影のなかの太陽

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自分達の教典(コラン)が悪魔によって改訂されたものではないか、という疑いがムスリム学者にとってのおおきな問題であることはよく知られている。
原典へ向かって時間をさかのぼって研究すればするほど紛失されたとしかおもえないページや、相互に矛盾し、書き換えられている疑いのある箇所がでてきて、ムスリム学者たちを苦しめてきた。
本来、コランは聖書に優越する完璧さを備えていることがムスリムの宗教としての根幹だからです。

神や悪魔について述べると、日本語インターネットでの反応はだいたい決まっていて、「中二病」(子供っぽい妄想のことらしい)治せよ、か、頭のわるいカトリックの神父が立腹したときに述べそうなことを述べるか、だいたいどちらかである。

日本語は「神」を仮定していない言語である、と何度も書いたが、もう少し詳しく述べると、言語体系は神を仮定していないが、日本人自身の世界観は絶対神を仮定している。
どうしてそんな器用なことが出来るかというと、日本語そのものが漢文の脚注として出発した言語なので、レ点と送り仮名の代わりに今度は「カタカナ」を使って、西洋を取り込むことにしたので本文は西洋人まかせで、西洋言語がそもそも立脚する絶対神の仮定から派生するさまざまな問題やissueは、本文制作者の「本家」に考えさせればいいことになっているからである。
神について述べる人間を「中二病」と呼んで薄笑いを浮かべる人間は、だから、要するに絶対神の体系が見いだしてきた哲学と科学の方法の成果によりかかって「神なんているわけねーだろ、おまえバカか」と述べているわけで、なんだか椰子の木を伐ってつくった「飛行機」を原っぱにならべて飛行場にみたてたマイクロネジア人の故事を思わせる。

神と悪魔が二項対立の存在でないことはキリスト教世界に生まれついたものならば感覚的にわかっている。
悪魔がもともと大天使だからで、そこにわだかまっているのは、人間の言葉に無理をして翻訳してもせいぜい「嫉妬」で、より優れたものを嫉妬している人間とその対象とを二項対立だと思う人間はいないだろう。
哲学化された後の仏教では生命のあるものの「此岸」と「彼岸」を川をはさんだイメージで対比させるが、キリスト教では、生と死がひと続きの思想が宗教成立以前の下敷きになってしまっているのに気づく。
スウェーデンボルグが死と生のあいだを自由に行き来するイメージをもったのは、それを聖書から感じていたせいで、意識の経過としての時間と空間が別種の(時間をもたない)空間として視覚化されるイメジで宇宙を考えることが出来たので、「宇宙は人間の形をしていた」という表現が生まれてきたのだと思う。

前にも書いたことがあるが、ところどころにコルクの自生林があるスペインの田舎を歩いていると、だいたい11世紀頃にはネットワークとして完成していたこういう「行商人の道」沿いにはネクロポリスや小さな悪魔の像までがあって、キリスト教の信仰が神への信仰だけで出来ているわけでないことが実感される。
行商人の道ぞいを歩いている時に経験した不思議な感覚の経験は前にこのブログ記事に書いたが、あの「悪意」の感覚は、人間の文明を通過しないでいきなり提示されているというか、世間の都合によらない、そんなものにはおかまいなしの圧倒的なもので、言語が予期するよりも遙かに「絶対性」を帯びている。

日本語を学習して最もよいことのひとつは明示的な形で絶対性をもつものが価値の中心にあるものを外から、というよりも違う場所から、眺められることだろう。
ちょっと失礼な言い方になるが、島から霧が晴れた対岸にみえる大陸を観ている感覚に似ている。

現代日本社会で日本人が苦しんでいる多くの問題の根本は、日本語という言語に絶対中心が欠落していることに由来している。
あらゆる科学的方法を駆使して、手続きを検証して、その場の気温が43℃であると測定されたあとにやってきて、「いや、43℃ではたいへんだから、せめて39℃にしましょう」と温厚な人間が述べると、みなで微笑しながらうなづいて、それもそうですね、39℃のほうがいいかもしれない、と言って、善意でその場の気温を39℃にしてしまう危うさがある。
義理叔父の従兄弟を日本語でなんというのか知らないが、そのひとが政府から都庁に出向して、いならぶ部下が全員自分より年齢が上で給料も高いという不思議な職業生活を送っていたころ、地震被害者数の算定をしたら、次の日に上司に呼び出されて、「こんなものを発表したら世間を騒がせてたいへんなことになるから、ゼロをひとつ落としなさい」と穏やかに諭されたという。
25歳だったというそのひとは、「それもそーか」と思って、あっさりゼロを全文書からひとつ落として、「ワープロの置換機能って便利だなーと初めて思った」と言って笑っていたが、日本語においては、「置換」されてしまった事実はもっとたくさんあるのは容易に想像が付く。

そのくらいのことは、どこの国でもやっているに違いない、ときみは言うだろうが、
ここにひとつおおきな違いがあって、西洋語で思考する人間は「世間のためにゼロをひとつ落とす」ことが重大な悪業であることを知っている。
日本語で考える人の頭のなかを、自分でも日本語で問題を(無理だったが)再現しようとしたり、福島第一事故のあとに起きたいろいろな経過を眺めて観察すると、
西洋語文脈からきた「現実を枉げるのはよくない」という部屋にぼんやりと反響する「良心の声」は背景で、力点は「これが現実であると困る」ということのほうにあるらしい。
「たとえ放射能の害が致命的であると判ったときでも、あなたは日本国民にそこから動くなと言う覚悟がありますか?という議論は政治家の方々と何度もしました」と「責任ある要路のひと」として悲壮な口調で述べた東京大学の科学者がいたが、「覚悟」をもちうるのは、問題が人間の世界にとどまっていると誤解しているからで、原子力エネルギーの真の問題はそれがいまの技術レベルでは、火をともすことはできても、そのあとは、人間に制御もできなければ消すことも、拡散することも防ぐことができないことにあって、そういう問題の対処は実は、冗談じみているが、「神学」のほうが詳しい。

わかりやすくするために福島事故の例のような(現実は重大な被害でも)論理としては派生的な事象を挙げたが、人間と人間の情緒がもたれあっていて、上を見上げることなく、お互いの顔色だけを観察しながら「真実」が決まってゆく日本語の世界では主にインターネットコミュニティが原因であるようにみえる「詭弁」のパターンがいくつか定着することによって一層ひどくなった。

2006年に(その頃はゲームブログだったが)このブログ記事を始めた頃は、「日本は全体主義的な傾向を強める可能性がある」と述べると、「ごく一握りの、しかもあなたのようなバカな人間しか読まない2ちゃんねらーのような特殊なクズの集まりが言っていることによって平均的な日本人が右翼的な傾きをもっているようなことを言うなんて許せない」という人が集団でやってきたものだった。
2013年には、なんのことはない、日本の首相が、「クズ」と同じ考えを演説で述べて行動でも示している。
大阪市長などは、インターネット上で開発された詭弁の使い手という点では、さらに洗練されて、名人の域に達しているのではないか。

この大阪市長が議論を「喧嘩の勝ち負け」で表現することが多いのは象徴的で、意識的な方法としての「議論」の発明者ソクラテスの昔から、議論は実際には「なにが正しいのか」を見いだすために行われるが、絶対が存在しない社会では、当然、勝ち負けの問題にそのまま変換されるので、このひとは「日本語」という言語のなかではまったく正しいレトリックを用いているだけであって、他でもない日本語マスメディアから非難されるのは気の毒な感じがする。

一方で、相手にしたくもない、という態度がありありとわかる(英語国である)アメリカ合衆国のほうは、冷笑というか、呆れてなにを言えば良いか判らない、という表情に終始するのを観て、この市長は激昂して演説を繰り返したあとで、「見よ、これこそが私が述べた白人の傲慢というものだ」と勝ち誇ってみせたが、接点がないというか、アメリカ人たちのほうは「なんだかんだ言っても議論は勝ち負けだ」といういかにも神など存在しない幼稚なセリフを聞いて、新入生に小学校の教科書を配布して「講義」をしなければならなくなった大学教師のような気持になっただろう。
自分がやっていることがバカバカしくなったに違いなくて、そういうことをアメリカ人に教え得た点では、大阪市長は有意義な政治行動を取ったのだと言えなくもない。

「絶対」は殆ど定義として言語による思考が及ばない存在を指す。
思考の実体である言語の体系そのものに絶対を欠いている「宇宙のことがなんでも説明できる言語」は、多分、人間にとって最も危険な道具になりうる。

キュビエはラマルクのデッタラメな進化論に憤慨しながら死んだが、このひとの「天変地異説」は極めて「実証科学的」で隙がないもので、この時代にキュビエの本を読んで進化論を否定できなかった人はよほど古生物学の素養がない人だったと思われる。
この例も(本が手に入りやすいという理由で)何度か挙げたがプトレマイオスの天動説の体系は、手続き主義的には「完璧」に近い。
観察事実をつみあげれば、当然こうなる以外にない、というお話しの展開で、当時すでに存在した地動説の「事実を欠いたただのお話し」とは次元が異なる「科学的真実」だった。
17世紀のティコ・ブラーへに至っては、観察科学の鏡のような天文学者だった。
膀胱が破裂して死ぬまで我慢するひとの忍耐力で観察をつづけたこの偉大な科学者は、しかし、言うまでもなく天動説の支持者だった。

では進化論や地動説が、チョーいいかげんな「現実観察」に基づいていながら、なぜ発掘と発掘事実の解釈の水準に(主に他分野からきた)ブレークスルーが出来、観測機器の精度があがって、次第に真理であると認められるまで生き延びられたかといえば、なにしろ「絶対」が存在するので、その絶対が映し出す地上の影にすぎない人間の頭から生まれた仮説は、どうがんばっても、すべて相対的なものにしかすぎなくて、どんなに100%真実にみえても、ほんとでないことがあるみたい、と人間のほうでも知っていたからである。

神さえ存在しなければ南京虐殺くらいはなかったことにするのは「お茶の子さいさい」で簡単なことだろう。
放射能が、さしたる害もなく安全なことにするくらいでも、その辺で「科学者」を名乗っている人間を糾合しておおきな声で合唱してしまえば、あっというまに「科学的真実」に化けて、日本語世界では楽勝であるのは、日本のひとがこの3年間で目撃したとおりなのである。

日本語で書かれた文章をみると、「日本人が短足だと言っても、もちろん日本人でも短足でないひともいて、なかには股下が90センチもあって世界のひとびとに嘆賞される日本人もいます。だから私が日本人全員が短足だと言っていると受け取られると困りますが」というような書き方をして、日本語文章はいまや世界で最もくだくだしい文章だが、その直截な理由は悪意だけは十分にある怠けものたちの揚げ足取りにあっても、根本の理由は中心にあるべき絶対がないところを間断ない西洋語世界のアップデートを求心力として言語としてのまとまりをつくっていたのが、間に合わなくなって、言語として「ばらけて」来てしまったのだと思われる。

あるいは、本文である西洋語の人気が日本語世界で「洋モノ」の人気がなくなって有り難がられないようになったので、脚注が一人歩きしようとしてしそこなった、と言ったほうがわかりやすいかもしれない。
暗合として、奇妙な例をあげると、ながいあいだ上田保や渡辺一夫というような一群のひとたちの翻訳口調のおおきな影響下にあった日本文学が生命力を失った90年代前半は、戦後民主主義や太平洋戦争の意味が日本人のあいだで再検討されはじめたのと軌を一にしている。
「マルキン、マルビ」くらいから猛然と始まった斜にかまえることしかしらない「茶化し」文化は、以前に述べた全共闘世代への反撥と復讐というような表層の理由のほかに、「絶対なんてあるものか」という後先を考えない嘲りの気持で自分達の文明を自滅させていったという面があると思う。

年長友達のムスリム作家は、自分の配偶者が経営しているカフェの片隅で、「コランは悪魔が書きなおしたのかも知れないが、ムスリム人は恣意的でない真相の発見をあきらめないと思う」と述べた。
絶対は、絶対なのだから、と言う。
悪魔が書き直したのだとしても、それも神の意志さ。

宗教は知性の最高の働きだと教わって、子供のときに面食らったことがあったが、
30歳をすぎたいまなら少しは意味がわかるようになるかなー、とこの頃また、考える事があるのです。

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