Monthly Archives: April 2014

Living in Obscurity

最近ニュージーランドにばかりいて、大好きなマンハッタンのアパートは放っぽらかしだし、バルセロナのアパートに至っては他人に貸している。 第一の理由はモニさんが小さい人が小さいあいだはニュージーランドが住むのに最も良い国である、あるいは南半球の土地勘をつくっておくことが家族の将来のためにとって重要だという考えをもっているからです。 モニさんは大陸欧州で生まれて、わしはもうちょっと田舎の島国の欧州で生まれた。 モニさんは思春期から結婚するまでの大半をマンハッタンのアッパーイーストサイドで過ごした。 パークアベニューといって、マンハッタンに住んでいる人は知っているとおもうが、わしのアパートがあるチェルシーのようなごみごみした所とは違って、なんだかやんごとない店やなんかがいっぱいある通りに、玄関を入ると目の前に螺旋形をなしたチョーカッコイイ階段がある豪勢なアパートをモニさんはもっている。 いまはニュージーランドのオークランドという町に住んでいる。 人口は140万人くらいで、英語圏の町で140万人くらいというとアジアの町の300万人くらいの町と同じ規模で、だから、名古屋みたいなもんだとおもえばちょうどいいのかもしれません。 最近は600平方メートルどころか、そのまた半分の300平方メートルしかない敷地に家を建ててしまう人もいるが、わしが住んでいるリミュエラという地区は、もともとは一区画が1000-1200平方メートルの家が建ち並んでいる広大な住宅地で、わしの家がある辺りは、二区画や三区画にまたがった家が多い。 特に贅沢なことではなくてテニスコートやプールがある家は、やる気がある人はグーグルサテライトでみてみれば一目瞭然だが、たくさんある。 両方ある家もいくつかあります。 いちばん近いマリーナまでクルマで5分、CBD(と言って、意味がわからない、とこのあいだ言われたので意味を書くと「都心」という意味です)まで10分、CBDのクイーンストリートに次いでおおきな繁華街であるニューマーケットまで5分、というような立地で、そう書くと得心がいく人もいると思うが、ニュージーランドの町は、ついこのあいだまでのオーストラリアの大都市と同じで、一戸建ての、木に囲まれた、広い芝生の広がる、朝はブッシュに集まる鳥が最大の騒音源である家から、クルマに乗ってほんのちょっと行くと繁華街に着くのが特徴であると思う。 繁華街と静まりかえった住宅地が常に隣り合っている。 生活のスタイルもそれにあわせて、一日に2,3回はクルマででかける。 この家からだと、オラケイビーチ、ミッションベイ、コヒマラマ、セントヘリオスというような浜辺が何れもクルマで数分の所にあって、たとえばセントヘリオスならば、モニとふたりでベトナム人夫婦がやっている滅茶苦茶おいしいサンドイッチをつくるベーカリーに行って、サンドイッチとラテを買って、海が見渡せる、浜辺に並んでいるベンチのひとつに腰掛けて食べる。 ミッションベイは海辺の繁華街で、むかしからある映画館があるような下町なので、イタリア料理やメキシコ料理、インド料理、タイ料理、軒をならべていて、普段は人が多いからいかないが、たとえば道路封鎖で遠くからの人が来られなくなる自転車レースがある日の午後などには、歩いてでかけて、イギリス式の噴水がある広い芝の公園のピクニックテーブルに腰掛けて、やっぱり近くのレストランでつくってもらったお弁当を食べる。 リミュエラのまんなかを走っているリミュエラロードの反対側には、こちらは、新興のショッピング街ができていて、というか出来つつあって、ニュージーランドでは新顔のCarl’s Jr.のような店は、こっちがわにあります。 スーパーマーケットも、旧市街より大規模で、駐車場も広いので、家事を手伝ってくれているひとびとなどは、こっちがわに来て買い物をするのを好むようだ。 オークランドは住みやすい町で、公共交通手段のインフラストラクチャが貧弱なのが欠点だが、高速道路と、今月になってやっとディーゼルから電車に変わった鉄道、リミュエラなら五分に一台くらいの間隔でやってくるバスで、なんとか140万人の人口の毎日の移動をまかなっている。 良いのはエスニックフードがおいしいことで、わしは中華料理が嫌いだったのが、オークランドに住んでから好きになった。 チャイニーズといえばあぶらじみてMSGがはいった下卑た味の食べ物だと思っていたのが、エプソンの富裕な中国人たちが住む地区の中国料理屋に行くと、軽い、東京でいえば赤坂離宮銀座のような味付けの料理がふつうに並んでいる。 メルボルンのヤラ川ぞいにも一軒あるが、ほんとうはもともと中華料理の味というのは、そういう品の良いもののよーです。 インド料理もレバノン料理も、イスラエル料理、エチオピア料理もおいしい店がある。 どの店もたとえばエチオピア料理をつくっているのはエチオピア人で、地元の移民相手の商売なので味を欧州人の味覚にあわせるということもなくて、おいしいと思う。 知らない人、たとえば料理屋のウエイトレスやウエイターと駄弁って遊ぶのは好きだが、知ってる人間とはあんまり会って話したくない、という奇妙な習慣がわしにはある。 アメリカ式の社会では名前が売れれば売れるほどオカネモーケの機会が増えて、たとえばウォーレン・バフェットじーちゃんのような人でも、いまのような集金力を発揮するようになったのはワシントンポストのKatharine Grahamに出会って、社交界とメディアに名前が広く知られるようになったからだった。 ソニーが企画してあっさりダメになった「携帯型音楽プレーヤー+音楽配信」のビジネスモデルをスティーブ・ジョブズのほうは実現してしまったのは、毎日パーティを開いて、ミュージシャンたちに、「レコード会社のマーケティング音楽なんかくだらないから、みんなで音楽の世界に革命を起こそう」と呼びかけたからである。 ミュージシャンたちのなかの力のあるひとびとは、早速、レコード会社を脅しにかかって、iTunesがやれないのなら所属会社を変える、と言い出した。 おそれをなしたレコード会社は、しぶしぶミュージシャンたちの言うことを聞くことにした。 iTunes+iPodを現実にしたのはスティーブ・ジョブズの「名前」の神通力だった。 マッキントッシュプラスのユーザ第一号は誕生日に箱を抱えてやってきたスティーブ・ジョブズから直截手渡しで発売日の一日前にプレゼントされたジョン・レノンの息子ショーン・レノンだが、日本で言えば京都大学人の駸々堂みたい(←冗談)というか、アメリカには有名人コミュニティがあって、有名人同士の親密な付き合いがある。 そういう有名人コミュニティを背景にした有名人パワーで出来たのがiTunesで、スティーブ・ジョブズが自分でも認めていたとおり、iTunes+iPodは、もともとは日本人のアイデアです。 もっとも、当時から「音楽文化キラー」JASRACのお代官さまぶりは海外でまで有名だったのと、ソニー自体がソニーエンタテインメントという利益が相反する会社を抱えていたのとで、まじめに「携帯型音楽プレーヤー+音楽配信」ビジネスモデルを日本人が実現しうると考えたひとはいなかったようだが。 世界はどんどんアメリカ風になって、オープンの吹きさらしになってゆくが、モニが「ガメは旧世代人だな」と笑うとおり、わし自身は「表にでる」ということが嫌いで、折角機会をつくってくれるひとがあっても断ってきた。 そういう態度を快く思わない人はおおくて、某有名経済雑誌の記者などは、驚くべきことに、「インタビューを断るなんて生意気な。若くて成功したからといっていい気になると、この先よいことはないぞ」と述べた。 あとで「お詫び」を述べていたが、それはおそらく他人に言われたからで、初めの態度のわるいセリフのほうが「本音」でしょう。 日本語で(ほとんど誰も読まない)このブログ記事を書く理由の最大のものは、「誰にも読めない」からであると思う。 自分のまわりで見渡して、このブログを読める人は知っている人のなかでは義理叔父と従兄弟だけで、かーちゃんシスターもやってみれば読めるとおもうが、なにしろ最後に読んだ日本語の本が日本通のフランス人友達にすすめられた「佐賀のがばいばあちゃん」で、5年くらい前だそうなので、変人の甥っ子がもの好きで書いているブログを読んでみようと思うとは考えられない。 日本語では何を書いても誰の目にも触れないし誰にも聞こえない、というのが最大の理由なのであると思う。 … Continue reading

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向こう岸からこちらを見つめる目について

たとえば大型犬より少しおおきい程度の馬格のちいさな馬に乗って、トコトコ走りながら蒙古騎兵たちは、その「敵から駈け去りながら後ろを振り返って弓射する」という当時としては驚天動地の戦争技術の革新によって朝鮮半島からポーランドまでを席巻した。 チビ馬に乗ってトコトコトコと走り回る姿はかわゆいが、実際に戦争をしてみると、かわゆいどころではなくて、だいたい15万頭程度の馬をつれていたというから一軍団が3万人程度ではないだろうか、トコトコ騎兵たちは追いすがる欧州騎士達を体をかわして逃げ去りながら容赦なく射殺し、相手が怯むと自分たちも止まって矢を射かけ、退却をはじめると同じ間合いを保ったまま追いかけてきて、最後には人間の顔に切りつけるための訓練で有名な馬上の剣術の腕を発揮して、皆殺しにした。 捕虜になることを乞うて集団投降してきた敵兵たちは、いちいちクビをはねるのがめんどくさいので、宴会用の床をもちだしてきて、その下に簀巻きにして並べ、みんなで酒を飲んで酔っぱらって踊りながら踏み殺した。 鐙(あぶみ)が無かったから、というひともいるが、それよりなにより「騎乗する者は選ばれた高貴な身分の者である」というアホな社会通念が祟って、ロシア人などは手もなく女はなぐさみものにされるために連れ去られ、男は全部ぶち殺されて、ロシア人の有名な祖国戦争でだけみせるバーサークな勇猛さを発揮してみたりしたが、それでも全然ダメで、戦争をやるたびに、まとめてぶち殺されてばかりいた。 鄭和の艦隊は東アフリカだけではなくて西アフリカにも達していたという。 それがなぜ東アフリカどまりの記録になっているかというと、「地理的にどこまで到達したか」に敏感な、明を制圧した異民族王朝である清が、アフリカ西岸まで漢民族が達したことを認めるのは不愉快なので、地図を眺めると、そのくらいで十分カッコイイ偉業である東アフリカで引き返してきたことにした。 この説をなす人は鄭和が宦官でなければ遠征艦隊の存在そのものを清王朝は歴史から抹殺しただろうと説明する。 歴史を書き換えるのが暗黙の勝者の権利のひとつだった中国の歴史を考えれば、西洋人が考えるよりも自然な説である。 つむじまがりのドイツ人潜水艦長がなした説はほんとうとは思えないが、いまでもニュージーランドの西海岸から、存在したはずはないカピバラの骨がでてくるのはほんとうで、カピバラはアマゾン川流域にしか生息圏をもったことがなかったので、カピバラを食糧として船に積み込んだ誰かが南アメリカの東南岸から出航して飲料水が豊富なニュージーランドに寄港して、アラビアとインドを周航し東アジアに戻っていくということを(多分)定期的に繰り返していたのは明かである。 外洋に出るボート乗りなら皆しっているが、タスマン海はともかく、オーストラリアの西側の海は有名な荒い海で、しかも航路から陸地が世界で最も遠い。 マレーシア航空機が行方不明になったときに、機長が自殺をはかったのではないか、という説をまっさきになすのが英連邦海軍の人間に多かったのは、飛行機が墜落したあたりの海が、どんな海かよく知っているからである。 しかし、ここに不思議なことがあって、5000メートルというような水深の場所が多いこの辺りでも遭難船の骸がみつかることはあって、音響のぼんやりした像とは言っても、船籍が不明なものは形がどうも明船なのである。 中国人たちと話していると、ふつうの教育のある中国人たちにとっては「宋」が理想の時代であることに気づくが、この時代は、どういう具合によるのか、中国人の創造性・生産性が圧倒的に高まった時代で、科学上の発明も多いが、コンパスも宋人が発明したものである。 一方では造船技術と天文学も飛躍的に向上した時代なので、中国人たちのうち向こう見ずな人間が遠洋航海に出なかったと考えるのは難しい。 なにしろ、天測と羅針盤による航海技術はGPSというブレークスルーが出来るまでは、千年一日の遠洋航海原理だったのである。 中国人はむかしから人種差別主義者ぞろいなので、あちこちの大陸や半島、島嶼に寄っては、「なんだかヘンなやつしかいねえなー」と思いながら、太平洋をうろうろしていたのだと思われる。 「海禁」の思想は中国人が海の向こうにある多様さと豊穣におそれをなした結果にしかすぎない。 とてもではないが自分のコントロール能力を超える、と考えたのでしょう。 中国人は、中国文明の悪口を言う人は「歴史を通じてコントロールフリークだ」というのが通例になっている。 TCP/IPは世界そのものの意味を変えてしまった。 たった50万人しかいない民族にながいあいだ全ユーラシア大陸に及ぶ苛政を許した「後ろ向き騎射」技術や明人からヨーロッパ人にうけつがれた大航海時代を現実のものにしたコンパスなどは、TCP/IPに較べれば些細な技術であるにすぎない。 まだインターネットの時代ははじまったばかりなので、うまく見えてこないところが多いが、たとえばそれがデータにしろ人間そのものしろ「おおきな数の動的集団が次の瞬間にどこにあるか」を直截数学によって予測できるようになったのは、あるいは、そういう「範囲の評価」が重要になったのはインターネットがもたらしつつある認識哲学そのものの変化の初めの徴候である。 世界で使われる言語が、ぶっくらこいちまうスピードで英語になりつつあり、しかも、(こちらの変化のほうが重要だが)英語に集約されつつあることもインターネットが現実そのものを変質させつつあることと密接な関係がある。 いま一般に考えられているインターネットのイメージは「便利な情報交換技術の道具」だろうが、現実にはインターネットは現実社会よりも上位の実効性を持つ「世界」であって、パラダイムシフトという言葉があるが、シフトどころかパラダイムの創造にぼくは立ち会っている。 人間は遠からず、いま「仮想社会」と呼ばれるものの側の都合に立って現実社会のほうを変更することを迫られるようになるだろう。 あまり手を広げて説明するとわかりにくくなるだけなので個人の立場に即して述べると、これから20年後に生まれてくる子供に集積回路のチップの埋め込みが義務づけられていないとは考えるのが難しい。 クルマは運転という文化と移動の便宜の混淆から、インターネット世界の生産性と個人の脳髄を繋げる移動体装置になってゆくと思われる。 すべての個々人が、ちょうどいまデスクの前に座ってスクリーンをのぞきこんでいるように、仮想社会の側から現実をのぞきこむ思考スタイルに馴染んでゆくだろう。 著作権のような概念は、もともと単に便宜的で古いビジネスモデルにすぎないという事情もあって、まっさきになくなる概念に違いない。 インターネットが世界を変質させてゆくにつれて、個人にとっての最もおおきな変化は、すべての静的な認識の仕方(たとえば平たい例で言えば、あの店にいけばカウンタの向こうにはあのひとがいてコーヒーをつくってくれるだろう、というようなことを含む)が、動的な認識(ふたたび平たい例:不動産価値が収益性の算出によって株価と同じスピードで変わる)に取って代わられるに違いない。 プライバシーのようなものが50年後にも概念として生き残っているとは考えにくい。 50年も待たなくても、いま日本語インターネットでよく述べられている「匿名か本名か」というような議論は議論自体が無意味になるのは、相当のんびりした頭のひとでも想像がつくと思う。 あるいはプライバシーという概念そのものの消滅ということを、ぼくは疑ったことはない。 プライバシーの意義を認めないUNIXの伝統ということを離れても、インターネットがこれからの世界ではたすべき生産性変革の役割を考えると、(インターネットの側からみて)プライバシーのような陳腐な概念には生き延びる余地は無い。 もうひとつ日本の人が関心があるかもしれない「日本語の運命」というようなことに関しては、1920年代から1990年代くらいまでには可能性を感じさせた(地方的な)普遍語としての機能を日本語が保つことにはもう望みがなくなっていることはアカデミックのみならず、ビジネスのひとびとも知っている。 炬燵に足をいれての、親密な地方語として生き残れるかどうか半々ではないだろうか、と考えるが、インドの諸州を別々に観察することが有益なこの話題は、また違う記事で考えたい。 日本語を意識的に読めるひとにとっては、明瞭だが、ぼくが自分がブログ記事を書くために選択した日本語は1960年代に生まれた世代の日本語と明治時代の混淆である。 まともな日本語を書くことを意識して書く日本語は、平安の日記文学のリズムをコピペして採用していることは、日本の古典を読んだことがあるひとなら、いっぺんで判るものであるらしい。 なぜそんなことをするかというと、現代日本語には「言えないこと」が多すぎるからで、そういう面から言うと日本語はすでに言語として死語化していると言えなくもない。 人間の世界全体が、この先50年間で生産性を少なくとも3倍にして、しかもいまの資源の使い方ならば地球が5個必要なことはいまの世界のほとんど誰でもが知っていることであると思う。 … Continue reading

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葉巻と白足袋

吉田茂は「日本は戦争で負けて講和で勝った」と述べた。 日本という国の運の良さは日本では珍しいほどの外交感覚をもった政治家がまったくの偶然から日本に「外交手腕」が最も必要なときに首相になったことで、吉田首相は鳩山一郎が公職追放にあわなければ、しかもその上に三木武吉という戦前策士型の政治家が生き残っていなければ生まれなかった。 たとえば吉田茂は佐藤栄作や池田勇人たちに「外交は見えない所ですすんで、見えないところで決まる。見えているものは、すでに外交ではない」と繰り返し述べているが、言葉にすれば外交官が若いときに叩き込まれる教科書的な常識に過ぎないが、吉田茂のチャイナスクールとしてのキャリアとその時期を考えると言葉に意外な重みがある。 吉田茂は講和を結びアメリカによる日本の占領を終わらせることをもって自分の政治目標とした。現実の政治人生においては講和のあとも長く首相をつとめたが、娘・和子が証言しているとおり、権力についた嫌人癖のあるひとの通例で「自分以外に首相の適任者はみあたらない」と思い込んで目的もなく権力にしがみついていたにすぎない。 アメリカの日本占領は当初「日本と日本文化の徹底的な破壊」を明瞭に目的にしていた。 史上、最も好戦的な民族として知られる日本民族の腕の腱を切って、弓をひけなくしたうえに、脳の前頭葉を切除して、ロボトミーを施すのがアメリカの占領目的だった。 具体的には「軽工業を限度とした産業をもつ中進国」にすることを目標とした。 合衆国大統領になるのが当然の宿命だと思い込んでいた一個の老将軍であるダグラス・マッカーサーが日本での「王」に任命されたことが日本のふたつめの幸運だった。 ダグラス・マッカーサーは自分が単なる「成功した解放自由軍の将軍」ではなく、有能な「統治者」であることを未来の投票者たるアメリカ国民に対してみせねばならなかった。 そして、当時の日本の狡知な政治家たちにとっては、それこそが付け目だった。 吉田茂個人の「軍人嫌い」には疑問の余地がない。 戦争中の軍人のバカさ加減への記憶もあるが、どちらかというと、もっと生理的なものであったようです。 日本占領軍GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビーが提案した警察予備隊幹部の名簿にノモンハンにおける対ロシア挑発戦争の企画者で、アジア各地での現地市民虐殺の立役者である辻政信の後援者でもあった服部卓四郎の名前を発見したときの激怒ぶりと強硬な反対は有名で、戦前戦中に日本を破滅に導き、戦後はアメリカ軍に取り入る人間が多かった旧日本陸海軍の将校に対する嫌悪はもちろんだが、注意すべきなのは、息子の健一以外には口吻ももらさなかったものの、アメリカ軍人たちも、(考えてみれば当たり前だが)心から軽蔑していた。 現実感覚にすぐれた外交官で、しかも観念や理想がつけいる余地のないチャイナ・スクールで鍛えた吉田茂が選択した日本の戦後の方途は、軍隊も交戦権も破棄して、日本国内の戦争讃美勢力の抑圧と共産主義の社会への浸透阻止を題目に、両者へのアメリカ人の恐怖心を煽り立てて、大軍のアメリカ軍を日本に駐留させ、この外国人たちの軍隊を利用して日本を防衛するという構想だった。 国務次官からあとでは国務長官にすすんだディーン・アチソンの日本占領プランと似ているが、決定的に異なるのはアチソンのプランは、そのまま日本に独立を許さないことを意味していた点で、アメリカからみれば、吉田茂の「独立は寄越せ、国防軍の軍隊はおまえがやれ」というプランは誰が考えても虫がよすぎるものだったが、吉田茂は、「日本はボロ負けに負けたので軍隊をもとうと思ってもカネがない。軍隊創設にどうしても必要な最低限という20億ドルというカネを出してくれるというなら考えてもいい」と、倒産した会社の社長が債権者の銀行に対して居直るのと寸分変わらない論法で、アメリカにとっては一方的な損にしかならない日本防衛プランを、当時のアメリカ国内の共産主義恐怖症につけこんでのませてしまった。 なぜアメリカが「日本を助ける義務はあるがアメリカの権益が危険にさらされているときでも日本にはアメリカを助ける義務はない」という、マヌケとしか言いようがないような片務軍事同盟を結ぶにいたったかをベンキョーしようと考えて、日本の戦後史を眺めていると、日本の政治家の狡知、縦横な知恵、相手の足ばかり狙って執拗に攻撃をかけるなぎなた武道家じみた徹底的な下品さに舌をまく。 狡いことや「下品」なことは外交においては、無論、ほめ言葉で、この狐のような賢さの政治家を大量に持った国が、ほんとうに、「連盟よ、さらば」「わが代表堂々と退場す」の、英雄美に満ちて、悲壮で、カッコイイ、言い換えれば筆舌につくしがたいほど無責任で愚かな外交を行って、石器時代の状態にまで自分達の国の都市をもどしてしまった同じ国の政治家だろうか、と頬をつねってみたい気に駆られる。 日本は戦争に負けて一文無しであることを切り札に厳しい国際政治の荒波を乗り切って、共産主義が国内に蔓延しそうだ、とことあるごとにアメリカを脅してはアメリカから巨額のカネを引きだして、公然と、あるいは内緒で、国家社会主義経済的な「傾斜生産方式」予算にまわして国を発展させていった。 アメリカが勝者の好い加減さで、日本を甘く見て、自分がただオカネをしぼりとられるだけのマヌケな「カネモチの叔母」の立場に立っていることに気づいたときには、もう遅かった。 吉田茂が述べたように外交は見えない所で歴史を決定するものであり、「外交努力」がおぼろげに各国の「識者」に見えてくる頃には、もうとっくのむかしに勝負はついているが、ヒラリー・クリントンの奇妙な提案のように、政治の中心から遠く離れたところでは、あれ?と思うような徴候を他人の目に垣間みせることがある。 あの奇妙な提案から始まって、いまでは次第に顕在化してきたことは「アメリカが太平洋の権益をかけらでも手放すことはない」という日本人の安心の種を裏切って、アメリカが、太平洋は、もうどうしようもないときには1941年の線にまで戻ってもいいや、と思っていることで、大西洋と太平洋とではどちらが大事か、というアメリカの外交の原本に書かれた事態に戻りつつある。 そういう言い方がアメリカ人にとって受けいれがたければ「固守防衛思想」から「機動防衛思想」に転換を決めたのだ、と言い直してもよいが、いずれ言葉の遊びで、実質は中国の成長の早さに、勢力圏を縮めて、その代わりお互いをよく知っていてわかりあえるもの同士だけで、たとえていえばペルシャに対する古代ギリシャ世界のように、テルモピレーやサラミスで一緒に戦ったことを思い出して、もういちど肩を並べて戦おうと考え出した、ということにすぎない。 まして中東がいまのようになると、小は実用性が危ぶまれたオスプレイを無理矢理採用し、大は共和党のなかですら日本との同盟見直しを討議することがタブーではなくなった「新しいアメリカ外交」の機運は正当化される。 吉田茂は、軍隊をもたないで独立を達成して、日本にばかり虫が良い状態で過ごせる期間を5、6年と踏んでいたが、朝鮮戦争にはじまるその後の展開は、日本に、あらゆる人の想像を越えた70年近くという長さにわたって平和と繁栄という恩恵をもたらした。 なんだか現実とは思われない不思議な歴史で、話として聞かされれば「そんなことが可能ならば、おれもその国の首相をやりたい」とどこかの国の首相に言われそうなほどの幸運だが、その「幸運」は棚からぼた餅として落ちてきたものではなくて、母親の顔を知らない孤児であって、皮肉なことに軍人がなによりも嫌いであったのに軍隊を名乗らない軍隊の創設者として歴史に名前を残した、一生になんども絶体絶命の場所から抜けだしては蘇った、ひとりの老人の、「見えない場所での努力」がもぎとったものであることを、ここに書いておくのも、歴史というものの上での人間の役回りの不思議さを考えるうえでは、まったくのムダではないと考えて書いておくことにします。 (画像はサンチャゴ・デ・コンポステーラの裏町。オトナたちはビールを飲んでタバコを喫い、子供はオトナにおかまいなく、きゃあきゃあ叫びながら犬と戯れるのがスペイン流であるw これは昼食時の光景だが、夜中の12時でも同じことをやってるのね)

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自由の敵としての民主主義_1

ニュージーランドの道路事情は大陸ヨーロッパに似てきた、と思うことがある。 高速道路で車線を変更するときに方向指示器を点滅させないのはあたりまえで、ラウンドアバウトでも方向指示器を使わないので、どこで曲がるつもりなのか判らないのは、(ラウンドアバウトについては妙にマジメな)フランス人よりもひどくて、この頃ではついにイタリアなみというか、信号が青だからと考えて油断してまわりをみないで交差点をわたると、びゅんっ、と赤信号で右折するクルマがある。 路脇に駐車しているクルマのドアがいきなり、どおおーんと開く、などというのは日常茶飯事で、いつか信号で停車していて追突されたクルマのバンパーを直しにいった保険会社指定のガレージで、のんびり世間話をしていて、「しかし、よくあれでドアをふきとばされないもんだ」と述べたら、おっちゃんが仕事の手を休めてにやっと笑うと、「ここにドアをふっとばされてやってくるクルマの数を知ったら、ガレージ商売はうらやましい、と思うかもよ」という。 ふきとばされるだけならば良いが、深刻なのは、ガソリンが高いのと健康ブームとで自転車通勤が増えたので、突然ひらいたドアに激突して死ぬひとが増えた。 夏のコモ湖の大渋滞にうんざりしながら、イタリアのドライバーは、なんでこんなに態度がわるいんだろう、と述べたら、ロシア人の友人たちが、後ろを振り向いて、ガメ、モスクワはこんなもんじゃないぞ、モスクワでは「渋滞」というのは反対車線に出て行ったクルマが行列して動かなくなることを言うのさ」というので、ぶっくらこいてしまったことがあった。 ニュージーランドは片側8車線というような雄大な道路がつくれないビンボ国の工夫として、中央分離帯のコンクリートブロックを専用の重機で、ちょうどジッパーをしめるように動かすという特技をもつ。 モスクワでは、そんなものがなくても、朝の通勤時には片側4車線の道路が市民の自発的意志によって8車線の一方通行道路になるもののよーである。 日本の人や韓国の人は、ニュージーランドに移民してくると、国民のわがままさに閉口する。 ニュージーランド社会に溶け込まないうちは「お客様」扱いなので、気が付かないようだが、ニュージーランド人になってしまうと、社会の現実の姿がみえてきて、化粧の下の素顔というか、ニュージーランド人のチョーわがままぶりに辟易して日本に帰りたい、と願うもののよーです。 しかし、以前にも述べたように、わがままと自由は本質的に同じものなので、その辟易狼狽は、要するに、「自由はもう嫌だから自由のない秩序正しい世界にもどりたい」ことだと翻訳できる。 前に個々人の自由をさして必要としない国民が生来のマジメさを発揮して黙々と政治制度としての「民主主義」を運営する奇妙な姿について述べたことがあった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/02/12/芸達者/ 日本にいるあいだじゅう、印象的だったことは、道路にゴミが落ちておらず、どの街角も清潔で、お互いに目があうたびに謝ってばかりいる日本のひとに、そもそも「民主主義」などいらないのではないだろうか、ということだった。 TPPの話のときだと思うが、会議でみなでとことん話しあって全員が賛成するまで話をするのは民主主義ではなくて全体主義のやりかただと述べたら、チョーものすごい反撥にあったことがある。 あ、やっぱり、と思ったのは内緒で、知らん顔をして、ええええー、なんで?と聞いたら、 「あなたは知らないだろうが民主主義というものは、そういうものなんです」という、がっかりなお答えばかりが返ってきて、なんだ、教科書で読んだだけか、けっ、と思ったものだった。 12人の人間がいて、7人がある方針に賛成するか、もっときわどい場合には、7人が信任したひとりの人間に全権を一定期間わたすのが民主主義的な手続きで、なぜそんな危なっかしくて、納得できない人間が多数にのぼるような制度を採用するかというと、つまるところ「人間はわがままだから」である。 オダキンどんとオダキンが目下狂いちゅうの「艦これ」について話しているときに述べたが、イギリスはナチの信奉者が多い国だった。 信奉していなくても、ドイツ人はイギリス人は兄弟だって言ってるんだから、ま、事をあらだてなくてもいいじゃない、という人間が労働者階級から商店主のような「中の下」くらいまでには多かった。 ヒトラーは経済復興させてえらいじゃん、ヘンなやつだけど、という程度の意見が主流だった。 当時はゲーリングにパーティに招かれたりして、頭に血が上って、すっかり公然たるナチ支持者になっていた「翼よ、あれが、おパリの灯だ」のチャールス・リンドバーグがイギリスで講演をぶって歩いた年には、下層階級は熱狂してナチを支持する始末だった。 ヒトラーは、ウインストン・チャーチルの、良く言ってカスター将軍時代の騎兵隊将校なみだった人種意識を熟知していたので、イギリスが「ユダヤ人をみなぶち殺してしまいましょう」「有色人種なんてストーブにくべて燃やしちまうべ」のナチを拒絶すると考えた事はなかった。 実際、チャーチルがチョー有名な「イギリスは浜辺でも、丘でも、至る所で戦って決して降伏することはないだろう」という演説をぶったあとのヒトラーの反応は、PTSDというか、それがおおげさならば、失恋した十代の高校生みたいな反応である。 イギリス人は冗談で「ヒトラーはウインストンが下層階級人へ、どのくらい差別意識をもっていたか知らないんだな」と述べあって、くっくっくっ、と笑い合ったが、お上品ブログをもってなるガメ・オベールブログとしては、話題として下品なので、これ以上は述べない。 イギリスは現実の「バトルオブブリテン」開戦を決意しなければ、あのときに滅びたに違いないが、これほどの重大な決断をくだすのに英国議会は選挙をやりなおして「民意を問い直し」たりはしなかった。 僅差で負けるに決まっている国土防衛戦を決めて、ルフトヴァッフェという巨大なゴリアテに、軍備予算をけちったせいで、植民地軍に紫電改で植毛したていどの空軍で立ち向かうことに決めたのだった。 もちろんマジメに空を覆うドイツ軍に勝てると考えた人間などいなかった。 民主主義に「精神」などはない。 あってはならないので、民主主義は精神のようなものとは無関係に厳格な手続きでなくてはならない。 最近はニュージーランドのようにMMPを導入したりして「民主主義の精神」を取り戻す運動に熱心だが、MMPは、よく知られているとおり、第三党がキングメーカーになって、民主主義を麻痺させることに役立っただけだった。 300人の議会で、151人の賛成を得た開戦方針は「国全体の方針」であり、あるいは100人が棄権した議会で、101人が賛成をすれば、それもまた国全体の方針である。 民主主義では、前提がそうだから選挙を棄権することも積極的な政治行動とみなされる。 選挙の棄権も投票行動なのである。 日本の社会を眺めていると、そうまでして民主主義を行う必要はない社会に見えた。 個々人の「わがまま」さという個人のがわから社会に対して崩壊を求めてはたらく圧力がなくて、消費税が3%あがっても、その影響でインフレが2.5%になったと喜び、フクシマで原発が爆発すれば、「ここで逃げるとたいへんなことになるから、みなで自重して動かずに家にこもって放射能について正しく考えられるように一生懸命勉強してから心配しよう」と言い合って、けなげにも、日がな一日、頭から放射性物質をどばどばと、ぶちかけられながら、本を開いて、えええーとセシウム134の半減期が30年で、ストロンチウムは測定してないから後で心配するとして、すぐに健康に影響はないから大騒ぎすることはないんだな、ふむふむ、とベンキョーに勤しむ。 これがニュージーランドなら、とっくのむかしに国は空(から)になって、国民は全員オーストラリア人に化けている。 放射性物質のような、自分のキャリアと関係のないことをいばりんぼうの科学者の自己満足を満たしてやるために勉強するような奇特な人間がいるとは思えないが、いたとしても、誰がどう考えても安全なところにいきなり逃げて、本を開くのはそれから、ということになるだろう。 現に福島県で原発の爆発を知ったオーストラリア人は、知った瞬間に職場を出て自転車に乗って南下しはじめて、途中でなぜかからっぽの美術館で眠ったあと、成田まで自転車をこいで逃げて、その足で飛行機に乗ってシドニーまで逃げた。 いまはまた日本にもどっているらしいが、それはそれで、いろいろ考えてみて、西日本なら大丈夫と思ったからであるらしい。 日本の近代は国ごと軍隊じみた社会を作って、民主主義など不要な国民を製造しておきながら、見栄えの良いファサードとして民主主義を正面にとりつけたが、アメリカにその家を焼かれてからは、アメリカがつくって置いていった民主主義の洋式の家に畳を敷いて、傍目にはなんだか居心地がわるそうな生活を送っている。 … Continue reading

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夜に歌えば

Emiliana TorriniやTina Dicoのようなひとびとの歌を聴いていると、「音楽をつくる」ということから一種のものものしさが消えて、「ふつうのこと」になっているのが実感されて、やはりそれは良いことだろうと思う。 Rihannaのチームはマーケティングにすぐれていて、Rihanna自身が尋常でない「商品としての輝き」を持っている。 商業主義にすぎないとdismissってしまうひともいるが、才能のある人間が自己を商品として投企したときにみせる一瞬の輝きは、あのとき「肉体よりも短命な魂」という言葉でいいたかったのは、人間としての純粋さというよりも人間であることをあきらめてしまえる人間の純粋さのことだった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/10/01/「純粋さ」について/ もともと「クリエイティブな人間」が好きではない。 この世界に自分が生み出した新しい価値をつけくわえる、などというのはその人の一生にとっても世界のがわからも余計なことであるようにおもえる。 退屈な人間、無難と判断された、他人と同じことしか言わない人間、他人をくさしたり嫉妬したり、嫌悪することしかできない人間は論外だが、創造的な人間というようなものにも、なるべく顔をあわせないで生きていかれればそれに越したことはない、といつも考えていた。 エマヌエル・スウェーデンボルグによれば、この世界は神の世界のコピペで出来ていて、しかも神の地獄と天国の止揚を理解できなかった人間たちは、パチモンの天国のようなやすっぽい平穏をつくってしまったので、もともとは地獄で永遠に議論を繰り返したかった種類の人間たちを怒らせてしまった。 たとえば西洋語圏の人間の本音はふたつで、ひとつは「ぼくは自分でない人間は嫌いなんだよ」で、もうひとつは「ぼくは自分に入会資格があるようなクラブの会員にはなりたくないのさ」だと思うが、その両方のケーキを手にもってかぶりつくわけにはいかないので、苦し紛れに「クリエイティブがよい」と言い出す。 コピペになりきるだけの能力がないので創造者になりたいというのは、おわらいだが、人間はそういう理不尽で頭のわるい夢を見られる程度には健全な白痴なのである。 砂漠のなかの一本道の脇にクルマを駐めて、すぐそばに見える砂丘をこえてみると、向こう側には赤い岩と赤い砂と赤い夕陽のほかにはなにもない。 まるでオブンのなかに立っているような夏の乾いた空気でかさかさになった皮膚が、あっというまに赤くなってゆく。 荒涼と豊穣はとても似ている。 月の荒涼たるひからびた岩の広がりに「豊穣の海」と名付けたひとは、そのことの皮肉に気づいていたに違いない。 トルクメニスタンを出て、イランへ向かい、インドに向かった人類の祖先は圧倒的な豊穣に似た虚無の荒野を歩きながら絵を描かずに音楽をつくった。 絵は過去の認識への現在の自分の形式の表明だが、音楽は認識がかなわないことからの自己の魂の解放でありうる。 その点ではもともと音楽はとても詩に似ている。 人間がチャンツに意味を持たせて、「歌う」ことにすぐになじんだことには必然性以上のものがある。 だからクリエイティビティなどは、どうでもよいことで、人間は魂が自分で剥がれておちてしまわないために歌うのである。 現代の人間にとっては、どちらかといえば歌ったり踊ったりすることは呼吸したり歩いたりすることに似ている。 日本の政府が夜12時以降に踊ることを禁じたのは、日本人たるもの日本という生産性の部品であって人間ではないのだから夜12時すぎというような労働に向かない時間には出来れば呼吸もとめて棺桶の置き場にもどって労働が再開される次の日の朝までおとなしく寝てろ、という日本人らしい親切心なのだろう。 あるいは頼まれもしない自分たち役人の役をやりたがる国民の頭の悪さにうんざりした若い役人が忙しいだけで退屈な仕事に飽きて試みた国民への謎かけに似た皮肉か。 ガールフレンドと別れて、青空が粉々になって落ちてきてしまったような、茫然とした気持でひと夏をすごしたコスタブラバのホテルで、テラスに出て、ベタ凪ぎに凪いだ海をみていたら、どの通りにも南米の国の名前がついているホテル裏の別荘地から、どういうことなのか、絹のようになめらかであるのに張り詰めて強い、素晴らしい声で、トスカの「Vissi d’arte」が聞こえてきたことがあった。 誰かがステレオを聴いているわけではなくて、肉声で歌っているのです。 Vissi d’arte, vissi d’amore non feci mai male as anima viva! で、歌詞が歌詞なので、マンガじみて、チョーかっこわるかったが、両手で顔をおおって泣いてしまった。 その夜、暗いテラスの椅子に座って、一年ぶりに天使の絵を描いたのをおぼえている。書き上げたエメラルドを散りばめたティアラをつけて麻のドレスを着た天使の絵を眺めながら、「なんだ、また絵が描けるようになったのか」と、まるで他人の描いた絵をみるような気持で考えた。 … Continue reading

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日本という思い出のために

福島第一発電所の事故が起きる前は、一年のうち3ヶ月くらい日本にいてもいいなー、と思っていた。 付き合いの長い友達はおぼえているに違いないが、東北大震災が起きるちょうど一年前くらいに、ぼくは日本の家を引き払おうと決めた。 理由は「退屈だったから」で、日本が退屈な国であるというよりも、自分がやりたいことが日本では出来ないから、と自分では思っていた。 いま考えてみると、もしかしたらすべりひゆ(←イタリアに20年くらい住んでいる日本人の友達です)が述べていたように、自分で認めないだけでホームシックだったのかもしれない。 もう最後のほうは、どうにもこうにも日本にいるのが嫌で、十全計画に従って立てた5年間11回の遠征プランに従って、なんだか意地みたいになって日本にいたが、いま考えてみると、すべりひゆが言うように、また日本に行けばいいだけのことで、さっさと連合王国なりニュージーランドなり、自分がほっとできる英語国に帰ってしまえばよかったのであると思う。 日本はふらふら歩きに良い国で、たとえばモニとぼくはよく銀座へでかけて「デパ地下」をうろうろした。日本という国は、ドアの開き方、指を立てる代わりに折る数の数え方、こっちに来いという手振りがさよならの身振りだったりでいちいち西洋と逆で面白い国だが、試食できるものと出来ないものまで逆で、ワインやチーズは全然ダメか、冗談なのかとおもうほどちょっぴりしか味見させてもらえないが、寿司のようなものは、お腹がいっぱいになりそうなほど食べられたりする。 佃煮のようなものは、うーん、ほんとうにこれ食べられるのかな、と思うものが並んでいたりするが、どういえばいいのか、並び方が綺麗で、上品と呼びたくなるほどで、どうして日本人は食べ物のプレゼンテーションがこんなに上手なのだろう、とよくモニとふたりで話したものだった。 いまはもう売ってしまった広尾山のアパートから、暑くなければ歩いて青山によくでかけた。 東京は冬ならば歩くのにとてもいい町だが、シンガポールと同じで、頭で考えているときには、あそこを散歩しよう、ここを散歩しようと思っていても、いざ実際に着いてみると、どうにも暑くてタクシーを使う以外には方法がなかった。 日本の暑さは湿気のせいなのか、深刻で、ぼくはほんの5分くらいも歩くと、気分が悪くなって、よく嘔いたし、モニのほうは一回の滞在に一回は救急車で送られる始末だった。 日本にはラムが少なくて、牛肉はなんだか怪しい感じがするので避けていた。 ひょっとすると、暑さに奇妙なほど弱いのはそのせいかと考えて赤肉の代わりに蕎麦を食べることにしたら、最後の夏はふたりとも割合平気だったので、ミネラルのなかになにか特に足りないものがあったのかもしれない。 白木のカウンターに腰掛けて、顔見知りの料理人のおっちゃんと話をしたり、もちろん読もうと思えば「お品書き」を読めたが、めんどくさいので、あんまり何も言わなくても、こちらの好みをおぼえていて、「次はひろうすにしますか?」というようなことで、次から次に作ってくれるのは有り難かった。 日本酒は、水のようで、びっくりするほどおいしい飲み物で、特に「立山」と「樽菊正宗」が好きだったが、よく飲み過ぎてモニに笑われた。 夜更けに歩いていて、最も安全な感じがする都会はマンハッタンであると思う。 子供のときは両親がよく東京の安全な夜について話していたが、おとなになってからは、特にアメリカ人やオーストラリア人の女のひとびとから、嫌な話をたくさん聞いていたので、東京がいわれるほど安全な町ではないのが判っていた。 それでもロンドンやシドニー、オークランドの中心部のように、危ないのか危なくないのか、そもそも夜遅くにでかける習慣がない町よりは安全だと感じていたし、そんなことをいうと日本のひとにちょっと悪いような気もするが、なにしろ歩いている人がどのひとも物理的にとても小さいので、舗道で、ぶつかってすごまれたりしたこともあるにはあったが、子供にすごまれているような気持がしてふきだしてしまったりして、危ない危なくない以前に現実の町のように思えないところがあった。 ものごとに対する考えがいいかげんなので、ぼくは、他人について「表面がちゃんとしていれば頭のなかで何を考えてもいいや」と思うほうである。 ほんとうは純真だが態度が悪い人間より心のなかは邪悪そのものでも礼儀にかなった立ち居ふるまいが出来る人間のほうが遙かにのぞましい。 どんなに良いひとでも、食べ物をくちゃくちゃ音を立てて食べる人とは自然と二度あうことはないし、なれなれしい人間ほど話していてつまらない人間はない。 あとで遭遇したインターネットでの激しい嫌がらせを考えると、なんとなく日本の人の内心と外見の相関は想像がつくような気がしたが、眼の前にいる日本人は、常に折り目正しく、きちんとしていて、親切を極めていたので、ぼくはいまでも日本人は好きである。 なぜ可笑しいのか判っているように見えないのに周りが笑うと一緒に、さも可笑しげに笑ったり、よく判ってくれていないのに、頷いたりする人は多くて、奇異な感じがしたが、しかしそれも日本という文明の一部なので、気になるということはなかった。 日本語インターネットは「本音の世界」と見なされているらしくて、ニセガイジンだ、外国人がそんなに日本語が上手なわけはない、とよく言われて、数えてみると、この集団のひとたちはもう5年間もストーカーで、どういう種類の情熱なのか考えていて不思議な気がするが、友達たちと話して反応がみたくて、怒った「ふり」をしてみせたりすることはあったが、いまではばれている通り、別にたいして嫌だったわけではなかった。 日本語世界にとっては、ぼくが知っている人から「真剣に自殺を考えました」というemailが来たりしていて、特に「はてな」コミュニティに屯しているようなひとたちは、もう少し自分のやっていることを考えてみればどうか、あるいは、どんな社会の言論においても最も重大な「ふだんはものを言わないひとたち」の、でかかった声を塞いでしまっている、いまの集団サディズムがまるごと横行する日本語インターネット世界では、「聴き取りにくい声」がちゃんと聞こえてくるような世界は夢のまた夢で、それが夢でおわっているうちは、たとえば言論の自由にも表現の自由にも何の価値も無いことに気が付いたほうがよいとは思う。 ぼく自身は、日本語を使って考えているときだけ存在する、まるで自分にとっては見知らぬ他人のような、ガメ・オベール、大庭亀夫というダジャレでつけたふざけた人格が攻撃されているだけのことで、怒れと言われてもどうもピンと来ない。 戦争中に砲兵士官で、ジャングルを疲れ果てながら行軍して、ただ飢えのなかで歩き回るだけのことで戦争が終わってしまったひと、という認識しかなかった山本七平と同じことだというひとがたくさん来たので、そのひとたちが口にするイザヤベンダサンという筆名の「ユダヤ人論」のようなものを飛ばし読みに読んでみたが、ぼくの感想はユダヤ人の聞き書きなのではないか、という頭のいかれた感想で、「イザヤベンダサン」といういかにも初めから誰がみても「わしはニセガイジンだよん」な名乗りをみても、名前をだしたくない日本通のユダヤ人が話したことを日本語で書いたように見えた。 もうひとつよかったことは、山本七平という複数の角度からものごとを観察するという日本人には少ない才能を発見して、最近日本語を読むのがめんどくさくてたまらないので、まだ読んではいないが、いつかは読む日本語の本として、出版されているこのひとの本は全部買いこんだ。 親日反日というのは、最後まで自信をどうしても持てなかった日本のひとたちが、廊下のつきあたりの薄暗い隅の鏡に映った自分の姿に一喜一憂する自分の影への気の毒な反応にしかすぎない。 言葉として、ほとんど意味が不明な「反ニュージーランド」はもちろん、世界中で圧倒的に憎まれてきて、憎まれることを当然とおもっている連合王国人ですら、誰かが「反英」か「親英」かなど考える習慣をもたないことをおもえば、ハリウッドの女優たちですら、たとえば反捕鯨反イルカ漁への発言をもとにして、誰が親日で誰が反日かを分類しようとする、日本の人たちの姿の悲しさ寂しさは文字通り筆舌につくしがたい。 全国紙まで取り上げる「テキサスおやじ」の国民的な人気にいたっては、物悲しいというよりも、悲劇そのものに近い感じを与える。 日本が豊かで平穏な社会を築きながら、まるで未開な国の社会のようにふらついたり激昂したりする不思議で病的な症状をみせるのは、やはり日本語という壁にとざされているからだろう。 日本のひとの、たとえば、このひと http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n272325 などは特に排外的な意識もなく、ものごとを中立に観ようとしている姿勢がわかるひとで、実際、この「日本人が海外旅行をしなくなった20の理由」も、日本のひとには多い意見をまとめているだけに見えるが、 「外国人は特殊な体臭のつよさがあるから」と当然のように述べてみせたりする、ごく自然な人種差別意識や、ゼノフォビア、自分と変わらない人間としてどうしても女びとをみることができない文明の性質としての女性差別、というような日本語人の特徴がよく現れていて、豚肉や牛肉を材料にケーキはつくれないというか、もっと直截に日本語で暮らしていては世界をみることはできない、と簡明に言ってみるべきか、 たとえば「日本のレストランは世界一おいしく、リーズナブル」というのはほんとうではないが、この部分が「ほんとうでない」とあっさり納得できるひとは日本に住んでいるひとでは海外に何年も住んだ人も含めて存在しないのではないだろうか。 日本が好きなのは理由は簡単で「他と違うから」である。 Westfield http://corporate.westfield.com/properties/us/ というモールがある。 … Continue reading

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ITARUさんのつくったドミュメンタリ「新日本風土記ー日本列島だしの旅ー」

「Umami」は新しく英語の語彙にくわわった日本語由来の言葉で、日本語で文章を読む人なら意味は説明するまでもない。 英語世界では新しい概念で、第一、わしガキの頃は、「うまみ」や「だし」を「臭み」と感じる人が多かった。 21世紀になった頃から日本料理が急速に普及して、日本料理と言えば寿司のことだったのが、あっというまに「弁当」が普及し、「ラーメン」が人気者になっていった。 40歳をすぎて、成人病になると、アメリカの医者は「このままの食習慣だと死ぬから日本人が食べるものを食べろ」と言ったりする。 マンハッタン人の年長の友達で、医者の恫喝にしたがって、やむをえず日本食を渉猟することになって、いろいろ試してみて、「とんかつ」が気に入って、毎日アップタウンの和光が経営するとんかつ屋に通っているひとがいて、医者に体重が減らないじゃないかと言われて、「アドバイス通り日本食ばかり食べているが減らない」と嘆いている人がいるが、このひとはむかし肝臓を傷めて「一日にワイングラス二杯まで」と言われてワイン一本分がまるまるはいる金魚鉢のようなワイングラスを特注させて飲んだ(←わしの偉大な叡知による入れ知恵)のと同じひとなので、多分、なにもかも知っていてやっているのだと思われる。 健康が理由で流行になった日本食だが、流行してみると、「どんぶり」というようなものは便利で、どこの国でも主に韓国系人のビジネスだが、バッフェ式で、どんぶりにご飯をよそってもらって、ワゴンに入ったトッピングを、エビフライ、とんかつ、照り焼きサーモン、照り焼きチキン、とご飯の上にてんこもりにして、支払いカウンタにもっていく。 簡便なランチとして人気があります。 そうこうしているうちに日本へ行って「幕の内弁当」や「松花堂」を見てカンドーした人が出て来て、「Bento」を始めたが、これもあっというまの大当たりで、Filemaker社の簡易データベースのソフトウエア名にまでなった。 ほとんど真打ちのようにして登場したのがラーメンで、マンハッタンにいるときには、チェルシーとビレッジのボーダーくらいのところにある家を出て、ユニオンスクエアを通って、イーストビレッジに歩いて行くのが最も頻繁な散歩コースだが、途中に出来た「一風堂」 http://www.ippudony.com はいつみてもものすごい行列で、ぶっとんだものだった。 東京にいるときには、ラーメンはあんまり好きでなくて、義理叔父と酒をのみにいくと、なぜかこのひとは酔っぱらったあとにラーメンを食べたがる人で、わしは酔うとチョコレートかなんかチョー甘いものが食べたいのに、ついでに言うと、いいとしこいてひとりでラーメン屋に行くのはさびしいらしくもあって、ねー、ガメ、一緒に行こうよ、ね?ね? もちろんおごるし、帰りのタクシー代も出してあげるからさー、と女衒のような口調で、わしをラーメン屋にたらしこもうとする。 香妃園の鳥そばから始まって、時間が早ければ(いまはもうないらしいが)品達のくじら軒、はては深夜の全然わけのわからないラーメン屋に至るまで、ラーメンがあまり好きでなかったのに、よく思い出してみると案外あちこちのラーメン屋に行っているのはそのせいである。 午前3時の森閑とした広尾山に降りたって、ガリガリくんをかじりながら、またラーメンを食べてしまった、なんということだ、と我が身の悲運をなげいた。 こんなもん、なんで日本人は好きなのかなー、と思っていたラーメンはしかし、そう思っているわしをおいてけぼりにして、あっというまに世界じゅうで大流行になってしまい、ロンドンにも、おパリにすらラーメン横丁が出来て、マンハッタンでも一風堂は行列が長くて嫌なので、ずっと先の「せたが屋」 http://www.ramensetagayany.com に歩いて行かねばならない。 こういう日本料理の大流行は、要するに、それまでは野菜とチキンとビーフの「ストック」くらいしかなかった「だし」や「うまみ」に目ざめたからだと思われる。 世界で最も味覚が保守的なのはスペイン人だと思われるが、やや開明的なバルセロナですら、中華料理はディアグノルに一軒あって、ほかにもどこかにあったかなーという程度で、インド料理屋に至っては年がら年中つぶれている開店ホヤホヤのインド料理屋が合計3軒存続している瞬間があればよいほうで、タイ料理ですらフィリピン人たちがやっているブッダバーのパチモンのような店が流行っているだけで、ながいあいだ「アルデンテ」の観念が存在しなかったイタリア料理店はいくらかあるが、残りは殆どスペイン料理で、アジア料理にいたっては日本料理だけが例外的に繁栄している。 流行、という段階は終わって、日本料理は定着して、どこの国でも生活の一部になっている。 英語でbuckwheat noodleと言われると、馬さんかなにかの食べ物のようで、「ほんとうに食べられますか?」と訊きたくなるが、「そば」も「うまみ」のおかげで、マンハッタンにもおいしい蕎麦屋が出来ている。 わしは「ココロンそば」 http://cocoron-soba.com/index.html が好きだったが、Sobakoh http://www.sobakoh-nyc.com もうまいと思う。 両方とも、なんだか日本でもたくさんはない上品な蕎麦です。 ITARUさんのドキュメンタリは、初めに本枯れのカツオブシがでてきて、それから羅臼の昆布、縄文時代のダシの中心だった河豚、… と出てくるが、たとえば昆布ならば英語ではseaweed、「海の雑草」というくらいで、食べられもせず、役にも立たない害草がweedの定義なので、ほんとうをいうと「seaweedを食べる」というのは論理的矛盾、よくて差別表現である。 厨房にでかけて、自分の家の料理をつくってくれる人と話してみたら、枕崎の本枯れ節がちゃんと取り寄せてあった(^^ 昆布はなくて、「だって、あれは放射性物質で危ないでしょう」ということだった。 調べてみるとオークランド工科大学が、いままでは毒草あつかいになっていて、採取することそのものが違法だった昆布とワカメを養殖する研究が去年から始まっていた。 西海岸のわさび農場と並んで、やはりアメリカや欧州での需要のおおきさを聞き及んで大学と政府の支援で事業化するものであるらしい。 ITARUさんのドキュメンタリを補足すると「うまみ」はアジア的なもののなかでも海洋と関連が深いもので、たとえばスリランカのひとはカレーに打ち砕いたカツオブシをいれるので有名である。 タイ料理もナンプラーがある。 ベトナム人もニョクマムが大好きで、ぬるぬるした魚をとっては、「だし」にしていた大古のアジア人の姿が目に浮かぶ。 一方でアジア料理なのに、まったく「うまみ」「だし」のない文明も存在して、四川料理は、「本格四川料理」を食べるとみなびっくりするが、山椒で食べさせる、といえばいいのか、たとえば本来の麻婆豆腐は、カアアアーンとカタカナで音がしそうに辛くて、「うまみ」というような柔弱な感覚は拒絶している。日本やマンハッタン、ロンドンにある、あの辛さのなかからうまみが響きだしてくるような麻婆豆腐は、要するに日本の味で、ダラスのわしがよく行った中華料理屋のおっちゃんに訊いたら、なんのことはない、おっちゃんは昔は横浜の中華街で修行した人だった。 クライストチャーチでうまみのある麻婆豆腐を出していたひとも同じだったので、案外、大半がそういう事情によっているのかもしれない。 内陸人はうまみなど、取り立てて重視しないのは、つまりは魚と縁がない、ということなのだろう。 … Continue reading

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