アニメとマンガと表現の自由と

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小学校を出たばかりのときだったかにテレビアニメ「美少女戦士セーラームーン」が放送禁止になるかもしれない、と聞いてびっくりしたことがある。
連合王国ではなくニュージーランドでの話で、あんまり興味がないので観ていなかったが、日曜日の朝にやっているアニメで、なんで「放送禁止」なのか子供の頭でもわからなくてこまった。
フィリピンでは日本のアニメ番組全部が禁止になったという話があったり、いやそんなことはない、という意見があったり、1994年のことで、まだインターネットが普及していなかったので、おとなのほうでも情報があやふやで、なんだかよくわからなかったのだろう。
ただそのときに数は少ないが世の中には、と言っても当然英語世界だが、熱烈に日本のアニメを嫌悪するおとなたちがいて、ほとんど情熱的に子供への害を説いていることに気が付いた。
いま思い出してみてジョン・バンクスだったような気がするが、激烈な調子で日本のアニメのようなindecentなものの健全な社会への侵入を許して良いのか、と議会で演説している議員の厳しい口調を思い出す。
子供の理解力でさえ、「健全な社会」というのがニュージーランドのことを指していることに気が付いて、可笑しかったのをおぼえている。
自分で自分を健全だという人間にろくな人間はいないだろう。
社会も同じことである。

北欧人の友達の家に遊びにいくと、その友達の祖父母、というようなひとたちが来ていて、むかしばなしをしてくれることがある。
最も驚いたのは、70年代初頭のストックホルムなどは、街角のあちこちに滅茶苦茶なハードコアポルノの写真が目に付くところにあったという思い出話で、小学校の子供たちが通学する道の途中に、性器を露出させた女のひとの写真があったりしたという。
1993年にドイツ圏スイスのドライブインで、純真なガキンチョであったぼくは相手の男の性器を口にくわえて上目遣いに顔を見上げている若い男の写真が表紙になっている雑誌を見て、ひきつけを起こしそうになったことがある。
表紙半分にかけてある剥離式のフィルタが剥がれていたのだと思うが、ずっとあとにストックホルムの昔の街頭風景を聞いて、ああいう感じか、と考えた。

いまインターネットを観て確かめるのがめんどくさいので、ほんとうかどうか判らないが、スウェーデンの街頭から性交ちゅうの男女や、どういう必然性からか大股開きで性器をこちらに向けて艶然と微笑んでいる女びとの写真の表紙が消えたのは法律で禁止されたからではなくて、「自然となくなった」のだという。
ほんとかなー、と思うが、自然となくなったと、より若い世代が感じられる程度に社会が成熟しているのはほんとうなのだろう。

バルセロナのアパートは、ふだんはひとに貸してあるので、いまどきの需要にあわせてマルチチャンネルサービスをひいてある。
アニメチャンネルをつけて、カバ(スペイン製シャンパンです)を飲みながら、カウチに座って眺めていると、「金田一少年の事件簿」をやっている。
「うる星やつら」も、もちろん「ドラゴンボールZ」もある。
欧州人はアニメにおいても「クラシック」が好き(←冗談)なので、日本では見向きもされないかもしれないアニメがまだ子供にも人気がある。

あるいは2005年の頃ならば昔は存在したマンハッタン・ユニオンスクエアのボーダーズの二階へ以前にはそこにあった現代詩を買おうと思って駆け上がってゆくと二階の売り場がまるごとマンガになっていてのけぞったりした。

家からクルマで15分くらいのところにあるASBグラウンドで行われる「コスプレ祭り」を観ていると、日本のアニメは退潮気味で、初音ミクやラムちゃんのコスプレというようなものは年年少なくなっていて、アメコミものが増えている。
振り返ってみると、英語アニメで最も日本のアニメの影響が強かった「ガーゴイル」
http://en.wikipedia.org/wiki/Gargoyles_(TV_series)
がテレビで流れていた1990年代の半ば頃が日本のアニメの人気のピークで、ピークという言葉を使うとその後は衰退したように聞こえてしまうが、そうではなくて、小さい子には相変わらずピカチューは大スターで、それよりおおきなローティーンからあとはベンキョーがあんまり得意でない子や皆と一緒にいてもそこにいるのを忘れられてしまうタイプの人間が好きになるカルチャとして定着したと思う。
ヲタクカルチャーで、麻生太郎のときの日本政府が夢見たように主要輸出産業のひとつに育てようというのは、日本アニメ人気をおおきく見積もりすぎていてピントがずれていると思うが、日本人への新しいイメージ「ヘンテコだけど面白い」イメージをつくるのにはとても役に立った。

ぼく自身は日本にいるときに60年代のマンガが気に入って蒐集した。
初めに好きになったのは漫画では水木しげるで、ご多分にもれず、ゲゲゲの鬼太郎や、あのなんとも言えない造形の魅力がある妖怪たちが好きで、原画や画集も手にはいるものはすべて蒐集した。
だんだん集めてくると気が付くのは60年代の少年漫画は、途方もなく好戦的で、「大空のちかい」(九里一平)
http://amzn.to/1hb8HN5
や、「ゼロ戦レッド」
http://amzn.to/1ngwvaq
というような当時の人気漫画を読むと、英米人の横暴と、それに抗してアジア人の代表として悲劇の戦いを戦う勇敢な犠牲者としての日本、という、いまのインターネット言論とまったく同じ主張が繰り返されているのにすぐ気が付く。

貸本時代(1940年代後半から50年代)の水木しげるもたくさん書いているが、もう少し遡った初期貸本時代少年漫画の大半はもっと戦争讃美の日本軍を悲劇的英雄的に描いた戦記もので、読んでいると、どうやら、アメリカの軍靴のしたに踏みつけられた鬱憤を、おとなたちは子供相手に漫画を舞台に晴らそうとしていたように見える。

ずっと読んでくると、60年代後半の北杜夫(←斎藤茂吉の息子)くらいが、そこまでは完全に日陰者で、害ばかりがあってくだらないものの代表とされていた漫画を擁護しだした人の嚆矢で、漫画を熱心に擁護して相手と議論する対談がみかけただけでふたつもあったから、このベストセラーの1位になることが多かった作家の漫画の市民権獲得にはたした影響力は強かっただろうと思われる。

やがて「劇画」が登場する。
粗い、荒んだ線で描かれた絵物語で、最も最近まで続いたもので言えば「ゴルゴ13」や「子連れ狼」がこのジャンルに該当する。
当時の定義に従えば「ジョジョの奇妙な冒険」も漫画であるよりは劇画であると思う。

劇画は全共闘世代と共に社会の表面にあらわれた。
白土三平の「カムイ伝」が典型で、ここから漫画=劇画の絵物語世界は子供を押しのけてオトナのものになったように見えます。
実際、反抗するものの象徴として、当時は吉本隆明などの現代詩人と小説家では高橋和巳などごく少数が文学的代弁者として存在した全共闘世代にとって、既成文学に代わって「文学として機能するもの」が劇画の正体であるようでした。
「あしたのジョー」のような漫画も、だから、劇画の役割をはたした漫画で、いま表面に見えているようなスポーツの闘魂漫画では全然なくて、社会に抗して灰になるまで戦う主人公を自分に重ねた、いまの目でみると、ちょっと自己愛が強すぎるように見えなくもない読者達にとって、「無名戦士」の物語として読まれていたことは、当時の週刊誌を読めば簡単に看てとれる。

70年代になると、まったくいまの団塊世代オトナ読者に押しのけられた漫画は、ずっとあとで、それぞれ劇画の時代に不振を極めたやなせたかしの「アンパンマン」や藤子不二雄の「ドラエモン」によって復権する。
一方では、もともとは子供の「漫画」用に用意されていた、「やわらかいやさしい線」で描かれたオトナを対象として漫画「めぞん一刻」のようなものがあらわれる。

この「めぞん一刻」を描いた高橋留美子の「うる星やつら」の主人公ラムちゃんについて、当時の週刊誌の小さなゴシップ欄のような記事に面白い書き込みがあって、「高校生のあいだではラムちゃんのキャラクタを使ったポルノ漫画を描くのが流行っている」とある。

だいたいこのくらいが60年代からずっと追いかけてきて初めに出てくる「二次元エロティシズム」の起源のように見える。

わが友オダキンは、いいとしこいて、顔をちょっと赤らめて短いスカートから下着をのぞかせている、というようなチョー悪趣味な「二次元」が好きで、この記事も要するにオダキンのことを考えていて書いているだけだが、表現の自由と「二次元」の関連を述べれば、そりゃなにを描いたって勝手でかまわないが、こんな幼稚で下品なものを愛好するなんて、表現の自由よりきみ自身の頭はダイジョーブか、という範疇の問題であると思う。
たとえばバルセロナのランブラには(少なくとも本人の見積もりでは)巨大なペニスを露出させて、歩き回るじーちゃんがいて、これは「表現の自由」に該当すると認められている。
http://www.aurelm.com/2009/06/10/the-emperors-new-clothes/

しかし、このじーちゃんが我こそは正義であると述べて公道でちんちんをまるだしにする「表現の自由」を基本的な人権と絡めて賢しら顔に論陣を張って主張すれば、スペインの社会は、あっというまにこの「表現の自由」を認めないことに決めるだろう。
大通りと小路の区別がつかないものに表現の自由を扱わせると社会全体が滅びる、というのは常識だからです。

「美少女戦士セーラームーン」の放送禁止提案が、その後、どうなったかというと、うやむやの上に立ち消えになってしまった。
たいして子供やティーエイジャーにうけもせず、日曜日の朝にとどまっている番組に目くじら(←目くじらとは目のどの部分のことか、図を描いて解答しなさい)を立てるほどのことはない、という気持の上に、そんなものを「社会的害悪」として禁止するのは社会の議論としてカッコワルイという気持と、第一、そんなもので「表現の自由」とかいう話になると情けなくて他国に移住したくなるからやめてほしいという社会の気分とで、うやむやむやうやと放送しているけど放送していないかのような、ニュージーランドには珍しいヨーロッパ的な解決になった。
未成年性犯罪に厳しい国柄ではあっても、自分の子供を観察して、この程度の影響ならダイジョブだんべ、と親が安心した、ということでしょう。

アニメと言えばトトロとSpirited Awayで、他のアニメにはあんまり興味がなくて、マンガも岡崎京子と水木しげるくらいしか読まない人間が何を書いても説得力がないが、
二次元で、子供がオトナに組み敷かれて喘いでいるマンガを見ても、「ま、日本だから」というか、ひとつの社会にはその社会相応の「常識」や「エロティシズム」があって、それが他の社会の常識に照らしていかにとんでもないものでも、自分が住む英語圏で問題にされないあいだは、どうでもいいや、というのが結論で、延々と喧嘩を繰り返して、尊敬するファイター内藤朝雄には「オダキンをいじめないで」とまで言われたオダキンとの会話も、もうこの辺でいいだろう、と考える。
日本という国は、だんだん判ってくると、常識や事実への認識すら他国人とはかけ離れた国で、そこに普通の議論が成立する余地がないのは、捕鯨や未成年ポルノや性差別、戦争犯罪、ここまでさまざまな話題を通して皆で確認してきたことなので、やっても意味がない議論はしないという民主主義の王道にしたがって、この辺で幕を下ろそうと思います。

二次元、下品だから嫌いだけどねw

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