PC9801

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鎌倉ばーちゃんの家にあった義理叔父の例の「コンピュータ博物館」にはPC9801VMからPC9801RAまでの9801シリーズがあって義理叔父の解説で動かしてみたことがある。当時は「フロントエンドプロセッサー」と言ったはずの日本語変換ソフトウエアは日本語でPCを動かすには必須で、しかしアプリケーションソフトウエアが扱えるメモリ空間が640KバイトしかないMS-DOSが災いして、デバイスドライバをメモリに読ませてしまうと、350Kバイトくらいしかメモリが残っていないので(失礼にも)笑ってしまった。

350Kしかないということは、ソフトウエアが300Kちょっとメモリを使うとして、文書ならば30ページも書けば、当時はCPUの能力が低いのとハードディスクドライブが高すぎたのとでデータをオンメモリで保持していたはずのメモリはいっぱいになってコンピュータはフリーズしていたのではないかと思う。

その頃の日本人はどうやって苦境をしのいだかというと、ドライバを使ってコンベンショナルメモリ(MS-DOSがもともとアプリケーションに割り当てた640Kバイト)にリニアではないいわば「架設」のメモリ領域につながる「窓」を使って見かけ上メモリが3Mバイトなら3Mバイトあるような「ふり」をPCにさせることで凌いでいた。
60KバイトだかなんだかのEMSドライバが「コンベンショナルメモリ」に残るのはやむをえないとして、残りをEMSのメモリ空間に押し込む工夫をすることで580Kくらいのリニアメモリ(コンベンショナルメモリ)を確保できていたようです。

NECのPC9801というコンピュータは、ベースがEGAのIBM互換機らしく見えて、IOもISAぽいスロットだったりして、なんだかチョーおもしろいコンピュータだった。
PC9801VMで言えばCPUはV30という8086のパチモンぽいCPUで、なんだか全体に怪しげな雰囲気が漂うデザインである。

EGAの機能を拡張して24x24のドットで漢字を表現できるようにしてあるのはたいへんな工夫で、もっとすごいのは、Text V-RAMがついている。
いまの能力のCPUに慣れていると気が付かないが、この文字をきびきびと描画するための「Text V-RAM」を標準搭載するという工夫は、天才的、といいたくなるようなアイデアで、多分、PC9801というコンピュータが当時は「国民機」といわれたほどに普及したのは主にこの工夫に拠っているのではないかという気がします。
「日本語人のためのパーソナルコンピュータ」という思想が、この技術の採用によって強く出ている。

なかを開けて調べてみるとフロッピーディスクドライブのコントローラがマザーボード側にあったりドライブ側にあったり、同じ9801VMでも異なっていたりして、案外とフレキシブルなつくりになっている。
「自社規格」というものの気楽さが伝わってきます。

ソフトウエアは「移植もの」は意外に少なくて、「洋モノ」は、義理叔父の私設博物館にはアシュトンテイトのDBIII、ロータス1-2-3、あとは「Twin Star」という名前が付いていたが、どうやらWordstar
http://en.wikipedia.org/wiki/WordStar
に2バイトコードが通るようにして、VJEという日本語変換ソフトウエアをくっつけただけらしいおもろげな「日英バイリンガル」ソフトウエアがあっただけでした。
ゲームには「三国志シリーズ」や「提督の決断」があって、義理叔父はどうやら「三国志シリーズ」と「提督の決断」に狂って前者で2回、後者で1回、都合3回人生をすりかけたらしい。
Tさんという義理叔父よりもやや若い「トーダイおじさん」は、学年末の試験の直前になると新しいドラクエが売り出されて二年留年したそうなので、どうも聞いていると当時の大学生は艱難辛苦に満ちた学生生活を送っていたもののようである。

9801シリーズ用に日本の人が自分の頭で考えて自分でつくった日本製ソフトは義理叔父の私設ミュージアムに限っても文字通り「山のように」あって、鎌倉ばーちゃんの家にいて、天気が悪いと従兄弟や義理叔父に「これはなんて書いてあるんだ」「日本語めんどくせー」と悪態をつきながら、当時のヘロヘロな日本語を動員してコンピュータを使って遊んだ。

サムシンググッドという会社の「Ninja」という、その名もかっこいいワードプロセッサ+カード型データベースを使ってみると、多分、ソフトウエア全体を(たった640Kバイトしかない)オンメモリに読み込むようになっていて、しかも日本語は「Text V-RAM」でピッピッピッと出て、サイコーじゃんね、これ、とカンドーしたりした。
「画像アイリス」は肝腎の画像が4x3センチ程度しか使えないので椅子からこけて爆笑した。

考えてみると、日本語専用のコンピュータを日本語圏だけのためにつくってしまうということは大変なことで、おおげさにいうと日本の人が見ている「世界」というものは日本語の終わりで海が滝になって流れ落ちていて、リニアに扱える思考は日本語の640K限界でつきてしまっていることがよく判るような気がする。
日本というマイクロ文明は、自然なゼノフォビズムに基づいていて、「ゼノフォビズム」と聞いて慌てて怒り出したひとのために付け加えておくと、この場合はそういう意味ではなくて、日本という文明のアイデンティティには、おそらく、「外国ではないこと」という意識が強くあるのではないかという気がする。
あるいは「日本」という国のアイデンティティは「攘夷する」ことそのものにあったのではないだろーか。

日本語の成り立ちということを考えると、朝鮮族と大和民族がほぼお互いに(イタリア語人とスペイン語人がお互いに母語で話してわかりあえるという意味の程度において)わかりあえたはずの言語から、やがて、強大な中国文明がやってきて、その文章を読むための注釈として書き言葉としては発生したという。

いわば「ト書き」から生まれた数奇な出生を持つ(書き言葉としての)日本語は、しかし、意外にも言語体系としてのおおきな発展をとげて19世紀後半から20世紀においては、ほぼ普遍的な言語として機能することが出来た。
たとえば北村透谷の日本語は、まだ語義として未完成で、前にも述べたが「処女の純潔を論ず」という「処女」は現代の「処女」でなく、「純潔」は現代の「純潔」ではない。
それが猛烈な勢いで造語した夏目漱石を経て、普遍的な内容を語りうる言語に成長して、寺田寅彦、上田保や、あるいは江戸時代との連続性からみるならば岡本綺堂というようなひとびとを経て、普遍語としての体裁を整えてゆく。
西脇順三郎というような人は、意識して「普遍語」をめざしたせいもあって、日本語のピークの、あきらかな始まりを示している。

ではなぜ「普遍語としての日本語」が成り立ちえたかというと、日本の歴史を眺めてゆけば、やはり「中国でない社会」をつくりたかった強い衝動のせいだろう。
こういうと反撥する人がたくさんいるのは知っているが、しかし、日本にやってきて子供のときに耳おぼえにおぼえた日本語を手がかりに、ずっと後になって(本人のつもりでは)完璧を期すべく日本語をベンキョーした人間が、いままで日本語という言語や日本社会を眺めて得た日本のイメジは「中国にのみこまれたくなかった国」で、歴史を通じて富裕を誇る大陸の隣人に対して、せいいっぱい背伸びして、爪先で立って、両手いっぱいに広げた腕で屏風をささえて、つっぱりにつっぱって、なんとか「中国でない文明」を保持したまま、近代にたどりついたのが日本という国だった。

近代以降、「中国」は「イギリス」にかわり、1945年に無惨な敗戦を迎えた戦争のあとは「アメリカ」に変わった。
チョーあぶないことを言うと、しかし、この強烈なゼノフォビアがなければ、日本はいまごろは、もう存在していなかった。
中国の一部になるか、アメリカの一部になるか、文明的には従属の姿勢を示す、アイデンティティが失われた国になっていただろう。

朝鮮民族は地続きでしかも近すぎる中国という隣人に抗すべくもなかった。
「中国でない国」をめざすかわりに彼等がめざしたのは「中国よりも正統的に中国である国」だった。
儒教がそのバロメタで、当時の記録を読めば、いかに朝鮮民族が漢族よりも儒教の教えについて原理主義的であったかわかる。
笑い話だと受け取ってもらうと困るが、孔子が朝鮮の人でないことを訝る文章まで残っている。

ベトナム人に「なんだかんだ言って、ベトナム文化って、中国ぽいよね」というようなことを述べると烈火のごとく怒る。
そのあと、滔滔とベトナム文化と中国文化の「決定的な違い」について2時間ほどもお説教されることになります。
どんどんどんどん怒られながら、しかし、「でも似てるよなー」と考える。
外国人にとっては区別をつけるのが、たいへん難しい。
ベトナム、という民族の「辛さ」の源泉がどこにあるか、思いを馳せることになる。

南の楚人(タイ族のことです)と東の日本人だけが、中国に併呑されない「マイクロ文明」をつくることに成功した。
歴史を見れば中国とは異なるアイデンティティを作り得たことには、よいことがたくさんあったのが歴然としているが、ゼノフォビアと「ひとりごちる」といえばいいのか、日本人のあいだだけで通用する屁理屈を信奉する奇妙な文明的性癖が出来てしまった。
でもそれも、あるいは文明の性格から言って不可避だったのではないか、と思うことがある。

PC9801のText V-RAMから「ピピピ」とたちあがるキャラクタを見ていると、「日本だなあー」というアホな感想をもって、なんだかぼんやりしてしまう。
「日本であること」にこだわるあまり、到頭、自分達専用のコンピュータをでっちあげてしまった世にも不思議な民族のことを思い出す。

そうして、そういう(西洋の理屈では到底ゆるされない)ヘンクツなひとびとの、ひとつひとつの顔を思い出して、「西洋でないもの」が生き延びているということは、やはり、どちらかと言えば良いことなのではないか、と思うことがあるのです。

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