なかなかなカタカナ

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最後に話したときには、もう、しどろもどろというか、だいぶんボロくなって危ない感じだったので、まだ生きているかどうかわからないが、ロスアンジェルスのCBS本社の近くに住んでいる日系アメリカ人の聖書学者のじーちゃんがいる。
じーちゃんは片目眇のヘンクツものだが、神と悪魔についての知識はさすがにしっかりしていて、読んでいてプロはシブイと思うことがよくあった。
あまりにシブイので、ときどき言葉を交わすようになったが、日本語がわけわからないわりに英語もわけがわからない人で、会津弁ならダイジョブだと言っていたが、今度はこっちが会津弁は判らないので、会津弁なら専門のキリスト教について正確に語れる人だったのかどうか、いまではもう、もっとわけがわからなくなってしまった。
火葬されていてはあきらめるしかないが、土葬なら例のグラシアの裏町で8ユーロで買った死者反魂の本を使って生き返ってもらっていろいろと教わりたい気がする。

このじーちゃんが4年くらい前に「ガメは、なにゆえに日本語の文章でコーカシアンと言うのであるか。英語ならコーケージアンだろう」と質問してきたことがあって、そのときに自分で「コーカシアン」を日本語で「白人」というときの表記に定めたときのことを思い出してみると、多分、石原莞爾の本か日本陸軍参謀本部の本か、どちらかに日本語としては初出で「コーカシアン」と出て来たからだと思い出していた。
いま日本語インターネットで「コーカシアン」を検索してみると、「ブルーメンバッハが生物学上の理論として五大人種説を唱えた際、ヨーロッパに住まう人々を『コーカシアン』なる人種と定義した事で世界的に知られるようになった」と書いてあるが、ブルーメンバッハはたしかドイツの人で、ドイツ語で「コーカシアン」なんて言葉があったかなあー、と思うが、ともかく日本語世界では戦前は白色人種を呼ぶのに「コーカシアン」と呼ぶのが一般的であったように見える。

コーケージアン、ではコチュジャンみたいで、白人も韓国味噌も一緒くたでは、コチュジャンがいくらおいしくても、白人種全体として情けないような気がする。
だから歴史性も重んじてコーカシアンといまでも表記することを常にしている。

もともとの原因は日本語では「白人」「黒人」と呼び習わされているのは判っていても、いまの時代にはそぐわない、乱暴な感じがするから、という「白人・黒人」が日本語のなかでは普通に恙なく生きていても、日本語以外の世界では同等語は死語としか感じられない、というカタカナ語のなかでも複雑な事情を背景にしている。
英語世界では「white man」という言葉を使うのに抵抗が感じられるようになったのは、だいたい90年代の初めくらいで、ニュージーランドではしばらく「パケハ」というマオリ語を使っていた。
そのうちに誰いうともなく「パケハは、白人への蔑称である」ということが伝わってきて、90年代の終わりになるとパケハとは言わずに、「European」というようになった。
いま、この2014年という時点ではヨーロッパ人がニュージーランド人たちが自分をEuropeanと呼ぶのを聞いて、内輪で「どこがEuropeanやねん」と失笑したりすることがあるのにうすうす気が付いて、アメリカ人式の公式呼称を採用してCaucasianと呼ぶ人が増えてきた、という段階です。

カタカナの問題として、このコーカシアンは、面白い、というか、日本語以外の「空気」の匂いをかがない人間にとっては「白人」で済んでしまうが、言語をまたいで暮らす人間にとっては、場合によって、いくらなんでも「白人」では、ちょっと抵抗がある。
しかし、定着してもいないのにコーケージアンでは、日本語として音がマヌケすぎて、到底使う気になれない。

日本にも進出している「Costco」というスーパーマーケットチェーンがあるが、これを「コストコ」と英語人が呼ぶのは不可能に近い、と思う。
どうしてもカタカナ化するに当たって「コスコ」としか呼びようがなくて、無理に無理を重ねて、無理無理無理の三段重ねのお屠蘇に積んで「コストコ」と発声した瞬間に、なんとも言えないやるせない気持ちになります。
感覚的に近いものを挙げるとnightを「ナイフト」と呼んでるようなもので、ヤケを起こせばやれなくはないが、踏み絵を踏んでしまった隠れキリシタンの心境と言えばいいのか、これできっと英語の神様はおれを一生ゆるさないだろう、くらいの気持ちにはなる。
日本で観察していると日本語が滅茶苦茶できる英語人、「帰国子女」(←ヘンな日本語)、両親の言語ともに母語達者な欧亜混血ガキ(例:従兄弟)などは、遠慮がちに、あるいは堂々と「Costco」をカタカナっぽく発音して「コスコ」と言う。
英語にあんまり縁がないほうのひとびとが「コスコ? ああ、コストコでしょう? あそこは安いしおいしいホットドッグ安くていいですよね」と穏やかに述べているのに、「うん、ぼくもコスコよく行きます!」と元気よく返事をするので、日本人のほうは、こいつはバカなのだろーか、それとも失礼なだけか、というような怪訝な顔をしている(^^; 

ブログ記事で「ベビーカーでは、あんまりなので」と書くと、もう御機嫌の悪いチビガキじみて、「ベビーカーの、なにが『あんまり』なんだ、ふざけんじゃねえ、なにさまだ」という人が、必ず、たくさん現れるのが、お決まりだとは言っても日本語インターネットのオモロイところだが、これに限ってはこっちの都合だから、あやまらないといけないよねえ、よしよし、ごめんちゃいねー、しまっちゃおうねえー、と深くお詫びしなくてはならなくて、strollerを「ベビーカー」と呼ぶと、どうしても赤ん坊がゴーグルをかけてストローラーに8気筒スーパーチャージャーエンジンが付いた乗り物のハンドルを握って舗道をぶっとばす光景が目にちらついて、マジメに話が出来なくなってしまう、という英語人側の事情に基づいている。

スピード・ダウン、というカタカナ語も同じで、スローダウンなのかスピードアップなのかはっきりしてくれないと、急上昇して失速させられているような訳のわからない感じがする。

Remueraという地名は、Rの音のせいなるにや、リミュエラ、レミュエラ、ラミュエラと3通りにカタカナで書ける発音だが、最後の「ラ」がはいるのは日本の人にはどうしても信じられない、と予測できて、それがカタカナに対する日本の人の誤解の正体なのであると思う。

Americaは無理は無理でもなんとかアメリカとカタカナで表記できても、Americanをアメリカンとは、本来、どうやっても書けるはずがない、というような事情は、たとえば、英語圏に留学したことがあるひとなら誰でも知っている事情であると思う。
まして、このブログ記事に何度も書いたがPhiladelphiaが「フィラデルフィア」では、相当に日本人の英語のアクセントに慣れているアメリカン人でも聴き取れない。
「古豆腐屋」、ふるどーふや、と述べた方が、まだしもイッパツで通じます。
アメリカンはダメでも「めりけん」なら通じるのと同じことである。

もうだんだん飽きてきたのでやめるが、カタカナが壁になって日本人は英語が出来ない、というのは日本の人の英語に関する通説になっている。
子供のときから英語を勉強して、言語のセンスがあり、そのまま20年アメリカに住んでいます、という日本の人でも、電話がかかってきて、「あっ、日本の人だな」とすぐに判るのは、なぜ相手が日本人だと判ったのか自分の聴覚に問うて考えてみると、たいていは「グラウンド」というようなカタカナ語が存在する単語にさしかかったところで、カタカナが日本の人の頭のなかに蘇っているらしく、そこだけが微妙にカタカナ発音になっているからのことがおおい。

RとL、あるいは母音の少なさ、が克服できても、どうしてもカタカナの呪いだけはとれないので、別にそれはそれで困るわけがあるはずはないが、一緒に仕事をしているスイス人Rのように、イギリス人が話すとサセックスの出身だと信じこんでしまい、ドイツ人が話すとチューリヒの人だと思い込んでしまって、ところがほんとうはジュネーブ人(←フランス語)であるというような、熟練スパイというか、薩摩弁でおいどんをする薩摩人になりきった、くノ一忍者みたいというか、そういう「言語が完全にきりかわっている」感じにならないのは、原因はカタカナにつきている。

日本語を習う人はみな、日本語はカタカナを文の骨格に影響しない部分でドイツやイギリス・アメリカの概念語彙を簡単に着脱できる構造をもったことで日本の近代化を助けた、と学習したはずである。
しかし「うまい話には罠がある」という下世話な知恵そのまま、カタカナは、実際には「着脱可能」どころか、音の面から日本人の背中にじっとしがみついて、日本の土壌から離してくれない。
世紀が変わってからは、世界の変化のスピードが速くなりすぎて、前にも述べたが、いまでは変化の仕方が毎年変化するような、もともとが静的な安定を好んで、なにもかもがジッとしていてくれるのが好きな日本人がいちばん苦手なタイプの世界になって、定着に一定の時間と合意とを必要とするカタカナは「原語の代用」という役割すらはたせなくなった。
シナジーマーケティングがプログラムするベターライフ、なんちてオオマジメにホワイトボードの前に立って述べている人が典型で、いっそ鳥のさえずりに似ているというか、言葉を環境音楽みたいなものに変えることに主に貢献するだけの語彙を形成したり、つまりは「日本語でも欧州語でもないもの」を指すことにカタカナを使って、指している先をみると、笑いかたそのものまで下品なチュチャ猫の笑みだけが漂っている、というふうなことは日常茶飯になって、カタカナの病巣はいっそう深くなっているように見える。

「日本語はどこへ行くか_その2」を書いていたが、番外編でカタカナのこともちょっと話したくなって記事を書いてしまった。

ビルヂングは滑稽だがビルディングはマジメに使うに値する、という日本語の感覚は、無論、日本人のあいだだけで通用する「陳腐化した意匠」と「まだ流通している意匠」の、(あくまで日本語内部の)新旧の意匠の差にしかすぎない。
我が友オダキンはR音をあらわすラリルレロの表記をルァ、ルィ、ルゥ、ルェ、ルォにするべく奮闘中だが、多分それがムダな努力(オダキン、ごみん)に終わるのも、カタカナは欧州語とはまったく親近も縁もない純然たる「日本語」にしかすぎない、1対1の照応をもちえない、ぼんやりとした、「似て非なるもの」の類似の集合にしかすぎない他言語同士以上のものではないことを忘れているからだと思う。

ではカタカナを廃さねばならないとして、どうすればよいか、と問われると、「英語にするしかないよね」というような乱暴な答えしか思いつかない。
他の方法がないかどうか、上にあげたオダキンたち、名前はいちいち挙げないが、いつも言葉を交わしては良い知恵やシブイ冗談で時間を芳醇にしてくれる日本語の友達みんなと考えていくしかないようです。

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One Response to なかなかなカタカナ

  1. odakin says:

    どの言語も外来語ってそういうもんじゃないかと思うんですよね。英語だって外来語はものすごく英語訛りにして読むわけだし(Muenchen が Munich になったりとか)。
    で、日本人が国際交流の道具として英語を話すときに発音が日本風になるのは当たり前で、それをどっかのネイティヴ風にしたがるのは植民地根性だと俺は思うのです。
    (ところでルァルィルゥルェルォはどっちかっつーと最初にカタカナで頭に入っちゃうとLだったかRだったか分からなくなる、という精神汚染の予防としての意義が大きいかも。まー誰も使用に賛同してくれないが・・・)

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