Monthly Archives: April 2014

Living in Obscurity

最近ニュージーランドにばかりいて、大好きなマンハッタンのアパートは放っぽらかしだし、バルセロナのアパートに至っては他人に貸している。 第一の理由はモニさんが小さい人が小さいあいだはニュージーランドが住むのに最も良い国である、あるいは南半球の土地勘をつくっておくことが家族の将来のためにとって重要だという考えをもっているからです。 モニさんは大陸欧州で生まれて、わしはもうちょっと田舎の島国の欧州で生まれた。 モニさんは思春期から結婚するまでの大半をマンハッタンのアッパーイーストサイドで過ごした。 パークアベニューといって、マンハッタンに住んでいる人は知っているとおもうが、わしのアパートがあるチェルシーのようなごみごみした所とは違って、なんだかやんごとない店やなんかがいっぱいある通りに、玄関を入ると目の前に螺旋形をなしたチョーカッコイイ階段がある豪勢なアパートをモニさんはもっている。 いまはニュージーランドのオークランドという町に住んでいる。 人口は140万人くらいで、英語圏の町で140万人くらいというとアジアの町の300万人くらいの町と同じ規模で、だから、名古屋みたいなもんだとおもえばちょうどいいのかもしれません。 最近は600平方メートルどころか、そのまた半分の300平方メートルしかない敷地に家を建ててしまう人もいるが、わしが住んでいるリミュエラという地区は、もともとは一区画が1000-1200平方メートルの家が建ち並んでいる広大な住宅地で、わしの家がある辺りは、二区画や三区画にまたがった家が多い。 特に贅沢なことではなくてテニスコートやプールがある家は、やる気がある人はグーグルサテライトでみてみれば一目瞭然だが、たくさんある。 両方ある家もいくつかあります。 いちばん近いマリーナまでクルマで5分、CBD(と言って、意味がわからない、とこのあいだ言われたので意味を書くと「都心」という意味です)まで10分、CBDのクイーンストリートに次いでおおきな繁華街であるニューマーケットまで5分、というような立地で、そう書くと得心がいく人もいると思うが、ニュージーランドの町は、ついこのあいだまでのオーストラリアの大都市と同じで、一戸建ての、木に囲まれた、広い芝生の広がる、朝はブッシュに集まる鳥が最大の騒音源である家から、クルマに乗ってほんのちょっと行くと繁華街に着くのが特徴であると思う。 繁華街と静まりかえった住宅地が常に隣り合っている。 生活のスタイルもそれにあわせて、一日に2,3回はクルマででかける。 この家からだと、オラケイビーチ、ミッションベイ、コヒマラマ、セントヘリオスというような浜辺が何れもクルマで数分の所にあって、たとえばセントヘリオスならば、モニとふたりでベトナム人夫婦がやっている滅茶苦茶おいしいサンドイッチをつくるベーカリーに行って、サンドイッチとラテを買って、海が見渡せる、浜辺に並んでいるベンチのひとつに腰掛けて食べる。 ミッションベイは海辺の繁華街で、むかしからある映画館があるような下町なので、イタリア料理やメキシコ料理、インド料理、タイ料理、軒をならべていて、普段は人が多いからいかないが、たとえば道路封鎖で遠くからの人が来られなくなる自転車レースがある日の午後などには、歩いてでかけて、イギリス式の噴水がある広い芝の公園のピクニックテーブルに腰掛けて、やっぱり近くのレストランでつくってもらったお弁当を食べる。 リミュエラのまんなかを走っているリミュエラロードの反対側には、こちらは、新興のショッピング街ができていて、というか出来つつあって、ニュージーランドでは新顔のCarl’s Jr.のような店は、こっちがわにあります。 スーパーマーケットも、旧市街より大規模で、駐車場も広いので、家事を手伝ってくれているひとびとなどは、こっちがわに来て買い物をするのを好むようだ。 オークランドは住みやすい町で、公共交通手段のインフラストラクチャが貧弱なのが欠点だが、高速道路と、今月になってやっとディーゼルから電車に変わった鉄道、リミュエラなら五分に一台くらいの間隔でやってくるバスで、なんとか140万人の人口の毎日の移動をまかなっている。 良いのはエスニックフードがおいしいことで、わしは中華料理が嫌いだったのが、オークランドに住んでから好きになった。 チャイニーズといえばあぶらじみてMSGがはいった下卑た味の食べ物だと思っていたのが、エプソンの富裕な中国人たちが住む地区の中国料理屋に行くと、軽い、東京でいえば赤坂離宮銀座のような味付けの料理がふつうに並んでいる。 メルボルンのヤラ川ぞいにも一軒あるが、ほんとうはもともと中華料理の味というのは、そういう品の良いもののよーです。 インド料理もレバノン料理も、イスラエル料理、エチオピア料理もおいしい店がある。 どの店もたとえばエチオピア料理をつくっているのはエチオピア人で、地元の移民相手の商売なので味を欧州人の味覚にあわせるということもなくて、おいしいと思う。 知らない人、たとえば料理屋のウエイトレスやウエイターと駄弁って遊ぶのは好きだが、知ってる人間とはあんまり会って話したくない、という奇妙な習慣がわしにはある。 アメリカ式の社会では名前が売れれば売れるほどオカネモーケの機会が増えて、たとえばウォーレン・バフェットじーちゃんのような人でも、いまのような集金力を発揮するようになったのはワシントンポストのKatharine Grahamに出会って、社交界とメディアに名前が広く知られるようになったからだった。 ソニーが企画してあっさりダメになった「携帯型音楽プレーヤー+音楽配信」のビジネスモデルをスティーブ・ジョブズのほうは実現してしまったのは、毎日パーティを開いて、ミュージシャンたちに、「レコード会社のマーケティング音楽なんかくだらないから、みんなで音楽の世界に革命を起こそう」と呼びかけたからである。 ミュージシャンたちのなかの力のあるひとびとは、早速、レコード会社を脅しにかかって、iTunesがやれないのなら所属会社を変える、と言い出した。 おそれをなしたレコード会社は、しぶしぶミュージシャンたちの言うことを聞くことにした。 iTunes+iPodを現実にしたのはスティーブ・ジョブズの「名前」の神通力だった。 マッキントッシュプラスのユーザ第一号は誕生日に箱を抱えてやってきたスティーブ・ジョブズから直截手渡しで発売日の一日前にプレゼントされたジョン・レノンの息子ショーン・レノンだが、日本で言えば京都大学人の駸々堂みたい(←冗談)というか、アメリカには有名人コミュニティがあって、有名人同士の親密な付き合いがある。 そういう有名人コミュニティを背景にした有名人パワーで出来たのがiTunesで、スティーブ・ジョブズが自分でも認めていたとおり、iTunes+iPodは、もともとは日本人のアイデアです。 もっとも、当時から「音楽文化キラー」JASRACのお代官さまぶりは海外でまで有名だったのと、ソニー自体がソニーエンタテインメントという利益が相反する会社を抱えていたのとで、まじめに「携帯型音楽プレーヤー+音楽配信」ビジネスモデルを日本人が実現しうると考えたひとはいなかったようだが。 世界はどんどんアメリカ風になって、オープンの吹きさらしになってゆくが、モニが「ガメは旧世代人だな」と笑うとおり、わし自身は「表にでる」ということが嫌いで、折角機会をつくってくれるひとがあっても断ってきた。 そういう態度を快く思わない人はおおくて、某有名経済雑誌の記者などは、驚くべきことに、「インタビューを断るなんて生意気な。若くて成功したからといっていい気になると、この先よいことはないぞ」と述べた。 あとで「お詫び」を述べていたが、それはおそらく他人に言われたからで、初めの態度のわるいセリフのほうが「本音」でしょう。 日本語で(ほとんど誰も読まない)このブログ記事を書く理由の最大のものは、「誰にも読めない」からであると思う。 自分のまわりで見渡して、このブログを読める人は知っている人のなかでは義理叔父と従兄弟だけで、かーちゃんシスターもやってみれば読めるとおもうが、なにしろ最後に読んだ日本語の本が日本通のフランス人友達にすすめられた「佐賀のがばいばあちゃん」で、5年くらい前だそうなので、変人の甥っ子がもの好きで書いているブログを読んでみようと思うとは考えられない。 日本語では何を書いても誰の目にも触れないし誰にも聞こえない、というのが最大の理由なのであると思う。 … Continue reading

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向こう岸からこちらを見つめる目について

たとえば大型犬より少しおおきい程度の馬格のちいさな馬に乗って、トコトコ走りながら蒙古騎兵たちは、その「敵から駈け去りながら後ろを振り返って弓射する」という当時としては驚天動地の戦争技術の革新によって朝鮮半島からポーランドまでを席巻した。 チビ馬に乗ってトコトコトコと走り回る姿はかわゆいが、実際に戦争をしてみると、かわゆいどころではなくて、だいたい15万頭程度の馬をつれていたというから一軍団が3万人程度ではないだろうか、トコトコ騎兵たちは追いすがる欧州騎士達を体をかわして逃げ去りながら容赦なく射殺し、相手が怯むと自分たちも止まって矢を射かけ、退却をはじめると同じ間合いを保ったまま追いかけてきて、最後には人間の顔に切りつけるための訓練で有名な馬上の剣術の腕を発揮して、皆殺しにした。 捕虜になることを乞うて集団投降してきた敵兵たちは、いちいちクビをはねるのがめんどくさいので、宴会用の床をもちだしてきて、その下に簀巻きにして並べ、みんなで酒を飲んで酔っぱらって踊りながら踏み殺した。 鐙(あぶみ)が無かったから、というひともいるが、それよりなにより「騎乗する者は選ばれた高貴な身分の者である」というアホな社会通念が祟って、ロシア人などは手もなく女はなぐさみものにされるために連れ去られ、男は全部ぶち殺されて、ロシア人の有名な祖国戦争でだけみせるバーサークな勇猛さを発揮してみたりしたが、それでも全然ダメで、戦争をやるたびに、まとめてぶち殺されてばかりいた。 鄭和の艦隊は東アフリカだけではなくて西アフリカにも達していたという。 それがなぜ東アフリカどまりの記録になっているかというと、「地理的にどこまで到達したか」に敏感な、明を制圧した異民族王朝である清が、アフリカ西岸まで漢民族が達したことを認めるのは不愉快なので、地図を眺めると、そのくらいで十分カッコイイ偉業である東アフリカで引き返してきたことにした。 この説をなす人は鄭和が宦官でなければ遠征艦隊の存在そのものを清王朝は歴史から抹殺しただろうと説明する。 歴史を書き換えるのが暗黙の勝者の権利のひとつだった中国の歴史を考えれば、西洋人が考えるよりも自然な説である。 つむじまがりのドイツ人潜水艦長がなした説はほんとうとは思えないが、いまでもニュージーランドの西海岸から、存在したはずはないカピバラの骨がでてくるのはほんとうで、カピバラはアマゾン川流域にしか生息圏をもったことがなかったので、カピバラを食糧として船に積み込んだ誰かが南アメリカの東南岸から出航して飲料水が豊富なニュージーランドに寄港して、アラビアとインドを周航し東アジアに戻っていくということを(多分)定期的に繰り返していたのは明かである。 外洋に出るボート乗りなら皆しっているが、タスマン海はともかく、オーストラリアの西側の海は有名な荒い海で、しかも航路から陸地が世界で最も遠い。 マレーシア航空機が行方不明になったときに、機長が自殺をはかったのではないか、という説をまっさきになすのが英連邦海軍の人間に多かったのは、飛行機が墜落したあたりの海が、どんな海かよく知っているからである。 しかし、ここに不思議なことがあって、5000メートルというような水深の場所が多いこの辺りでも遭難船の骸がみつかることはあって、音響のぼんやりした像とは言っても、船籍が不明なものは形がどうも明船なのである。 中国人たちと話していると、ふつうの教育のある中国人たちにとっては「宋」が理想の時代であることに気づくが、この時代は、どういう具合によるのか、中国人の創造性・生産性が圧倒的に高まった時代で、科学上の発明も多いが、コンパスも宋人が発明したものである。 一方では造船技術と天文学も飛躍的に向上した時代なので、中国人たちのうち向こう見ずな人間が遠洋航海に出なかったと考えるのは難しい。 なにしろ、天測と羅針盤による航海技術はGPSというブレークスルーが出来るまでは、千年一日の遠洋航海原理だったのである。 中国人はむかしから人種差別主義者ぞろいなので、あちこちの大陸や半島、島嶼に寄っては、「なんだかヘンなやつしかいねえなー」と思いながら、太平洋をうろうろしていたのだと思われる。 「海禁」の思想は中国人が海の向こうにある多様さと豊穣におそれをなした結果にしかすぎない。 とてもではないが自分のコントロール能力を超える、と考えたのでしょう。 中国人は、中国文明の悪口を言う人は「歴史を通じてコントロールフリークだ」というのが通例になっている。 TCP/IPは世界そのものの意味を変えてしまった。 たった50万人しかいない民族にながいあいだ全ユーラシア大陸に及ぶ苛政を許した「後ろ向き騎射」技術や明人からヨーロッパ人にうけつがれた大航海時代を現実のものにしたコンパスなどは、TCP/IPに較べれば些細な技術であるにすぎない。 まだインターネットの時代ははじまったばかりなので、うまく見えてこないところが多いが、たとえばそれがデータにしろ人間そのものしろ「おおきな数の動的集団が次の瞬間にどこにあるか」を直截数学によって予測できるようになったのは、あるいは、そういう「範囲の評価」が重要になったのはインターネットがもたらしつつある認識哲学そのものの変化の初めの徴候である。 世界で使われる言語が、ぶっくらこいちまうスピードで英語になりつつあり、しかも、(こちらの変化のほうが重要だが)英語に集約されつつあることもインターネットが現実そのものを変質させつつあることと密接な関係がある。 いま一般に考えられているインターネットのイメージは「便利な情報交換技術の道具」だろうが、現実にはインターネットは現実社会よりも上位の実効性を持つ「世界」であって、パラダイムシフトという言葉があるが、シフトどころかパラダイムの創造にぼくは立ち会っている。 人間は遠からず、いま「仮想社会」と呼ばれるものの側の都合に立って現実社会のほうを変更することを迫られるようになるだろう。 あまり手を広げて説明するとわかりにくくなるだけなので個人の立場に即して述べると、これから20年後に生まれてくる子供に集積回路のチップの埋め込みが義務づけられていないとは考えるのが難しい。 クルマは運転という文化と移動の便宜の混淆から、インターネット世界の生産性と個人の脳髄を繋げる移動体装置になってゆくと思われる。 すべての個々人が、ちょうどいまデスクの前に座ってスクリーンをのぞきこんでいるように、仮想社会の側から現実をのぞきこむ思考スタイルに馴染んでゆくだろう。 著作権のような概念は、もともと単に便宜的で古いビジネスモデルにすぎないという事情もあって、まっさきになくなる概念に違いない。 インターネットが世界を変質させてゆくにつれて、個人にとっての最もおおきな変化は、すべての静的な認識の仕方(たとえば平たい例で言えば、あの店にいけばカウンタの向こうにはあのひとがいてコーヒーをつくってくれるだろう、というようなことを含む)が、動的な認識(ふたたび平たい例:不動産価値が収益性の算出によって株価と同じスピードで変わる)に取って代わられるに違いない。 プライバシーのようなものが50年後にも概念として生き残っているとは考えにくい。 50年も待たなくても、いま日本語インターネットでよく述べられている「匿名か本名か」というような議論は議論自体が無意味になるのは、相当のんびりした頭のひとでも想像がつくと思う。 あるいはプライバシーという概念そのものの消滅ということを、ぼくは疑ったことはない。 プライバシーの意義を認めないUNIXの伝統ということを離れても、インターネットがこれからの世界ではたすべき生産性変革の役割を考えると、(インターネットの側からみて)プライバシーのような陳腐な概念には生き延びる余地は無い。 もうひとつ日本の人が関心があるかもしれない「日本語の運命」というようなことに関しては、1920年代から1990年代くらいまでには可能性を感じさせた(地方的な)普遍語としての機能を日本語が保つことにはもう望みがなくなっていることはアカデミックのみならず、ビジネスのひとびとも知っている。 炬燵に足をいれての、親密な地方語として生き残れるかどうか半々ではないだろうか、と考えるが、インドの諸州を別々に観察することが有益なこの話題は、また違う記事で考えたい。 日本語を意識的に読めるひとにとっては、明瞭だが、ぼくが自分がブログ記事を書くために選択した日本語は1960年代に生まれた世代の日本語と明治時代の混淆である。 まともな日本語を書くことを意識して書く日本語は、平安の日記文学のリズムをコピペして採用していることは、日本の古典を読んだことがあるひとなら、いっぺんで判るものであるらしい。 なぜそんなことをするかというと、現代日本語には「言えないこと」が多すぎるからで、そういう面から言うと日本語はすでに言語として死語化していると言えなくもない。 人間の世界全体が、この先50年間で生産性を少なくとも3倍にして、しかもいまの資源の使い方ならば地球が5個必要なことはいまの世界のほとんど誰でもが知っていることであると思う。 … Continue reading

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葉巻と白足袋

吉田茂は「日本は戦争で負けて講和で勝った」と述べた。 日本という国の運の良さは日本では珍しいほどの外交感覚をもった政治家がまったくの偶然から日本に「外交手腕」が最も必要なときに首相になったことで、吉田首相は鳩山一郎が公職追放にあわなければ、しかもその上に三木武吉という戦前策士型の政治家が生き残っていなければ生まれなかった。 たとえば吉田茂は佐藤栄作や池田勇人たちに「外交は見えない所ですすんで、見えないところで決まる。見えているものは、すでに外交ではない」と繰り返し述べているが、言葉にすれば外交官が若いときに叩き込まれる教科書的な常識に過ぎないが、吉田茂のチャイナスクールとしてのキャリアとその時期を考えると言葉に意外な重みがある。 吉田茂は講和を結びアメリカによる日本の占領を終わらせることをもって自分の政治目標とした。現実の政治人生においては講和のあとも長く首相をつとめたが、娘・和子が証言しているとおり、権力についた嫌人癖のあるひとの通例で「自分以外に首相の適任者はみあたらない」と思い込んで目的もなく権力にしがみついていたにすぎない。 アメリカの日本占領は当初「日本と日本文化の徹底的な破壊」を明瞭に目的にしていた。 史上、最も好戦的な民族として知られる日本民族の腕の腱を切って、弓をひけなくしたうえに、脳の前頭葉を切除して、ロボトミーを施すのがアメリカの占領目的だった。 具体的には「軽工業を限度とした産業をもつ中進国」にすることを目標とした。 合衆国大統領になるのが当然の宿命だと思い込んでいた一個の老将軍であるダグラス・マッカーサーが日本での「王」に任命されたことが日本のふたつめの幸運だった。 ダグラス・マッカーサーは自分が単なる「成功した解放自由軍の将軍」ではなく、有能な「統治者」であることを未来の投票者たるアメリカ国民に対してみせねばならなかった。 そして、当時の日本の狡知な政治家たちにとっては、それこそが付け目だった。 吉田茂個人の「軍人嫌い」には疑問の余地がない。 戦争中の軍人のバカさ加減への記憶もあるが、どちらかというと、もっと生理的なものであったようです。 日本占領軍GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビーが提案した警察予備隊幹部の名簿にノモンハンにおける対ロシア挑発戦争の企画者で、アジア各地での現地市民虐殺の立役者である辻政信の後援者でもあった服部卓四郎の名前を発見したときの激怒ぶりと強硬な反対は有名で、戦前戦中に日本を破滅に導き、戦後はアメリカ軍に取り入る人間が多かった旧日本陸海軍の将校に対する嫌悪はもちろんだが、注意すべきなのは、息子の健一以外には口吻ももらさなかったものの、アメリカ軍人たちも、(考えてみれば当たり前だが)心から軽蔑していた。 現実感覚にすぐれた外交官で、しかも観念や理想がつけいる余地のないチャイナ・スクールで鍛えた吉田茂が選択した日本の戦後の方途は、軍隊も交戦権も破棄して、日本国内の戦争讃美勢力の抑圧と共産主義の社会への浸透阻止を題目に、両者へのアメリカ人の恐怖心を煽り立てて、大軍のアメリカ軍を日本に駐留させ、この外国人たちの軍隊を利用して日本を防衛するという構想だった。 国務次官からあとでは国務長官にすすんだディーン・アチソンの日本占領プランと似ているが、決定的に異なるのはアチソンのプランは、そのまま日本に独立を許さないことを意味していた点で、アメリカからみれば、吉田茂の「独立は寄越せ、国防軍の軍隊はおまえがやれ」というプランは誰が考えても虫がよすぎるものだったが、吉田茂は、「日本はボロ負けに負けたので軍隊をもとうと思ってもカネがない。軍隊創設にどうしても必要な最低限という20億ドルというカネを出してくれるというなら考えてもいい」と、倒産した会社の社長が債権者の銀行に対して居直るのと寸分変わらない論法で、アメリカにとっては一方的な損にしかならない日本防衛プランを、当時のアメリカ国内の共産主義恐怖症につけこんでのませてしまった。 なぜアメリカが「日本を助ける義務はあるがアメリカの権益が危険にさらされているときでも日本にはアメリカを助ける義務はない」という、マヌケとしか言いようがないような片務軍事同盟を結ぶにいたったかをベンキョーしようと考えて、日本の戦後史を眺めていると、日本の政治家の狡知、縦横な知恵、相手の足ばかり狙って執拗に攻撃をかけるなぎなた武道家じみた徹底的な下品さに舌をまく。 狡いことや「下品」なことは外交においては、無論、ほめ言葉で、この狐のような賢さの政治家を大量に持った国が、ほんとうに、「連盟よ、さらば」「わが代表堂々と退場す」の、英雄美に満ちて、悲壮で、カッコイイ、言い換えれば筆舌につくしがたいほど無責任で愚かな外交を行って、石器時代の状態にまで自分達の国の都市をもどしてしまった同じ国の政治家だろうか、と頬をつねってみたい気に駆られる。 日本は戦争に負けて一文無しであることを切り札に厳しい国際政治の荒波を乗り切って、共産主義が国内に蔓延しそうだ、とことあるごとにアメリカを脅してはアメリカから巨額のカネを引きだして、公然と、あるいは内緒で、国家社会主義経済的な「傾斜生産方式」予算にまわして国を発展させていった。 アメリカが勝者の好い加減さで、日本を甘く見て、自分がただオカネをしぼりとられるだけのマヌケな「カネモチの叔母」の立場に立っていることに気づいたときには、もう遅かった。 吉田茂が述べたように外交は見えない所で歴史を決定するものであり、「外交努力」がおぼろげに各国の「識者」に見えてくる頃には、もうとっくのむかしに勝負はついているが、ヒラリー・クリントンの奇妙な提案のように、政治の中心から遠く離れたところでは、あれ?と思うような徴候を他人の目に垣間みせることがある。 あの奇妙な提案から始まって、いまでは次第に顕在化してきたことは「アメリカが太平洋の権益をかけらでも手放すことはない」という日本人の安心の種を裏切って、アメリカが、太平洋は、もうどうしようもないときには1941年の線にまで戻ってもいいや、と思っていることで、大西洋と太平洋とではどちらが大事か、というアメリカの外交の原本に書かれた事態に戻りつつある。 そういう言い方がアメリカ人にとって受けいれがたければ「固守防衛思想」から「機動防衛思想」に転換を決めたのだ、と言い直してもよいが、いずれ言葉の遊びで、実質は中国の成長の早さに、勢力圏を縮めて、その代わりお互いをよく知っていてわかりあえるもの同士だけで、たとえていえばペルシャに対する古代ギリシャ世界のように、テルモピレーやサラミスで一緒に戦ったことを思い出して、もういちど肩を並べて戦おうと考え出した、ということにすぎない。 まして中東がいまのようになると、小は実用性が危ぶまれたオスプレイを無理矢理採用し、大は共和党のなかですら日本との同盟見直しを討議することがタブーではなくなった「新しいアメリカ外交」の機運は正当化される。 吉田茂は、軍隊をもたないで独立を達成して、日本にばかり虫が良い状態で過ごせる期間を5、6年と踏んでいたが、朝鮮戦争にはじまるその後の展開は、日本に、あらゆる人の想像を越えた70年近くという長さにわたって平和と繁栄という恩恵をもたらした。 なんだか現実とは思われない不思議な歴史で、話として聞かされれば「そんなことが可能ならば、おれもその国の首相をやりたい」とどこかの国の首相に言われそうなほどの幸運だが、その「幸運」は棚からぼた餅として落ちてきたものではなくて、母親の顔を知らない孤児であって、皮肉なことに軍人がなによりも嫌いであったのに軍隊を名乗らない軍隊の創設者として歴史に名前を残した、一生になんども絶体絶命の場所から抜けだしては蘇った、ひとりの老人の、「見えない場所での努力」がもぎとったものであることを、ここに書いておくのも、歴史というものの上での人間の役回りの不思議さを考えるうえでは、まったくのムダではないと考えて書いておくことにします。 (画像はサンチャゴ・デ・コンポステーラの裏町。オトナたちはビールを飲んでタバコを喫い、子供はオトナにおかまいなく、きゃあきゃあ叫びながら犬と戯れるのがスペイン流であるw これは昼食時の光景だが、夜中の12時でも同じことをやってるのね)

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自由の敵としての民主主義_1

ニュージーランドの道路事情は大陸ヨーロッパに似てきた、と思うことがある。 高速道路で車線を変更するときに方向指示器を点滅させないのはあたりまえで、ラウンドアバウトでも方向指示器を使わないので、どこで曲がるつもりなのか判らないのは、(ラウンドアバウトについては妙にマジメな)フランス人よりもひどくて、この頃ではついにイタリアなみというか、信号が青だからと考えて油断してまわりをみないで交差点をわたると、びゅんっ、と赤信号で右折するクルマがある。 路脇に駐車しているクルマのドアがいきなり、どおおーんと開く、などというのは日常茶飯事で、いつか信号で停車していて追突されたクルマのバンパーを直しにいった保険会社指定のガレージで、のんびり世間話をしていて、「しかし、よくあれでドアをふきとばされないもんだ」と述べたら、おっちゃんが仕事の手を休めてにやっと笑うと、「ここにドアをふっとばされてやってくるクルマの数を知ったら、ガレージ商売はうらやましい、と思うかもよ」という。 ふきとばされるだけならば良いが、深刻なのは、ガソリンが高いのと健康ブームとで自転車通勤が増えたので、突然ひらいたドアに激突して死ぬひとが増えた。 夏のコモ湖の大渋滞にうんざりしながら、イタリアのドライバーは、なんでこんなに態度がわるいんだろう、と述べたら、ロシア人の友人たちが、後ろを振り向いて、ガメ、モスクワはこんなもんじゃないぞ、モスクワでは「渋滞」というのは反対車線に出て行ったクルマが行列して動かなくなることを言うのさ」というので、ぶっくらこいてしまったことがあった。 ニュージーランドは片側8車線というような雄大な道路がつくれないビンボ国の工夫として、中央分離帯のコンクリートブロックを専用の重機で、ちょうどジッパーをしめるように動かすという特技をもつ。 モスクワでは、そんなものがなくても、朝の通勤時には片側4車線の道路が市民の自発的意志によって8車線の一方通行道路になるもののよーである。 日本の人や韓国の人は、ニュージーランドに移民してくると、国民のわがままさに閉口する。 ニュージーランド社会に溶け込まないうちは「お客様」扱いなので、気が付かないようだが、ニュージーランド人になってしまうと、社会の現実の姿がみえてきて、化粧の下の素顔というか、ニュージーランド人のチョーわがままぶりに辟易して日本に帰りたい、と願うもののよーです。 しかし、以前にも述べたように、わがままと自由は本質的に同じものなので、その辟易狼狽は、要するに、「自由はもう嫌だから自由のない秩序正しい世界にもどりたい」ことだと翻訳できる。 前に個々人の自由をさして必要としない国民が生来のマジメさを発揮して黙々と政治制度としての「民主主義」を運営する奇妙な姿について述べたことがあった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/02/12/芸達者/ 日本にいるあいだじゅう、印象的だったことは、道路にゴミが落ちておらず、どの街角も清潔で、お互いに目があうたびに謝ってばかりいる日本のひとに、そもそも「民主主義」などいらないのではないだろうか、ということだった。 TPPの話のときだと思うが、会議でみなでとことん話しあって全員が賛成するまで話をするのは民主主義ではなくて全体主義のやりかただと述べたら、チョーものすごい反撥にあったことがある。 あ、やっぱり、と思ったのは内緒で、知らん顔をして、ええええー、なんで?と聞いたら、 「あなたは知らないだろうが民主主義というものは、そういうものなんです」という、がっかりなお答えばかりが返ってきて、なんだ、教科書で読んだだけか、けっ、と思ったものだった。 12人の人間がいて、7人がある方針に賛成するか、もっときわどい場合には、7人が信任したひとりの人間に全権を一定期間わたすのが民主主義的な手続きで、なぜそんな危なっかしくて、納得できない人間が多数にのぼるような制度を採用するかというと、つまるところ「人間はわがままだから」である。 オダキンどんとオダキンが目下狂いちゅうの「艦これ」について話しているときに述べたが、イギリスはナチの信奉者が多い国だった。 信奉していなくても、ドイツ人はイギリス人は兄弟だって言ってるんだから、ま、事をあらだてなくてもいいじゃない、という人間が労働者階級から商店主のような「中の下」くらいまでには多かった。 ヒトラーは経済復興させてえらいじゃん、ヘンなやつだけど、という程度の意見が主流だった。 当時はゲーリングにパーティに招かれたりして、頭に血が上って、すっかり公然たるナチ支持者になっていた「翼よ、あれが、おパリの灯だ」のチャールス・リンドバーグがイギリスで講演をぶって歩いた年には、下層階級は熱狂してナチを支持する始末だった。 ヒトラーは、ウインストン・チャーチルの、良く言ってカスター将軍時代の騎兵隊将校なみだった人種意識を熟知していたので、イギリスが「ユダヤ人をみなぶち殺してしまいましょう」「有色人種なんてストーブにくべて燃やしちまうべ」のナチを拒絶すると考えた事はなかった。 実際、チャーチルがチョー有名な「イギリスは浜辺でも、丘でも、至る所で戦って決して降伏することはないだろう」という演説をぶったあとのヒトラーの反応は、PTSDというか、それがおおげさならば、失恋した十代の高校生みたいな反応である。 イギリス人は冗談で「ヒトラーはウインストンが下層階級人へ、どのくらい差別意識をもっていたか知らないんだな」と述べあって、くっくっくっ、と笑い合ったが、お上品ブログをもってなるガメ・オベールブログとしては、話題として下品なので、これ以上は述べない。 イギリスは現実の「バトルオブブリテン」開戦を決意しなければ、あのときに滅びたに違いないが、これほどの重大な決断をくだすのに英国議会は選挙をやりなおして「民意を問い直し」たりはしなかった。 僅差で負けるに決まっている国土防衛戦を決めて、ルフトヴァッフェという巨大なゴリアテに、軍備予算をけちったせいで、植民地軍に紫電改で植毛したていどの空軍で立ち向かうことに決めたのだった。 もちろんマジメに空を覆うドイツ軍に勝てると考えた人間などいなかった。 民主主義に「精神」などはない。 あってはならないので、民主主義は精神のようなものとは無関係に厳格な手続きでなくてはならない。 最近はニュージーランドのようにMMPを導入したりして「民主主義の精神」を取り戻す運動に熱心だが、MMPは、よく知られているとおり、第三党がキングメーカーになって、民主主義を麻痺させることに役立っただけだった。 300人の議会で、151人の賛成を得た開戦方針は「国全体の方針」であり、あるいは100人が棄権した議会で、101人が賛成をすれば、それもまた国全体の方針である。 民主主義では、前提がそうだから選挙を棄権することも積極的な政治行動とみなされる。 選挙の棄権も投票行動なのである。 日本の社会を眺めていると、そうまでして民主主義を行う必要はない社会に見えた。 個々人の「わがまま」さという個人のがわから社会に対して崩壊を求めてはたらく圧力がなくて、消費税が3%あがっても、その影響でインフレが2.5%になったと喜び、フクシマで原発が爆発すれば、「ここで逃げるとたいへんなことになるから、みなで自重して動かずに家にこもって放射能について正しく考えられるように一生懸命勉強してから心配しよう」と言い合って、けなげにも、日がな一日、頭から放射性物質をどばどばと、ぶちかけられながら、本を開いて、えええーとセシウム134の半減期が30年で、ストロンチウムは測定してないから後で心配するとして、すぐに健康に影響はないから大騒ぎすることはないんだな、ふむふむ、とベンキョーに勤しむ。 これがニュージーランドなら、とっくのむかしに国は空(から)になって、国民は全員オーストラリア人に化けている。 放射性物質のような、自分のキャリアと関係のないことをいばりんぼうの科学者の自己満足を満たしてやるために勉強するような奇特な人間がいるとは思えないが、いたとしても、誰がどう考えても安全なところにいきなり逃げて、本を開くのはそれから、ということになるだろう。 現に福島県で原発の爆発を知ったオーストラリア人は、知った瞬間に職場を出て自転車に乗って南下しはじめて、途中でなぜかからっぽの美術館で眠ったあと、成田まで自転車をこいで逃げて、その足で飛行機に乗ってシドニーまで逃げた。 いまはまた日本にもどっているらしいが、それはそれで、いろいろ考えてみて、西日本なら大丈夫と思ったからであるらしい。 日本の近代は国ごと軍隊じみた社会を作って、民主主義など不要な国民を製造しておきながら、見栄えの良いファサードとして民主主義を正面にとりつけたが、アメリカにその家を焼かれてからは、アメリカがつくって置いていった民主主義の洋式の家に畳を敷いて、傍目にはなんだか居心地がわるそうな生活を送っている。 … Continue reading

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夜に歌えば

Emiliana TorriniやTina Dicoのようなひとびとの歌を聴いていると、「音楽をつくる」ということから一種のものものしさが消えて、「ふつうのこと」になっているのが実感されて、やはりそれは良いことだろうと思う。 Rihannaのチームはマーケティングにすぐれていて、Rihanna自身が尋常でない「商品としての輝き」を持っている。 商業主義にすぎないとdismissってしまうひともいるが、才能のある人間が自己を商品として投企したときにみせる一瞬の輝きは、あのとき「肉体よりも短命な魂」という言葉でいいたかったのは、人間としての純粋さというよりも人間であることをあきらめてしまえる人間の純粋さのことだった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/10/01/「純粋さ」について/ もともと「クリエイティブな人間」が好きではない。 この世界に自分が生み出した新しい価値をつけくわえる、などというのはその人の一生にとっても世界のがわからも余計なことであるようにおもえる。 退屈な人間、無難と判断された、他人と同じことしか言わない人間、他人をくさしたり嫉妬したり、嫌悪することしかできない人間は論外だが、創造的な人間というようなものにも、なるべく顔をあわせないで生きていかれればそれに越したことはない、といつも考えていた。 エマヌエル・スウェーデンボルグによれば、この世界は神の世界のコピペで出来ていて、しかも神の地獄と天国の止揚を理解できなかった人間たちは、パチモンの天国のようなやすっぽい平穏をつくってしまったので、もともとは地獄で永遠に議論を繰り返したかった種類の人間たちを怒らせてしまった。 たとえば西洋語圏の人間の本音はふたつで、ひとつは「ぼくは自分でない人間は嫌いなんだよ」で、もうひとつは「ぼくは自分に入会資格があるようなクラブの会員にはなりたくないのさ」だと思うが、その両方のケーキを手にもってかぶりつくわけにはいかないので、苦し紛れに「クリエイティブがよい」と言い出す。 コピペになりきるだけの能力がないので創造者になりたいというのは、おわらいだが、人間はそういう理不尽で頭のわるい夢を見られる程度には健全な白痴なのである。 砂漠のなかの一本道の脇にクルマを駐めて、すぐそばに見える砂丘をこえてみると、向こう側には赤い岩と赤い砂と赤い夕陽のほかにはなにもない。 まるでオブンのなかに立っているような夏の乾いた空気でかさかさになった皮膚が、あっというまに赤くなってゆく。 荒涼と豊穣はとても似ている。 月の荒涼たるひからびた岩の広がりに「豊穣の海」と名付けたひとは、そのことの皮肉に気づいていたに違いない。 トルクメニスタンを出て、イランへ向かい、インドに向かった人類の祖先は圧倒的な豊穣に似た虚無の荒野を歩きながら絵を描かずに音楽をつくった。 絵は過去の認識への現在の自分の形式の表明だが、音楽は認識がかなわないことからの自己の魂の解放でありうる。 その点ではもともと音楽はとても詩に似ている。 人間がチャンツに意味を持たせて、「歌う」ことにすぐになじんだことには必然性以上のものがある。 だからクリエイティビティなどは、どうでもよいことで、人間は魂が自分で剥がれておちてしまわないために歌うのである。 現代の人間にとっては、どちらかといえば歌ったり踊ったりすることは呼吸したり歩いたりすることに似ている。 日本の政府が夜12時以降に踊ることを禁じたのは、日本人たるもの日本という生産性の部品であって人間ではないのだから夜12時すぎというような労働に向かない時間には出来れば呼吸もとめて棺桶の置き場にもどって労働が再開される次の日の朝までおとなしく寝てろ、という日本人らしい親切心なのだろう。 あるいは頼まれもしない自分たち役人の役をやりたがる国民の頭の悪さにうんざりした若い役人が忙しいだけで退屈な仕事に飽きて試みた国民への謎かけに似た皮肉か。 ガールフレンドと別れて、青空が粉々になって落ちてきてしまったような、茫然とした気持でひと夏をすごしたコスタブラバのホテルで、テラスに出て、ベタ凪ぎに凪いだ海をみていたら、どの通りにも南米の国の名前がついているホテル裏の別荘地から、どういうことなのか、絹のようになめらかであるのに張り詰めて強い、素晴らしい声で、トスカの「Vissi d’arte」が聞こえてきたことがあった。 誰かがステレオを聴いているわけではなくて、肉声で歌っているのです。 Vissi d’arte, vissi d’amore non feci mai male as anima viva! で、歌詞が歌詞なので、マンガじみて、チョーかっこわるかったが、両手で顔をおおって泣いてしまった。 その夜、暗いテラスの椅子に座って、一年ぶりに天使の絵を描いたのをおぼえている。書き上げたエメラルドを散りばめたティアラをつけて麻のドレスを着た天使の絵を眺めながら、「なんだ、また絵が描けるようになったのか」と、まるで他人の描いた絵をみるような気持で考えた。 … Continue reading

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日本という思い出のために

福島第一発電所の事故が起きる前は、一年のうち3ヶ月くらい日本にいてもいいなー、と思っていた。 付き合いの長い友達はおぼえているに違いないが、東北大震災が起きるちょうど一年前くらいに、ぼくは日本の家を引き払おうと決めた。 理由は「退屈だったから」で、日本が退屈な国であるというよりも、自分がやりたいことが日本では出来ないから、と自分では思っていた。 いま考えてみると、もしかしたらすべりひゆ(←イタリアに20年くらい住んでいる日本人の友達です)が述べていたように、自分で認めないだけでホームシックだったのかもしれない。 もう最後のほうは、どうにもこうにも日本にいるのが嫌で、十全計画に従って立てた5年間11回の遠征プランに従って、なんだか意地みたいになって日本にいたが、いま考えてみると、すべりひゆが言うように、また日本に行けばいいだけのことで、さっさと連合王国なりニュージーランドなり、自分がほっとできる英語国に帰ってしまえばよかったのであると思う。 日本はふらふら歩きに良い国で、たとえばモニとぼくはよく銀座へでかけて「デパ地下」をうろうろした。日本という国は、ドアの開き方、指を立てる代わりに折る数の数え方、こっちに来いという手振りがさよならの身振りだったりでいちいち西洋と逆で面白い国だが、試食できるものと出来ないものまで逆で、ワインやチーズは全然ダメか、冗談なのかとおもうほどちょっぴりしか味見させてもらえないが、寿司のようなものは、お腹がいっぱいになりそうなほど食べられたりする。 佃煮のようなものは、うーん、ほんとうにこれ食べられるのかな、と思うものが並んでいたりするが、どういえばいいのか、並び方が綺麗で、上品と呼びたくなるほどで、どうして日本人は食べ物のプレゼンテーションがこんなに上手なのだろう、とよくモニとふたりで話したものだった。 いまはもう売ってしまった広尾山のアパートから、暑くなければ歩いて青山によくでかけた。 東京は冬ならば歩くのにとてもいい町だが、シンガポールと同じで、頭で考えているときには、あそこを散歩しよう、ここを散歩しようと思っていても、いざ実際に着いてみると、どうにも暑くてタクシーを使う以外には方法がなかった。 日本の暑さは湿気のせいなのか、深刻で、ぼくはほんの5分くらいも歩くと、気分が悪くなって、よく嘔いたし、モニのほうは一回の滞在に一回は救急車で送られる始末だった。 日本にはラムが少なくて、牛肉はなんだか怪しい感じがするので避けていた。 ひょっとすると、暑さに奇妙なほど弱いのはそのせいかと考えて赤肉の代わりに蕎麦を食べることにしたら、最後の夏はふたりとも割合平気だったので、ミネラルのなかになにか特に足りないものがあったのかもしれない。 白木のカウンターに腰掛けて、顔見知りの料理人のおっちゃんと話をしたり、もちろん読もうと思えば「お品書き」を読めたが、めんどくさいので、あんまり何も言わなくても、こちらの好みをおぼえていて、「次はひろうすにしますか?」というようなことで、次から次に作ってくれるのは有り難かった。 日本酒は、水のようで、びっくりするほどおいしい飲み物で、特に「立山」と「樽菊正宗」が好きだったが、よく飲み過ぎてモニに笑われた。 夜更けに歩いていて、最も安全な感じがする都会はマンハッタンであると思う。 子供のときは両親がよく東京の安全な夜について話していたが、おとなになってからは、特にアメリカ人やオーストラリア人の女のひとびとから、嫌な話をたくさん聞いていたので、東京がいわれるほど安全な町ではないのが判っていた。 それでもロンドンやシドニー、オークランドの中心部のように、危ないのか危なくないのか、そもそも夜遅くにでかける習慣がない町よりは安全だと感じていたし、そんなことをいうと日本のひとにちょっと悪いような気もするが、なにしろ歩いている人がどのひとも物理的にとても小さいので、舗道で、ぶつかってすごまれたりしたこともあるにはあったが、子供にすごまれているような気持がしてふきだしてしまったりして、危ない危なくない以前に現実の町のように思えないところがあった。 ものごとに対する考えがいいかげんなので、ぼくは、他人について「表面がちゃんとしていれば頭のなかで何を考えてもいいや」と思うほうである。 ほんとうは純真だが態度が悪い人間より心のなかは邪悪そのものでも礼儀にかなった立ち居ふるまいが出来る人間のほうが遙かにのぞましい。 どんなに良いひとでも、食べ物をくちゃくちゃ音を立てて食べる人とは自然と二度あうことはないし、なれなれしい人間ほど話していてつまらない人間はない。 あとで遭遇したインターネットでの激しい嫌がらせを考えると、なんとなく日本の人の内心と外見の相関は想像がつくような気がしたが、眼の前にいる日本人は、常に折り目正しく、きちんとしていて、親切を極めていたので、ぼくはいまでも日本人は好きである。 なぜ可笑しいのか判っているように見えないのに周りが笑うと一緒に、さも可笑しげに笑ったり、よく判ってくれていないのに、頷いたりする人は多くて、奇異な感じがしたが、しかしそれも日本という文明の一部なので、気になるということはなかった。 日本語インターネットは「本音の世界」と見なされているらしくて、ニセガイジンだ、外国人がそんなに日本語が上手なわけはない、とよく言われて、数えてみると、この集団のひとたちはもう5年間もストーカーで、どういう種類の情熱なのか考えていて不思議な気がするが、友達たちと話して反応がみたくて、怒った「ふり」をしてみせたりすることはあったが、いまではばれている通り、別にたいして嫌だったわけではなかった。 日本語世界にとっては、ぼくが知っている人から「真剣に自殺を考えました」というemailが来たりしていて、特に「はてな」コミュニティに屯しているようなひとたちは、もう少し自分のやっていることを考えてみればどうか、あるいは、どんな社会の言論においても最も重大な「ふだんはものを言わないひとたち」の、でかかった声を塞いでしまっている、いまの集団サディズムがまるごと横行する日本語インターネット世界では、「聴き取りにくい声」がちゃんと聞こえてくるような世界は夢のまた夢で、それが夢でおわっているうちは、たとえば言論の自由にも表現の自由にも何の価値も無いことに気が付いたほうがよいとは思う。 ぼく自身は、日本語を使って考えているときだけ存在する、まるで自分にとっては見知らぬ他人のような、ガメ・オベール、大庭亀夫というダジャレでつけたふざけた人格が攻撃されているだけのことで、怒れと言われてもどうもピンと来ない。 戦争中に砲兵士官で、ジャングルを疲れ果てながら行軍して、ただ飢えのなかで歩き回るだけのことで戦争が終わってしまったひと、という認識しかなかった山本七平と同じことだというひとがたくさん来たので、そのひとたちが口にするイザヤベンダサンという筆名の「ユダヤ人論」のようなものを飛ばし読みに読んでみたが、ぼくの感想はユダヤ人の聞き書きなのではないか、という頭のいかれた感想で、「イザヤベンダサン」といういかにも初めから誰がみても「わしはニセガイジンだよん」な名乗りをみても、名前をだしたくない日本通のユダヤ人が話したことを日本語で書いたように見えた。 もうひとつよかったことは、山本七平という複数の角度からものごとを観察するという日本人には少ない才能を発見して、最近日本語を読むのがめんどくさくてたまらないので、まだ読んではいないが、いつかは読む日本語の本として、出版されているこのひとの本は全部買いこんだ。 親日反日というのは、最後まで自信をどうしても持てなかった日本のひとたちが、廊下のつきあたりの薄暗い隅の鏡に映った自分の姿に一喜一憂する自分の影への気の毒な反応にしかすぎない。 言葉として、ほとんど意味が不明な「反ニュージーランド」はもちろん、世界中で圧倒的に憎まれてきて、憎まれることを当然とおもっている連合王国人ですら、誰かが「反英」か「親英」かなど考える習慣をもたないことをおもえば、ハリウッドの女優たちですら、たとえば反捕鯨反イルカ漁への発言をもとにして、誰が親日で誰が反日かを分類しようとする、日本の人たちの姿の悲しさ寂しさは文字通り筆舌につくしがたい。 全国紙まで取り上げる「テキサスおやじ」の国民的な人気にいたっては、物悲しいというよりも、悲劇そのものに近い感じを与える。 日本が豊かで平穏な社会を築きながら、まるで未開な国の社会のようにふらついたり激昂したりする不思議で病的な症状をみせるのは、やはり日本語という壁にとざされているからだろう。 日本のひとの、たとえば、このひと http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n272325 などは特に排外的な意識もなく、ものごとを中立に観ようとしている姿勢がわかるひとで、実際、この「日本人が海外旅行をしなくなった20の理由」も、日本のひとには多い意見をまとめているだけに見えるが、 「外国人は特殊な体臭のつよさがあるから」と当然のように述べてみせたりする、ごく自然な人種差別意識や、ゼノフォビア、自分と変わらない人間としてどうしても女びとをみることができない文明の性質としての女性差別、というような日本語人の特徴がよく現れていて、豚肉や牛肉を材料にケーキはつくれないというか、もっと直截に日本語で暮らしていては世界をみることはできない、と簡明に言ってみるべきか、 たとえば「日本のレストランは世界一おいしく、リーズナブル」というのはほんとうではないが、この部分が「ほんとうでない」とあっさり納得できるひとは日本に住んでいるひとでは海外に何年も住んだ人も含めて存在しないのではないだろうか。 日本が好きなのは理由は簡単で「他と違うから」である。 Westfield http://corporate.westfield.com/properties/us/ というモールがある。 … Continue reading

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ITARUさんのつくったドミュメンタリ「新日本風土記ー日本列島だしの旅ー」

「Umami」は新しく英語の語彙にくわわった日本語由来の言葉で、日本語で文章を読む人なら意味は説明するまでもない。 英語世界では新しい概念で、第一、わしガキの頃は、「うまみ」や「だし」を「臭み」と感じる人が多かった。 21世紀になった頃から日本料理が急速に普及して、日本料理と言えば寿司のことだったのが、あっというまに「弁当」が普及し、「ラーメン」が人気者になっていった。 40歳をすぎて、成人病になると、アメリカの医者は「このままの食習慣だと死ぬから日本人が食べるものを食べろ」と言ったりする。 マンハッタン人の年長の友達で、医者の恫喝にしたがって、やむをえず日本食を渉猟することになって、いろいろ試してみて、「とんかつ」が気に入って、毎日アップタウンの和光が経営するとんかつ屋に通っているひとがいて、医者に体重が減らないじゃないかと言われて、「アドバイス通り日本食ばかり食べているが減らない」と嘆いている人がいるが、このひとはむかし肝臓を傷めて「一日にワイングラス二杯まで」と言われてワイン一本分がまるまるはいる金魚鉢のようなワイングラスを特注させて飲んだ(←わしの偉大な叡知による入れ知恵)のと同じひとなので、多分、なにもかも知っていてやっているのだと思われる。 健康が理由で流行になった日本食だが、流行してみると、「どんぶり」というようなものは便利で、どこの国でも主に韓国系人のビジネスだが、バッフェ式で、どんぶりにご飯をよそってもらって、ワゴンに入ったトッピングを、エビフライ、とんかつ、照り焼きサーモン、照り焼きチキン、とご飯の上にてんこもりにして、支払いカウンタにもっていく。 簡便なランチとして人気があります。 そうこうしているうちに日本へ行って「幕の内弁当」や「松花堂」を見てカンドーした人が出て来て、「Bento」を始めたが、これもあっというまの大当たりで、Filemaker社の簡易データベースのソフトウエア名にまでなった。 ほとんど真打ちのようにして登場したのがラーメンで、マンハッタンにいるときには、チェルシーとビレッジのボーダーくらいのところにある家を出て、ユニオンスクエアを通って、イーストビレッジに歩いて行くのが最も頻繁な散歩コースだが、途中に出来た「一風堂」 http://www.ippudony.com はいつみてもものすごい行列で、ぶっとんだものだった。 東京にいるときには、ラーメンはあんまり好きでなくて、義理叔父と酒をのみにいくと、なぜかこのひとは酔っぱらったあとにラーメンを食べたがる人で、わしは酔うとチョコレートかなんかチョー甘いものが食べたいのに、ついでに言うと、いいとしこいてひとりでラーメン屋に行くのはさびしいらしくもあって、ねー、ガメ、一緒に行こうよ、ね?ね? もちろんおごるし、帰りのタクシー代も出してあげるからさー、と女衒のような口調で、わしをラーメン屋にたらしこもうとする。 香妃園の鳥そばから始まって、時間が早ければ(いまはもうないらしいが)品達のくじら軒、はては深夜の全然わけのわからないラーメン屋に至るまで、ラーメンがあまり好きでなかったのに、よく思い出してみると案外あちこちのラーメン屋に行っているのはそのせいである。 午前3時の森閑とした広尾山に降りたって、ガリガリくんをかじりながら、またラーメンを食べてしまった、なんということだ、と我が身の悲運をなげいた。 こんなもん、なんで日本人は好きなのかなー、と思っていたラーメンはしかし、そう思っているわしをおいてけぼりにして、あっというまに世界じゅうで大流行になってしまい、ロンドンにも、おパリにすらラーメン横丁が出来て、マンハッタンでも一風堂は行列が長くて嫌なので、ずっと先の「せたが屋」 http://www.ramensetagayany.com に歩いて行かねばならない。 こういう日本料理の大流行は、要するに、それまでは野菜とチキンとビーフの「ストック」くらいしかなかった「だし」や「うまみ」に目ざめたからだと思われる。 世界で最も味覚が保守的なのはスペイン人だと思われるが、やや開明的なバルセロナですら、中華料理はディアグノルに一軒あって、ほかにもどこかにあったかなーという程度で、インド料理屋に至っては年がら年中つぶれている開店ホヤホヤのインド料理屋が合計3軒存続している瞬間があればよいほうで、タイ料理ですらフィリピン人たちがやっているブッダバーのパチモンのような店が流行っているだけで、ながいあいだ「アルデンテ」の観念が存在しなかったイタリア料理店はいくらかあるが、残りは殆どスペイン料理で、アジア料理にいたっては日本料理だけが例外的に繁栄している。 流行、という段階は終わって、日本料理は定着して、どこの国でも生活の一部になっている。 英語でbuckwheat noodleと言われると、馬さんかなにかの食べ物のようで、「ほんとうに食べられますか?」と訊きたくなるが、「そば」も「うまみ」のおかげで、マンハッタンにもおいしい蕎麦屋が出来ている。 わしは「ココロンそば」 http://cocoron-soba.com/index.html が好きだったが、Sobakoh http://www.sobakoh-nyc.com もうまいと思う。 両方とも、なんだか日本でもたくさんはない上品な蕎麦です。 ITARUさんのドキュメンタリは、初めに本枯れのカツオブシがでてきて、それから羅臼の昆布、縄文時代のダシの中心だった河豚、… と出てくるが、たとえば昆布ならば英語ではseaweed、「海の雑草」というくらいで、食べられもせず、役にも立たない害草がweedの定義なので、ほんとうをいうと「seaweedを食べる」というのは論理的矛盾、よくて差別表現である。 厨房にでかけて、自分の家の料理をつくってくれる人と話してみたら、枕崎の本枯れ節がちゃんと取り寄せてあった(^^ 昆布はなくて、「だって、あれは放射性物質で危ないでしょう」ということだった。 調べてみるとオークランド工科大学が、いままでは毒草あつかいになっていて、採取することそのものが違法だった昆布とワカメを養殖する研究が去年から始まっていた。 西海岸のわさび農場と並んで、やはりアメリカや欧州での需要のおおきさを聞き及んで大学と政府の支援で事業化するものであるらしい。 ITARUさんのドキュメンタリを補足すると「うまみ」はアジア的なもののなかでも海洋と関連が深いもので、たとえばスリランカのひとはカレーに打ち砕いたカツオブシをいれるので有名である。 タイ料理もナンプラーがある。 ベトナム人もニョクマムが大好きで、ぬるぬるした魚をとっては、「だし」にしていた大古のアジア人の姿が目に浮かぶ。 一方でアジア料理なのに、まったく「うまみ」「だし」のない文明も存在して、四川料理は、「本格四川料理」を食べるとみなびっくりするが、山椒で食べさせる、といえばいいのか、たとえば本来の麻婆豆腐は、カアアアーンとカタカナで音がしそうに辛くて、「うまみ」というような柔弱な感覚は拒絶している。日本やマンハッタン、ロンドンにある、あの辛さのなかからうまみが響きだしてくるような麻婆豆腐は、要するに日本の味で、ダラスのわしがよく行った中華料理屋のおっちゃんに訊いたら、なんのことはない、おっちゃんは昔は横浜の中華街で修行した人だった。 クライストチャーチでうまみのある麻婆豆腐を出していたひとも同じだったので、案外、大半がそういう事情によっているのかもしれない。 内陸人はうまみなど、取り立てて重視しないのは、つまりは魚と縁がない、ということなのだろう。 … Continue reading

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アニメとマンガと表現の自由と

小学校を出たばかりのときだったかにテレビアニメ「美少女戦士セーラームーン」が放送禁止になるかもしれない、と聞いてびっくりしたことがある。 連合王国ではなくニュージーランドでの話で、あんまり興味がないので観ていなかったが、日曜日の朝にやっているアニメで、なんで「放送禁止」なのか子供の頭でもわからなくてこまった。 フィリピンでは日本のアニメ番組全部が禁止になったという話があったり、いやそんなことはない、という意見があったり、1994年のことで、まだインターネットが普及していなかったので、おとなのほうでも情報があやふやで、なんだかよくわからなかったのだろう。 ただそのときに数は少ないが世の中には、と言っても当然英語世界だが、熱烈に日本のアニメを嫌悪するおとなたちがいて、ほとんど情熱的に子供への害を説いていることに気が付いた。 いま思い出してみてジョン・バンクスだったような気がするが、激烈な調子で日本のアニメのようなindecentなものの健全な社会への侵入を許して良いのか、と議会で演説している議員の厳しい口調を思い出す。 子供の理解力でさえ、「健全な社会」というのがニュージーランドのことを指していることに気が付いて、可笑しかったのをおぼえている。 自分で自分を健全だという人間にろくな人間はいないだろう。 社会も同じことである。 北欧人の友達の家に遊びにいくと、その友達の祖父母、というようなひとたちが来ていて、むかしばなしをしてくれることがある。 最も驚いたのは、70年代初頭のストックホルムなどは、街角のあちこちに滅茶苦茶なハードコアポルノの写真が目に付くところにあったという思い出話で、小学校の子供たちが通学する道の途中に、性器を露出させた女のひとの写真があったりしたという。 1993年にドイツ圏スイスのドライブインで、純真なガキンチョであったぼくは相手の男の性器を口にくわえて上目遣いに顔を見上げている若い男の写真が表紙になっている雑誌を見て、ひきつけを起こしそうになったことがある。 表紙半分にかけてある剥離式のフィルタが剥がれていたのだと思うが、ずっとあとにストックホルムの昔の街頭風景を聞いて、ああいう感じか、と考えた。 いまインターネットを観て確かめるのがめんどくさいので、ほんとうかどうか判らないが、スウェーデンの街頭から性交ちゅうの男女や、どういう必然性からか大股開きで性器をこちらに向けて艶然と微笑んでいる女びとの写真の表紙が消えたのは法律で禁止されたからではなくて、「自然となくなった」のだという。 ほんとかなー、と思うが、自然となくなったと、より若い世代が感じられる程度に社会が成熟しているのはほんとうなのだろう。 バルセロナのアパートは、ふだんはひとに貸してあるので、いまどきの需要にあわせてマルチチャンネルサービスをひいてある。 アニメチャンネルをつけて、カバ(スペイン製シャンパンです)を飲みながら、カウチに座って眺めていると、「金田一少年の事件簿」をやっている。 「うる星やつら」も、もちろん「ドラゴンボールZ」もある。 欧州人はアニメにおいても「クラシック」が好き(←冗談)なので、日本では見向きもされないかもしれないアニメがまだ子供にも人気がある。 あるいは2005年の頃ならば昔は存在したマンハッタン・ユニオンスクエアのボーダーズの二階へ以前にはそこにあった現代詩を買おうと思って駆け上がってゆくと二階の売り場がまるごとマンガになっていてのけぞったりした。 家からクルマで15分くらいのところにあるASBグラウンドで行われる「コスプレ祭り」を観ていると、日本のアニメは退潮気味で、初音ミクやラムちゃんのコスプレというようなものは年年少なくなっていて、アメコミものが増えている。 振り返ってみると、英語アニメで最も日本のアニメの影響が強かった「ガーゴイル」 http://en.wikipedia.org/wiki/Gargoyles_(TV_series) がテレビで流れていた1990年代の半ば頃が日本のアニメの人気のピークで、ピークという言葉を使うとその後は衰退したように聞こえてしまうが、そうではなくて、小さい子には相変わらずピカチューは大スターで、それよりおおきなローティーンからあとはベンキョーがあんまり得意でない子や皆と一緒にいてもそこにいるのを忘れられてしまうタイプの人間が好きになるカルチャとして定着したと思う。 ヲタクカルチャーで、麻生太郎のときの日本政府が夢見たように主要輸出産業のひとつに育てようというのは、日本アニメ人気をおおきく見積もりすぎていてピントがずれていると思うが、日本人への新しいイメージ「ヘンテコだけど面白い」イメージをつくるのにはとても役に立った。 ぼく自身は日本にいるときに60年代のマンガが気に入って蒐集した。 初めに好きになったのは漫画では水木しげるで、ご多分にもれず、ゲゲゲの鬼太郎や、あのなんとも言えない造形の魅力がある妖怪たちが好きで、原画や画集も手にはいるものはすべて蒐集した。 だんだん集めてくると気が付くのは60年代の少年漫画は、途方もなく好戦的で、「大空のちかい」(九里一平) http://amzn.to/1hb8HN5 や、「ゼロ戦レッド」 http://amzn.to/1ngwvaq というような当時の人気漫画を読むと、英米人の横暴と、それに抗してアジア人の代表として悲劇の戦いを戦う勇敢な犠牲者としての日本、という、いまのインターネット言論とまったく同じ主張が繰り返されているのにすぐ気が付く。 貸本時代(1940年代後半から50年代)の水木しげるもたくさん書いているが、もう少し遡った初期貸本時代少年漫画の大半はもっと戦争讃美の日本軍を悲劇的英雄的に描いた戦記もので、読んでいると、どうやら、アメリカの軍靴のしたに踏みつけられた鬱憤を、おとなたちは子供相手に漫画を舞台に晴らそうとしていたように見える。 ずっと読んでくると、60年代後半の北杜夫(←斎藤茂吉の息子)くらいが、そこまでは完全に日陰者で、害ばかりがあってくだらないものの代表とされていた漫画を擁護しだした人の嚆矢で、漫画を熱心に擁護して相手と議論する対談がみかけただけでふたつもあったから、このベストセラーの1位になることが多かった作家の漫画の市民権獲得にはたした影響力は強かっただろうと思われる。 やがて「劇画」が登場する。 粗い、荒んだ線で描かれた絵物語で、最も最近まで続いたもので言えば「ゴルゴ13」や「子連れ狼」がこのジャンルに該当する。 当時の定義に従えば「ジョジョの奇妙な冒険」も漫画であるよりは劇画であると思う。 劇画は全共闘世代と共に社会の表面にあらわれた。 白土三平の「カムイ伝」が典型で、ここから漫画=劇画の絵物語世界は子供を押しのけてオトナのものになったように見えます。 実際、反抗するものの象徴として、当時は吉本隆明などの現代詩人と小説家では高橋和巳などごく少数が文学的代弁者として存在した全共闘世代にとって、既成文学に代わって「文学として機能するもの」が劇画の正体であるようでした。 「あしたのジョー」のような漫画も、だから、劇画の役割をはたした漫画で、いま表面に見えているようなスポーツの闘魂漫画では全然なくて、社会に抗して灰になるまで戦う主人公を自分に重ねた、いまの目でみると、ちょっと自己愛が強すぎるように見えなくもない読者達にとって、「無名戦士」の物語として読まれていたことは、当時の週刊誌を読めば簡単に看てとれる。 … Continue reading

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中身のないパイについてのノート

日本は社会における競争が少ない、という点で良い国であると思う。 英語圏は「国」としては、70年代80年代のスランプから蘇ったが、個人からすれば競争地獄の悪夢のような社会になったとも言えるだろう。 向こうに用事があって、この頃、家にはオークランド大学の学生がよくやってくるが、見ていると、はっきり言ってしまえば職業訓練校の学生のようなもので、21世紀にもなって「自分の職業的な将来」のために大学で学問をする学生がたくさんいる。 「役に立つ学問」なんて、やっても面白くないんじゃないの?という質問が、そもそも何を実質としているのか理解できないほど「実用の学」しか眼中にない学生が多くて、大学として退屈であると思う。 しかし、人間としての自制心は立派なものでインターネットは2時間に限っている。 コンピュータのスクリーンの前に座る、というような機会は長い文章を書くときにしか起こらなくて、彼等にとってはインターネットはスマートフォンの小さな画面のなかのものである。 「細切れの時間」を埋めるためのもので、「楽しいムダ」としか意識されていない。 こっそり日本語で述べるのは酷いが、それもこれも競争の激しさのせいで、たとえばいまオークランド大学一年生で第二学年はカリフォルニアのバークレーで過ごそうと考えている都市計画の学生は、世界中に英語を母語とする競争相手が充満しているのをよく知っている。 いったん社会にでれば、たとえばニュージーランドは世界で最も起業をしやすい社会なので、銀行にビジネスプランを説明して、テキトーにいま頭のなかでありそーな初めのビジネスをでっちあげると、会社をやめて園芸店用のDBをつくる会社を興すことを決心した30代後半の情報科出身者がいるとする。 こういう場合、ニュージーランドではベースになるDB付きソフトウエアと顧客と経営環境がセットになったビジネス全体として7万ドル(600万円)程度で買えるでしょう。 ビジネスブローカーと交渉して、事務弁護士を立ててビジネスごと買う。 園芸店用の売り上げ・在庫管理ソフトウエアというようなものはニッチビジネスなので、オカネが儲かる上限のキャップも低くてどう成功しても年20万ドルもいかないと思うが、ビジネス自体の競争は小さい。 彼はまず7時半に起きて朝食をつくり、起きてきた配偶者とふたりの子供と食べて、8時になる頃には子供をクルマに乗せて学校へ連れていかねばならない。 営業職の奥さんは、タウロンガに出張なので、明日の夜帰ってくるから、と述べている。 空港へは自分のクルマで行くから、送ってくれなくても大丈夫です、という。 朝から顧客と電話で話しあって、ソフトウエアのバグ取りや改善、カスタマイズとやることは山のようにあって、3時半になれば子供を学校へ拾いに行かねばならない。 4時半までは自分で子供の相手をして、ベビーシッターが5時に姿をあらわすと、子供を預けて、また会社にもどって、そこから8時まで仕事をする。 家に帰ると、皿洗い機に汚れた皿を並べ、洗濯機をまわして、やれやれ今日も一日が終わったと人心地がつくのは10時くらいのことになる。 だいたいこのくらいが最も楽な一日の姿で、たとえば大学でディグリーをとっていなければ体育館よりもおおきな巨大な倉庫のなかで、東3番の棚の上から3段目にあるクリートをフォークリフトでとって、トラックが集まっている集積所にもっていけ、というような指示が出るモバイル端末に、しかし、よくみると画面の右下には「合計2分40秒」というような「推奨作業時間」も出ている。 常に急かされている。 事務職は事務職でマネージャーが統括しているのは、8時間の勤務時間ちゅう、いかに部下を絶え間なく労働させて、隙間無く生産性で埋めつくすかが問題で、管理側も労働側も、考えてみればわかるが、「仕事をするふり」が入る余地の無い「8時間」というのはたいへんな労働で、夕方の退社時間になれば、みな青ざめた顔をして、疲労困憊の表情になる。 大学の研究職ならば、もう少し創造性を発揮するのにふさわしい時間のペースがもらえるかというと、全然そんなことはなくて、そもそも契約が二年であったりする。 二年経って目立った業績があがるとか、指導する学生が顕著に進歩する傾向をみせるというような「明瞭な」変化を研究室に与えられないとクビになってしまう。 なぜ落ち度がないのにクビになるかというと、同じ生産性ならばあとから来る、より若い研究者のほうが好ましいからで、あるいは同程度の能力でも2年前と同じ人よりは違う人のほうが大学から見ると好ましいからです。 職業別に事情をずらずらと書いてゆく気はしないが、考えの基本は「雇用継続の保障を与えずに絶えず不安定な状態におく」「常に(自分よりも少ない賃金で)同じかそれ以上の仕事をする人間が自分の後ろに控えていることを意識させる」ことが現代社会の雇用の根本で、もうひとつだけ、あたりさわりがないように過去の事例のなかから典型的な例を挙げるとイングラムに競争者として破れた流通会社のミラセルは、正社員の営業担当者がトイレに立ったり、昼食に出るときだけかかってきた電話を取っていいインターンを営業部署のベンチに控えさせていた。 営業正社員がランチにいっているあいだにインターンがおおきな注文を取ったり、あるいは、ジャマイカへ短い休暇をとって遊びにいっているあいだにインターンが大活躍をしたりすれば、戻って来たときにはもう机は無くなっている。 段ボール箱に私物をいれて、終業までまたず、その場で退職することになる。 卸業の勝者として生き残ったイングラムのほうは、もちろん、これより厳しいシステムをとっていたので生き残った。 競争原理を導入して、ムダをなくし、ひとりひとりの労働者の生産性をしぼりだすように吸い尽くすシステムを社会を挙げて推進した結果、英語圏諸国は、経済世界に帰り咲くことになった。 具体的には労働人口の1割が突出して生産性が高い社会、と言われていた1割が、2%になって、そのかわりこの突出した部分は生産性の高さというよりも労働価値の創造を求められるようになった。 このブログ記事をさかのぼると過去記事には実名で登場する数学科出身の22歳の女のひとが典型で、このひとは数学の手法を駆使して、銀行が貸し出しに用いうるクレジットを従来の数倍にひきあげた。 1千億円しか貸せなかったのが数千億円の貸し出しができるようになった。 日本ではクレジットクランチで、こういう新しい金融方法全体が崩壊したのだと誤解している人が多いが、そんなことはなくて、クレジットクランチを引き起こしたのは、実際には(年齢でいえば)40代50代の理論を理解できないまま、「ほんじゃいくら貸してもいいんじゃん」になった金融人たちで、金融革命そのものは、クレジットの創出理論も含めて、奇妙な例をだせば馬車が自動車に変わったのにいまさら交通事故が増えたからといって馬車の時代に押し戻せないのと同じ理由で、旧式のやりかたに戻るどころか、もっと先へ段階がすすみつつある。 「2%」の役割は、「突出して仕事の成果があがる」役割から創造へと変わったわけで、会社側からみると、ここにしか賃金を払う必要を感じなくなったせいで、「まんなか」というようなものは会社のなかでも不要になってしまった。 アメリカでは「good life」はもう存在しない、というのは常識になっている。 企業でいえば、かつてのヒューレットパッカード社に代表されるような、「社員はみな家族」というようなコミュニティをグループ内にもち、敬意をもたれるマネージャー達が存在して、年収でいえば1億円内外をもらい、会社のなかで「重鎮」として育ってゆく、というような社員生活はいまではなくなってしまった。 「good life」というようなものはなくなって「great life」と「shitty … Continue reading

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In Dire Straits

すっかり投げやりな気持になって、赤い岩のうえに寝転んで、マヌケなくらい青い空を眺めながら葉巻をふかしていた午後のことをおもいだす。 ラスベガスからクルマで30分くらいのところにある丘で、ぼくは大学生の頃、奇妙なほどその場所が好きだった。 ラスベガスに行くのはブラックジャックのためだったが、わるいシューにあたって、あっというまに数千ドルがなくなると、なんだか足下をすうううっと風が吹き抜けるような気がする。 今日は、もうここで席をたって、同じテーブルのひとびとに夜の挨拶を述べて部屋にもどったほうがよい、と思うが、飲み過ぎたカクテルも手伝って、また次のシューを待ってしまう。 数千ドルが数万ドルになり、十万ドルを越えて負ける頃には、もうすっかり気持は倒錯して自分が持つ有り金が早くすっかりなくならないかな、そうすればもうここにいなくてもいいのに、と考え始める。 大西洋を越えて家に帰るオカネどころか、来週の部屋代が払えるかどうかも怪しくなって、最後の100ドルチップをディーラーにお礼として渡してテーブルから立ち上がる頃には、きっとぼくは途方もなく青い顔をしていたのに違いない。 カシノにおける賭博は、家では悪い遊びということにはなっていなくて、「堅物」を絵に描いたような父親ですら欧州のカシノにはときどき出かける。 アメリカには存在しないが、VIPクラブには鏡の裏に警察の隠し小部屋があって、足下にポテトチップのかけらが転がっている警察官たちの横でカメラがまわっている。 「ガメ、きみが昨日握手していた、あの皮ジャケットを着た男は、なんと言って自己紹介したか知れないがモブの大立て者だから気をつけたまえ」というような電話がかかってくることがよくあった。 いつも会うたびに趣味の良い石鹸の匂いをさせている若い美しい女のひとがいて、若い人間はカシノには少ないので、自然とお互いを認識するようになって、カシノのバーのテーブルをはさんで食事をしたりするようにもなったが、ある日、こちらは以前から顔見知りの、やはり盛大な美人の、聡明で愉快なおばちゃんである売春婦たちの親玉に会うと、あなた、このあいだ、うちの子と一緒に食事してたわね。驚きました。あなたはわたしに向かって売春のようなものは嫌いだ、と言っていたじゃないの、あの子は昼間も仕事をするから石鹸の良い匂いがするのでしょう? と言われて、年寄りたちが述べるように、(しかも日本語でなら語呂まで合って)若者はなるほどバカモノなので、カウチに身体をまるめて、頭のわるいガキそのままに泣いたりしていた。 こうやって考えていると、大学生の頃の自分はいつもいつもバカで、いつもどん詰まりで、明るい場所に向かって歩いているつもりで、現実は地獄から地獄へ渉っているだけの揺れるタイトロープの上を、暗闇の向こうにあるのもまた地獄だと気が付きもしないで、自分では慎重をきわめたつもりの足取りで歩いていただけだった。 人間の一生なのだから、これから転落の一途をたどって最後は破滅する、という可能性は常にあるが、そうして、20年後の自分はもしかするとモニさんの実家の作男として寂しい後生を送っているかもしれないが、ここまではなんとなくつじつまがあってしまっていて、それがなぜかと振り返ると、(いつものように木に触りながら言わねばならないが)ただ幸運だったからである。 ヘロインに中毒して家族に内緒で身体を売ってヘロインを買い求めるカネを稼ぐ週末の安ホテルの部屋で無惨に殺された高校生を自業自得だと嗤える人間は、よほど現実というものへの想像力を欠いている。 クラブで出会った見ばえのよい、笑い方が少年のような男の子についていって、両親に内緒の初めての性的な冒険を企てた夜に、部屋についてみれば、そこには男達が待っていて、一生をまるごと破壊される長い夜を朝まで過ごさねばならなくなった17歳の女の子と、その自業自得を指弾する「良識のあるおとな」の女とのあいだには何の違いもあるわけがない。 もしあるとすれば、「良識」が年齢とともに沈潜したオトナの側の冷血だけであると思う。 若い人間の失敗を「自分に隙があるからだ」と糾弾しうる人間は、自分もかつてはちょっとsillyで、楽しいことが大好きな若者であったことを忘れてしまっているに違いない。 そうでなければ人間としての感情をどこかで落っことしてきてしまったのだろう。 売春を繰り返して自己嫌悪に駆られる若い女や、飲酒と麻薬の繰り返しから他人を誤って殺してしまって悔恨に駆られる男は、いつでもきみでありうる。 殺人の罪を犯す可能性のない人間など存在しない。 自分で自分を踏みにじる機会をもたなかった人間など、この世界にはいるわけがない。 ぼくは人よりも早く高等教育を受けはじめて、いろいろな学問に手をだして、オベンキョーの魅力に取り憑かれた数年を送ったが、一方では同じ自分が週末に酔っぱらって自動車をひっくりかえして火をつける高校生たちや、移民達の暴動に便乗して商店のウインドーを破って、ただ週末のスリルのために商品を盗み出す無職の人間たちが群れる街頭を歩いていた姿を訝しく思い出す。 何においても優等生的な日本のひとびとが聴けば大阪府警に通報したくなるだろうが、危険な地区を避けるどころか、夜更けの広場ひとつ横切るのでも、暴力と遭遇するのをいつも心待ちにしていた。 どんなふうに説明しても、判らない人には判るわけはないが、多分この世の中で最も恵まれた境涯に生まれたのに、ぼくは世界が嫌いだった。 どうしても好きになれなかった。 この世界が滅びてしまえばいいと思っていた。 壮大な破壊が起きて、この世界がまるごと滅びてしまえばどれほどいいだろう、と願っていた。 ただ、それを口には出さなくて、他人に不快感を与えない、きちんとした身なりで、話しかけられれば機知をもって答えて、話す必要がないときには、それが取り柄だと他人にいつもからかわれる、穏やかな微笑みを浮かべていただけで、心のなかはまっすぐに破壊の王がすむ暗闇につながっていた。 世界を破壊したい気持と世界を変革したい気持とは若い人間の心のなかではまったく矛盾しないで同居している。 中毒した人のように好きだった数学や賭博、常軌を逸した量の読書の泥沼にはまりこみながら、ぼくは気が付くと「おとな」の浜辺に打ち上げられていた。 長い失神から覚めた、考えの足りない青年の、その呆けた顔を不思議そうにのぞきこんでいたのがモニだったのだと思う。 結婚して、ふたりの「小さな人」があらわれて、なんとなくずっとふつーの人だったような顔をして、庭のガゼボに座っている自分を自分自身で眺めると、とてもヘンな感じがする。 人間の意思の主体性などは、そもそも存在しないのではないか。 それ以前に、いったい現実というものはほんとうに実質を伴った現実なのか。 自分は(必要ならば神と呼んでもいいが)誰かの妄想のなかに生きているのではないか。 人間が人間である理由は「終わりの無い議論」や「決して解答されることのない疑問」をもつ能力があるからだと思う。 なにを訊いてもただちに整然とした解答をもって応える人間などは、要するになにも自分の考えなどなくて、どこかのうさんくさい教室の片隅で教科書をあわてて暗記してきただけの人間なのだろう。 だから、ぼくは疎まれながらでも、ここにいつまでも立っている。 くぐもった声で、つっかえながら、しぼりだされるようなきみの吃音が聞こえるようになるまで。 「聴き取りにくい声」が聞こえる日まで。 きみとぼくが友達として出会える、その日まで。

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憲法第九条の終わりに

“L’Italia ripudia la guerra come strumento di offesa alla libertà degli altri popoli e come mezzo di risoluzione delle controversie internazionali; consente, in condizioni di parità con gli altri Stati, alle limitazioni di sovranità necessarie ad un ordinamento che assicuri … Continue reading

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勇魚が沈んだ海で

国際司法裁判所が日本の「科学的調査捕鯨」を不当としたことで最も打撃をうけたのはシー・シェパードのポール・ワトソンだろう。 この、英語世界では「ならず者」イメージでとらえられているシー・シェパードのボスが、鼻つまみ者に近い印象にも関わらず、殆ど興業じみた日本の捕鯨への妨害や、あまつさえ、テレビの人気シリーズにまでなって、元はファッションモデルの美しい妻と結婚し、いわゆる「セレブリティ」のひとりになって巨額のオカネを稼ぎ得たのは、「あの男はどうしようもないが、日本の破廉恥なウソツキぶりを考えれば、やむをえない」という太平洋諸国の、英語人的な現実主義によっている。 簡単に言えばポール・ワトソンは日本政府が行っていた調査捕鯨自体の「ウソ」に寄生していたようなものだが、宿主(しゅくしゅ)がいなくなってしまっては、これから先やっていける見通しがない。 もともと提訴した当時のオーストラリア首相ケビン・ラッド自身が勝訴するとは考えていなかった。 政治的には在任末期は「行きすぎだ」という世論に押されて対中国投資規制策に動かざるをえなかったが、「ケビン・マオ」と言われて茶化されたくらいで、明然と中国贔屓だったケビン・ラッドは、見え隠れする「日本こそが有害な国なのだ」という秘匿された(それでも口にして言われないだけで誰でもが知っている)政治家的な信念にしたがって、日本の、根拠が子供だましと呼びたいくらいにインチキな調査捕鯨を絶対に許さないというオーストラリア人の総意を明瞭に示すために、元外交官らしい「外交ジェスチャ」として訴えたのにすぎなかった。 アメリカは以前に書いた「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/24/ヒラリー・クリントンの奇妙な提案/ に従って、対中国への結束や南太平洋におけるアメリカ=ANZAC同盟の強化のために巧妙に日本の太平洋人全体をうんざりさせている虚偽にみちた日本の科学調査捕鯨を存分に利用した。 「反調査捕鯨をアメリカ=ANZACのシンボルにする」というヒラリー・クリントンの巧妙で天才的と呼びたくなるほどの外交的ひらめきは、見事に奏功して、本来はニュージーランド人がおもいついた「小国間貿易協定案」に過ぎなかったTPPに、ほぼ無理矢理加盟してTPP自体の意味をおおきく変えてしまうことによって、新しいスタイルの「アメリカの太平洋支配」を確立してしまった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/03/17/tpp/ これによって仮に日本が将来もういちど繁栄することがあっても、太平洋では孤立した孤独な国家として、小さな列島に政治的には押し込められることが保証されてしまったので、日本は捕鯨によって太平洋における政治的未来を失ってしまう結果になった。 公開文書で日本政府を弾劾してしぶしぶ現実を認めさせたのはイタリア人たちだけだが、日本はもともとIWC加盟国にたいへんな金額をばらまいて調査捕鯨への賛同をとりつけてきた。 それ自体は、日本の人の口吻をまねれば「誰だってやってることじゃないか」で、特にどうということはないのかも知れないが、少し目を離して距離をとって、国際政治的観点からこれを眺めると、自己の省庁の権益という当事者の役人にとってのみ重大なことで、日本全体にとっては国益どころか日本という国と民族自体への信頼をまるごと破壊するために「裏金」を動かした国というのは歴史上も珍しい。 (日本語の意味ではなくて英語の意味の)正真正銘のサボタージュで、しかもそれを政府自体がやってのける、という例は、もしかしたら歴史のどこかにはあるのかもしれないが、聞いたおぼえはない。 近代遠洋捕鯨の直截の淵源は戦後の食糧危機に際してGHQが本国に緊急食糧支援を依頼して断られたことにある。 窮地に陥ったGHQのなかの知恵のあるものが、 1 日本には復員した旧帝国海軍軍人が大勢失業して腕を撫している。 2 戦前戦中に培った造船技術と熟練職工が健在である ことに目をつけて、赤城や加賀の機動艦隊の代わりに捕鯨船団をつくってクジラを大量に捕獲すればどうか、と提案して採用された。 GHQの号令一下、日本人はあっというまに船団を組み上げて、むかしは主砲塔で測距儀をにらんでいた海軍砲手が、今度は銛打ちの砲の後ろに立つことになった。 遠洋航海は船にのらない人には想像もつかないほど難しい技術だが、まして艦隊行動となると、たとえば一流のスキッパーでも伝統に裏打ちされた知識がなければ、たとえば現今の中国海軍のような、いまできの海軍では10000キロ航海など望むべくもないが、八紘一宇の狂気に駆られて、オーストラリアの庭先、珊瑚海でまで大海戦を行った日本人にとっては、朝飯前の仕事、お茶の子さいさい、玄関先で靴紐しめるほどのやさしい仕事で、南太平洋をクジラの血で染めて、意気揚々と日本へ大量の「タンパク源」を持ち帰ったものだった。 捕鯨問題の全体はこのブログの初め頃になんどか書いた。 そのたびにわけのわからない人が集団でやってきてうんざりしたが、もう時効だから述べると、特にオーストラリア=ニュージーランドで、ただ同胞の船団がこの両国の裏庭の海にきてクジラを殺しにやってくるというだけのことで、夏のシーズンになれば面罵され、難詰されて、子供達にいたっては殴られて大怪我をするのが捕鯨期の毎年の行事となっていたオーストラリア=ニュージーランド在住の日本のひとびとが気の毒だと考えたから書いた。 あるいは都会ならば当の日本の人に面と向かって言わなくても、陰ではずいぶん酷いことを言うおとなたちがいたのをおぼえている。 毎年、毎年、日本人に対する、ウソツキ、恥知らず、野蛮人、という評判はつみあがっていって、到頭、(証明はされず犯人と疑われる4人組は無罪放免になったが、町の噂では)殺されてエーボン川に浮かんでいた日本人留学生も、捕鯨が理由だったというにいたって、日本語で捕鯨が日本の外交的評判を落とすことにしかならないこと、このまま行くと少なくとも南太平洋から日本は完全に影響力を失うことを書いてみようと考えた。 それがもともとはゲームブログだったこのブログ記事が政治的なことにまで言及するようになった初めで、結果はさんざんで、他国の伝統文化に口をだすな、から始まって、おまえらはキリスト教かぶれなだけだからそんなことをいうのさ、果てはニセガイジンに違いないがあらわれて、零細ブログであるのに、いまに至るまで6年間しつこくあちこちであの手この手で中傷誹謗を書きまくるストーカーまで、あらわれて、日本人友達に「有名人みたいで、すごいじゃんw」と笑われる原因をなした。 当時、心配した問題は、悪い事に現実になって、ヒラリー・クリントンの提案は発展して、日本は遠からず太平洋の同盟自体から外されることになるだろう。 同盟内にとどまる唯一の方策は憲法第九条を捨てて片務軍事同盟を正常な双務同盟に組み直して、かつてベトナムで韓国人が日本人の身代わりのように戦って多くの発狂者をだしながら辛酸をなめたように、アフガニスタンや日本近海、あるいはマラッカあたりまで進出して、アメリカ人と肩をならべて戦闘を戦うことだろうが、いずれにしても、クジラを捕る我を押し通すために払う代償としては、桁違いどころか、次元違いに高いものについてしまった。 日本はおおげさに言えば調査捕鯨を強行して、太平洋でも持っていたものを、なにもかも失ってしまったに等しい。 日本は国際司法裁判所で敗訴が確定するとたちまち、「それでもわれわれは調査捕鯨を強行する」と発表して、さっそく太平洋沿岸諸国の憤激を買ったが、しかし、政治的には、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドといった諸国は、日本の調査捕鯨を利用しつくしたので、もうあとはどうでもいいのだとも言える。 気が付いている人もいるだろうが、慰安婦問題、南京虐殺、重慶無差別爆撃、というような「日本が絶対に認めない戦争犯罪」に目を付けて、「ヒラリー・クリントンの奇妙な提案」が捕鯨に担わせたのと同じ象徴的役割を、東アジア人たちは「日本が絶対に認めない戦争犯罪」に負わせようとしているが、日本は今度は調査捕鯨のときと違ってうまく対応するだろうか、とときどき考える。 日本人には自分で自分を徹底的に煽って、アドレナリンがふきだした状態で、相手への憎悪を、しかもなぜか相手には伝わるわけがない日本語でわめきちらして、すっかりその気になって自滅する面白い国民性があるが、また、そうならないといいけど、と思います。

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花束を、きみに

人種が科学的にはすでに否定された概念であることは以前にも書いた。 たった5万年まえに次第に緑を失う村に不安をもって、たちあがって、緑の道をたどって北東へ歩き出したアフリカ人の小集団が、いまの、すべての人類の祖先である。 「5万年」という直感的には短すぎる年月で、これほど形態が異なるということを信じられなかったために、こんなにも長く人間はお互いを傷つけあい、システム化された殺戮までおこなってきたことを考えると、誤った直感が大災厄をもたらすのは科学の世界だけではないのがわかる。 オークランドの東側にあるリミュエラの家から20分ほどクルマを運転して高速道路を西へ行くと、サンドリンガムを中心としたインド人たちの街があって、ポリネシア人やミドルイースタンやパキスタン人、シュリランカ人たちが混在している。 ニュージーランドは「隣国」のオーストラリアまで2200キロあるという途方もないド田舎だが、それでも21世紀の国で、21世紀の社会なので、クルマを駐めて街を歩くと、白い優美な民族服を着たムスリムのアフリカ人たちや、ブルカをかぶった女たちがたくさん歩いている。 いつかはBPのペトロ・ステーションの前で8人ほどのノーマッドの男達が信号を待ってたたずんでいて、その場でそこだけ異次元であるような、ノーマッドたち特有の姿勢のよさ、すらりとした姿が浮き立って、その姿のあまりの美しさに、モニとふたりで息をのんだりした。 モニとわしの他はアフリカ人たちしかいないハラルフライドチキンの店で昼ご飯を食べて、エチオピアン・カフェやパキスタニ・カフェがあるモールをのぞいたり、この辺りではたいへんな人気があるハラル肉店で、チキンティカ用につけこんである鶏肉を買ったりする。 他民族の人間をみるときには「人間の姿の美しさ」というものがわかりやすい。 犬さんや猫さんは人間をみて、どう審美の対象にしているか、あるい、2本足でのびあがって移動するヘンなやつらだとうんざりしているかわからないが、人間の眼には人間の肉体が最も美しい自然であると感じる。 むかしから木が好きで、夏の暑い日に木陰をつくってくれるオリブの木やマンゴーの木、なにもない乾燥地で目印をつくってくれるガム・トゥリー、風にゆれる楡の木や。リムや黒松の森林が好きだったが、あるいは陸影のみえないブルーウォーターにでて、モニとふたりで素裸で泳いであそぶ海の、じっとみていると狂気におちいりそうな無限の水のひろがりや、フランスやアイルランド、ブリテン島の形をまねしてみたり、いつかはまるで人工的にそうしたような白く輝く十字架があらわれたりして、おもしろがらせたり、畏れさせる積雲が浮かぶ青空の美しさは子供のときからなじみのある美しさだったが、人間としての意識が充実して、宇宙を眺めるための言語が成熟した体系を整えはじめると、人間の美しさにかなう自然はこの惑星の上には存在しない、と気が付く。 砂漠の民たちは、オークランドの雑踏のなかを歩いているときでも砂漠を歩くような歩き方で、背筋がのびて、人間の立ち姿には「ポスチュア」というものがどれほど大事なものか教えてくれる。 ラテをにっこり笑ってさしだすエチオピア人の女の人の眼は、漆黒、という言葉を思い出さないひとはいないほど深い黒で、感情という感情をのみこんでしまいそうな色をしている。 4万年以上も、ビタミンDの不足のせいで実際に短命だったほど太陽の光が少なかった北欧人は、青ざめたように白い肌で、でも家具を説明しながら微笑みかける眼は、あたたかい明るい灰色で、スウェーデンの自分の故郷からやってきた家具を、誇りが隠せない様子で説明してくれる。 子供のときのイギリスは退屈な国で、なによりも文化が単一で価値の体系がひとつしかないということが退屈で、その頃から中国の人や日本の人はたくさんいたが、なんだかそれは「よそのひとたち」ということになんとなくなっていて、ひどい言い方をすると、眼の前にいるのに、いないことになっていた。 特に不礼儀を怒るという人もいなくて、いないものには怒りようがなかった。 こうやって思い出してみると、まるで前世の記憶のようだが、街にはコーヒーといゆようなものさえ稀で、ファウンテンに行こうが、いまはもうなくなったフォルテに行こうが、飲み物は紅茶と決まっていて、スコーンにclotted creamやジャムをごっちゃりのせて食べたり、チョコレートサンドイッチや、クリームバン、アイスクリームがのった熱々のブラウニー、そういうものはもちろんおいしくて、貪り食べたが、バラエティという点では初めて真冬に夏の太陽をもとめて出かけたニュージーランドで「アフガン」を発見して妹とふたりで、あまりにエキゾチックなので欣喜雀躍して、店のひとに笑われたりした。 北のヨークへ行けば、いよいよ「白人」ばかりで、最大のパキスタン人人口をもつといういまでは想像もできないが、スワンホテルで昼ご飯のサンドイッチを食べて、表に出てみると、昼ご飯が遅ければもう夕方になるイギリスの冬の一日のばかばかしさで、もう夕陽がラグビーグランドをオレンジ色に染めはじめていて、子供の心に、もしかするとこの町はここ200年ほども同じ姿のままでこれから先も200年くらい同じなのではないか、と考えて、げんなりして、同じ年の夏にかーちゃんに連れられてでかけたマンハッタンを思い出して、うらやましい、と考えた。 ベトナム人たちがおおい町に行って、ベトナム人たちがやっている料理屋で、友達のもじんどんがうらやましがらせたフォーを食べて、ウガンダやエチオピア、ジンバブエからやってきたいろいろな土地のアフリカ人たちが日がな一日コーヒーを飲みながらだべっている店で、なぜかエチオピア人が淹れるとチョーうまいコーヒーを飲みながら聞くともなしにアフリカの国々の噂話を聞く。 そういう毎日が普通になると、とてもではないが、退屈な単一文化の毎日にはもどれない。 まだ人間が遠距離を移動する手段をもたず、英語という共通語ももたなかった頃は、 神様だけがこの光景を眺めて、「世界は多様でよいなあ」と雲の上で寝転びながら楽しんでいたのだとおもうと、神様と名前のつくひとは、なんという嫌なやつだろうと考える。 でもいまは人間も、たくさんの人種の、外形が異なる美しさを眼でたのしみ、言葉をかわして、そんな考えかたがあったのか、と眼をまるくして驚き、笑い転げて、いやしいことをいうと、ありとあらゆる種類のおいしい食べ物が15ドルもだせば食べられて、なんという良い世の中だろう、としみじみ考える。 子供のときの「真っ白な世界」のままだったら、と思うとぞっとする。 もしかすると、アフリカで爆発がはじまっている人口増に対して資源も絶対的に足らないし、人間はいつまでたってもバカで、進歩も何もなく貪欲で自分勝手でよいことはなにも理解できなくて気の毒なので、神様がついに人類が第4コーナーをまわったところで、せめてもの餞(はなむけ)に、一堂にならんだ、さまざまな人種とさまざまな文化という、最後の花束をおくりとどけてくれたのかもしれません。

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Robin Dunbarは「人間が安定した関係を維持できる他人の数の上限は高々148人である」と述べている。 http://en.wikipedia.org/wiki/Dunbar%27s_number 英語世界では広く受けいれられている理論で、いまよりさらに洗練された近い将来のSNSが拡張しうる「安定維持できる」知人の数の上限が500人程度になるはずだ、という理屈は、この(なかなか面白いおっちゃんでもある)Robin Dunbarの算定を元にしています。 言語がお互いの固有な自己の伝達に向いていない、というよく考えてみれば現代人にとって深刻な事実は、特に歴史的な知識やさまざまな仮説について知らなくても、自分が考えていることがどの程度相手にそのまま伝達することが出来るか、を観察していれば極く自然に納得される。 たとえば、そうではない、自分はあなたがただ好きなだけで、見返りなどは求めていない。 あなたは現実の世界にそんなことがありうるとは信じてもいないようだが、わたしはあなたと幸福に暮らしたいどころか、今日いまこのひとときにあなたがおだやかに笑っている顔を見ていられればいいだけで、ただこの瞬間が欲しいだけで、明日からもう会えなくなってもいい、というきみの気持を、相手に伝えようと決心したときの、現実上の困難、身もだえするようなもどかしさを想像してみればよい。 普段、人間がお互いの意思の伝達にたいした苦労を感じないのは、実は真剣に相手に自分の考えを相手に伝えようとおもっていないからで、人間の会話は通常、ばーちゃんがやっている煙草屋にじーちゃんがやってきて、「いつものセブンライトください」と言うと、 ばーちゃんは「はいはい、セブンスターですね」と述べてマイルドセブンを差し出す。 じーちゃんが「ありがとう」とていねいに述べてオカネを払って立ち去る、という光景に似ている。 相手がAAと述べると、聴き手は自分の言語領域を覗き込んでA’A”を発見して、照応させて、ああこれのことだな、と考える。 言語のこの性能の悪さは、だから言語をお互いの社会的関係に使用すると人間が決めた理由が「お互いに理解しあうため」ではなくて、単純に言語に伝達機能らしいものを持たせないと、人間関係に時間をとられすぎて生活そのものが成り立たなかったからであると思われる。 ダメでもないよりマシ、というか、もともと伝達機能など言語には期待されていなかったと信じられる理由がある。 第二次世界大戦の頃、antisemitismや個人としての人間の自由と全体社会の発展の対立というような、おおげさでもなんでもなくて、直截に自分達の世代を含めた人間の未来を決定する議論が深刻を極めたとき、人間は初めて、自分達の言語的なエキスパートたちをもってしても、そもそも議論というものが成立しない、というそれまで予想されたことがない困難に直面した。 W.H.Audenが、有名な詩句、「We must love one another or die」を「We must love one another and die」と変えてしまったことは前にもブログ記事に書いた。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/07/09/love-each-other-or-perish/ あるいは全体社会の発展と民族の「高貴さ」の発揚が、個人の「わがまま」に遙かに勝る人間の義務であることについてラジオを通じて語りかけた「巧みな詩人」エズラ・パウンドは、戦後長いあいだ文字通り沈黙して、ようやく1970年代になって口を開いてこたえたインタビューで、その理由を 「なぜなら人間の言葉は通じないから」と簡明に述べた。 人間の絶望は、人間が(半ばは生物的条件から)社会のなかでしか生きられないのに、個人として独立した小宇宙を形成してしまった人間は、自分というものを社会の他のメンバーに伝達する方法がなくて愕然とする、という悲惨な事実に由来している。 寄り添って、旅行先で撮った、ふたりが並んで微笑んでいる写真を眺めたり、朝、めがさめて、そっとのばした指の先に相手のあたたかな身体が触れたり、というような通常意識されているよりも遙かに本質的な「覆い」を取り去って、むきだしの人間の生活だけを突きつけられれば、(日本では自殺者の数がよく問題になるが)人間は自分で自分を殺しさって、この凄惨な世界から立ち去ったほうがよい、と考えない方が不自然なのであると思う。 言葉の厳格な意味においての個人主義は人間の社会では実現することができない。 それであるのに、たとえばフランス人が「個人主義」のみをよすがに一生を送っていける秘密は、「148人」に上限が限られた個々人が安定して居住できる「社会」の意外なほどの小ささにある。 次にこの148という数字のタイトルで戻ってくるときには、まず、その話から始めようと思います。

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