自己紹介に名をかりて

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午後になって天気が良くなったのでテラスの階段に座って、クレヨンで18世紀の貴婦人の服を着た天使の絵を描いた。
天使の絵を描くと、いつも顔がモニに似てしまうw
それは、いまや、ぼくの一生の本質的な欠陥であるに違いない。
誰が聞いてもゲラゲラと笑うほど滑稽なことであるに違いない。

でも、だからなんだというのだろう。

生まれてしまえば、たくさんの義務が生じる。
世界について考え、宇宙を理解することを求められる。
しかも宇宙の解釈は誰をも傷つけないものであるほど衆目に公認される。
それを「宗教の自由」と言うんだってさ。
だが聖書をひらくよりは、物理学の本をひらくことが21世紀の道徳にはかなっていると思わないか。

せめて微分学が理解できない人間に神を語る資格があるわけはない。
極小がどの程度小さいか評価できない人間に神のことを訊ねても仕方がない。
暗黒を数理的に見積もる方法をもたない人間と悪魔の存在について議論することには何の意味もない。
(彼もしくは彼女は怠惰であるにすぎない)
(彼等は、いつでもなんと鬱陶しいことだろう!)

(きみは怒るに違いないが)、うんと正直に言ってしまえば(そのへんに転がっている日本人ほども)日本語が出来ないのに日本を云々する人間を、ぼくは信用したことがない。
同じように日本語と英語と少しの欧州語しか出来ない人間なんかとキリストの神の話をすることにどんな意味があるだろう。
ぼくは、そういう一切のことをムダとみなすのでなければならない。

そうして、ムダなことは、(どんなに怨嗟の声がおおきくても)やらないですますにこしたことはない。

ぼくはたとえば、(信じてくれなければ困るが)我が新米の友ミショが歩いた渇ききった谷間を15年前に歩いていた。
もじんどんが胸まで水につかりながら徒渉する感情の奔流を10年前に手でかきわけながら横切って歩いていた。
オダキンが、いいとしこいて、いまでも迷っている夕暮れの棘だらけの小径を彷徨していた。
(あるいは流されていた)

ぼくは、どんなときでも、とてもひとりぼっちだったが、そのことについて情緒的であったことはない。
まして、感傷的であったことはいちどもない。

驚くべきことだと自分でもおもうが(ほんとよ)友達を求めたこともない。
ポケットに二枚だけ残った10ドル札を握りしめて、神は神の世界を、神なきものは神なき世界を生きるだけのことさ、と思っていた。

もっと有り体に言えば、もうどうだっていいのさ、と思っていただろう。
もうどうだっていいのさ、て、英語にはすごくぴったりな呼応する表現があって
「No longer I care」て言うんだ。
いちいち訳すのが不可能な情緒や理屈に満ちている英語と日本語なのに、こんな表現にばかり英語と日本語と、そっくりそのまま気持ちが伝わるような双頭の表現があるのはどうしたことだろう。

あの、言葉では到底回想できない日々、女びとたちの、良い匂いのする、やわらかい暗闇のなかで心と体とを休めながら、ぼくは世界が軋む嫌な音を聞いていた。
世界が割れて粉々に崩れてゆく、なんとも言えない非人間的な音を聞いていた。

梁が折れた、とでも言うような、なんだか決定的なのに、そのくせゆっくりとして、急速な破滅にはつながらない、例の、人間の感覚にとっては間の抜けたタイミングの、底意地の悪い音を聞いていた。

画鋲を探して、素晴らしいスペイン的な装飾のドレスを着た天使をテラスの柱に貼り付ける。
イギリスの物理学者たちが天使は、あの羽根ではとべないことを物理的に「証明」したって。
そうして、いまでは、まともな知性がある人間なら、「神」という仮定が議論をする価値もないほど謬った仮定であることを知っている。
とてもよく出来てはいたが、隠しようがなくなった時代遅れな迷妄であることをもう知っている。

神などはいるわけがない。
あるいは過去にはいたとしても、もう死んでしまっていることを、きみもぼくも熟知している。

われわれは、神がいないことを証明したが、そして神など存在しないことを肯んじない人間は愚かなのを通り越してただ固陋なだけだが、
「信教の自由」などは、迷妄の自由にしかすぎないことを、きみもぼくも知りすぎるほど知っているのだが。

だが、ある日、物理法則上は飛べるはずのない翼をはばたかせて天使たちは、人間の合理によって荒廃した地上の中空を乱舞するだろう。

低い雲が垂れ込めた空を、言語を裏切るに十分な狡猾さをもった神は横切ってゆくだろう。
ありとあらゆる修辞は人間のシンタクスを裏切って、いっせいに偽である命題を確信に満ちて述べだすだろう。

数式という数式が真実を拒否してすべての物理学者を混乱させる日がくるだろう。

きみとぼくが伝達のために大量にムダな語彙を費やして、疲れ果てて、沈黙だけが言語にとっては伝達の能力なのだと悟る、そのときまで。

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