自由の敵としての民主主義_1

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ニュージーランドの道路事情は大陸ヨーロッパに似てきた、と思うことがある。
高速道路で車線を変更するときに方向指示器を点滅させないのはあたりまえで、ラウンドアバウトでも方向指示器を使わないので、どこで曲がるつもりなのか判らないのは、(ラウンドアバウトについては妙にマジメな)フランス人よりもひどくて、この頃ではついにイタリアなみというか、信号が青だからと考えて油断してまわりをみないで交差点をわたると、びゅんっ、と赤信号で右折するクルマがある。
路脇に駐車しているクルマのドアがいきなり、どおおーんと開く、などというのは日常茶飯事で、いつか信号で停車していて追突されたクルマのバンパーを直しにいった保険会社指定のガレージで、のんびり世間話をしていて、「しかし、よくあれでドアをふきとばされないもんだ」と述べたら、おっちゃんが仕事の手を休めてにやっと笑うと、「ここにドアをふっとばされてやってくるクルマの数を知ったら、ガレージ商売はうらやましい、と思うかもよ」という。
ふきとばされるだけならば良いが、深刻なのは、ガソリンが高いのと健康ブームとで自転車通勤が増えたので、突然ひらいたドアに激突して死ぬひとが増えた。
夏のコモ湖の大渋滞にうんざりしながら、イタリアのドライバーは、なんでこんなに態度がわるいんだろう、と述べたら、ロシア人の友人たちが、後ろを振り向いて、ガメ、モスクワはこんなもんじゃないぞ、モスクワでは「渋滞」というのは反対車線に出て行ったクルマが行列して動かなくなることを言うのさ」というので、ぶっくらこいてしまったことがあった。
ニュージーランドは片側8車線というような雄大な道路がつくれないビンボ国の工夫として、中央分離帯のコンクリートブロックを専用の重機で、ちょうどジッパーをしめるように動かすという特技をもつ。
モスクワでは、そんなものがなくても、朝の通勤時には片側4車線の道路が市民の自発的意志によって8車線の一方通行道路になるもののよーである。
日本の人や韓国の人は、ニュージーランドに移民してくると、国民のわがままさに閉口する。
ニュージーランド社会に溶け込まないうちは「お客様」扱いなので、気が付かないようだが、ニュージーランド人になってしまうと、社会の現実の姿がみえてきて、化粧の下の素顔というか、ニュージーランド人のチョーわがままぶりに辟易して日本に帰りたい、と願うもののよーです。
しかし、以前にも述べたように、わがままと自由は本質的に同じものなので、その辟易狼狽は、要するに、「自由はもう嫌だから自由のない秩序正しい世界にもどりたい」ことだと翻訳できる。

前に個々人の自由をさして必要としない国民が生来のマジメさを発揮して黙々と政治制度としての「民主主義」を運営する奇妙な姿について述べたことがあった。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/02/12/芸達者/
日本にいるあいだじゅう、印象的だったことは、道路にゴミが落ちておらず、どの街角も清潔で、お互いに目があうたびに謝ってばかりいる日本のひとに、そもそも「民主主義」などいらないのではないだろうか、ということだった。

TPPの話のときだと思うが、会議でみなでとことん話しあって全員が賛成するまで話をするのは民主主義ではなくて全体主義のやりかただと述べたら、チョーものすごい反撥にあったことがある。
あ、やっぱり、と思ったのは内緒で、知らん顔をして、ええええー、なんで?と聞いたら、
「あなたは知らないだろうが民主主義というものは、そういうものなんです」という、がっかりなお答えばかりが返ってきて、なんだ、教科書で読んだだけか、けっ、と思ったものだった。

12人の人間がいて、7人がある方針に賛成するか、もっときわどい場合には、7人が信任したひとりの人間に全権を一定期間わたすのが民主主義的な手続きで、なぜそんな危なっかしくて、納得できない人間が多数にのぼるような制度を採用するかというと、つまるところ「人間はわがままだから」である。

オダキンどんとオダキンが目下狂いちゅうの「艦これ」について話しているときに述べたが、イギリスはナチの信奉者が多い国だった。
信奉していなくても、ドイツ人はイギリス人は兄弟だって言ってるんだから、ま、事をあらだてなくてもいいじゃない、という人間が労働者階級から商店主のような「中の下」くらいまでには多かった。
ヒトラーは経済復興させてえらいじゃん、ヘンなやつだけど、という程度の意見が主流だった。
当時はゲーリングにパーティに招かれたりして、頭に血が上って、すっかり公然たるナチ支持者になっていた「翼よ、あれが、おパリの灯だ」のチャールス・リンドバーグがイギリスで講演をぶって歩いた年には、下層階級は熱狂してナチを支持する始末だった。

ヒトラーは、ウインストン・チャーチルの、良く言ってカスター将軍時代の騎兵隊将校なみだった人種意識を熟知していたので、イギリスが「ユダヤ人をみなぶち殺してしまいましょう」「有色人種なんてストーブにくべて燃やしちまうべ」のナチを拒絶すると考えた事はなかった。
実際、チャーチルがチョー有名な「イギリスは浜辺でも、丘でも、至る所で戦って決して降伏することはないだろう」という演説をぶったあとのヒトラーの反応は、PTSDというか、それがおおげさならば、失恋した十代の高校生みたいな反応である。
イギリス人は冗談で「ヒトラーはウインストンが下層階級人へ、どのくらい差別意識をもっていたか知らないんだな」と述べあって、くっくっくっ、と笑い合ったが、お上品ブログをもってなるガメ・オベールブログとしては、話題として下品なので、これ以上は述べない。

イギリスは現実の「バトルオブブリテン」開戦を決意しなければ、あのときに滅びたに違いないが、これほどの重大な決断をくだすのに英国議会は選挙をやりなおして「民意を問い直し」たりはしなかった。
僅差で負けるに決まっている国土防衛戦を決めて、ルフトヴァッフェという巨大なゴリアテに、軍備予算をけちったせいで、植民地軍に紫電改で植毛したていどの空軍で立ち向かうことに決めたのだった。
もちろんマジメに空を覆うドイツ軍に勝てると考えた人間などいなかった。

民主主義に「精神」などはない。
あってはならないので、民主主義は精神のようなものとは無関係に厳格な手続きでなくてはならない。
最近はニュージーランドのようにMMPを導入したりして「民主主義の精神」を取り戻す運動に熱心だが、MMPは、よく知られているとおり、第三党がキングメーカーになって、民主主義を麻痺させることに役立っただけだった。

300人の議会で、151人の賛成を得た開戦方針は「国全体の方針」であり、あるいは100人が棄権した議会で、101人が賛成をすれば、それもまた国全体の方針である。
民主主義では、前提がそうだから選挙を棄権することも積極的な政治行動とみなされる。
選挙の棄権も投票行動なのである。

日本の社会を眺めていると、そうまでして民主主義を行う必要はない社会に見えた。
個々人の「わがまま」さという個人のがわから社会に対して崩壊を求めてはたらく圧力がなくて、消費税が3%あがっても、その影響でインフレが2.5%になったと喜び、フクシマで原発が爆発すれば、「ここで逃げるとたいへんなことになるから、みなで自重して動かずに家にこもって放射能について正しく考えられるように一生懸命勉強してから心配しよう」と言い合って、けなげにも、日がな一日、頭から放射性物質をどばどばと、ぶちかけられながら、本を開いて、えええーとセシウム134の半減期が30年で、ストロンチウムは測定してないから後で心配するとして、すぐに健康に影響はないから大騒ぎすることはないんだな、ふむふむ、とベンキョーに勤しむ。

これがニュージーランドなら、とっくのむかしに国は空(から)になって、国民は全員オーストラリア人に化けている。
放射性物質のような、自分のキャリアと関係のないことをいばりんぼうの科学者の自己満足を満たしてやるために勉強するような奇特な人間がいるとは思えないが、いたとしても、誰がどう考えても安全なところにいきなり逃げて、本を開くのはそれから、ということになるだろう。
現に福島県で原発の爆発を知ったオーストラリア人は、知った瞬間に職場を出て自転車に乗って南下しはじめて、途中でなぜかからっぽの美術館で眠ったあと、成田まで自転車をこいで逃げて、その足で飛行機に乗ってシドニーまで逃げた。
いまはまた日本にもどっているらしいが、それはそれで、いろいろ考えてみて、西日本なら大丈夫と思ったからであるらしい。

日本の近代は国ごと軍隊じみた社会を作って、民主主義など不要な国民を製造しておきながら、見栄えの良いファサードとして民主主義を正面にとりつけたが、アメリカにその家を焼かれてからは、アメリカがつくって置いていった民主主義の洋式の家に畳を敷いて、傍目にはなんだか居心地がわるそうな生活を送っている。
安倍晋三のように、「ほら、どうせあなたたちには民主主義なんていらないんだから、やめちゃいましょうよ。ね?ね? そっちのほうがバカもいなくなるし、良い世の中じゃありませんか」と述べる政治家があらわれると、なんとなく社会全体の表情が嬉しげである。

日本に行くまで「わがままな人間がいなければ民主主義なんていらないのだ」という当然のことに気が付かなかったことをオモロイと思っている。
民主主義は、誘惑に負けて安直なたとえをもちだすとアメリカが日本という世界を荒らしまわった好戦的な民族にはめた孫悟空の緊箍であって、日本は要りもしない政治制度を後生大事にいままで守ってきた。
最近は実質から腐敗していって、手続き自体があやふやになってしまい。首相が憲法の上位に位置してしまったり、政治上の運用で、憲法も法律も融通無碍になって、法律なんかあってもなくても同じ社会になりつつあるが、必要がないものは腐るものなので、仕方がないといえば仕方がないのではないだろうか。
もともと自由への強烈な希求がない国民に、その自由が暴発しないための装置を施しても、ただ足枷と感じられるだけなのだろう。
隣国の中国は日本とちょうど反対に、自由への激烈な要求をもつ国民が自分達をぐるぐる巻きにしている全体主義の鎖をぶち切ろうとして精いっぱいの力こぶをつくっている。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/02/19/荒っぽさの効用について/

このふたつの社会がどこへ行くのか、興味をもたないでいることは難しい。
この次、このタイトルでもどってくるときには、ではなぜ民主主義が自由の敵として機能するのか、
どのように民主主義が自由を抑圧する装置として働くのかを一緒に訪問して解明したいと考えています。

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One Response to 自由の敵としての民主主義_1

  1. snowpomander says:

    いまここ:2016年3月28日。外からみての「日本は要りもしない政治制度を後生大事に守って来た」を内側から見ると「日本は知りもしない政治制度を後生大事に掲げていた」だと思いますのい。WWllの前は英国や独逸から持って来た欧州風の政治に気触れていたような気配。文明開化以来の舶来路線を乗り越えよう!で「和洋根菜?羅洋混際?ぎかいせいじでもくあしー?あらららら」で戦争始めたからでしょう。政治は御上のもので庶民は野次ってればよかった。Always.

    小学校の学級異端審問で「この人がこれこれしました。悪い人だと思うなら手を挙げて下さい」という多数決は平等という前提での荒技を担任がいたしました。「悪い『人』」が裁かれるが「悪い『所行』」は不問になる仕組みでした。私は後に衆愚政治という言葉を知りましたが、あのときそれを言ったらさらに「とんでも悪い人」にされたでしょう。謹んでLOL.

     狸の作った泥の船が沈むの道理。カチカチ山の本来のお話では狸はオジイさんに嘘してオバアさんの肉を食べさせたの知ってる人が少なくなった。

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