奇妙な支払い

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「60minutes」は英語圏ではよく知られた硬派のドキュメンタリ番組だが、オーストラリア版の60minutesで制作された福島第一事故3周年の番組はそれまで同じシリーズで取り上げた「フクシマレポート」に較べて遙かに厳しい内容のものだった。
東電の社員ふたりを名前いりで登場させて彼等ふたりが平然と虚偽を述べる様子をみせて、その嘘を糾弾する。
カルディコットを登場させて、「除染などは、ただのまやかしだ。日本の国民を欺くための行為にしか過ぎない」と言わせる。
日本式に「集団の一員だから集団の意見を代弁しているだけだ」、とは言わせない。
あなたの人間としての人間性の欠如を糾弾している、という、より厳しい姿勢をとる。

2020年のオリンピックを観に東京にでかけるのはバカげている。
選手団を送るのは論外である。
東京に行くのは危険だし、オリンピック自体取り止めにすべきなのはいうまでもない。
この3年間の日本社会の事故への対応の観察で得た、容赦のない「結論」をオーストラリアのメディアは投げつけている。

震災後、体育館のなかに段ボール箱を切ってつくった「家」に被災者が住んでいた様子をあらためて伝えたあとで、3年もの年月が経過したいま、
仮設住宅を訪ねていって、かつて6寝室ある家に住んでいた80歳を越える老女がワンルームアパートメントの大きさしかないプレハブで生き甲斐を失い、逼塞して暮らす毎日を伝える。

番組を見終わったあとに受ける印象は、日本の政府と東電のウソツキぶりと、同胞である日本人たちに完全に見捨てられた福島人たちの「自分達を捨てないでくれ」「忘れたふりをしないでくれ」という他の日本人たちへの虚しい祈りであると思う。

日本と日本人たちとの印象で、福島第一事故の前と後とで、最も変化したのは「聡明で正直な日本人」というイメージの消滅だろう。
戦後に世界を覆い尽くすようにあふれた日本人への激しい憎悪が70年代に弱まり、世紀の変わり目頃にほぼ完全に終わりを告げたあと、若い世代を中心に日本人は他のアジア文明に較べて正直・誠実な文明をつくったという新しいイメージが生まれた。
「新しい日本人」は非暴力的で、風変わりだが愉快な隣人であり、世界に対して害をなすよりは貢献しているひとびとである、ということになった。

福島第一事故のあと、「状況は全然アンダーコントロールではないのではないか」と迫るレポーターに、「われわれは、そう思っていません。放射性物質は着々と除染されつつあり、安全に向かっておおきく前進していると思う」と答える日本人たちを観て、「日本人の誠実」というような観念は持ちようがなくなった。
自分で自分の足下の地面を掘り崩すような、日本人のあいだだけで通用する屁理屈ないし嘘を繰り返したあげく、日本の人は自分達自身の述べる言葉の信頼性がまるごと失われてしまいつつあることに気が付くべきであると思う。

特に安倍首相のオリンピック招致の努力の過程で外国人ジャーナリストを現場に招じ入れて現実を公開せざるをえなくなったあと、世界じゅうで報じられた「福島の現実」は世界のひとびとを驚倒させた。
ひらたい言葉をつかえば、口あんぐり、という印象だった。
要するに2年半、なにもしなかったのですか?
というレポーターの、怒るというよりも、あまりのことにあきれはてた表情をまだおぼえている。
技術的な限界よりもなによりもジャーナリストたちを心底から怒らせたのは日本政府と東電の「やる気のなさ」だった。
どこまで深く事実を掘り下げていっても、出てくるのは、底なしの「不誠実」と「無責任」で、いまさらながら、アメリカと原子村は、こんなひどい国に原子力発電というオモチャを与えていたのか、と衝撃をうけた。
ばりばりの原発推進派の人間たちのなかにも、日本政府と東電のような会社に原発を与えたのはおおきな謬りだった、という人間がたくさんでた。

政府や東電にとって都合の悪い、特に現実的なダメージがありそうなことはいっさい報じなかった日本のマスメディアを観ている日本人と、報道の数は少ないが「現実」を容赦なく報じてきた海外マスメディアの報道を観てきた外国人とでは、ほんとに同じ事態の話をしているのかどうか判らなくなってしまうほど事態への認識が異なってしまっている。

「科学調査」捕鯨や南京虐殺や慰安婦強制連行で小さな規模で観られた「海外の誤解に苦しむ日本」というあらかじめ描かれたシナリオに沿ってどんどんニュアンスを変えられ、都合の悪い現実は翻訳配信記事の部分を削除してまで隠して報道するという、いつもの報道姿勢で醸成された「日本に対する悪意への憤り」という気分に煽られて、マスメディアの枠をあふれだして、「国民感情」そのものになっていく、ゼノフォビアが明然と刻印された、ほとんど定型と呼びたくなる日本の歴史に特徴的な一連の「国民的狂気」の形成過程が、「フクシマ」においては、もっと露骨で無理押しする形で、しかし遙かに大規模に観られた。

その結果起きたことは、日本語で語られること全体への信頼性の、ひどい低下だった。
いまでは、たとえば慰安婦問題について日本がなにごとかを述べても「どうせ嘘だろう」という受け止め方をする人が多くなったが、そのことには日本がつくりあげてきた社会の誠実さ自体への疑問が強く影響している。
日本の人はいろいろな理屈を思いついて、夢中になると現実のほうには背中を向けてしまって、頭のなかのホワイトボードに向かって一心不乱に奇妙な理屈を書き込んでいって、理屈が自足したとみると、「ほーら、おれが正しい!」と叫び出す傾向があると思うが、そういう古代ギリシャ末期の詭弁家たちに類似した議論をすることの是非以前に、「日本のひとの言うこと」自体の信憑性がゼロに近くなってしまっている。

言うまでもなく、日本社会そのものへのreliabilityが失われることは日本という文明全体にとって途方もなく危険なことだが、結局、日本社会は全体として福島第一事故という「絶対に起きてはいけない事故」が起きてしまったという異常な事態を乗り切ろうとして、国内社会の安定・沈静や、国民の海外への逃亡やパニックを予防するために、かなり思い切った大規模な虚構を国を挙げてつくりあげて、その結果、国内は目論見どおり、うまく騙し仰せてなんとか乗り切れたが、引き換えに、世界から見た日本全体への信頼は放棄せざるをえなかった、ということなのだろうと思う。

考えてみると、日本人は深刻な意味においては自分たちの言語を捨ててしまったことになるわけで、悪い冗談のように聞こえたら謝るけれども、戦後のエズラ・パウンドと同じに、自ら言葉を捨てて、沈黙をめざして唖になった歴史上初めての国だろう。
意味を失った言葉を話す国民がどうなっていくか、というのは歴史上に例がないので、そういうことが好きな人にとっては興味がわく事態であると思う。
こういうことはすぐに歴然と効果があらわれるわけではなくて、生起したことが繰り返し検討されていくうちに慢性病の症状となってあらわれる。
日本語の場合、極めて閉鎖的な言語であるという事情も加わって、緩慢な進行だが、確実に言語は浸蝕されて、やがて虚しく洞窟に響き渡る意味のない反響のような言語になってゆくだろう。

忙しく唇が動いているのに、意味のある言葉がなにも発声されないのが、未来の日本人の姿である。
このブログ記事でも80年代に始まった商業主義による日本語の空洞化・意味の喪失は何度も話題として出てくるが、行きつく場所がこれほど世界にも歴史にも孤絶したところだったとは考えてみなかった。
きみがどんなにうまいその場しのぎのごまかしをおもいついても、すべての行為には結果が伴う。
しかも支払いをするのは、きみ自身なんだぜ、という台詞があるアメリカ刑事ドラマがあったが、まことにその通りで、しかも奇妙な行為には奇妙な支払いが待っている。

インドのひとびとが述べた、因果応報、という言葉を思い出します。

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One Response to 奇妙な支払い

  1. ぜにいば says:

    ガメさんよく書いてくれました!と興奮したわけですが、、、日本語が意味のない言葉となっているのは、いまに始まったことではありません。80年代に始まったのかどうかもわからない、おそらくその前からだろうと思います。

    日本はいろいろな人権が憲法で保障され民主主義であるとされている国なのですが、裁判所という舞台では、昔から茶番の裁判が繰り広げられています。刑事事件の99.7パーセントが有罪となるといえば、もうおわかりでしょう。警察が優秀な国と自画自賛しているものの、実態は証拠と脅迫自白の捏造オンパレード。シナリオを検察が作り、警察が実行することもある。お墨付きを裁判官が与える。この司法を官僚の最高の天下り場所ともいえる最高裁判所事務総局が支配しています。

    裁判所というのは、言葉による命(日本には死刑があるから)と名誉を掛けた格闘場と解釈したいのですけれど、ここで弁護士たちが検察の主張を見事に論破しても、その言葉は裁判官によってあっさりと無視されるのです。しゃべる意味がない。頭を使う意味も考える意味もなくなる。それが繰り返し改善されずにずっときている。

    鴎外の「最後の一句」はご存知ですか。ときは江戸時代の終わり、democracy という言葉が紹介されたころ。16歳の主人公いちの「おかみのすることに間違いはありますまいから」というひとことを、白州を見下ろす奉行たちは「反抗」ととらえている。いえ、鴎外自身がそう認識している。それは奉行の発した意地の悪い問いに答えたひとことであったのだけれど、結局、官僚の意識はそれから変わっていないとしか思えない。

    つまり大上段な自分たちのシナリオに、ただ「はい」のみ言って従う人間だけの存在を認める。予想外の言葉を返されようものなら、もうパニックになってしまうというショーもない頭の持ち主、あるいは究極のダイコン役者ということです。だからそれを隠して、いつまでも尊大な役者として振舞いたいとハコモノ舞台を維持しようとしている。あーしょうもない人生、と嗤って哀れんでいられるなら本当にいいのだけれど、彼らはすでに巨大な「反抗」に合って凶暴となり、命あるものに甚大な危害を加えています。

    偶然にも「奇妙な支払い」をガメさんが投稿したのと同じくして、初耳の(私にとっては)Nuclear Security Summitが開かれていたのですが、この英語が公用語となる場でも、日本の総理が「フクシマの汚染水はunder control 」と英語で発表していたことに異が問われなかったようでした。ということは、どの言語にも、政府の使う言語と人々の使う言語とふたつのバージョンがあるのではないかと思いついたわけです。そして政府の使う言語とその国の人々の使う言語は同じ言語でもバージョンが違っているので、その政府が滅んでもその国の人々が生き残るのは可能。そして生き残るように目指さなければいけないのだと思ったのでした。

    (ディアスポーラ、地続きでないから大変なんだけど。。。また、英語の世界には日本みたいに文部科学省という言葉まで支配しようとする政府機関はなさそうなのはよいなと思う)

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