとしておきたいような気がしてくる。 李白がアルコールの力で魂を、ふわりと中空に浮かせて、その浮揚のなかで詩を書いた詩人の典型であることは誰でも知っていることだからです。 日本にいて驚いたことのひとつは、日本の人が泥酔に近いほど酔っぱらう人が多いのに、暴力的にはならなくて、なんだか観ていて面白い酔っ払いかたをする人が多いことだった。 前にも書いたが、いちどは神田だったか新橋だったかの裏町で素裸になってアスファルトに正座している若い会社員に出くわしたことがある。 まったく何も身につけていない「素っ裸」で、眼の前にはきちんと折りたたんで積み重ねた下着と白いワイシャツ、スーツの上下と、靴下、ネクタイがある。 そうして何度も深々と頭を下げて「まことに申し訳ありません、わたしは酔っぱらってしまいました」と、誰にいうともなく、神妙にお詫びを述べている。 観ていて日本の人が好きにならないでいるのが難しいような光景だった。 ニュージーランドでは、(こちらも前に書いたが)よくて「ゲロ風車」で、小さめの人間に死ぬほど酒をのませておいて、デカイ人の肩にのせて、いわゆる肩車にして、デカイ人がその場でくるくるまわると、肩の上の酔っ払いが猛然と嘔き狂いだして、あたり一面「ヘド」の洪水になる。 これは、やってみてもなかなか愉しい遊びではあるけれども、やや旧風に属して、最近はもうちょっと殺伐として、オックスフォードテラスの、川辺に駐まっている自動車を押していって川に突き落とす。価格が高そうな自動車を発見して火をつける。 民家の屋根にのぼって瓦を破壊する。 駆けつけた警官隊をぶちのめす。 だんだん60年代の殺伐に戻りつつあるように見えます。 暗闇と暴力と酒は北海・北欧の文明とは切っても切れないもので、そのなかから、機械文明や一方の民主主義は生まれてきた。 いわばグレンデルの長い腕のひとふりでへし折られる「勇者」たちの首の骨の音から生まれた文明なので、酒を飲むとほぼ自動的に暴力的になる。 スウェーデンの法律では、ガールフレンドと金曜日のデートにでかけて、ベッドに一緒にもぐりこみ、所定の手順を経て、いよいよ核心に達したあとに、もの足りない感じがして、もういっかい相手の女の子のからだのなかに入り込みたい、と考えたときに言葉に出して相手の承諾をえないで実行すると、そのまま強姦罪が成立する。 ジュリアン・アサンジの事件のときに、それを知ったアメリカ人の友達が「それじゃ、アメリカ人はみんな強姦魔になってしまうではないか!」と述べていたが、その通りで、北欧で「強姦犯罪が目立って多い」ことの背景には、妻が夫に強姦されたと申告したら警官に大笑いされた(←実話)という日本の社会とはそもそも性犯罪というものへの認識が異なるということがあるが、昼間はみなで温容ニコニコなのに、夜になるとビール瓶が投げつけられて割れる音や、酔っ払いの雄叫びが街の通りにひびきわたる、という「グレンデル的暗闇」ということもあるのかも知れません。 B某という有名なアパートは1920年代に出来た典雅なアパートメントだが、このアパートの住民の歴史を読んでいると、UKやNZの60年代の(富裕な)酔っぱらい達というものがどういうものか良く描かれていて、あとで有名なファッションモデルになる女の子が正面玄関の階段に腰掛けて、生のベーコンをハサミで切ってかじりながら、ボーイフレンドたちがロールスロイスやベントレーに火をつけてまわっているのをゲラゲラ笑いながら観ている。 警官隊と乱闘がはじまって、当時一流ボクサーだった男が警官をなぐりたおして勝ち鬨をあげている。 そのうちに5階のテラスから4人の男がいっせいに放尿した結果の「雨」が刑事たちの頭に降りかかってくる。 日本では、われわれ日本人は酒を飲むマナーがなっていない、西洋人は酒に呑まれない、といいますね、と言われたことが何度もあって、こちらはアルコールでいろいろな方向に迷走しつつある頭を、ぼんやりと稼働しながら、「そんな西洋て、あったっけ?」と懸命に「西洋」を思い出そうとする。 あれも考えてみると、明治時代に酔っぱらった西洋人のあまりの暴力動物ぶりに辟易した日本のひとびとが、まず相手の目がすわらないうちに「西洋人は酒を飲んでも呑まれないのが偉い」と釘をさすことによって、日本のひとの体格では10人くらいでとりかかっても取り押さえられない(実際、1990年代に丸の内で酔ってコンピュータをぶん投げて暴れていたニュージーランド人のセールスマンを取り押さえるのに制服警官30人を要したという記事が残っている)剣呑な異人たちを牽制する知恵だったのではないかと思量される。 ツイッタで「酒は緩慢な自殺」と書いている人がいて、この人は「ネット智者」なので、ふーむ、とおもったことがあった。 父親の家系も母親の家系も、ところどころに大酒飲みがいるので、そういう家系のなかで勇名をとどろかせた大酒飲みじーちゃんたちの寿命を思い出してみると、妙に長生きで、実感として頭の中でクリックしない。 早い話が、義理叔父と並んで家中のジジ友人である大叔父は、一日に2、3本はワインを開ける酒飲みだが、もう80歳をすぎている。 このひとの昔の商売は大学の学長で、小学生の学芸会みたいなマンガ的な(学長だけが着用を許される)大礼服を着て人格者風にほんの少しだけ頭を傾げて温和げに微笑んでいる自分の写真を寝室に飾ってあるが、真実はとんでもない不良ジジで、世界のことで興味があるのは物理学と酒だけで、奥さんにも娘にも息子にもずっと愛想をつかされてここまで来た。 内緒ということになっているが日本語なので構いやしないやと思ってばらしてしまうと、実は大叔母は、夫があまりに家事を省みずに研究ばかりしているのでいちどは離婚して、しばらくしてまた(同じ相手と)再婚したことになっている。 大叔父は遊びに行くと、おおガメよく来たと述べて、いそいそとガレージ奥のワインセラーに手をひいて連れてゆき、何本か選ばせて居間に戻ってさっそく飲み始める。 講釈つきです。 「ぼくは、ほら、他のアルコール飲料は身体にわるいから赤ワインしか飲まないことにしてるんだ。それも、あれはポリフェノールだけの功徳ではないらしい。フレンチパラドクスは、いまもほんとうには理由がわかっていないのさ」と述べながら、ピノ・ノアールを飲み始める。食事中は、なにしろ巨大ステーキが好きなジジなので本人が特に健康によいと信じているオーストラリアのシラズも含めて「色が濃い」ワインを一本のむ。 それで暖炉のまえに移動しても、もちろんまだずっと飲み続けているが、いつのまにか手にもっているのがスコットランドのシングルモルトに変わっている。 「赤ワインだけ飲むのではなかったのでしたっけ?」と訊くと、自分の手に目をやって、「おお! 言われてみれば、ずいぶん黄金色をした赤ワインであるな」などと言っている。 大叔父のような親類縁者は、たくさんいて、「大酒飲み=長命者」という印象だったので、「飲酒は緩慢な自殺」というのがピンとこなくて困った。 わし自身は、単純に両親から受け継いだ習慣で、目が覚めて良く晴れた気持ちの良い朝だとベーコンやポーチドエッグが並んだ朝食にシャンパンをつけてもらう。 昼ご飯がリブアイステーキなら、やはりシラズをつけてもらう。 夕方、家のバーのカウンタごしにモニと話して遊ぶときにはコクテルをつくって飲むし、夕飯のときはまた、たとえば日本料理ならば水のような味の日本酒を一緒に飲む。 マジメに酔っぱらいたいときは、ラウンジでモニとふたりで、腰をすえて飲んで、そういうときは「酔っぱらう」のが目的なのでこちらは生(き)のウイスキー、モニさんは冷凍庫から取りだしたウォッカで、どんどん飲んで遊ぶ。 友達と酒を飲むときに観察していると、なんといっても大酒を飲むのは北欧人で、今週ニュージーランドに遊びに来たスウェーデン人とスコットランド人の夫婦は、モニと4人ででかけたレストランでワインを4本飲んで、宿泊している部屋に移動して6本飲んで、そのあとなぜかスーツケースから出てくるわけのわからない蒸留酒を延々と飲んでいた。 モニとふたりでタクシーで家に帰ったが、タクシーをモニが呼んだところからあとの記憶がなくて、これは教科書に出てきたアルコール依存症の症状ではないか、と自分で感心した。 南欧州人は飲み方がマジメで、ゆっくり、すこおおしずつ、丁寧に飲む。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 2 Comments

奇妙な友人

前に「世界は一家、人類は皆兄弟」は「八紘一宇」の口語訳だが、と書いたら、 知らなかった、気が付かなかった、ガメ、なんでおまえはそんなことを知っている、といくつか旧知のおじさん友達たちからemailが来て、驚いてしまったことがある。 日本では誰でも知っていることだとばかり思っていた。 笹川良一という人は面白い人で、初めは山本五十六に「面白い奴だ」というので(日本語特有の薄気味悪い表現だが)「可愛がら」れた。 たしか山本五十六の手紙を携えて中国大陸に飛行機で私的伝令に行ったりもしていたはずだが、1939年には、いよいよ公然と山本五十六に後援されて単身飛行してベニト・ムッソリーニに会いに行きます。 70年代80年代のバブル経済期を通じて、テレビのゴールデンタイム枠を買い取って、自ら画面にあらわれ、「世界は一家、人類は皆兄弟」と述べた。 ジェシー高見山が一緒だったり、作曲家の山本直純が共演したりした、という。 何度か現実の老ファシストを目撃したことがある義理叔父によると、小さな小さな人で、黒いおおきなクルマの後部座席で、萎びたような、信じられないほど小さな身体で、死人のような顔色の顔を緊迫させている姿をみるたびに、ケイト・ブッシュの有名な歌を思い出したそーである。 日本に関心がある外国人には「Sasagawa」の名は、馴染みがある。 日本の言語や文化の敷衍に熱心とは到底いいかねる日本政府にかわって実質的に日本文化普及活動を行っていたのが、いまは「Nippon Foundation」という名前の「Sasagawa Foundation」だったからで,総務省、外務省、文部科学省、地方自治体がやっていることになっているJETプログラムにしても、笹川良一のポケットマネーなしでは、どうにもならなかったことは外国人で日本語や日本文化に関わる人には常識であると思う。 1974年のタイムのインタビューで自分は「世界で一番カネモチのファシストである」とオオマジメに述べた、この笹川良一という人は、安倍晋三のじーちゃん、すなわち、当時の首相岸信介に、「このままではアイゼンハワー大統領の訪日が取り止めになってしまう。なんとか治安を維持する方法を考えてくれ」と泣きつかれて「一千人の抜刀隊」を組織して、そのなかには吉本ばななとーちゃんの吉本隆明もいたはずの、労働者や学生たちのデモ隊を血祭りにあげてやると胸を叩いた人と同じ人です。 中国の「国父」孫文が中国にいられなくなったときに、この漢族の再興を願った民族主義者は、当然のように逃れる先として日本をめざした。 英語世界では話しても孫文が日本に渡ったこと自体を信じない人が多いが、ひとつには 漢民族と日本人の精神的距離はいまよりずっと近いものだった。 のみならず2番目の奥さんは大月薫という日本の人で、感心できたことではないが、愛人のなかで最も愛したのも浅田春という名の日本の女びとだった。 この性的に放縦で金遣いの荒い革命家を心身両面で助けたのは、宮崎滔天、頭山満、内田良平という3人の右翼たちでした。 内田良平はインド独立運動のラス・ビハリ・ボースも右翼国家主義理論家の大川周明とともに助けている。 ラス・ビハリ・ボースは連合王国の圧力に負けた日本政府によって国外退去を命令されるが、やはり右翼活動家の相馬愛藏によって匿われる。 チョーくだらないことを書くと、いまでも売っている日本初のインドカレー「中村屋インドカレー」は、ボースが相馬愛藏の店である中村屋に隠れているときにつくってみせたカレーのレシピが元で、もっとくだらないことを言えば、銀座のインド料理屋の老舗「ナイル」は、このときに日本の右翼たちとインド独立を画策したA.M.ナイルが1949年に開店したインド料理屋です。 http://www.ginza-nair.co.jp/history.html いまの日本人の目でみると一見して奇妙に見えるのに違いないのは、孫文やラス・ビハリ・ボースを右翼の大立て者たちである、宮崎滔天、頭山満、内田良平というようなひとびとにひきあわせたのは「憲政の神様」リベラル人犬養毅であることで、「大アジア」というキーワードなしで歴史を辿る人たちにとっては、混乱するというか、滅茶苦茶というか、単なる思想的惑乱にすぎないように見える可能性もある。 日本語学習者にとって日本の政治史をベンキョーするときの困難は、まず日本において最も社会主義的主張をもっていたのが帝国陸軍将校たちであったことで、左翼のなかでも(思想的に)最も正統的な左翼が最も右翼的な国家主義組織のなかに内在していた、ということの奇妙さにうたれてしまう。 社会主義であるはずの陸軍の外の活動家はコミンテルン的、というべきか、ソ連の出先機関のようなもので、到底(日本人から見て)革命的と呼ぶわけにはいかなかった。 このブログでもSNSでも何度も「日本には西洋的な意味における左翼も右翼も存在しない」と述べたのは、要するにそういうことで、日本においては右翼も左翼も、もともと「アングロサクソン支配」に対抗しうる政治思想と、その実質としての暴力装置(たとえば国家)を希求する運動だったので、ともすると左翼であるか右翼であるかは、「アングロサクソン支配からの独立」をめざすための「効率」の問題にしか見えないことすらあった。 政治勢力として目指す目的が左翼と右翼と同じものだった。 右翼と左翼は、したがって、アングロサクソンの圧力がインドから日本に至るアジアに対して強まるたびに、たびたび手を結んで助け合うことになった。 日本の政治思想史で最も深刻な問題である「転向」の背景には、そういう事情もあるのだと思います。 たまにはマジメに政治のことを書いてみるべかなあー、と思って書き始めて、いつものことでも、もう飽きてしまったが、 新大久保の「韓国人殺せ」「日本から出て行け」という「右翼」のデモを観ていると、「日本の右翼も到頭ここまで落ちぶれたか」と考えて、やるせない、というか、日本語をベンキョーしてきた人間として、ひどい失望の気持ちにとらえられてしまう。 理論的には石原莞爾と大川周明のふたりがいるくらいのもので、しかも不備極まりない、例えば石原莞爾を例にとれば、どちらかといえば日蓮宗を下敷きにしたSFのような趣のものになってしまっているが、それでも日本の政治思想史で独創的なものは丸山眞男や吉本隆明よりも正統右翼の思想の系譜以外には存在しなかった。 八紘一宇が暴力装置を獲得して起こした「大東亜戦争」の結果をみれば、それが通常日本語世界で認識されているよりは遙かに危険で反人間的な思想であったのは明かだったが、しかしニーチェ的な理性の立場に立てば、思想としてはたいへんに魅力があるものになる余地があったのだ、と言えなくもない。 それが大アジア主義どころか、自分達のゆいいつの近縁者である韓国人を相手に憎悪をぶつけているのでは幼児以下、目もあてられない愚かさで、西洋人にあれほど憎まれた日本人の世界にただひとつしかない歴史認識はどこへ行ってしまったのかと、うんざりしてしまう。 若い中国人たちと話していると、かつて日本人たちが抱いていた「反アングロサクソン支配の志」は、いまは中国人たちに受け継がれている。 北京大学卒業生を中心とした新毛沢東派のひとびとと話していると、自由主義を内的動力として民主主義を外的政治体制とした西洋諸国家とはまったく異なる文明認識を中国人たちが意識して作り始めているのが判る。 不幸なことに新毛沢東派の有名な「第一に政治外交でなすべきこと」は「日本と日本民族の殲滅」なので日本の人にとっては、なんだか落ち着かない感じがするだろうが、あのひとびとは、実は明治維新以来の日本の大アジア思想の正統な後継者なのである。 笹川良一が死んだ直後、ほんとうに老右翼が死んだのを確認するようにして、それまで恭謙に笹川につかえているようにすら見えた日本政府は、主がいなくなった笹川家を急襲して強制捜査する。 ちょうど、その頃、世界じゅうの日本語学校や、日本文化所以のひとびとが、あの「奇妙な友人」笹川良一の思い出を語り合っていた。 日本というこの世界に特殊な思想の最後のきらめきが、不正と暴力と人間性の否定という服をまとって、世界中のひとびとに惜しまれながら消えていったことを、わしは、なんだか象徴的なことであるように考えることがあるのです。

Posted in Uncategorized | 1 Comment

なかなかなカタカナ

最後に話したときには、もう、しどろもどろというか、だいぶんボロくなって危ない感じだったので、まだ生きているかどうかわからないが、ロスアンジェルスのCBS本社の近くに住んでいる日系アメリカ人の聖書学者のじーちゃんがいる。 じーちゃんは片目眇のヘンクツものだが、神と悪魔についての知識はさすがにしっかりしていて、読んでいてプロはシブイと思うことがよくあった。 あまりにシブイので、ときどき言葉を交わすようになったが、日本語がわけわからないわりに英語もわけがわからない人で、会津弁ならダイジョブだと言っていたが、今度はこっちが会津弁は判らないので、会津弁なら専門のキリスト教について正確に語れる人だったのかどうか、いまではもう、もっとわけがわからなくなってしまった。 火葬されていてはあきらめるしかないが、土葬なら例のグラシアの裏町で8ユーロで買った死者反魂の本を使って生き返ってもらっていろいろと教わりたい気がする。 このじーちゃんが4年くらい前に「ガメは、なにゆえに日本語の文章でコーカシアンと言うのであるか。英語ならコーケージアンだろう」と質問してきたことがあって、そのときに自分で「コーカシアン」を日本語で「白人」というときの表記に定めたときのことを思い出してみると、多分、石原莞爾の本か日本陸軍参謀本部の本か、どちらかに日本語としては初出で「コーカシアン」と出て来たからだと思い出していた。 いま日本語インターネットで「コーカシアン」を検索してみると、「ブルーメンバッハが生物学上の理論として五大人種説を唱えた際、ヨーロッパに住まう人々を『コーカシアン』なる人種と定義した事で世界的に知られるようになった」と書いてあるが、ブルーメンバッハはたしかドイツの人で、ドイツ語で「コーカシアン」なんて言葉があったかなあー、と思うが、ともかく日本語世界では戦前は白色人種を呼ぶのに「コーカシアン」と呼ぶのが一般的であったように見える。 コーケージアン、ではコチュジャンみたいで、白人も韓国味噌も一緒くたでは、コチュジャンがいくらおいしくても、白人種全体として情けないような気がする。 だから歴史性も重んじてコーカシアンといまでも表記することを常にしている。 もともとの原因は日本語では「白人」「黒人」と呼び習わされているのは判っていても、いまの時代にはそぐわない、乱暴な感じがするから、という「白人・黒人」が日本語のなかでは普通に恙なく生きていても、日本語以外の世界では同等語は死語としか感じられない、というカタカナ語のなかでも複雑な事情を背景にしている。 英語世界では「white man」という言葉を使うのに抵抗が感じられるようになったのは、だいたい90年代の初めくらいで、ニュージーランドではしばらく「パケハ」というマオリ語を使っていた。 そのうちに誰いうともなく「パケハは、白人への蔑称である」ということが伝わってきて、90年代の終わりになるとパケハとは言わずに、「European」というようになった。 いま、この2014年という時点ではヨーロッパ人がニュージーランド人たちが自分をEuropeanと呼ぶのを聞いて、内輪で「どこがEuropeanやねん」と失笑したりすることがあるのにうすうす気が付いて、アメリカ人式の公式呼称を採用してCaucasianと呼ぶ人が増えてきた、という段階です。 カタカナの問題として、このコーカシアンは、面白い、というか、日本語以外の「空気」の匂いをかがない人間にとっては「白人」で済んでしまうが、言語をまたいで暮らす人間にとっては、場合によって、いくらなんでも「白人」では、ちょっと抵抗がある。 しかし、定着してもいないのにコーケージアンでは、日本語として音がマヌケすぎて、到底使う気になれない。 日本にも進出している「Costco」というスーパーマーケットチェーンがあるが、これを「コストコ」と英語人が呼ぶのは不可能に近い、と思う。 どうしてもカタカナ化するに当たって「コスコ」としか呼びようがなくて、無理に無理を重ねて、無理無理無理の三段重ねのお屠蘇に積んで「コストコ」と発声した瞬間に、なんとも言えないやるせない気持ちになります。 感覚的に近いものを挙げるとnightを「ナイフト」と呼んでるようなもので、ヤケを起こせばやれなくはないが、踏み絵を踏んでしまった隠れキリシタンの心境と言えばいいのか、これできっと英語の神様はおれを一生ゆるさないだろう、くらいの気持ちにはなる。 日本で観察していると日本語が滅茶苦茶できる英語人、「帰国子女」(←ヘンな日本語)、両親の言語ともに母語達者な欧亜混血ガキ(例:従兄弟)などは、遠慮がちに、あるいは堂々と「Costco」をカタカナっぽく発音して「コスコ」と言う。 英語にあんまり縁がないほうのひとびとが「コスコ? ああ、コストコでしょう? あそこは安いしおいしいホットドッグ安くていいですよね」と穏やかに述べているのに、「うん、ぼくもコスコよく行きます!」と元気よく返事をするので、日本人のほうは、こいつはバカなのだろーか、それとも失礼なだけか、というような怪訝な顔をしている(^^;  ブログ記事で「ベビーカーでは、あんまりなので」と書くと、もう御機嫌の悪いチビガキじみて、「ベビーカーの、なにが『あんまり』なんだ、ふざけんじゃねえ、なにさまだ」という人が、必ず、たくさん現れるのが、お決まりだとは言っても日本語インターネットのオモロイところだが、これに限ってはこっちの都合だから、あやまらないといけないよねえ、よしよし、ごめんちゃいねー、しまっちゃおうねえー、と深くお詫びしなくてはならなくて、strollerを「ベビーカー」と呼ぶと、どうしても赤ん坊がゴーグルをかけてストローラーに8気筒スーパーチャージャーエンジンが付いた乗り物のハンドルを握って舗道をぶっとばす光景が目にちらついて、マジメに話が出来なくなってしまう、という英語人側の事情に基づいている。 スピード・ダウン、というカタカナ語も同じで、スローダウンなのかスピードアップなのかはっきりしてくれないと、急上昇して失速させられているような訳のわからない感じがする。 Remueraという地名は、Rの音のせいなるにや、リミュエラ、レミュエラ、ラミュエラと3通りにカタカナで書ける発音だが、最後の「ラ」がはいるのは日本の人にはどうしても信じられない、と予測できて、それがカタカナに対する日本の人の誤解の正体なのであると思う。 Americaは無理は無理でもなんとかアメリカとカタカナで表記できても、Americanをアメリカンとは、本来、どうやっても書けるはずがない、というような事情は、たとえば、英語圏に留学したことがあるひとなら誰でも知っている事情であると思う。 まして、このブログ記事に何度も書いたがPhiladelphiaが「フィラデルフィア」では、相当に日本人の英語のアクセントに慣れているアメリカン人でも聴き取れない。 「古豆腐屋」、ふるどーふや、と述べた方が、まだしもイッパツで通じます。 アメリカンはダメでも「めりけん」なら通じるのと同じことである。 もうだんだん飽きてきたのでやめるが、カタカナが壁になって日本人は英語が出来ない、というのは日本の人の英語に関する通説になっている。 子供のときから英語を勉強して、言語のセンスがあり、そのまま20年アメリカに住んでいます、という日本の人でも、電話がかかってきて、「あっ、日本の人だな」とすぐに判るのは、なぜ相手が日本人だと判ったのか自分の聴覚に問うて考えてみると、たいていは「グラウンド」というようなカタカナ語が存在する単語にさしかかったところで、カタカナが日本の人の頭のなかに蘇っているらしく、そこだけが微妙にカタカナ発音になっているからのことがおおい。 RとL、あるいは母音の少なさ、が克服できても、どうしてもカタカナの呪いだけはとれないので、別にそれはそれで困るわけがあるはずはないが、一緒に仕事をしているスイス人Rのように、イギリス人が話すとサセックスの出身だと信じこんでしまい、ドイツ人が話すとチューリヒの人だと思い込んでしまって、ところがほんとうはジュネーブ人(←フランス語)であるというような、熟練スパイというか、薩摩弁でおいどんをする薩摩人になりきった、くノ一忍者みたいというか、そういう「言語が完全にきりかわっている」感じにならないのは、原因はカタカナにつきている。 日本語を習う人はみな、日本語はカタカナを文の骨格に影響しない部分でドイツやイギリス・アメリカの概念語彙を簡単に着脱できる構造をもったことで日本の近代化を助けた、と学習したはずである。 しかし「うまい話には罠がある」という下世話な知恵そのまま、カタカナは、実際には「着脱可能」どころか、音の面から日本人の背中にじっとしがみついて、日本の土壌から離してくれない。 世紀が変わってからは、世界の変化のスピードが速くなりすぎて、前にも述べたが、いまでは変化の仕方が毎年変化するような、もともとが静的な安定を好んで、なにもかもがジッとしていてくれるのが好きな日本人がいちばん苦手なタイプの世界になって、定着に一定の時間と合意とを必要とするカタカナは「原語の代用」という役割すらはたせなくなった。 シナジーマーケティングがプログラムするベターライフ、なんちてオオマジメにホワイトボードの前に立って述べている人が典型で、いっそ鳥のさえずりに似ているというか、言葉を環境音楽みたいなものに変えることに主に貢献するだけの語彙を形成したり、つまりは「日本語でも欧州語でもないもの」を指すことにカタカナを使って、指している先をみると、笑いかたそのものまで下品なチュチャ猫の笑みだけが漂っている、というふうなことは日常茶飯になって、カタカナの病巣はいっそう深くなっているように見える。 「日本語はどこへ行くか_その2」を書いていたが、番外編でカタカナのこともちょっと話したくなって記事を書いてしまった。 ビルヂングは滑稽だがビルディングはマジメに使うに値する、という日本語の感覚は、無論、日本人のあいだだけで通用する「陳腐化した意匠」と「まだ流通している意匠」の、(あくまで日本語内部の)新旧の意匠の差にしかすぎない。 我が友オダキンはR音をあらわすラリルレロの表記をルァ、ルィ、ルゥ、ルェ、ルォにするべく奮闘中だが、多分それがムダな努力(オダキン、ごみん)に終わるのも、カタカナは欧州語とはまったく親近も縁もない純然たる「日本語」にしかすぎない、1対1の照応をもちえない、ぼんやりとした、「似て非なるもの」の類似の集合にしかすぎない他言語同士以上のものではないことを忘れているからだと思う。 ではカタカナを廃さねばならないとして、どうすればよいか、と問われると、「英語にするしかないよね」というような乱暴な答えしか思いつかない。 他の方法がないかどうか、上にあげたオダキンたち、名前はいちいち挙げないが、いつも言葉を交わしては良い知恵やシブイ冗談で時間を芳醇にしてくれる日本語の友達みんなと考えていくしかないようです。

Posted in Uncategorized | 1 Comment