Monthly Archives: May 2014

ゴジラ、再び

映画館のオットマンのあるカウチ席に半分寝そべって腰掛けて、ポップコーンとシャンパンをテーブルにおいて、ゴジラの雄叫びを聴けるときが来るとは思わなかった。 モニさんは前半やや退屈したようでしたが、まるでなつかしい友達に、ふたたび栄光のときが巡ってきたのを眺めるような気持で、自然と浮き立って嬉しくなる気持を抑え込むのがたいへんだった。 公開初日に観に行ったGareth Edwards版の「ゴジラ」は評判がよかったようで、いきなり3作目までの製作が決定されて、常に「新しいゴジラ映画」に飢えているゴジラファンとしては、やはり嬉しい。 ファンというのはめんどくさい人の異称なので、いろいろ言いたいことはあるが、聞けば、日本での公開は7月だそうで、そのまえにいろいろ述べては、そもそも行こうか行くまいかという判断にすら影響するだろうから喉元までこみあげている言葉を呑み込んで、いまはただ黙って微笑しているにしくはない。 子供のときからゴジラが好きなので、このブログにも夥しいゴジラへの言及があるのは、右下にある検索ウインドーに「ゴジラ」といれてみればすぐに判る。 世の中の映画シリーズのなかで「ゴジラ」シリーズくらい駄作が多いシリーズはないと思うが、「どこがゴジラやねん」の造形でアメリカゴジラファンを激怒させた1998年のハリウッドゴジラを別にすれば、妙に顔がかわいくなったゴジラが巨大化した正月のおせち料理の伊勢エビをぶん投げるだけの映画でも、振り付けするのに事欠いてゴジラが赤塚不二夫の「おそ松くん」に出てくる「イヤミ」のまねをして「シェー」 http://www.geocities.jp/hasu58/sepia/shee/shee.html をしても、顔をおおい、壁をたたいて悔しがりながらも、すべて赦してきた、その甲斐が、ついに報われつつある、と感じる。 ツイッタでは十全ガイジンの大庭先生も 「駄作がこわくてゴジラファンがやれると思っておるのか」と言っておられる。 ゴジラの出生や、由来、大きさ、強さ、すべて監督によって異なるが、これはすでにゴジラ研究者によって、異なるパラレルワールドのものだと説明されている。 監督のなかでは大河原孝夫と手塚昌明が最良の深刻なゴジラ観をもっているが、ゴジラ自体のキャラクタは1954年のゴジラがすべての「ゴジラ的なもの」の産みの親です。 異なる言語や社会にまたがるゴジラコミュニティは、それぞれ異なる嗜好や仮説、解釈をもっているが、1954年のゴジラこそがゴジラなのだという強い信念に異を唱えて挑戦するひとは、いままで観たことがない。 新作のゴジラ世界では放射能が危ないことになっているので日本では公開されないのではないかと言う人が何人かいた。 英語人でみかけたほうは何れも意地の悪い冗談だったが、日本のひとのほうはマジメに心配して、放射能が危険であることを示したところは全部シーンとしてカットされて、映画の最後のcredit(エンドロール)に 監修:「東京大学教授 早野龍五」 とか出てしまうのではないかと、いまからうつうつとしている人もいるよーです。 ゴジラはもともと核エネルギーを手にした人間を破滅させるためにやってくる「破壊の王」として形象された。 それは核エネルギーをもつことによって人間と自然の関係の「決定的な一線を越えてしまった」人間に対して地球そのものが送りこんできた絶対的な破壊の体現者として造形されている。 ゴジラはヒロシマでありナガサキでありビキニ環礁で高空にキノコ雲とともに放射性物質をふきあげる水爆そのものだった。 人間のレベルでの善なるものも悪も判別躊躇することなく人間の文明自体を絶対悪として善悪無差別に破壊するゴジラの始原的なキャラクタはそうやって出来上がった。 ドイツ人たちが名付けたハワイの南東2700マイルにある「ビキニ」という環礁は戦後すぐにアメリカが立て続けに行った原爆実験によって世界じゅうに名前を知られてゆく。 ピュリツアー賞を受賞した核ジャーナリストのRichard Rhodes http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Rhodes は、インタビューに答えて、 「当時、ビキニ、という名前は原爆の力強いイメージのせいでカリスマ的な響きを持っていた。 カリスマ的どころか、セクシーな名前だとすら考えられていてね、1946年にフランス人たちが考えた世界で最もセクシーな水着が『ビキニ』という名前になったのは、そのせいなんだよ」 と述べている。 ビキニ環礁と、そのまわりのマーシャル諸島が無人の列島だったわけではなくて、人間が住み、集落もあったが、アメリカ人たちに「放射能の健康への害はたいしたことはない。気を付けていれば大丈夫だ」と言われて、その「科学者」たちの言葉を信じた、この気の毒な、「白人」という権威に従順だった列島の住人たちは、いま当時のフィルムのなかの笑顔を観ても、屈託がなくて、世界じゅうの注目が自分達に集まっていることをまっすぐに喜んでいたのがよく伝わってくる。 そのあと十数年を経て島に現出した、地獄としか呼びようのない出来事の数々をまったく予期していない幸福の表情がそこにはある。 1954年3月、焼津の漁船第五福竜丸はビキニ環礁の近くで操業していた。 いま、第五福竜丸乗組員たちが放射性物質について無知だったと誤解する人がいるようにみえるが、現実には船員たちはアメリカの水爆実験「Operation Castle」 http://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Castle の実施計画を詳細に知っていて、十分に注意を払って、アメリカ合衆国が広報した「避難区域」外で操業していた。 アメリカが設定した「絶対大丈夫」なはずの安全区域が、小さすぎて、現実には人体にとって危険だったのにすぎない。 無知だったのは日本人の漁船員たちではなくて、自信満々のアメリカ人「科学者」たちのほうだった。 第五福竜丸に限らず、同じ海域で操業していた数百隻のマグロ漁船が同じように放射性物質の降灰を浴び続けたが、そのなかで第五福竜丸だけが有名になったのは、久保山愛𠮷という名前の機関長が死亡したからです。 … Continue reading

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6X9=42

自分には知らないことがたくさんあるのだ、という当たり前のことを考える。 いまごろなにを言ってるんだ、バカみたい、と思う人がいるかもしれないが、ときどき「バカみたい」なことを考えるのがぼくの習慣なので仕方がないと思ってくれないと困る。 子供のときに父親の小さな図書館くらいはあるライブリにはいって、天井まで本がぎっしりつまった本棚を見上げて、へんな例を挙げると奈良の大仏をみあげているような、英語ならaweという単語がある気持に打たれてしまったことがある。、 本って、こんなにいっぱいあるんだ、とマヌケなことを考えながら、「死ぬまでに全部読めるのかな」と思った。 見つかると怒られそうな気がしたので、あんまり長い時間いないで退散したが、そのときのわくわくするようなこわいような気持がいまでも忘れられない。 その後、何年か経ってから、その夥しい「本」の向こう側には、たくさんのひとがいることがわかってきた。 まだ生きて新しい本を書いている人もいれば、もう何百年もむかしに呼吸をするのをやめてしまって、肉体が滅びてしまっている人もいる。 しかし、どのひとも、語り初めからすんなり呼吸があうひとは、まるで隣に腰掛けて話してくれているようで、暖かで、陽がさしてくるようで、しょげているときには「元気だしなよ」と述べて、いい気になっているときは、にやにやしながら「足下をよくみて歩かないと危ないとおもうぞ」と語りかけてくる。 カエサルやホメロス、ベーオウルフ、あるいはローランの歌のような本は手に汗を握りながら読むことになるのですごく疲れたが、読み終えてから、自分の勇気のサイズが少しおおきくなったような気がしたものだった。 そのうちに、特に科学系の本を読むようになってから「本」のまわりには、別のグループの「友達」がいることに気が付き始めた。 自分と同じ本を読んでいるひとたちのことです。 ルネ・デカルトの「方法序説」のような本は、歴史を通じてたくさんのひとが読んだが、買ったばかりの真っさらな本を読んでも、その余白には夥しい書き込みがあるような錯覚に囚われた。 ここはデカルトはこうのべているが、ほんとうは違うのではないか、この部分には見落としがあるような気がする。 ときには「でかしたぞ!ルネ!」というような他愛のない相の手までがはいっている。 あるいはT.S.Eliotならば、英語では珍しい音楽的な詩をリズムにのってたどりながら、ちょうど、同じ音楽のCDを聴いて同じ観念の上昇を感じているような、一体感がある。 実際、 Let us go then,you and I, When the evening is spread out against the sky Like a patient etherized upon a table; Let us … Continue reading

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本を読むということ

夏の午後に刈られた芝生の匂いがぷううんとする庭の、ブーゲンビリアの花棚の下の、ベンチに寝転がって「プルターク英雄伝」のような本を広げて読んでいると、自分が時間と時間のすきまに滑り落ちて、永遠に時間が停止した宇宙のポケットに入り込んだような気になる。 あの本の始まりはTHESEUSで、こんなふうに始まる。 As geographers, Sosius, crowd into the edges of their maps parts of the world which they do not know about, adding notes in the margin to the effects, that beyond this lies nothing but the sandy deserts full … Continue reading

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フクシマのあと_3

世の中にミルフィユくらい人前で食べるのが難しい食べ物はない。 モニさんはなんだか魔法のようなフォークの使い方で綺麗に食べてしまうが、ぼくはまずフォークでミルフィユがぐじゃぐじゃにつぶれるところから始まって、なんとなく、必死に抵抗するミルフィユを惨殺しているような食べ方になる。 生きたまま人間の肉を食べる食人鬼というものは、暴れる人間を一寸刻みに刻んで食べるときに、こういう気分なのではなかろうかという気がする。 30歳を越えると知恵がつくので、ショーケースのなかをちらと見て「ミルフィユがうまそーだな」と判定しても、ラテとシトロンのタルト、というように注文する。 それから、おもむろに、突然おもいついたような顔をして「それから、ミルフィユをテイクアウエイで買いたいので、4つ包んでね」という。 モニが横で必死で笑いをかみ殺しているが、演技の道はきびしい、ぼくはあくまで平静を装って50ドル札を渡します。 妙に謹厳な表情の夫といまにもふきだしそうな妻のふたつの顔を見較べて、店員が腑に落ちないとでもいうような曖昧な顔をして笑っている。 オーストラリアかニュージーランドにしばらく住みたいというモニさんの希望に従っていまのレミュエラの家を買って引っ越してきたのは2010年の12月だった。 自分が好きなメルボルンとオークランドのどちらかの選択で、モニさんと相談してオークランドにしようということになった。 ぼくが好きなクライストチャーチが町としてモニさんに小さすぎるのは判っていた。 結局、メルボルンは風が強いのが嫌だということになって、オークランドに決めた。 そういう言葉使いをしたと知ったらモニさんはすごく怒ると思うが、イギリス人では到底想像もつかないようないかにも大陸欧州的な盛大に贅沢な生活を送ってきたモニさんが4寝室の家に住めるとは思えなかったので、パーネルの家は他人に貸して、おおきな家に移った。 日本ではちょうど11回の日本への大遠征の終わりで、しかもいまから考えると、その頃すべりひゆによく言われたようにホームシックにかかっていた。 すべりひゆに言われても自分ではなかなか認められなかったが、いま日本語ブログを読み返しても、もう日本が嫌で嫌でたまらなくなっていたのがよく判る。 意地になって予定した期間の終わりまで日本にしがみついている自分が滑稽にみえる。 広尾山のアパートや軽井沢の山の家を売却して、そのほかの、ここに書くわけにはいかない日本がらみのさまざまなことのためにその頃よくでかけてワインを飲みながら夏牡蠣を食べたレストランのテラスを歩き回りながら会計士や弁護士に電話をかけていたのをおもいだす。 そのままオークランドで年を越して、2011年になった。 ニュージーランドの1月と2月は地上に現れた天国である。 ハウラキガルフにローンチを浮かべて、錨をおろして、白ワインを開けて、釣ったばかりの鯛やヒラマサをオリーブオイルをたっぷりかけたカルパッチョにして食べたり、キャビンの屋根にふたりで仰向けに寝っ転がって月のない夜いちめんに広がった眩暈がするような星空を眺めたりした。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/09/11/summer/ 毎日そうやって遊びながら、ではマンハッタンのお互いのアパートメントはどうするか、バルセロナのアパートメントはどんなふうに使うのがいいか、第一、これからふたりでどんな生活のデザインを考えればいいのだろう、と話をした。 結婚したあともヨーロッパを何ヶ月かふらふらしていたり、日本にやってきて山の家から望月や富山、足をのばして金沢というふうに自分達が気に入った土地をうろうろしていたりしたので、なんだか旅行ちゅうで、「将来」というような話をしだしたのはオークランドのレミュエラに落ち着いてからだったような気がする。 買ったばかりのサムソンの50インチテレビが置いてあるラウンジでモニと、ではニューヨークに行ってアパートメントをまかせる管理会社を探したり、友達と会ってきたりしないとダメじゃんね、と言って話しながら、多分クリケットの結果かなにかを観るために、なんの気なしにテレビをつけたら、そこには現実感のない、するすると地上をなめてのびてゆく「黒い水」が映っていた。 なんだろう? さあ? と言っていたら、レポーターの声で、それが東北震災の津波だとわかった。 いま津波の映像を観た2日後に書いた記事を読むと、映像があまりに非現実的で、まるで映画の特撮のようで、実感がわいていなくて、暢気でマヌケなことが書いてあるので呆れてしまう。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/03/13/1885/ 一方、下のコメント欄の日本人の友達たちのコメントは現実の切迫感に裏打ちされた真剣な文章が並んでいて、お気楽な記事と読み比べてなんだか恥ずかしい。 むかしからの友達のnenagaraが「僕は死にたくない」と書いているのが目に刺さるようです。 正直に言うと、「日本」が過去のスクリーンに映っているだけの国にすぎなくなっていたぼくは、そのままたいして福島第一事故について考えてみることもなしに、モニとふたりでマンハッタンに出かけた。 3ヶ月ちょっとくらいいたのだと思う。 友達たちと会って「しばらくニュージーランドをベースにするから冬に雨が多くなったら遊びにおいでよ」と述べたり、それまでフル契約のままほうっぽらかしになっていたテレビの契約やクラブのメンバーシップを変更したり案外と忙しかったのをおぼえている。 福島第一事故でいかに日本が危機の淵にあるか、ぼくのゆっくりしか動かない頭にだんだん理解され始めたのは、やっとその頃で、主にアメリカ人の若い科学者たちと話して意見を聞かされたからだった。 初めて福島事故について書いた記事をみると、日付は5月18日になっていて、自分でも反応ののろさにぶっくらこいてしまう。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/18/「フクシマ」のあと/ いったん日本が直面していて、日本の人達自身は聴かされていない危機についてわかってしまうと、何事かを日本の人に話しかけたくて、いまみると、夥しい、と言いたくなる量の記事を書いている。 個人のための後退戦マニュアル1から4 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その1/ https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/01/09/フクシマ_サディズムの復権/Continue reading

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ノーマッド日記16

1 ハウラキガルフの浜辺で、波打ち際に立って耳を澄ませると、波がすくいあげた貝の破片同士がぶつかって立てる、細い、高い、それでいて絹を連想させるように柔らかい、なんともいえない良い音が聴こえる。 午前二時や三時、ようやく静かになった材木座海岸や長者ヶ崎でも聞こえるだろうか、と思って日本にいたときにやってみたことがあったが、聞こえなかったから、たとえばハウラキには野生のホタテ貝が群生していて、自然に破片も多いので、そういう貝殻の種類のようなことが関係があるのかも知れない。 海辺の小さな映画館で映画を見終わって、映画館の隣のスパニッシュバーで借りてきたボトルとグラスを手にもって、モニとふたりで、夜の波打ち際をぶらぶら歩くのは楽しい。 意外なくらい明るい月の明かりで、随分遠くまで海が見えて、夜行するカヤックのひとたちがつけるLEDや緑と赤のローンチの航行灯がみえる。 気持のいい涼やかな海風をあびながら、今年はどこに行こう、もうすぐマンハッタンに帰るというのはどうおもう? いいえ、わたしは、もう少し小さい人たちとのんびりここで暮らしたい、というような話をする。 あんまり何度も言ってモニに笑われるので、なるべく言わないようにしているが、しあわせだのお、わしは運がよすぎるようだ、と思わず述べてから、しまったと思って慌てて触る木を探す。 見つからないまま(木の代用の)デコに慌てて触ろうとしてシャツにワインをこぼしたりしているのをモニが笑ってみています。 「Chef」は、暖かい春の日のような映画だった。 http://en.wikipedia.org/wiki/Chef_(film) 主演のJon Favreau http://en.wikipedia.org/wiki/Jon_Favreau が自分で書いたという、ストレートで不要なtwistのない脚本もいいが、Scarlett JohanssonもDustin Hofmanも自分の役柄を楽しんで演じているのが伝わってきて、見終わったあとになんとも言えない余す所がないような裕かな気持が残る映画だった。 主人公がマイアミ生まれで、わしが大好きなSofia Vergaraが演じる奥さんはキューバ人の家の出身という設定で次次に繰り出されるキューバンミュージックがまたわしの好尚にかなっていて、ワーカホリックの父親と離婚した妻と一緒に暮らす息子が心を通わせるスタートになるマイアミのキューバンジャズクラブから始まって、最初から最後まで素晴らしい音楽の連続なのも書かずにすませるわけにはいかない。 モニとわしは他の観客がいなくなってしまったあとの劇場(と言ってもたった60席の小さなホールだが)で、タイトルバックのLa Quimbumbiaにあわせて踊って遊んだ。 映写室の人が観たらキチガイだと思ったかもしれないが、映写室の人がどう思ったかは日本語で記事を書いているから出て来た思いつきで、英語やフランス語で暮らしているときには考えないことなので、キチガイはキチガイで楽しかったのであると思われる。 オークランドに住んでいる人は知っているはずだが、あの映画館は、小さな玄関を出るとバーとバーのあいだに出てくるところが良い。 たいていはシネマコンプレックスになったいまの映画館は、どこでも、モールを歩いて通り抜けて駐車場に向かうが、あの映画館はまるで昔のロンドンの映画館のように、レストランやバーが並ぶ通りのちょうど真ん中に出てくる。 だからガールフレンドか奥さんか、大事な人と一緒に一杯飲んでタパスのふたつかみっつをつまんで、いま観たばかりの映画の話に興じるのは、映画がひどい映画であったときでさえ楽しくて特別な時間だが、しかもレストラン街だとは言っても玄関を出れば目の前に噴水のある芝生の広がりと砂浜と、その向こうに広がる海がある立地なので、「Chef」のように良い映画を観た後は、店の人に頼んでワイングラスを貸してもらって海辺でワインを飲みながら話をして遊ぶのが最も楽しい。 バーの人がトレイに載せた小皿料理をサービスでもってきてくれたりして、モニとわしは、楽しい時間を過ごしたのでした。 2 東京ではどういう理由によるのか、いちどもやってみる気が起こらなくて、横須賀ベース内の映画館以外は行かないで終わってしまったが、「映画館のある生活」は楽しい。 住んでいるレミュエラの家からクルマで10分以内の所に4つの映画館とシネマコンプレックスがひとつあって、15分もクルマで行くとシルビアパークという所に「世界最大スクリーン」が売り物のもっとおおきなシネマコンプレックスがある。 東京で言えば岩波ホールというか、商業的な大ヒットが期待できない、たとえばイランの映画のようなものを上映する映画館がひとつ、あとは中国やインドからの移民が多いニュージーランドのお国柄を反映して、中国映画やボリウッドムービーを含めた「商業映画」を、自分が気に入ったスタイルの映画館で観る。 ニュージーランドのシネマチェーンHoytsには La Premierと呼ぶカウチ席があって、アメリカ人たちがLazyBoyと呼ぶリクライニングチェアがカウチになった席に、両脇にトレイがついて、映画が始まる前に、「映画の予告編のときにシャンパンを一本とグラスふたつにポップコーンのでっかいやつ。映画が始まって40分くらいしたらシラズを一本とハワイアンピザを一枚お願いしますね」というように注文しておくと、その通りにウエイター/ウエイトレスの人がやってきて給仕してくれます。 ひとによって使い方はいろいろで、このあいだハリウッド版ゴジラ http://en.wikipedia.org/wiki/Godzilla_(2014_film) を観に行ったときには、「15分おきにビールもってきてね」と注文したらしきおっちゃんが、カウチをひとり占めにしてゴジラ出現の感動に身もだえしながら、ビールを飲んで、なんだか恍惚とした表情でスクリーンに眺め入っていた。 La Premierはインド人が発明した映画館用グリーンシートで、インドの友達に訊くと発祥の地であるインドの都会ではサモサをトレイに盛ったウエイターがカウチの後ろに佇立していたりするそうで、インドっぽい、と考えて大笑いしたりした。 ニュージーランドは国ごとチョー田舎なので映画館のある生活が楽しいのかなー、と思う事がある。 マンハッタンでも、モニとふたりで、たとえばユニオンスクエアのシネマコンプレックスに出かけたりしたが、リンカーンセンターに出かけたときのような強い印象はなくて、生活における「ハレ」と「地」を考えれば「地」にあたる部分に映画館に行く午後はあった。 ニュージーランドでもさすがに「ハレ」というわけにはいかないが、「地」ではなくて、少し角度が違うところから日常を見てみるような時間の過ごし方である感じがする。 モニもわしもモールなどは退屈で嫌いだが、映画を観に行ったときだけは、モール自体がなんだか明るい軽い感じがして、もう30歳をすぎたわしも10年くらい若くなって、大学生のような気持で足が浮き立つ。 3 波打ち際の貝殻の破片が演奏する音は、神様が風鈴をもっているなら、きっとこんな音だろう、というような、「神韻」という死語を思い出すような音です。 すごおおおくヘンな言い方をすると、ニュージーランドにはフランス、アメリカやイギリスに較べても色の濃い海や夜や空がいっぱいあって、大自然だからというわけではなくて、「豊穣」という言葉を思い出す。 … Continue reading

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Can’t Stop the Beat

人間はアフリカに帰ってゆくのだとおもう。 もじんさんというツイッタの友達の引用に手をひかれて日本語世界では有名だというブロガーの文章を読んでいたら、バックパッカーとしてアフリカをめぐってアフリカ社会をよく知っているのだというそのひとは、「アフリカは手が付けられないので西洋諸国の手にもどすべきだ」と書いてあった。 レソトの闇は深くて、月のない夜になればなにも見えない。 ミシシッピ人のJたちは、土嚢の上から顔を半分のぞかせて、じっと週末の学校の門を眺めている。 やがて、凝視する双眼鏡のなかに黒々としたカーペットのような広がりが見え始めて、それがいっせいに立ち上がると喊声をあげて校舎めがけて走ってくる。 制止しようとすると、ショットガンやAK47の射撃音が聞こえ始める。 教師達も機関銃座にとりついてブローニングをぶっ放し始める。 12.7mmの重機関銃音が夜空を引き裂くと、やっと退却するのだそーでした。 「それが毎週末だから、嫌になっちまうのさ」とJは、いかにも「チャーチピープル」のひとりらしい穏やかな笑顔でいう。 山賊、なんですか? と子供のぼくが訊くと、「そーなんだけど、いわゆる生徒の父兄、っちゅうひとびとと顔ぶれは同じなんだよね」とJがこたえて、レソトの教師仲間だったMが横で、堪えられない、というふうにして大きな声で笑う。 最期は「勉強なんてしたくない子供たち」と「子供という労働力を学校にとられたくない親たち」が白昼に大挙してやってきて、校舎に鉤綱をかけてひきたおして、彼等の「ボランティア教育事業」は「物理的に」終わったそうでした。 それなのに彼等がいっこうに「アフリカ」に対する敬意を失ったように見えないことがぼくには不思議だった。 コンゴ人の夢はフランスに行くことである。 フランスへ行くことが人生のゴールで、そのオカネをつくるために、子供のときから、盗み、恐喝し、身体を売り、火をつける。 「フランスへ行けば食える」 繁華街の通りから外れた路地で、たき火を囲みながら、「フランスへ行った自分」を空想するコンゴ人たちはいろいろなドキュメンタリで見ることができる。 フランスへ行けばすべては解決する。 アフリカとさえおさらばすれば、おれは人間として生きられる、と目に涙を浮かべて語るコンゴ人は見ていて痛々しい気がする。 性器を切り取られる習慣が嫌さにたったひとりで夜更けの砂漠を歩いてわたって逃げる少女や、ただ殴られるためだけに「結婚」させられた10歳の女の子、ラクダとひきかえに売られる女達、… アフリカ人たちの話は暴力と恐怖と不条理な屈辱に満ちている。 すべてが弱肉強食の物語で、アフリカ大陸では、ルールはたったひとつしかない。 「強い者が勝つ」ので、「弱い者」は踏みつけにされ、なぐさみものにされ、使い物にならなくなれば弊衣のように捨てられる。 だが、人間はアフリカに帰ってゆく。 音楽に国境がない、というくらいひどいウソはない。 どんなチューンやリズムにも言語と文明の影響があって、どんな作曲者からもそれから自由になれはしない。 クラシックと呼ばれている音楽は(使用される楽器の成り立ちを考えれば)多分数学という言語が直截に影響している。 ソールズベリーのストーンヘンジは、最近の研究で、どうやら全体が「楽器」らしいことがわかった。長い論争に決着をつけることがほとんど確実な発見で、もうすぐ日本語世界にも紹介されるのではないだろうか。 ケルト族の知っているすべての土地から遙々もってきた岩石が並んでいることや、無目的に見える精密な加工、そういうすべての謎が「鳴らして」みることによって解けた。 あれほど宗教的に見えた情熱は実際には「音楽」への情熱だった。 「現代音楽」ということを考えると、ただアフリカ人のリズムだけが、不思議にも言語の壁を越え、人種の皮膚の色や筋肉のおおきさや骨格の形の違いをも軽々と超えて、世界中に広まっていった。 両耳から白いケーブルを垂らした東アジア人の若い男がアフリカ人と同じステップを踏みながら22ndと7thの交差点を渡ってゆくのを見るのは楽しい。 リズム感があまり良いとは言えない北欧人の若い女びとが着ていたTシャツを頭の上でふりまわしながら、13分の7のリズムに乗って踊り狂うのは良く見る光景であると思う。 この世界からは素晴らしいスピードで人種も文明も言語の違いもなくなって、同じリズムで、アフリカ人たちのタイミングで踊るステップの音が響き渡るだけになってゆく。 理由は簡単で、きみとぼくのこの肉体が、たった5万年前に(多分)500人くらいしかいない小さな村に生活していた同じひとびとの肉体だからです。 簡略化した言い方をすれば同じひとつの肉体がトルクメニスタンの岐(わか)され道で一方は東に向かって東のはてで日本人になり、他方は西に向かって西のはてでイギリス人になったにすぎない。 もうダメだ、日本人のおれがジャズなんてやるのはやっぱり無理なんだ、くだらない夢だったと考えて、絶望していた渡辺貞夫にアフリカ人が与えたアドバイスは「サダオ、アフリカに行ってみろよ」だった。 「ジャズは、あの大陸から来たのさ。アフリカはジャズなんだ。行ってみて、それでもダメだったら、そのとき考えればいい」 もう自分の人生はすっかりダメと決めて、他にやることもなかったサックス・プレーヤーは、たいした考えもなしに飛行機の切符を買ってアフリカに行く。 「そこではすべてがジャズだった」と、この日本人のジャズ奏者は感動をこめて書いている。 … Continue reading

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「艦これ」の此岸(その2)戦艦大和

「われわれは空の支配者である」「すべてのヨーロッパ諸国はわれわれの空中の帝国からの雷鳴を聞くだろう」とナチはたびたび述べている。 ナチの第三帝国理論は、フランスが陸を支配しイギリスが海を支配している現状においては、ドイツは空を支配するしかない、という「理論」を骨格として持っていて、「ダジャレでやってんのか?」と思わなくはないが、そんな軽口を述べるといきなり処刑されてしまうので、そういう怖い冗談を口にだしてみる人はいなかった。 1919年からたった20年しか経たずに勃発して、しかもその20年の大半を「世界は恒久平和を達成した」「戦争なんて、もう起きるわけがない」「軍縮っきゃない」という「ぬはは、あまい」な観念のもとで過ごしたせいで、第二次世界大戦はひとくちでいえば、どの国にとっても「準備が足りない戦争」だった。 ソビエトロシアは突然怒濤のように侵攻してきたドイツ軍に対して、前線でさえ歩兵3人に一挺のライフルという冗談みたいな装備で戦わねばならなかった。 ライフルをかまえてひとりの兵士が突撃をはじめると、そのうしろを手ぶらのワカモノがふたりで追いかける。 そんなアホな装備で攻勢に出てチャージすれば当然だが正面の兵士はあっけなく機関銃に薙ぎ倒される、すると後ろを追従していたワカモノが死んだ兵士のライフルを拾い上げて突撃を継続する。 当時のソビエト共産党は兵器をムダにしない点で、このやりかたがたいそう自慢だったようだが、いまなら人命軽視だと言ってアムネスティが怒るだろう(←よくない冗談) 例外はフランスで、慢性的な戦車や砲弾の配備の遅れはあったが、戦争なれした国らしく、十分な準備をして防御体制を整備してあった。 「ほんなら、なんですぐ負けたの?」という当然な質問に答えなければならないが、簡単に言えば軍事思想が古くて、通信網ももたない前線を寸断されて、リデルハートたちイギリス人が発明したが、いつものことで、イギリスではアホ役人達が葬り去った「戦車を艦隊のように使う」機甲師団思想をドイツの用兵の天才グデーリアン将軍が採用して、防御線の「穴」を素通りされてしまい、後ろにまわられてボロ負けした。 ルフトバッフェも例外で、ほとんど新鋭機からなる3000機を越える「航空艦隊」は、圧倒的で、その矛先が向けられたときには、以前にも書いたようにイギリス人は、「いいからナチと仲良くしちゃおうぜ。アングロサクソンは兄弟みたいなもんだ、つーてんだから、いいじゃん」と臆病風にふかれたりしたが、それも無理もない、というか、イギリスはつい前年まで「恒久平和」で「尖閣で戦争が起きる、とかいうヤツは頭がおかしいんじゃねえの?」とほぼ全員の国民が信じていたので、軍事予算がチョー少なくて、戦車の帳尻をあわせるにもカーデンロイド http://en.wikipedia.org/wiki/Carden_Loyd_tankette という、武装が機関銃一丁しかない上に、信じがたいことにオープントップで、敵兵に手榴弾を放り込まれると車体がそのまま棺桶になって便利だというアホな戦車をいっぱいつくってやっと年次軍備計画にまにあわせるほどだった。 そうして、もっとおおきな例外が現人神の大元帥、昭和天皇陛下が直率する大日本帝国陸海軍だった。 日本軍の装備や戦略が第二次世界大戦を通じてなんとなくマヌケなのは日本がチンタオのような事例をのぞいて第一次世界大戦に参加しなかったという事実によっているが、それは同時にじっくり軍備を準備できたということであって、 1941年と1942年に日本軍と交戦したアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍の兵士や将校たちが異口同音に述べるのは「日本軍の装備のよさ」で、機関銃から重砲まで、日本軍はマレー半島、シンガポール、フィリピンと、常に圧倒的な火力で攻勢に立った、一方の連合軍は、なにしろヨーロッパの大魔王と全力を挙げて死闘ちゅうだったので、残りカスで応戦せざるをえず、日本海軍が見る目にもカッコイイ零戦でやってきているのに、こちらはブルースターバッファロー http://en.wikipedia.org/wiki/Brewster_F2A_Buffalo という「一応、単葉機なんですけどね」な、空飛ぶふとったおばちゃんみたいな、とんでもない戦闘機で戦わねばならなかった。 太平洋戦域では連合軍側で最も装備がよかったアメリカ海軍にしても「空飛ぶサンドバッグ」グラマンF4F https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/08/31/f4f-ワイルドキャット/ がもっとも強力な対零戦要員だった。 「艦これ」の主題である艦船に至っては、わっはっはというか、天と地ほども異なる戦力で、日本海軍の戦意が他の海軍国なみに旺盛だったら、イギリス、アメリカあわせて、あっというまに海の藻屑に壊滅していただろう。 しかも当時は連合国側に知られていなかったが日本には、戦艦大和・武蔵という日本の科学技術の粋を集めた、スーパー戦艦が秘匿されていたのである。 海軍軍令部に石川信吾という、やや軽躁な、しかしやたらと弁が立つ課長がいた。 本省課長、なのだから、多分、階級は大佐ではなかろうか。 年齢でいえば課長になったときに40代半ばであったはずです。 今回は記事の目的からおおきく外れるので経緯を書かないが、このひとは「思いつき」が多いひとで、調べてみると思いつきで海軍を滅ぼし、ひいては日本を滅ぼしてしまった張本人のような人だが、この人があるとき「天才的な着想」を得たのだという。 その着想の根源は大西洋と太平洋を結ぶパナマ運河が、チョー狭いという事実だった。 「戦艦」の本質はなにかというと、「でかい大砲を運ぶ移動砲台」で、大砲がでかければ、より強烈な砲弾をより遠くまで飛ばすことができる。 その砲弾をぶっ放すための砲塔キャリアが戦艦で、戦艦のおおきさちゅうか排水量は、そこから逆算して決まる。 石川信吾の「天才的着想」は、ほんじゃ、パナマ運河を通れないおおきさの艦体がないと載せられないでかい大砲をのせた戦艦をつくれば無敵なんじゃね?ということで、46センチ砲を主砲とする戦艦大和ができあがる。 天才石川信吾の理論によれば戦艦大和は敵に沈められる可能性が存在しない(相手の主力艦の大砲の弾がとどかない)ので、これは不沈戦艦だということになって、この46センチ砲を備えた戦艦に日本海軍はありとあらゆる新技術をそそぎこむことになります。 世界で初めての機動部隊を着想した割に日本海軍艦艇が対空戦能力に著しく欠けることは戦争初期からよく知られていた。 本来、対空戦の要になるべきだった軽巡洋艦級のたとえば「阿武隈」の14センチ砲は実は平射砲で空を飛ぶものを射撃する能力がゼロだったのは論外としても機銃や高射砲も肝腎の急降下爆撃機に対応できなかった。 いまちょっと、興味が湧いたので日本語のサイトをのぞいてみると、日本海軍で初期に多用された最大仰角が55度しかない50口径12.7センチC型砲がつかいものにならないという認識は当時からあったようだが、しかも本来は近接対空戦闘の主役であるべき機銃は初速が遅いせいの弾道低落でカタログスペックにおおきく劣る900メートル(!)程度の射程しか持たなかった悪名高い96式25ミリ機銃はまったく役に立たなかったので、実際に空襲、特に急降下爆撃機があらわれた場合には、40口径89式12.7センチ高角砲に頼る他はなかった。 南雲部隊でみると、だいたい120門程度の40口径89式12.7センチ高角砲を持っていたが、その半分は実は空母自体に搭載されているもので、日本海軍の対空戦闘マニュアルにしたがえば、この約60門は各個の対空戦闘指揮所の指揮下で自艦の対空に使われるので、なんのことはない、残りのたった60門の高射砲で、全機動部隊を守っていたのである。 ここで筆をやすめて、頬杖をついて考えてみると、この60門の高射砲だけで現実には「虎の子」であったはずの空母を守るというのは、なんだか気が遠くなるくらい無茶苦茶な話であると思う。 この無茶への危惧はミッドウェー海戦 https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/09/08/ミッドウェイ海戦__官僚主義の敗北/ で現実のものになって、全員戦死を覚悟して海面すれすれを突撃する囮のアメリカ海軍雷撃機隊を撃墜するために低空に舞い降りていた日本海軍の直掩戦闘機隊が高空から逆落としに急降下してくる30機のSBDドーントレスを発見したときには、もうすべてが遅かった。 このときの日本の対空射撃が下手をきわめたのは、ミッドウェー海戦は、もともと勇猛であった敵が不運にも壊滅した戦闘であって、その「強かった敵」に敬意を表してあんまり言わないことになっているが、英語世界では有名です。 … Continue reading

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「艦これ」の此岸(その1)

BBCやPBSの「太平洋戦争特集」を観ていると、日本側の「常識」と随分異なる認識があちこちにでてくる。 日本語の書籍に出てくる「アメリカ側の観点」は注意して読むとほとんどがSamuel Morisonの「History of United States Naval Operations in World War II」 http://en.wikipedia.org/wiki/History_of_United_States_Naval_Operations_in_World_War_II_(series) に準拠している。 「History of United States Naval Operations in World War II」が企画されたのは1942年で、刊行は1947年から1962年に行われたので、1942年に企画されたことからはシリーズ全体の姿勢が、1962年に最後の第15巻が発行されたことからは扱われた現実や証言が、まだ戦争の記憶が生々しい一方で、将校間の遠慮や、まだ発見されていなかった事実、政府が公表を望まなかった事柄は記載されていないことなどが容易に想像される。 半藤一利が日本でよく攻撃にさらされるのは、「足をつかって本人に会いに行って取材する」という「調査取材」をメインにした戦争記録の作り方をしたのが、ちょっと驚くべきことだが、この文藝春秋社の編集者だった人だけだったからで、文春の人に聞くと、それでも人間と人間の関係が理由で公表できなかったことがたくさんあるようだが、たとえば帝国陸軍のみならず海軍までドイツとの軍事同盟に急速に傾いていった理由が「美人をあてがわれたから」だったというようなことは、半藤一利の対面取材がなければ永遠に活字記録の下に埋もれて日の目を見なかったに違いない。 ナチはヨーロッパでは当時からよく知られていたことで、高級売春婦から美人でお行儀がよい人間を選んで「某公爵夫人」というようなことにして、外交官や武官、軍人を籠絡するのが常套手段だった。 昭和天皇が松岡洋右を指して「ヒットラーから何か便宜をうけたのではないか」と怒りの言葉を述べたのは、言い方が婉曲なだけで、かねてから欧州の外交事情を聴いていた昭和天皇は、今日受け取られているより、ずっと具体的な危惧を述べたのであるにすぎない。 日本側では書誌ベースに終始して、簡単に言ってしまえば、戦争取材はどんどん薄っぺらなものになって、間近な歴史でいえば福島第一事故というようなものを観察していればわかるとおり、都合の悪い記録はどんどんなかったことにされ、書き換えられて、つい先週でもマンガ家が「福島に行ったら鼻血が出た」と書いたくらいのことで大臣が「不快感」を示したり、たいへんに日本ぽい「福島人に悪いとおもわないのか」の輪唱が現れたりして、歴史というものは何が記録され、何が葬られるのか、間近に観られて興味深い。 BBCやPBS、あるいは大小の英語メディアは方法がいわば日本人とはまるで反対で、個人へのインタビューを中心に事実を掘りだしてゆく。 戦争のようなものは特に有るはずのない記録が存在し、なければならないはずの記録が紛失されていて、極めて簡単明瞭に見える事実さえ、実際にインタビューを行ってみると、意外なくらい模糊としている。 はやい話が、戦場では将校ですらどこで死んだのか、あるいはほんとうに死んでいたのか判然としないことが多い。 日本側で有名な逸話のひとつである「リンドン・ジョンソンが乗っていたB26マローダーを坂井三郎が撃墜しかけた話」でも、そもそもその空域にリンドン・ジョンソンが視察に飛んだ事実そのものがないという人もいて、アメリカ側と日本側の証言を照らし合わせても、ほんとうのことがはっきりしない。 そして、そういう錯綜した事実のなかにわけいっていくためには、書誌よりも個人へのインタビューのほうが現実に近づけるのは犯罪捜査のような作業とあまり変わらないように思われる。 真珠湾攻撃についてアメリカ側の本省課長級へのインタビューを観ると、開戦陰謀説のようなものは、仮にそういう「気持」が存在しても、主因ではありえないという印象をもつ。 日本が攻めてくるわけはない、と蔓延した気分のようにして思い込んでいた理由は、 ひとつには「ただの人間を神様だとおもっているような未開な連中が、そんな近代思想を前提にしなければ計画を組織できない複雑な作戦を実行できるわけはないと思っていた」というようなものが多くて、日本側で印象するような人種差別意識が前面に立った「日本は遅れた国だ」という意識よりも「天皇=現人神」国家体制であることを理由として述べる人が多くて、戦後の天皇処刑中止につながる、日本人=天皇絶対崇拝者のイメジがこの頃からのことだとわかるが、インタビューを観ていて気が付くのは、どうやらアメリカ海軍においては将校教育の一環として日本のシステム化された国家神道ネットワークをインフラストラクチャとした絶対天皇制を教えていたらしいことで、靖国神社に対する日本人とアメリカ人のいまに続く印象の違いは、こういうところからすでに始まっている。 もうひとつの、軍令側の艦隊側とのインターフェースにあたるくらいの若い軍官僚達にとってはより大きな説得力をもっていたらしいほうの理由は「日本の艦隊は侵攻艦隊阻止の迎撃艦隊で、そもそも技術的な仕様がハワイ攻撃にでかけられるように出来ていない」というもので、こっちは詳細なインタビューであるほど現実味を帯びている。 まず艦隊としての航続距離が日本海軍の艦隊は短い。 もう少し正確に言うと個々の艦船はおおきな艦艇は8000海里内外だが駆逐艦程度では5000海里あれば良いほうだったはずで、そうであれば必須の洋上補給のための体制が貧弱であった。 艦隊として商船ルート・補給船保護を根底的な目的とするイギリス海軍のような「巡洋型」の艦隊と異なって、近海防御型というか、日本海軍はすべての艦船が、要するに太平洋を西に侵攻して日本をめざすアメリカ海軍を近海で撃滅することに特化されていた。 … Continue reading

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流砂としての「知」_1

「頭のいい人が捏(こ)ね上げた意見ではない。 眼力の優れた人が看破した実相の描写である」と小林秀雄が「感想Ⅱ」という文章で述べている。 誰を眺めて感嘆しているのかというと福沢諭吉です。 福沢的知性と小林秀雄的知性は本来相容れないが、小林は伊達に「評論家」と称していたわけではなくて、ものを見るとそれが本物か贋物かすぐに判って、まだ前頭葉が十分に働かないうちから言葉の方はとっくに確信している所があった。 福沢が日本の近代化に果たした役回りは気に入らなくても、福沢諭吉そのひとが「明治時代」という時代の時代精神そのものであることは誰よりもよく判っていたでしょう。 小林秀雄が繰り返しのべたことは簡単に言えば本を読みあさって頭の良い人間が辻褄があうようにつくりあげた「作文」になど何の意味もない、ということだった。 有名な志賀直哉への激賞は、つまりは、上の発言の「眼力」がすべてで「頭のいい人が捏ね上げた意見」がいかに無価値かということの表明だった。 小林秀雄は志賀直哉の「見ていないようでいて何もかも見ている目」の恐ろしさについて書いているが、そういう場所にたどりつくことになったのは、大岡昇平が何度も書いているように小林秀雄は中原中也という、良いはずのない詩がダイアモンドのように輝き、見当外れの塊のような人生論が誰よりも人生の実相に届いているという、知力の人であった小林からすれば、理不尽で、やりきれないような、憤懣やるかたないような「友達」と血肉を削り合うようなすさまじい交渉を持ったからでした。 小林秀雄に直截反応したのが、ばななとーちゃんの吉本隆明で、この下町生まれの「吉本さんのところの頭のいい倅」は入学した東京工業大学で後年文芸評論家になる奥野健男と「遠山啓の下で学ぶ者同士」として知り合い、日々長い時間を一緒に過ごし、やがてふたりとも文学の方法におおきく魅せられて一緒に同人誌を出すまでになってゆく。 詩のレベルが他言語に較べても突出して高かった日本の戦後の40年代から70年代にかけてあらわれたたいていの才能のある文学人の例に漏れず、吉本隆明もまた本質的に詩人だった。 「あっちからこっちへ非難を運搬して  きみが口説を販っているあいだ  わたしは何遍も手斧をふりあげて世界を殺そうとしていた  あっちとこっちを闘わせて  きみが客銭を集めているとき  わたしはどうしてもひとりの人間さえ倒しかねていた」(「恋唄」) というような「自分だけが実効的な戦士である」という感情は吉本隆明の詩によく出てくるが、それをナルシシズムと受け取って嘲るのは酷で、ばななとーちゃんにしてみれば、机の上に本を積み上げて屁理屈を捏ねていやがるおれの信者なぞ皆ぶち殺してやる、と思っていただけであるのは、当時の、「情況」シリーズのような本や、読書新聞などを読むとよく判る。 吉本隆明はまた中島みゆきをたいへん尊敬していて、日本の詩人で最もすぐれているのは誰か、と問われると「中島みゆき」と答えていた。 特に「化粧」に感動したようで、自分でもよく歌っていたようでした。 また、ばななとーちゃんは21世紀になっても新宿ゴールデン街のバー「H」によく顔を出していた。噂を聞きつけて団塊世代の「ゴールデン街的ルール」を知らない元全共闘世代のおっちゃんたちが馳せ参じるようになると足を運ばなくなってしまったようだが、相手がまともだと見れば質問にも論争にも応じていたようです。 このバーはあとで小沢ガールズと呼ばれるようになる一団の衆院議員になったひとびとのひとりが主人だが、バーが開いた当初によく姿を現したのは、新しく生活を起こさなくてはならなくなった主人を少しでも応援しようという吉本隆明らしい心使いだった、という人もいる。 小林秀雄は面白い対談をたくさん残しているが、剣豪小説とオーディオマニアぶりで有名だったらしい五味康祐との対談で五味が高級オーディオの音質の素晴らしさについて機器の名前を挙げて述べはじめると、たちまちのうちに機嫌が悪くなって、「そんなものはくだらない」と吐き捨てるように言う。 「いえ、先生、そう仰らずに是非いちど試してみられては」と五味が機嫌をとるつもりで言い募った途端に怒りが爆発して、きみのようなバカと話したくない、と述べたきり対談にならなくなってしまう。 小林秀雄という人は「知識が動員される前に目が勝手に価値を見抜いてしまう」ていの「本質的価値」以外について勧奨されたりすることを毛嫌いしていた。 もったいをつける人間、どの本にはこう書いてあって、世人は気が付かないが、この本にはこういうことが書いてあるので、私見によれば云々というような人間があらわれると、作家や編集者が集まっている銀座のバーだろうが新潮がセットした対談の場だろうが、無言のまま、すっくと立ち上がって、さっさと鎌倉へ帰ってしまうので有名だった。 奇妙なことを言うと、と言ってもその奇妙なことこそが、ここに書き留めておこうと思ったことの内容そのものだが、こういう小林秀雄の姿を見ていると、それにそっくり重なるのは、吉本隆明なのである。 通常、吉本隆明と小林秀雄の関係は文学系譜上の批判的な継承という観点で書かれているのだと思うが、このふたりにはそれ以上に本質的な共通点があって、小林秀雄は中原中也によって、吉本隆明は田村隆一と(より自分に資質が近い)鮎川信夫とによって、いやというほど味わわされた自分の詩人としての資質の低さを何とか知力でカバーするという、切実な、というよりは危機感に満ちた「場」の獲得への渇望があった。 古典としてすら読まれなくなった小林秀雄もそうだが、なんだか政治好きの衒学おじちゃんみたいな人の愛玩物と化した観のある「共同幻想論」作者として吉本隆明が語られるのは、これ以上ないほどの皮肉である。 下町に生まれた吉本隆明は「先生」と呼ばれても照れもしないことを都会っこの奥野健男にからかわれたりしているが、平たく言えば「庶民の味方」という言葉にすれば噴きだしそうな素朴な形の正義に駆られて生きた人であって、通りに立って石を投げもせず、警官のひとりをなぐりたおしもせず、賢げにふるまうだけの人間が自分の名前をあげて褒めたりすると躊躇せずになぐりかかるような人だった。 隆明に好意を抱いているのになぐられたほうの「吉本シンパ知識人」は、なぜ自分がそんな目にあわなければならないのか、さっぱり判らなかったに違いない(^^  小林秀雄と吉本隆明に共通しているのは、「頭のいい、意見を捏ね上げるひとびと」の醜悪さへの嫌悪と怒りで、その嫌悪と怒りがどこから来たのかといえば、両人ともに、それこそが日本の一種言うに言われない「邪悪さ」の源であって、常に日本を無力感の泥沼にひきずりこみ、変化を受け付けなくさせた元凶であることを熟知して、それに苛立ってもいたからだろう。 小林秀雄とばななとーちゃんはともに、「物事の真実性はどこにあるのか」という人間の一生の最も根源的な問題が念頭から離れなかったにすぎない。 いま見たら該当のツイート無いので削除してしまったのかもしれないが年長の友人で、一年考えてもよう答えられんような質問を一週間で10個くらい投げて寄越す因業な「哲人さん」(@chikurin_8th )という人がいるが、「『事実というのは手のつけようのないモノだ』というナマな感覚を、『すべてはお前がそう思ってるだけだ』という切り返しから救い出す。根源的な哲学の課題と思います」とツイッタで述べている。 個人から見れば不条理といいたくなるような絶望的な出征を強いられた戦争の時代を生きた小林秀雄や60年安保反対運動から実効性のない反体制人というレッテルのもとで拳をふりあげなければならなかった革命家であった吉本隆明が、安物の髪飾りに似た「思想」や「似非知識人」を激しく憎悪したのは当然であったろう。 いまは政治らしきものや思想らしきものについて茶飲み話をするのが楽しみのひとびとのヒマ人の悪い息で濁った空気の茶の間でのみ名前があがる存在になった自分達の姿を見て、ふたりはどんな感想をもつだろう、と思うことがある。 小林秀雄は、そっぽを向いて、空をみあげているだろうが、ばななとーちゃんのほうは案外と、娘であるばななさんがいまも惜しむ、やさしい笑顔を向けて、それでいいのさ、と静かに述べるのかも知れません。

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Orphan Black的日常世界について

Tatiana Maslanyが主演しているというのでカナダのテレビドラマ「Orphan Black」を観だしたら止まらなくなってしまった。 http://www.imdb.com/title/tt2234222/ カナダではSpaceでアメリカではBBC Americaで放映しているこのSFドラマは、カテゴリーはSFでも時代は近未来ですらない「いま」で人間のクローンが主人公だが、これだけ英語圏で話題になれば日本の会社でもどこかが放映権を買うだろうから、筋立ての詳細に立ち入るのはフェアではない。 初め、なんの気なしに番組を見始めて数分間はイギリスのドラマだと思い込んでいたのは、初めに出てくる主人公と弟がイギリスアクセントの英語を話していたからで、それにしては駅がイギリスぽくないな、とか、なんでここで北米人が出てくるのかな、とおもっているうちに、舞台がモントリオールで、主人公たちはイギリスからの移民であると気が付いた。 カナダは自分にとって馴染みのない国なので、これはオモロイかも、と思ってマジメに見始めたら、いきなり過去のエピソードを全部観てしまうくらい出来のよいドラマだった。 何人か知り合いがいるだけで見知らぬ国であるカナダの町を画面のなかで眺めるのは、それだけでも楽しい。 主人公の弟の部屋でラジオから流れてくるのが、さっきまで観ていたフランスのドラマでも流れていた、Coeur de pirate であったりするのも楽しいが、カナダという国を知らない人間の目には、イギリスにもアメリカにも、ときには大陸欧州的にも見える町は、魅力的である。 日本のことを思い出してみると、Orphan Blackを観ることは日本の人にとっては現代世界について勉強することにもなるのではないかと、ふと考えた。 クローンのひとりである刑事の仕事上のパートナーはアフリカン・カナディアンで、他のクローンのひとりはウクライナ人、弟はバリバリのハードゲイで、クローンのなかで研究者になったひとりのセクシュアリティも女同士のあいだにある。 物理的な産みの親はイギリスのアフリカ移民、また別のクローンのふたりの養子は両親とは肌の色が違う子供である。 モントリオールがフランス語を公用語のひとつとするケベックの首都であることを別にして、登場人物たちが英語の会話にときどきフランス語を混ぜて、会話のアクセントにするのも他の英語圏の国と共通している。 このドラマの背景として出てくる「多文化社会」は特にこのドラマの嗜好がそうなのではなくて、もともと英語圏全体、いまは欧州の過半も含めた世界中の「新しい社会のありのままの姿」であると思う。 特に文化という、場合によってはとらえどころがないことでなくても、太平洋を巡る船乗りのあいだでは、「バンクーバーとオークランドが(町として物理的に)そっくりである」という話はよく出てくる。 いまはもう死んだはずの日本人の船医のエッセイにも酔っぱらってホテルに帰ろうと思って自分がバンクーバーにいるのかオークランドにいるのか判らなくなって途方にくれる話があったと思うが、バンクーバーとオークランド、場合によってはシアトルの町の類似性はよくいろいろな話にでてきて、「国」というようなものは、そういう町の通りの姿からも存在の必然性が怪しくなっている。 日本では面と向かって訊ねてみると「アメリカが好きだ」という人は少ない。 特に年齢層が40代以上になると日本は洋化されたと言ってもアメリカの影響よりもヨーロッパの影響のほうが強いと考える人が多いように見えたが、ぼくの眼には日本の人の考える「西洋」はほとんどそのままアメリカであるようにみえた。 ややこしいことを言うとおもいのほかフランスを始めとした大陸欧州文明の影響を強く受けているアメリカのほうが日本の人が考えるヨーロッパよりも欧州的であることに、そういうことを考えるためのヒントがあるだろう。 アメリカの流行については敏感だがヨーロッパの話になると古色蒼然としたイメジが語られて、よくて、せいぜい80年代の欧州の話なので、聞いていると「いったいいつのヨーロッパの話ですか?」と茶化したくなって困るのでもある。 アメリカは英語圏のなかでは最も保守的な国で、移民の国でありながら、頑なに伝統価値にこだわって変わろうとしない国として知られている。 髪型ひとつとってもアメリカ人は髪型で人間性を判断しようとする、ほぼ無意識なすごい癖がある。 テレビを観て観察していると判るがアメリカでは女びとの「ショートカット」ですら、やや反社会的である。 「ええええええー、わたし、アメリカに20年住んでるけど、そんなことないよおおお」という声が聞こえてきそうだが、髪を緑色に染めて3フィートくらいおったててみせるのと異なって、そういうことは(subtle)x0.2なことなので、髪をおもいきって短くした当の女びとすら自分が求めている「効果」に気づかないことがあって、まして非英語人に見えにくい。(←ちょっとひどい) あるいはニュージーランドのオークランドに住む人間は、ふつーにTシャツにショーツ、裸足でクルマを運転していって、裸足のままスーパーマーケットで買い物して帰ってくるが、マンハッタンではショーツで歩くのには、いろいろ心理的な制約が生じる。 これも「ええええー。マンハッタンなんども行ったけど、ショーツにスニーカーの人いっぱいいるじゃない。ばかみたい」という人がいるだろうが、あれは観光客であることを自己主張しているような恰好なだけで、自分のアパートのまわりにある馴染みの店にショーツででかけるのは巨大な心理的抵抗を伴う。 わかりやすいほうの例を挙げると、「裸足はダメよ」サインはアメリカの観光地の至る所にあるが、ニュージーランドでは見たことがない。 男の髪型に至っては、もっと了簡がせまくて、オフィスワーカーカットでなしに普通の人間として扱ってもらうためには、よほど特別な人間であることを要する。 そういうことについてはイギリスのほうが遙かに自由で、どういう奇怪なかっこうで出かけても、扱いが変わるということはまずないと思われる。 もちろんショーツ姿や登山に行くような恰好でシナモンクラブに行けばウエイターがテーブルにやってこないかもしれないが、それはどちらかといえば、あまりのことに畏れをなしているので、話が異なる。 ニューヨークを「人種のるつぼ」というが、他の英語圏の都市に較べると、どちらかというと「人種のモザイク」で、エスニックグループが、それぞれ同種人で寄り添って、CBDで他グループからやってきた人間と協同で作業をしているだけだ、と言えば言えなくも無い。 ひとつの社会が人種差別の壁を乗り越えて、やがて壁があとかたもなく崩壊するまでの行程は、ふつう、異人種間のカップル→異人種間の友達という方向ですすむのであって、その逆ではない。 ある町に、たとえばアジア人に対する差別があるかどうかを知るには高校の門の前にクルマを駐めて、下校する生徒たちがどんな組み合わせかを観察するのが最も簡便で正確だと思う。 金髪碧眼でいかにも学校のなかで人気がありそうなすらりとした女の子とインド人の子や肌が真っ白で赤毛の女の子と東アジアの子が手をつないで帰ってゆくような学校がある町には人種差別は通常存在しない。 最も人種差別が激しい町は、異人種同士のカップルを、そっと盗み観る人がいる町である。 … Continue reading

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木の言葉、森の言語

日本にいたときには、ときどき稲城にある米軍多摩キャンプのキャンプ場へ行った。 たしか「Tama Hills Recreation Center」という名前だったと思う。 門をはいって、チェックインしてから奥へはいっていくと、「日本の森」の匂いがぷううーんとして、まるでトトロの世界にはいりこんだようだった。 軽井沢の森よりもずっと深くて、濃密で、おおげさに言えばアニミズム的な感興を起こす森で、その森の空気がなにかに満たされているような感じにひたりたくてでかけた。 シャワー室からなにから「西洋式」で、とまどいがないというか、いちいち、えええとここは日本だからこれはこうするのだな、と頭のなかで習慣の変換を行わなくてもよいので楽だったということもある。 物理的にシャワーヘッドがちゃんと自分の頭より高いところにあったりするのは、心地が良くて、なんだか場所ごと歓迎してくれているような気がした。 全部英語で用が足りるので、その点でも気楽なものだった。 お互いの区画が茂みやヘッジで見えないようになっている600平方メートルくらいの空き地があちこちにあって、それが一家族用のテントを張るスペースになっている。 いまはニュージーランドも同じやりかたをする人が増えたが、アメリカ人はむかしから、飲み物用テント、キッチン用テント、めいめいのベッドルーム用のテント、ラウンジテント、といくつものテントを張って、おおげさなキャンピングをする。 まるで基地の設営だが、アメリカ人たちは実際にも軍人なので手際がよくて、ぼくが自分のテントを完成させて他人のテントを手伝いはじめるころには、あっというまに他用途のいくつものテントをつくって、ビールをテーブルに出し始めているのが常だった。 池子の森は旧帝国海軍の弾薬庫だが、稲城の森は旧陸軍の弾薬庫で、森のあちこちにあるコンクリートの弾薬庫を探検した。 道から外れた、濃い緑に埋もれるように残っているコンクリートの建物群は、ちょうどサイパンかどこかの要塞のあとのようで、古代遺跡のようにもみえた。 アメリカ人達は「日本人たちに土地を返しても、どうせラブホテルやパチンコ!になるだけさ」と言って笑っていたが、ぼくのほうは、夜中にひとりで起き上がって森のなかを散歩すると、映画や本に出てくる「むかしの日本」、それも初めてジブリのアニメで観たとき、あれほど感動した「多摩の森」が現実のものとして目の前にあることが信じられなかった。 米軍の占領によって、多摩の森の一角が、切り取られて、そこだけ時間が止まってしまっていた。 夜中に稲城キャンプを散歩した人はわかると思うが、ほんとうに「猫バス」の停留所があって、精霊たちのバスが走ってきそうな感じがする。 宮崎駿のアニメ世界全体は宮崎の「miss」の感覚でできているが、その英語の「miss」が適当で日本語ではうまくあてはまる言葉が見あたらない感情が、具体的には何を対象としているのか、深夜の稲城の森のなかにじっと立っているとわかってくるような気がする。 ラフカディオ・ハーンの書いたもののなかに鳥取の伐られるところを助けられた柳の木の精霊がお礼を述べにくる民話にもとづいた物語があるが、日本人はよく知られているように「生きとし生けるものすべて」に精霊をみてきた。 いまでは虫から人間まで生命の尊さはみな同じだからだと伝統を説明する日本の人が多いが、多分、それは仏教を援用した後付けの理屈で、もともとは深い森をもつ山々が平地に迫っている地形で毎日を過ごした日本人が自然に対してもっていた「畏れ」の感情だろう。 特に夜には山は黒々として、一種宗教的な威圧を人間に対して加える。 子供の時に富士急ハイランドの近くのホテルだったと思うが、かーちゃんに連れられて一泊の旅をしたことがある。 箱根・富士の方角にでかけるときは、たいてい西武系のホテルだったが、そのときはどういう事情か忘れたが箱根側でないホテルにとまった。 まわりを見渡して「夜だと富士山みえないね」と述べていると、目の前に妹がなんだか怯えたように目をまんまるに見開いて「おにーちゃん、うしろ…」という、言われてふりかえったら、転びそうになった。 真っ黒な、人間味を帯びたような巨大な富士山がそこには立っていて、泣き出したくなるほどの怖さだった。 あるいは、ずっとあとで、高校生のときに立ち寄った日本で、従兄弟と中禅寺湖のまんなかへカヤックで出ていったことがある。 他にはまったくボートがなく、人影さえもなくて、のんびり湖面をみながらカヤックを並べて駄弁っていたが、ある瞬間から急に奇妙に落ち着かない気持になって、遠くに見えている山や、低く垂れ込める層雲や、湖畔の木々まで奇妙なくらい霊的な感じがしはじめて、ふたりで同時にあわててパドルを動かして逃げ帰ってきたこともあった。 霊的、と書くと笑う人がいるだろう。 ぼくも「霊的存在」というようなものは信じないが、単純にそのときの従兄弟とぼくの心を同時に鷲摑みにした感情を描写するためには「霊的な感じ」と書くほかはない。 そういう体験から考えて、日本人の世界観はもともと地も草も精霊にぐっしょり濡れた世界観であったと考える習慣がぼくにはある。 水木しげるが貸本マンガ家から雑誌マンガに移行したあと、比較的初期の頃によくでてきたキャラクタに「サラリーマン山田」というのがある。 http://diary123go.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=14520151&i=201109/08/12/d0178412_2285695.jpg このひとは、手塚治虫に倣ったスターシステムに従って、いろいろな役柄で登場するが、たとえばこのキャラクタが兵隊になって南方の戦線に送られると、マンガのコマに不思議な光景が現出する。 前面に出て「タハッ」とか述べている山田二等兵は一筆書きのようなチョーいいかげんな絵なのに、よく見ると、後ろのジャングルは微に入り細を穿ち、まったく不必要な細密さで描きこまれている。 会話も筋立てもとんでもないいいかげんさのものが水木しげるの短編マンガには多いが、ところがそれが「名作」で、なんども読み返すことになるのは、理由をせんじつめて追究すれば後景のせいであるということに気が付く。 水木しげるの世界観は、少なくとも絵柄だけからみると、個々の人間になどたいした興味は無くて、自然、それも精霊を水分のようにたっぷり含んだ自然の一部としての人間にのみ関心を持っているようにみえる。 稲城キャンプで夜中に目をみひらいて、森の奥をのぞきこんでいたぼくがみていたものは、宮崎駿がmissの感情にとらわれ、水木しげるがそちらの側から人間世界のほうをみている「人間よりも濃密な意識をもつ自然」なのであると思う。 このブログには繰り返し繰り返し日本語という言語が絶対性とは無関係のところで成立したようにみえることの不思議さと、そのことが社会にもたらす影響についての話がでてくる。 この絶対性の欠落、というよりも相対性の支配は、神という垂直な光の塔がないところで人間同士のあいだに観念の垂直性を欠いた水平な関係のありようから生まれた、と説明するのが最も楽だが、稲城キャンプで実見した、ほんの50年前には多摩のような都市郊外に残っていたはずの「濃密な自然」を考えると、案外と、人間を取り巻いていた「自然」そのものから生まれたものであるかも知れないと考えることがある。 … Continue reading

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カルーツァの水練

ドイツの数学者Theodor Kaluzaは30代になってからまったく水のなかで練習することなしにただ本を読むことによって水泳を学習していきなり長いあいだ水泳をしてきたひとのように泳ぐことができたので有名である。 この話はあまりに有名なので、多分、少なくともヨーロッパでは超弦理論につながったカルツァ=クライン理論よりもよく知られていると思われる。 このひとはまた本人が最も好んだというアラビア語を含む17カ国語を流暢に話したことでも他人を驚かせた。 むかしクリケットのコーチをしたときに面白い子供に出会ったことがある。 「左肘を2インチ上げて、バットを内側に5度いれて」というと、その通りに修正する。それは誰にでもできそうでいて現実には出来るはずがないことなのだが、この子供はそれが出来た。 面白がってフランス語の発音を教えてみると、口の形や舌の位置を言葉で教えると、その通りの発音ができる。 うーむ、と考えました。 観念をそのまま現実に変換できる能力は本来は人間には備わっていないはずの能力で、だからこそ「畳の上の水練」という言葉があり、「Practice makes perfect」という格言がある。 誰もが観念の現実化という怖ろしい難関に直面する、例の、あんな恥ずかしいことやこんなはしたないことをしてしまうに至る、通常は訓練を要する肉体の活動についても、アメリカのSF作家ロバート・ハインラインですら “Sex, whatever else it is, is an athletic skill. The more you practice, the more you can, the more you want to, the more you enjoy it, the … Continue reading

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ビンボについての教科書的な事実

いまのアメリカの苛酷な競争経済社会は、もともと日本という経済上のモンスターと戦うための変革だった。 日本語以外の言語で20世紀後半の経済報道アーカイブを読んでいけばわかるが、死の淵から蘇った国家社会主義経済の亡霊のような姿の日本は手がつけられないほど世界じゅうからオカネをかき集めてしまう国で、1980年代には日本だけが繁栄して他の国はすべてオトーサンの悲劇に陥るのではないか、とマジメに心配しなければならなかった。 なにしろ日本は、といっても具体的には三菱グループだが、ロックフェラーセンターまで買い取ってしまったのである。 日本にはロックフェラーセンターにあたる建物はないが、ヘンな例をだすと靖国神社を中国政府が買い取ってしまったといえばいいか、吹上御所をバンクオブアメリカが買い取ってしまったといえばいいか、そういう事象と等価な衝撃だった。 しかもソニーはコロンビア・ピクチャーズをも買ってしまった。 アメリカ映画人にとっては「魂の一部」を買い取られてしまったのと同じ事なので、ハリウッド人挙げての怨日の声の原因になった。 情報学会ではインテルの発表があるときには日本の若い企業研究者たちの黒々とした頭が最前列に並ぶのが見慣れた光景になった。 発表の勘所が終わると発表の終わりを待たずにどっと出口に向かって駈けだしていって、我先にファックスにとりついて日本にインテルが発表した技術の内容を日本の本社に流すのが学会の風物になっていた。 ずっとあとでインテル本社の近くにチョーおいしいホットドッグ屋が出来て、インテル社員たちの昼食の巣になったときに台湾人たちが、突然、妙にホットドッグ好きになって、インテル技術社員たちのテーブルをまるで包囲するように陣取って、ホットドッグを楽しむふりをしながら、そっとインテル社員たちの会話を録音していたりしていたのと似ているといえば似ている。 円安で日本人自身が気が付かないうちにだんだん貧乏になってゆく、いまのアベノミクスの日本とちょうど逆に、1985年のプラザ合意を出発点にして、円高にむかいはじめ、アメリカドルからみれば戦後ながいあいだ1ドル=360円だったのだからあたりまえだが、日本は1ドル=150円になる頃には1億円が(アメリカ人からみれば)2.4億円になったわけで、日本人は自分自身でも訳がわからないくらい「オカネモチ」になった。 http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_asset_price_bubble わしガキの頃(90年代初頭)でもたとえばサーファーズパラダイスは日本の町のようだったし、いま調べてみると青木建設が買収したらしいウエスティングループのホテルに泊まると、やたらめたら日本語のサインがあって、異様な感じがしたのをおぼえている。 2011年にマンハッタンの5th Ave.を歩いていたら三菱グループのひとびとが直ぐ前を歩いていて、なかの年長のリーダー格らしい男がロックフェラーセンターを指さして、 「あれもうちの会社のものだったのにアメちゃんに取られちゃったしなあー」と、すごおおく大きな、でも十分に情けない声で叫んだので、可笑しくて、笑いをこらえるのに苦労したことがあったが、ロックフェラーセンターだけではなくて、世界中のめぼしいビルはほぼ日本のものと言いたくなるくらい買い占められてしまって、たとえばクライストチャーチで最もおおきなオフィスビルであるクラレンドンタワーもリフトに乗り込むと「虎ノ門実業会館所有」というようなことが書いてあった。 アメリカ人は、あまりに派手に経済的に敗北したので、とりあえず「日本人は汚い手を使っている」ということにした。 日本の企業は社員を奴隷のように使って酷使することによって生産性の差をつけようとしている。 日本政府、特にMITIは言葉にされた貿易取り決め以外のところで、いろいろな民間企業と談合して、「見えない貿易障壁」をつくっている。 日本はCPUデザインのような基礎技術を盗んで、基礎開発費をまったくかけないまま、いわばアメリカ企業の開発コストで製品をつくっている。 日本ではあんまり報道されなかったが、欧州人のほうはもっとすごくて、報道記事を読んでいると粗衣蓬髪の主婦と子供を掘立て小屋の非文明的生活におきざりにして、朝早くから夜更けまで仕事に明け暮れる日本の会社員で埋めつくされた日本という国のイメージは、新聞や、ずっと敬遠されていて、ようやくその頃人気があるメディアになりつつあったテレビを通じてひとびとのあいだに広まっていった。 いまのアメリカの産業は、当時の、国民全体で、もう少しで国がなくなるところまでいったという実感をもった、日本が繁栄した時代の反省に立っている。 時間稼ぎのためにスーパー301条のような棍棒を発明しなければならなくなる事態はアメリカ人にとっても十分に異常事態で、そんなことばかりやっているとほんとうに国が滅びる、というまっとうな危機意識があったように見える。 まず知的財産権を整備して、基礎技術の核心部分をコピペできないようにした。 たとえばNECの「国民機」PC9801シリーズが急速に衰退に向かった直截の原因は、それまで2バイトコードである日本語の「言語の壁」によって隔てられていた「日本マーケット」と「世界マーケット」がDOS/Vによって壊されて、あっというまに、同じ性能ならば半額以下のIBM互換機に市場を奪われていったからだが、背景の、もっと遠くにある理由にはちょうど9801が全盛期を迎えつつある頃にNECが開発したV30 (英語世界ではV20のバリエーションに数えられるの)のマイクロコードがインテルのものと酷似していたために訴訟を起こされたことにある。 http://digitalcommons.law.scu.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1031&context=chtlj 製造業は個人の生活を犠牲にして企業に献身することになれている労働力が豊富にある日本に太刀打ちできないのは当時でも判りきったことだったが、もうひとつ重要なのは、製造業に拠ってはたとえ成功しても社員ひとりひとりが豊かな生活を送るだけの休暇と賃金をうみだすことができない、という現実だった。 アメリカ人はもともと勤勉な上に手先が器用でものをつくるのが好きな国民である。 その伝統的な手作業の技術の高さは戦前のクライスラーの美しいどころではない流線形のボディを見ればわかる。 実際、かつては日本においてもアメリカ工業製品の品質の高さは有名で、60年代の森繁久弥や小林桂樹、三木のり平が大活躍する「社長シリーズ」や植木等の「無責任男シリーズ」を見ても、身分の高い人間が乗るクルマはどれも左ハンドルのアメリカ車である。 製造業が発達した社会の(指導層からみて)扱いやすい点は放っておいても広汎で分厚い「中間層」が形成されることで、よくハンバーガーにたとえられるが、まんなかのパテ=中間層が充実しておいしければ消費市場で売るほうのマーケティングも楽で、治安を保つのも簡単、政治家やほとんどやることがないというくらいイージーメンテナンスの社会が出来上がる。 欠点は利益率が絶えず縮小することで、インフラストラクチャを整備することを学んだどこかの国が壁をこえて参入してくるたびに価格も利益も劇的に低下する。 大都市で1年の収入が3万ドル以上必要な頃になるとアメリカの製造業中心の社会は、もうこのタイプの競争に耐えられなくなっていた。 よく例にあがるミシガン州のフリント http://en.wikipedia.org/wiki/Flint,_Michigan が典型だが、製造業は、資本を集中させなければならないせいで、いったん下降しだすと治安、教育、雇用の面で社会へのインパクトが強く手がつけられなく傾向がある。 アメリカはそのために高い生産性をめざして、まず産業がソフトウエア化されるところから始まった。 Appleのように、みかけはハードウエアの会社にみえるが、現実は初期にはハードウエアがAppleによってデザインされた「定型」の範疇におさまるソフトウエアを実現するための箱にしかすぎず、どうしてもコンピュータビジネスを理解できなかったスカリーの時代をはさんだあとの後期にはビジネスモデルを実現するためのデバイスにすぎない会社を含めてもよいと思う。 やがてソフトウエアビジネスは、インターネットビジネスに変貌し、現代数学を直截多用することによって常に動的な経済世界という前代未聞の経済思想を獲得したあとは、いわゆる「IT革命」を突き進んでいった。 そうして何が起こったかというと、いま起きていることは経済効率原理主義とでもいうべき運動で、すべての社会の評価が「生産性があるかどうか」に集約されている。 … Continue reading

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影のなかの太陽

自分達の教典(コラン)が悪魔によって改訂されたものではないか、という疑いがムスリム学者にとってのおおきな問題であることはよく知られている。 原典へ向かって時間をさかのぼって研究すればするほど紛失されたとしかおもえないページや、相互に矛盾し、書き換えられている疑いのある箇所がでてきて、ムスリム学者たちを苦しめてきた。 本来、コランは聖書に優越する完璧さを備えていることがムスリムの宗教としての根幹だからです。 神や悪魔について述べると、日本語インターネットでの反応はだいたい決まっていて、「中二病」(子供っぽい妄想のことらしい)治せよ、か、頭のわるいカトリックの神父が立腹したときに述べそうなことを述べるか、だいたいどちらかである。 日本語は「神」を仮定していない言語である、と何度も書いたが、もう少し詳しく述べると、言語体系は神を仮定していないが、日本人自身の世界観は絶対神を仮定している。 どうしてそんな器用なことが出来るかというと、日本語そのものが漢文の脚注として出発した言語なので、レ点と送り仮名の代わりに今度は「カタカナ」を使って、西洋を取り込むことにしたので本文は西洋人まかせで、西洋言語がそもそも立脚する絶対神の仮定から派生するさまざまな問題やissueは、本文制作者の「本家」に考えさせればいいことになっているからである。 神について述べる人間を「中二病」と呼んで薄笑いを浮かべる人間は、だから、要するに絶対神の体系が見いだしてきた哲学と科学の方法の成果によりかかって「神なんているわけねーだろ、おまえバカか」と述べているわけで、なんだか椰子の木を伐ってつくった「飛行機」を原っぱにならべて飛行場にみたてたマイクロネジア人の故事を思わせる。 神と悪魔が二項対立の存在でないことはキリスト教世界に生まれついたものならば感覚的にわかっている。 悪魔がもともと大天使だからで、そこにわだかまっているのは、人間の言葉に無理をして翻訳してもせいぜい「嫉妬」で、より優れたものを嫉妬している人間とその対象とを二項対立だと思う人間はいないだろう。 哲学化された後の仏教では生命のあるものの「此岸」と「彼岸」を川をはさんだイメージで対比させるが、キリスト教では、生と死がひと続きの思想が宗教成立以前の下敷きになってしまっているのに気づく。 スウェーデンボルグが死と生のあいだを自由に行き来するイメージをもったのは、それを聖書から感じていたせいで、意識の経過としての時間と空間が別種の(時間をもたない)空間として視覚化されるイメジで宇宙を考えることが出来たので、「宇宙は人間の形をしていた」という表現が生まれてきたのだと思う。 前にも書いたことがあるが、ところどころにコルクの自生林があるスペインの田舎を歩いていると、だいたい11世紀頃にはネットワークとして完成していたこういう「行商人の道」沿いにはネクロポリスや小さな悪魔の像までがあって、キリスト教の信仰が神への信仰だけで出来ているわけでないことが実感される。 行商人の道ぞいを歩いている時に経験した不思議な感覚の経験は前にこのブログ記事に書いたが、あの「悪意」の感覚は、人間の文明を通過しないでいきなり提示されているというか、世間の都合によらない、そんなものにはおかまいなしの圧倒的なもので、言語が予期するよりも遙かに「絶対性」を帯びている。 日本語を学習して最もよいことのひとつは明示的な形で絶対性をもつものが価値の中心にあるものを外から、というよりも違う場所から、眺められることだろう。 ちょっと失礼な言い方になるが、島から霧が晴れた対岸にみえる大陸を観ている感覚に似ている。 現代日本社会で日本人が苦しんでいる多くの問題の根本は、日本語という言語に絶対中心が欠落していることに由来している。 あらゆる科学的方法を駆使して、手続きを検証して、その場の気温が43℃であると測定されたあとにやってきて、「いや、43℃ではたいへんだから、せめて39℃にしましょう」と温厚な人間が述べると、みなで微笑しながらうなづいて、それもそうですね、39℃のほうがいいかもしれない、と言って、善意でその場の気温を39℃にしてしまう危うさがある。 義理叔父の従兄弟を日本語でなんというのか知らないが、そのひとが政府から都庁に出向して、いならぶ部下が全員自分より年齢が上で給料も高いという不思議な職業生活を送っていたころ、地震被害者数の算定をしたら、次の日に上司に呼び出されて、「こんなものを発表したら世間を騒がせてたいへんなことになるから、ゼロをひとつ落としなさい」と穏やかに諭されたという。 25歳だったというそのひとは、「それもそーか」と思って、あっさりゼロを全文書からひとつ落として、「ワープロの置換機能って便利だなーと初めて思った」と言って笑っていたが、日本語においては、「置換」されてしまった事実はもっとたくさんあるのは容易に想像が付く。 そのくらいのことは、どこの国でもやっているに違いない、ときみは言うだろうが、 ここにひとつおおきな違いがあって、西洋語で思考する人間は「世間のためにゼロをひとつ落とす」ことが重大な悪業であることを知っている。 日本語で考える人の頭のなかを、自分でも日本語で問題を(無理だったが)再現しようとしたり、福島第一事故のあとに起きたいろいろな経過を眺めて観察すると、 西洋語文脈からきた「現実を枉げるのはよくない」という部屋にぼんやりと反響する「良心の声」は背景で、力点は「これが現実であると困る」ということのほうにあるらしい。 「たとえ放射能の害が致命的であると判ったときでも、あなたは日本国民にそこから動くなと言う覚悟がありますか?という議論は政治家の方々と何度もしました」と「責任ある要路のひと」として悲壮な口調で述べた東京大学の科学者がいたが、「覚悟」をもちうるのは、問題が人間の世界にとどまっていると誤解しているからで、原子力エネルギーの真の問題はそれがいまの技術レベルでは、火をともすことはできても、そのあとは、人間に制御もできなければ消すことも、拡散することも防ぐことができないことにあって、そういう問題の対処は実は、冗談じみているが、「神学」のほうが詳しい。 わかりやすくするために福島事故の例のような(現実は重大な被害でも)論理としては派生的な事象を挙げたが、人間と人間の情緒がもたれあっていて、上を見上げることなく、お互いの顔色だけを観察しながら「真実」が決まってゆく日本語の世界では主にインターネットコミュニティが原因であるようにみえる「詭弁」のパターンがいくつか定着することによって一層ひどくなった。 2006年に(その頃はゲームブログだったが)このブログ記事を始めた頃は、「日本は全体主義的な傾向を強める可能性がある」と述べると、「ごく一握りの、しかもあなたのようなバカな人間しか読まない2ちゃんねらーのような特殊なクズの集まりが言っていることによって平均的な日本人が右翼的な傾きをもっているようなことを言うなんて許せない」という人が集団でやってきたものだった。 2013年には、なんのことはない、日本の首相が、「クズ」と同じ考えを演説で述べて行動でも示している。 大阪市長などは、インターネット上で開発された詭弁の使い手という点では、さらに洗練されて、名人の域に達しているのではないか。 この大阪市長が議論を「喧嘩の勝ち負け」で表現することが多いのは象徴的で、意識的な方法としての「議論」の発明者ソクラテスの昔から、議論は実際には「なにが正しいのか」を見いだすために行われるが、絶対が存在しない社会では、当然、勝ち負けの問題にそのまま変換されるので、このひとは「日本語」という言語のなかではまったく正しいレトリックを用いているだけであって、他でもない日本語マスメディアから非難されるのは気の毒な感じがする。 一方で、相手にしたくもない、という態度がありありとわかる(英語国である)アメリカ合衆国のほうは、冷笑というか、呆れてなにを言えば良いか判らない、という表情に終始するのを観て、この市長は激昂して演説を繰り返したあとで、「見よ、これこそが私が述べた白人の傲慢というものだ」と勝ち誇ってみせたが、接点がないというか、アメリカ人たちのほうは「なんだかんだ言っても議論は勝ち負けだ」といういかにも神など存在しない幼稚なセリフを聞いて、新入生に小学校の教科書を配布して「講義」をしなければならなくなった大学教師のような気持になっただろう。 自分がやっていることがバカバカしくなったに違いなくて、そういうことをアメリカ人に教え得た点では、大阪市長は有意義な政治行動を取ったのだと言えなくもない。 「絶対」は殆ど定義として言語による思考が及ばない存在を指す。 思考の実体である言語の体系そのものに絶対を欠いている「宇宙のことがなんでも説明できる言語」は、多分、人間にとって最も危険な道具になりうる。 キュビエはラマルクのデッタラメな進化論に憤慨しながら死んだが、このひとの「天変地異説」は極めて「実証科学的」で隙がないもので、この時代にキュビエの本を読んで進化論を否定できなかった人はよほど古生物学の素養がない人だったと思われる。 この例も(本が手に入りやすいという理由で)何度か挙げたがプトレマイオスの天動説の体系は、手続き主義的には「完璧」に近い。 観察事実をつみあげれば、当然こうなる以外にない、というお話しの展開で、当時すでに存在した地動説の「事実を欠いたただのお話し」とは次元が異なる「科学的真実」だった。 17世紀のティコ・ブラーへに至っては、観察科学の鏡のような天文学者だった。 膀胱が破裂して死ぬまで我慢するひとの忍耐力で観察をつづけたこの偉大な科学者は、しかし、言うまでもなく天動説の支持者だった。 では進化論や地動説が、チョーいいかげんな「現実観察」に基づいていながら、なぜ発掘と発掘事実の解釈の水準に(主に他分野からきた)ブレークスルーが出来、観測機器の精度があがって、次第に真理であると認められるまで生き延びられたかといえば、なにしろ「絶対」が存在するので、その絶対が映し出す地上の影にすぎない人間の頭から生まれた仮説は、どうがんばっても、すべて相対的なものにしかすぎなくて、どんなに100%真実にみえても、ほんとでないことがあるみたい、と人間のほうでも知っていたからである。 神さえ存在しなければ南京虐殺くらいはなかったことにするのは「お茶の子さいさい」で簡単なことだろう。 … Continue reading

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