Monthly Archives: May 2014

ゴジラ、再び

映画館のオットマンのあるカウチ席に半分寝そべって腰掛けて、ポップコーンとシャンパンをテーブルにおいて、ゴジラの雄叫びを聴けるときが来るとは思わなかった。 モニさんは前半やや退屈したようでしたが、まるでなつかしい友達に、ふたたび栄光のときが巡ってきたのを眺めるような気持で、自然と浮き立って嬉しくなる気持を抑え込むのがたいへんだった。 公開初日に観に行ったGareth Edwards版の「ゴジラ」は評判がよかったようで、いきなり3作目までの製作が決定されて、常に「新しいゴジラ映画」に飢えているゴジラファンとしては、やはり嬉しい。 ファンというのはめんどくさい人の異称なので、いろいろ言いたいことはあるが、聞けば、日本での公開は7月だそうで、そのまえにいろいろ述べては、そもそも行こうか行くまいかという判断にすら影響するだろうから喉元までこみあげている言葉を呑み込んで、いまはただ黙って微笑しているにしくはない。 子供のときからゴジラが好きなので、このブログにも夥しいゴジラへの言及があるのは、右下にある検索ウインドーに「ゴジラ」といれてみればすぐに判る。 世の中の映画シリーズのなかで「ゴジラ」シリーズくらい駄作が多いシリーズはないと思うが、「どこがゴジラやねん」の造形でアメリカゴジラファンを激怒させた1998年のハリウッドゴジラを別にすれば、妙に顔がかわいくなったゴジラが巨大化した正月のおせち料理の伊勢エビをぶん投げるだけの映画でも、振り付けするのに事欠いてゴジラが赤塚不二夫の「おそ松くん」に出てくる「イヤミ」のまねをして「シェー」 http://www.geocities.jp/hasu58/sepia/shee/shee.html をしても、顔をおおい、壁をたたいて悔しがりながらも、すべて赦してきた、その甲斐が、ついに報われつつある、と感じる。 ツイッタでは十全ガイジンの大庭先生も 「駄作がこわくてゴジラファンがやれると思っておるのか」と言っておられる。 ゴジラの出生や、由来、大きさ、強さ、すべて監督によって異なるが、これはすでにゴジラ研究者によって、異なるパラレルワールドのものだと説明されている。 監督のなかでは大河原孝夫と手塚昌明が最良の深刻なゴジラ観をもっているが、ゴジラ自体のキャラクタは1954年のゴジラがすべての「ゴジラ的なもの」の産みの親です。 異なる言語や社会にまたがるゴジラコミュニティは、それぞれ異なる嗜好や仮説、解釈をもっているが、1954年のゴジラこそがゴジラなのだという強い信念に異を唱えて挑戦するひとは、いままで観たことがない。 新作のゴジラ世界では放射能が危ないことになっているので日本では公開されないのではないかと言う人が何人かいた。 英語人でみかけたほうは何れも意地の悪い冗談だったが、日本のひとのほうはマジメに心配して、放射能が危険であることを示したところは全部シーンとしてカットされて、映画の最後のcredit(エンドロール)に 監修:「東京大学教授 早野龍五」 とか出てしまうのではないかと、いまからうつうつとしている人もいるよーです。 ゴジラはもともと核エネルギーを手にした人間を破滅させるためにやってくる「破壊の王」として形象された。 それは核エネルギーをもつことによって人間と自然の関係の「決定的な一線を越えてしまった」人間に対して地球そのものが送りこんできた絶対的な破壊の体現者として造形されている。 ゴジラはヒロシマでありナガサキでありビキニ環礁で高空にキノコ雲とともに放射性物質をふきあげる水爆そのものだった。 人間のレベルでの善なるものも悪も判別躊躇することなく人間の文明自体を絶対悪として善悪無差別に破壊するゴジラの始原的なキャラクタはそうやって出来上がった。 ドイツ人たちが名付けたハワイの南東2700マイルにある「ビキニ」という環礁は戦後すぐにアメリカが立て続けに行った原爆実験によって世界じゅうに名前を知られてゆく。 ピュリツアー賞を受賞した核ジャーナリストのRichard Rhodes http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Rhodes は、インタビューに答えて、 「当時、ビキニ、という名前は原爆の力強いイメージのせいでカリスマ的な響きを持っていた。 カリスマ的どころか、セクシーな名前だとすら考えられていてね、1946年にフランス人たちが考えた世界で最もセクシーな水着が『ビキニ』という名前になったのは、そのせいなんだよ」 と述べている。 ビキニ環礁と、そのまわりのマーシャル諸島が無人の列島だったわけではなくて、人間が住み、集落もあったが、アメリカ人たちに「放射能の健康への害はたいしたことはない。気を付けていれば大丈夫だ」と言われて、その「科学者」たちの言葉を信じた、この気の毒な、「白人」という権威に従順だった列島の住人たちは、いま当時のフィルムのなかの笑顔を観ても、屈託がなくて、世界じゅうの注目が自分達に集まっていることをまっすぐに喜んでいたのがよく伝わってくる。 そのあと十数年を経て島に現出した、地獄としか呼びようのない出来事の数々をまったく予期していない幸福の表情がそこにはある。 1954年3月、焼津の漁船第五福竜丸はビキニ環礁の近くで操業していた。 いま、第五福竜丸乗組員たちが放射性物質について無知だったと誤解する人がいるようにみえるが、現実には船員たちはアメリカの水爆実験「Operation Castle」 http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Castle の実施計画を詳細に知っていて、十分に注意を払って、アメリカ合衆国が広報した「避難区域」外で操業していた。 アメリカが設定した「絶対大丈夫」なはずの安全区域が、小さすぎて、現実には人体にとって危険だったのにすぎない。 無知だったのは日本人の漁船員たちではなくて、自信満々のアメリカ人「科学者」たちのほうだった。 第五福竜丸に限らず、同じ海域で操業していた数百隻のマグロ漁船が同じように放射性物質の降灰を浴び続けたが、そのなかで第五福竜丸だけが有名になったのは、久保山愛𠮷という名前の機関長が死亡したからです。 … Continue reading

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6X9=42

自分には知らないことがたくさんあるのだ、という当たり前のことを考える。 いまごろなにを言ってるんだ、バカみたい、と思う人がいるかもしれないが、ときどき「バカみたい」なことを考えるのがぼくの習慣なので仕方がないと思ってくれないと困る。 子供のときに父親の小さな図書館くらいはあるライブリにはいって、天井まで本がぎっしりつまった本棚を見上げて、へんな例を挙げると奈良の大仏をみあげているような、英語ならaweという単語がある気持に打たれてしまったことがある。、 本って、こんなにいっぱいあるんだ、とマヌケなことを考えながら、「死ぬまでに全部読めるのかな」と思った。 見つかると怒られそうな気がしたので、あんまり長い時間いないで退散したが、そのときのわくわくするようなこわいような気持がいまでも忘れられない。 その後、何年か経ってから、その夥しい「本」の向こう側には、たくさんのひとがいることがわかってきた。 まだ生きて新しい本を書いている人もいれば、もう何百年もむかしに呼吸をするのをやめてしまって、肉体が滅びてしまっている人もいる。 しかし、どのひとも、語り初めからすんなり呼吸があうひとは、まるで隣に腰掛けて話してくれているようで、暖かで、陽がさしてくるようで、しょげているときには「元気だしなよ」と述べて、いい気になっているときは、にやにやしながら「足下をよくみて歩かないと危ないとおもうぞ」と語りかけてくる。 カエサルやホメロス、ベーオウルフ、あるいはローランの歌のような本は手に汗を握りながら読むことになるのですごく疲れたが、読み終えてから、自分の勇気のサイズが少しおおきくなったような気がしたものだった。 そのうちに、特に科学系の本を読むようになってから「本」のまわりには、別のグループの「友達」がいることに気が付き始めた。 自分と同じ本を読んでいるひとたちのことです。 ルネ・デカルトの「方法序説」のような本は、歴史を通じてたくさんのひとが読んだが、買ったばかりの真っさらな本を読んでも、その余白には夥しい書き込みがあるような錯覚に囚われた。 ここはデカルトはこうのべているが、ほんとうは違うのではないか、この部分には見落としがあるような気がする。 ときには「でかしたぞ!ルネ!」というような他愛のない相の手までがはいっている。 あるいはT.S.Eliotならば、英語では珍しい音楽的な詩をリズムにのってたどりながら、ちょうど、同じ音楽のCDを聴いて同じ観念の上昇を感じているような、一体感がある。 実際、 Let us go then,you and I, When the evening is spread out against the sky Like a patient etherized upon a table; Let us … Continue reading

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本を読むということ

夏の午後に刈られた芝生の匂いがぷううんとする庭の、ブーゲンビリアの花棚の下の、ベンチに寝転がって「プルターク英雄伝」のような本を広げて読んでいると、自分が時間と時間のすきまに滑り落ちて、永遠に時間が停止した宇宙のポケットに入り込んだような気になる。 あの本の始まりはTHESEUSで、こんなふうに始まる。 As geographers, Sosius, crowd into the edges of their maps parts of the world which they do not know about, adding notes in the margin to the effects, that beyond this lies nothing but the sandy deserts full … Continue reading

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フクシマのあと_3

世の中にミルフィユくらい人前で食べるのが難しい食べ物はない。 モニさんはなんだか魔法のようなフォークの使い方で綺麗に食べてしまうが、ぼくはまずフォークでミルフィユがぐじゃぐじゃにつぶれるところから始まって、なんとなく、必死に抵抗するミルフィユを惨殺しているような食べ方になる。 生きたまま人間の肉を食べる食人鬼というものは、暴れる人間を一寸刻みに刻んで食べるときに、こういう気分なのではなかろうかという気がする。 30歳を越えると知恵がつくので、ショーケースのなかをちらと見て「ミルフィユがうまそーだな」と判定しても、ラテとシトロンのタルト、というように注文する。 それから、おもむろに、突然おもいついたような顔をして「それから、ミルフィユをテイクアウエイで買いたいので、4つ包んでね」という。 モニが横で必死で笑いをかみ殺しているが、演技の道はきびしい、ぼくはあくまで平静を装って50ドル札を渡します。 妙に謹厳な表情の夫といまにもふきだしそうな妻のふたつの顔を見較べて、店員が腑に落ちないとでもいうような曖昧な顔をして笑っている。 オーストラリアかニュージーランドにしばらく住みたいというモニさんの希望に従っていまのレミュエラの家を買って引っ越してきたのは2010年の12月だった。 自分が好きなメルボルンとオークランドのどちらかの選択で、モニさんと相談してオークランドにしようということになった。 ぼくが好きなクライストチャーチが町としてモニさんに小さすぎるのは判っていた。 結局、メルボルンは風が強いのが嫌だということになって、オークランドに決めた。 そういう言葉使いをしたと知ったらモニさんはすごく怒ると思うが、イギリス人では到底想像もつかないようないかにも大陸欧州的な盛大に贅沢な生活を送ってきたモニさんが4寝室の家に住めるとは思えなかったので、パーネルの家は他人に貸して、おおきな家に移った。 日本ではちょうど11回の日本への大遠征の終わりで、しかもいまから考えると、その頃すべりひゆによく言われたようにホームシックにかかっていた。 すべりひゆに言われても自分ではなかなか認められなかったが、いま日本語ブログを読み返しても、もう日本が嫌で嫌でたまらなくなっていたのがよく判る。 意地になって予定した期間の終わりまで日本にしがみついている自分が滑稽にみえる。 広尾山のアパートや軽井沢の山の家を売却して、そのほかの、ここに書くわけにはいかない日本がらみのさまざまなことのためにその頃よくでかけてワインを飲みながら夏牡蠣を食べたレストランのテラスを歩き回りながら会計士や弁護士に電話をかけていたのをおもいだす。 そのままオークランドで年を越して、2011年になった。 ニュージーランドの1月と2月は地上に現れた天国である。 ハウラキガルフにローンチを浮かべて、錨をおろして、白ワインを開けて、釣ったばかりの鯛やヒラマサをオリーブオイルをたっぷりかけたカルパッチョにして食べたり、キャビンの屋根にふたりで仰向けに寝っ転がって月のない夜いちめんに広がった眩暈がするような星空を眺めたりした。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/09/11/summer/ 毎日そうやって遊びながら、ではマンハッタンのお互いのアパートメントはどうするか、バルセロナのアパートメントはどんなふうに使うのがいいか、第一、これからふたりでどんな生活のデザインを考えればいいのだろう、と話をした。 結婚したあともヨーロッパを何ヶ月かふらふらしていたり、日本にやってきて山の家から望月や富山、足をのばして金沢というふうに自分達が気に入った土地をうろうろしていたりしたので、なんだか旅行ちゅうで、「将来」というような話をしだしたのはオークランドのレミュエラに落ち着いてからだったような気がする。 買ったばかりのサムソンの50インチテレビが置いてあるラウンジでモニと、ではニューヨークに行ってアパートメントをまかせる管理会社を探したり、友達と会ってきたりしないとダメじゃんね、と言って話しながら、多分クリケットの結果かなにかを観るために、なんの気なしにテレビをつけたら、そこには現実感のない、するすると地上をなめてのびてゆく「黒い水」が映っていた。 なんだろう? さあ? と言っていたら、レポーターの声で、それが東北震災の津波だとわかった。 いま津波の映像を観た2日後に書いた記事を読むと、映像があまりに非現実的で、まるで映画の特撮のようで、実感がわいていなくて、暢気でマヌケなことが書いてあるので呆れてしまう。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/03/13/1885/ 一方、下のコメント欄の日本人の友達たちのコメントは現実の切迫感に裏打ちされた真剣な文章が並んでいて、お気楽な記事と読み比べてなんだか恥ずかしい。 むかしからの友達のnenagaraが「僕は死にたくない」と書いているのが目に刺さるようです。 正直に言うと、「日本」が過去のスクリーンに映っているだけの国にすぎなくなっていたぼくは、そのままたいして福島第一事故について考えてみることもなしに、モニとふたりでマンハッタンに出かけた。 3ヶ月ちょっとくらいいたのだと思う。 友達たちと会って「しばらくニュージーランドをベースにするから冬に雨が多くなったら遊びにおいでよ」と述べたり、それまでフル契約のままほうっぽらかしになっていたテレビの契約やクラブのメンバーシップを変更したり案外と忙しかったのをおぼえている。 福島第一事故でいかに日本が危機の淵にあるか、ぼくのゆっくりしか動かない頭にだんだん理解され始めたのは、やっとその頃で、主にアメリカ人の若い科学者たちと話して意見を聞かされたからだった。 初めて福島事故について書いた記事をみると、日付は5月18日になっていて、自分でも反応ののろさにぶっくらこいてしまう。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/18/「フクシマ」のあと/ いったん日本が直面していて、日本の人達自身は聴かされていない危機についてわかってしまうと、何事かを日本の人に話しかけたくて、いまみると、夥しい、と言いたくなる量の記事を書いている。 個人のための後退戦マニュアル1から4 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その1/ https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/01/09/フクシマ_サディズムの復権/Continue reading

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ノーマッド日記16

1 ハウラキガルフの浜辺で、波打ち際に立って耳を澄ませると、波がすくいあげた貝の破片同士がぶつかって立てる、細い、高い、それでいて絹を連想させるように柔らかい、なんともいえない良い音が聴こえる。 午前二時や三時、ようやく静かになった材木座海岸や長者ヶ崎でも聞こえるだろうか、と思って日本にいたときにやってみたことがあったが、聞こえなかったから、たとえばハウラキには野生のホタテ貝が群生していて、自然に破片も多いので、そういう貝殻の種類のようなことが関係があるのかも知れない。 海辺の小さな映画館で映画を見終わって、映画館の隣のスパニッシュバーで借りてきたボトルとグラスを手にもって、モニとふたりで、夜の波打ち際をぶらぶら歩くのは楽しい。 意外なくらい明るい月の明かりで、随分遠くまで海が見えて、夜行するカヤックのひとたちがつけるLEDや緑と赤のローンチの航行灯がみえる。 気持のいい涼やかな海風をあびながら、今年はどこに行こう、もうすぐマンハッタンに帰るというのはどうおもう? いいえ、わたしは、もう少し小さい人たちとのんびりここで暮らしたい、というような話をする。 あんまり何度も言ってモニに笑われるので、なるべく言わないようにしているが、しあわせだのお、わしは運がよすぎるようだ、と思わず述べてから、しまったと思って慌てて触る木を探す。 見つからないまま(木の代用の)デコに慌てて触ろうとしてシャツにワインをこぼしたりしているのをモニが笑ってみています。 「Chef」は、暖かい春の日のような映画だった。 http://en.wikipedia.org/wiki/Chef_(film) 主演のJon Favreau http://en.wikipedia.org/wiki/Jon_Favreau が自分で書いたという、ストレートで不要なtwistのない脚本もいいが、Scarlett JohanssonもDustin Hofmanも自分の役柄を楽しんで演じているのが伝わってきて、見終わったあとになんとも言えない余す所がないような裕かな気持が残る映画だった。 主人公がマイアミ生まれで、わしが大好きなSofia Vergaraが演じる奥さんはキューバ人の家の出身という設定で次次に繰り出されるキューバンミュージックがまたわしの好尚にかなっていて、ワーカホリックの父親と離婚した妻と一緒に暮らす息子が心を通わせるスタートになるマイアミのキューバンジャズクラブから始まって、最初から最後まで素晴らしい音楽の連続なのも書かずにすませるわけにはいかない。 モニとわしは他の観客がいなくなってしまったあとの劇場(と言ってもたった60席の小さなホールだが)で、タイトルバックのLa Quimbumbiaにあわせて踊って遊んだ。 映写室の人が観たらキチガイだと思ったかもしれないが、映写室の人がどう思ったかは日本語で記事を書いているから出て来た思いつきで、英語やフランス語で暮らしているときには考えないことなので、キチガイはキチガイで楽しかったのであると思われる。 オークランドに住んでいる人は知っているはずだが、あの映画館は、小さな玄関を出るとバーとバーのあいだに出てくるところが良い。 たいていはシネマコンプレックスになったいまの映画館は、どこでも、モールを歩いて通り抜けて駐車場に向かうが、あの映画館はまるで昔のロンドンの映画館のように、レストランやバーが並ぶ通りのちょうど真ん中に出てくる。 だからガールフレンドか奥さんか、大事な人と一緒に一杯飲んでタパスのふたつかみっつをつまんで、いま観たばかりの映画の話に興じるのは、映画がひどい映画であったときでさえ楽しくて特別な時間だが、しかもレストラン街だとは言っても玄関を出れば目の前に噴水のある芝生の広がりと砂浜と、その向こうに広がる海がある立地なので、「Chef」のように良い映画を観た後は、店の人に頼んでワイングラスを貸してもらって海辺でワインを飲みながら話をして遊ぶのが最も楽しい。 バーの人がトレイに載せた小皿料理をサービスでもってきてくれたりして、モニとわしは、楽しい時間を過ごしたのでした。 2 東京ではどういう理由によるのか、いちどもやってみる気が起こらなくて、横須賀ベース内の映画館以外は行かないで終わってしまったが、「映画館のある生活」は楽しい。 住んでいるレミュエラの家からクルマで10分以内の所に4つの映画館とシネマコンプレックスがひとつあって、15分もクルマで行くとシルビアパークという所に「世界最大スクリーン」が売り物のもっとおおきなシネマコンプレックスがある。 東京で言えば岩波ホールというか、商業的な大ヒットが期待できない、たとえばイランの映画のようなものを上映する映画館がひとつ、あとは中国やインドからの移民が多いニュージーランドのお国柄を反映して、中国映画やボリウッドムービーを含めた「商業映画」を、自分が気に入ったスタイルの映画館で観る。 ニュージーランドのシネマチェーンHoytsには La Premierと呼ぶカウチ席があって、アメリカ人たちがLazyBoyと呼ぶリクライニングチェアがカウチになった席に、両脇にトレイがついて、映画が始まる前に、「映画の予告編のときにシャンパンを一本とグラスふたつにポップコーンのでっかいやつ。映画が始まって40分くらいしたらシラズを一本とハワイアンピザを一枚お願いしますね」というように注文しておくと、その通りにウエイター/ウエイトレスの人がやってきて給仕してくれます。 ひとによって使い方はいろいろで、このあいだハリウッド版ゴジラ http://en.wikipedia.org/wiki/Godzilla_(2014_film) を観に行ったときには、「15分おきにビールもってきてね」と注文したらしきおっちゃんが、カウチをひとり占めにしてゴジラ出現の感動に身もだえしながら、ビールを飲んで、なんだか恍惚とした表情でスクリーンに眺め入っていた。 La Premierはインド人が発明した映画館用グリーンシートで、インドの友達に訊くと発祥の地であるインドの都会ではサモサをトレイに盛ったウエイターがカウチの後ろに佇立していたりするそうで、インドっぽい、と考えて大笑いしたりした。 ニュージーランドは国ごとチョー田舎なので映画館のある生活が楽しいのかなー、と思う事がある。 マンハッタンでも、モニとふたりで、たとえばユニオンスクエアのシネマコンプレックスに出かけたりしたが、リンカーンセンターに出かけたときのような強い印象はなくて、生活における「ハレ」と「地」を考えれば「地」にあたる部分に映画館に行く午後はあった。 ニュージーランドでもさすがに「ハレ」というわけにはいかないが、「地」ではなくて、少し角度が違うところから日常を見てみるような時間の過ごし方である感じがする。 モニもわしもモールなどは退屈で嫌いだが、映画を観に行ったときだけは、モール自体がなんだか明るい軽い感じがして、もう30歳をすぎたわしも10年くらい若くなって、大学生のような気持で足が浮き立つ。 3 波打ち際の貝殻の破片が演奏する音は、神様が風鈴をもっているなら、きっとこんな音だろう、というような、「神韻」という死語を思い出すような音です。 すごおおおくヘンな言い方をすると、ニュージーランドにはフランス、アメリカやイギリスに較べても色の濃い海や夜や空がいっぱいあって、大自然だからというわけではなくて、「豊穣」という言葉を思い出す。 … Continue reading

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Can’t Stop the Beat

人間はアフリカに帰ってゆくのだとおもう。 もじんさんというツイッタの友達の引用に手をひかれて日本語世界では有名だというブロガーの文章を読んでいたら、バックパッカーとしてアフリカをめぐってアフリカ社会をよく知っているのだというそのひとは、「アフリカは手が付けられないので西洋諸国の手にもどすべきだ」と書いてあった。 レソトの闇は深くて、月のない夜になればなにも見えない。 ミシシッピ人のJたちは、土嚢の上から顔を半分のぞかせて、じっと週末の学校の門を眺めている。 やがて、凝視する双眼鏡のなかに黒々としたカーペットのような広がりが見え始めて、それがいっせいに立ち上がると喊声をあげて校舎めがけて走ってくる。 制止しようとすると、ショットガンやAK47の射撃音が聞こえ始める。 教師達も機関銃座にとりついてブローニングをぶっ放し始める。 12.7mmの重機関銃音が夜空を引き裂くと、やっと退却するのだそーでした。 「それが毎週末だから、嫌になっちまうのさ」とJは、いかにも「チャーチピープル」のひとりらしい穏やかな笑顔でいう。 山賊、なんですか? と子供のぼくが訊くと、「そーなんだけど、いわゆる生徒の父兄、っちゅうひとびとと顔ぶれは同じなんだよね」とJがこたえて、レソトの教師仲間だったMが横で、堪えられない、というふうにして大きな声で笑う。 最期は「勉強なんてしたくない子供たち」と「子供という労働力を学校にとられたくない親たち」が白昼に大挙してやってきて、校舎に鉤綱をかけてひきたおして、彼等の「ボランティア教育事業」は「物理的に」終わったそうでした。 それなのに彼等がいっこうに「アフリカ」に対する敬意を失ったように見えないことがぼくには不思議だった。 コンゴ人の夢はフランスに行くことである。 フランスへ行くことが人生のゴールで、そのオカネをつくるために、子供のときから、盗み、恐喝し、身体を売り、火をつける。 「フランスへ行けば食える」 繁華街の通りから外れた路地で、たき火を囲みながら、「フランスへ行った自分」を空想するコンゴ人たちはいろいろなドキュメンタリで見ることができる。 フランスへ行けばすべては解決する。 アフリカとさえおさらばすれば、おれは人間として生きられる、と目に涙を浮かべて語るコンゴ人は見ていて痛々しい気がする。 性器を切り取られる習慣が嫌さにたったひとりで夜更けの砂漠を歩いてわたって逃げる少女や、ただ殴られるためだけに「結婚」させられた10歳の女の子、ラクダとひきかえに売られる女達、… アフリカ人たちの話は暴力と恐怖と不条理な屈辱に満ちている。 すべてが弱肉強食の物語で、アフリカ大陸では、ルールはたったひとつしかない。 「強い者が勝つ」ので、「弱い者」は踏みつけにされ、なぐさみものにされ、使い物にならなくなれば弊衣のように捨てられる。 だが、人間はアフリカに帰ってゆく。 音楽に国境がない、というくらいひどいウソはない。 どんなチューンやリズムにも言語と文明の影響があって、どんな作曲者からもそれから自由になれはしない。 クラシックと呼ばれている音楽は(使用される楽器の成り立ちを考えれば)多分数学という言語が直截に影響している。 ソールズベリーのストーンヘンジは、最近の研究で、どうやら全体が「楽器」らしいことがわかった。長い論争に決着をつけることがほとんど確実な発見で、もうすぐ日本語世界にも紹介されるのではないだろうか。 ケルト族の知っているすべての土地から遙々もってきた岩石が並んでいることや、無目的に見える精密な加工、そういうすべての謎が「鳴らして」みることによって解けた。 あれほど宗教的に見えた情熱は実際には「音楽」への情熱だった。 「現代音楽」ということを考えると、ただアフリカ人のリズムだけが、不思議にも言語の壁を越え、人種の皮膚の色や筋肉のおおきさや骨格の形の違いをも軽々と超えて、世界中に広まっていった。 両耳から白いケーブルを垂らした東アジア人の若い男がアフリカ人と同じステップを踏みながら22ndと7thの交差点を渡ってゆくのを見るのは楽しい。 リズム感があまり良いとは言えない北欧人の若い女びとが着ていたTシャツを頭の上でふりまわしながら、13分の7のリズムに乗って踊り狂うのは良く見る光景であると思う。 この世界からは素晴らしいスピードで人種も文明も言語の違いもなくなって、同じリズムで、アフリカ人たちのタイミングで踊るステップの音が響き渡るだけになってゆく。 理由は簡単で、きみとぼくのこの肉体が、たった5万年前に(多分)500人くらいしかいない小さな村に生活していた同じひとびとの肉体だからです。 簡略化した言い方をすれば同じひとつの肉体がトルクメニスタンの岐(わか)され道で一方は東に向かって東のはてで日本人になり、他方は西に向かって西のはてでイギリス人になったにすぎない。 もうダメだ、日本人のおれがジャズなんてやるのはやっぱり無理なんだ、くだらない夢だったと考えて、絶望していた渡辺貞夫にアフリカ人が与えたアドバイスは「サダオ、アフリカに行ってみろよ」だった。 「ジャズは、あの大陸から来たのさ。アフリカはジャズなんだ。行ってみて、それでもダメだったら、そのとき考えればいい」 もう自分の人生はすっかりダメと決めて、他にやることもなかったサックス・プレーヤーは、たいした考えもなしに飛行機の切符を買ってアフリカに行く。 「そこではすべてがジャズだった」と、この日本人のジャズ奏者は感動をこめて書いている。 … Continue reading

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「艦これ」の此岸(その2)戦艦大和

「われわれは空の支配者である」「すべてのヨーロッパ諸国はわれわれの空中の帝国からの雷鳴を聞くだろう」とナチはたびたび述べている。 ナチの第三帝国理論は、フランスが陸を支配しイギリスが海を支配している現状においては、ドイツは空を支配するしかない、という「理論」を骨格として持っていて、「ダジャレでやってんのか?」と思わなくはないが、そんな軽口を述べるといきなり処刑されてしまうので、そういう怖い冗談を口にだしてみる人はいなかった。 1919年からたった20年しか経たずに勃発して、しかもその20年の大半を「世界は恒久平和を達成した」「戦争なんて、もう起きるわけがない」「軍縮っきゃない」という「ぬはは、あまい」な観念のもとで過ごしたせいで、第二次世界大戦はひとくちでいえば、どの国にとっても「準備が足りない戦争」だった。 ソビエトロシアは突然怒濤のように侵攻してきたドイツ軍に対して、前線でさえ歩兵3人に一挺のライフルという冗談みたいな装備で戦わねばならなかった。 ライフルをかまえてひとりの兵士が突撃をはじめると、そのうしろを手ぶらのワカモノがふたりで追いかける。 そんなアホな装備で攻勢に出てチャージすれば当然だが正面の兵士はあっけなく機関銃に薙ぎ倒される、すると後ろを追従していたワカモノが死んだ兵士のライフルを拾い上げて突撃を継続する。 当時のソビエト共産党は兵器をムダにしない点で、このやりかたがたいそう自慢だったようだが、いまなら人命軽視だと言ってアムネスティが怒るだろう(←よくない冗談) 例外はフランスで、慢性的な戦車や砲弾の配備の遅れはあったが、戦争なれした国らしく、十分な準備をして防御体制を整備してあった。 「ほんなら、なんですぐ負けたの?」という当然な質問に答えなければならないが、簡単に言えば軍事思想が古くて、通信網ももたない前線を寸断されて、リデルハートたちイギリス人が発明したが、いつものことで、イギリスではアホ役人達が葬り去った「戦車を艦隊のように使う」機甲師団思想をドイツの用兵の天才グデーリアン将軍が採用して、防御線の「穴」を素通りされてしまい、後ろにまわられてボロ負けした。 ルフトバッフェも例外で、ほとんど新鋭機からなる3000機を越える「航空艦隊」は、圧倒的で、その矛先が向けられたときには、以前にも書いたようにイギリス人は、「いいからナチと仲良くしちゃおうぜ。アングロサクソンは兄弟みたいなもんだ、つーてんだから、いいじゃん」と臆病風にふかれたりしたが、それも無理もない、というか、イギリスはつい前年まで「恒久平和」で「尖閣で戦争が起きる、とかいうヤツは頭がおかしいんじゃねえの?」とほぼ全員の国民が信じていたので、軍事予算がチョー少なくて、戦車の帳尻をあわせるにもカーデンロイド http://en.wikipedia.org/wiki/Carden_Loyd_tankette という、武装が機関銃一丁しかない上に、信じがたいことにオープントップで、敵兵に手榴弾を放り込まれると車体がそのまま棺桶になって便利だというアホな戦車をいっぱいつくってやっと年次軍備計画にまにあわせるほどだった。 そうして、もっとおおきな例外が現人神の大元帥、昭和天皇陛下が直率する大日本帝国陸海軍だった。 日本軍の装備や戦略が第二次世界大戦を通じてなんとなくマヌケなのは日本がチンタオのような事例をのぞいて第一次世界大戦に参加しなかったという事実によっているが、それは同時にじっくり軍備を準備できたということであって、 1941年と1942年に日本軍と交戦したアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍の兵士や将校たちが異口同音に述べるのは「日本軍の装備のよさ」で、機関銃から重砲まで、日本軍はマレー半島、シンガポール、フィリピンと、常に圧倒的な火力で攻勢に立った、一方の連合軍は、なにしろヨーロッパの大魔王と全力を挙げて死闘ちゅうだったので、残りカスで応戦せざるをえず、日本海軍が見る目にもカッコイイ零戦でやってきているのに、こちらはブルースターバッファロー http://en.wikipedia.org/wiki/Brewster_F2A_Buffalo という「一応、単葉機なんですけどね」な、空飛ぶふとったおばちゃんみたいな、とんでもない戦闘機で戦わねばならなかった。 太平洋戦域では連合軍側で最も装備がよかったアメリカ海軍にしても「空飛ぶサンドバッグ」グラマンF4F https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/08/31/f4f-ワイルドキャット/ がもっとも強力な対零戦要員だった。 「艦これ」の主題である艦船に至っては、わっはっはというか、天と地ほども異なる戦力で、日本海軍の戦意が他の海軍国なみに旺盛だったら、イギリス、アメリカあわせて、あっというまに海の藻屑に壊滅していただろう。 しかも当時は連合国側に知られていなかったが日本には、戦艦大和・武蔵という日本の科学技術の粋を集めた、スーパー戦艦が秘匿されていたのである。 海軍軍令部に石川信吾という、やや軽躁な、しかしやたらと弁が立つ課長がいた。 本省課長、なのだから、多分、階級は大佐ではなかろうか。 年齢でいえば課長になったときに40代半ばであったはずです。 今回は記事の目的からおおきく外れるので経緯を書かないが、このひとは「思いつき」が多いひとで、調べてみると思いつきで海軍を滅ぼし、ひいては日本を滅ぼしてしまった張本人のような人だが、この人があるとき「天才的な着想」を得たのだという。 その着想の根源は大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河が、チョー狭いという事実だった。 「戦艦」の本質はなにかというと、「でかい大砲を運ぶ移動砲台」で、大砲がでかければ、より強烈な砲弾をより遠くまで飛ばすことができる。 その砲弾をぶっ放すための砲塔キャリアが戦艦で、戦艦のおおきさちゅうか排水量は、そこから逆算して決まる。 石川信吾の「天才的着想」は、ほんじゃ、パナマ運河を通れないおおきさの艦体がないと載せられないでかい大砲をのせた戦艦をつくれば無敵なんじゃね?ということで、46センチ砲を主砲とする戦艦大和ができあがる。 天才石川信吾の理論によれば戦艦大和は敵に沈められる可能性が存在しない(相手の主力艦の大砲の弾がとどかない)ので、これは不沈戦艦だということになって、この46センチ砲を備えた戦艦に日本海軍はありとあらゆる新技術をそそぎこむことになります。 世界で初めての機動部隊を着想した割に日本海軍艦艇が対空戦能力に著しく欠けることは戦争初期からよく知られていた。 本来、対空戦の要になるべきだった軽巡洋艦級のたとえば「阿武隈」の14センチ砲は実は平射砲で空を飛ぶものを射撃する能力がゼロだったのは論外としても機銃や高射砲も肝腎の急降下爆撃機に対応できなかった。 いまちょっと、興味が湧いたので日本語のサイトをのぞいてみると、日本海軍で初期に多用された最大仰角が55度しかない50口径12.7センチC型砲がつかいものにならないという認識は当時からあったようだが、しかも本来は近接対空戦闘の主役であるべき機銃は初速が遅いせいの弾道低落でカタログスペックにおおきく劣る900メートル(!)程度の射程しか持たなかった悪名高い96式25ミリ機銃はまったく役に立たなかったので、実際に空襲、特に急降下爆撃機があらわれた場合には、40口径89式12.7センチ高角砲に頼る他はなかった。 南雲部隊でみると、だいたい120門程度の40口径89式12.7センチ高角砲を持っていたが、その半分は実は空母自体に搭載されているもので、日本海軍の対空戦闘マニュアルにしたがえば、この約60門は各個の対空戦闘指揮所の指揮下で自艦の対空に使われるので、なんのことはない、残りのたった60門の高射砲で、全機動部隊を守っていたのである。 ここで筆をやすめて、頬杖をついて考えてみると、この60門の高射砲だけで現実には「虎の子」であったはずの空母を守るというのは、なんだか気が遠くなるくらい無茶苦茶な話であると思う。 この無茶への危惧はミッドウェー海戦 https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/09/08/ミッドウェイ海戦__官僚主義の敗北/ で現実のものになって、全員戦死を覚悟して海面すれすれを突撃する囮のアメリカ海軍雷撃機隊を撃墜するために低空に舞い降りていた日本海軍の直掩戦闘機隊が高空から逆落としに急降下してくる30機のSBDドーントレスを発見したときには、もうすべてが遅かった。 このときの日本の対空射撃が下手をきわめたのは、ミッドウェー海戦は、もともと勇猛であった敵が不運にも壊滅した戦闘であって、その「強かった敵」に敬意を表してあんまり言わないことになっているが、英語世界では有名です。 … Continue reading

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