ビンボについての教科書的な事実

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いまのアメリカの苛酷な競争経済社会は、もともと日本という経済上のモンスターと戦うための変革だった。
日本語以外の言語で20世紀後半の経済報道アーカイブを読んでいけばわかるが、死の淵から蘇った国家社会主義経済の亡霊のような姿の日本は手がつけられないほど世界じゅうからオカネをかき集めてしまう国で、1980年代には日本だけが繁栄して他の国はすべてオトーサンの悲劇に陥るのではないか、とマジメに心配しなければならなかった。

なにしろ日本は、といっても具体的には三菱グループだが、ロックフェラーセンターまで買い取ってしまったのである。
日本にはロックフェラーセンターにあたる建物はないが、ヘンな例をだすと靖国神社を中国政府が買い取ってしまったといえばいいか、吹上御所をバンクオブアメリカが買い取ってしまったといえばいいか、そういう事象と等価な衝撃だった。
しかもソニーはコロンビア・ピクチャーズをも買ってしまった。
アメリカ映画人にとっては「魂の一部」を買い取られてしまったのと同じ事なので、ハリウッド人挙げての怨日の声の原因になった。

情報学会ではインテルの発表があるときには日本の若い企業研究者たちの黒々とした頭が最前列に並ぶのが見慣れた光景になった。
発表の勘所が終わると発表の終わりを待たずにどっと出口に向かって駈けだしていって、我先にファックスにとりついて日本にインテルが発表した技術の内容を日本の本社に流すのが学会の風物になっていた。
ずっとあとでインテル本社の近くにチョーおいしいホットドッグ屋が出来て、インテル社員たちの昼食の巣になったときに台湾人たちが、突然、妙にホットドッグ好きになって、インテル技術社員たちのテーブルをまるで包囲するように陣取って、ホットドッグを楽しむふりをしながら、そっとインテル社員たちの会話を録音していたりしていたのと似ているといえば似ている。

円安で日本人自身が気が付かないうちにだんだん貧乏になってゆく、いまのアベノミクスの日本とちょうど逆に、1985年のプラザ合意を出発点にして、円高にむかいはじめ、アメリカドルからみれば戦後ながいあいだ1ドル=360円だったのだからあたりまえだが、日本は1ドル=150円になる頃には1億円が(アメリカ人からみれば)2.4億円になったわけで、日本人は自分自身でも訳がわからないくらい「オカネモチ」になった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Japanese_asset_price_bubble

わしガキの頃(90年代初頭)でもたとえばサーファーズパラダイスは日本の町のようだったし、いま調べてみると青木建設が買収したらしいウエスティングループのホテルに泊まると、やたらめたら日本語のサインがあって、異様な感じがしたのをおぼえている。

2011年にマンハッタンの5th Ave.を歩いていたら三菱グループのひとびとが直ぐ前を歩いていて、なかの年長のリーダー格らしい男がロックフェラーセンターを指さして、
「あれもうちの会社のものだったのにアメちゃんに取られちゃったしなあー」と、すごおおく大きな、でも十分に情けない声で叫んだので、可笑しくて、笑いをこらえるのに苦労したことがあったが、ロックフェラーセンターだけではなくて、世界中のめぼしいビルはほぼ日本のものと言いたくなるくらい買い占められてしまって、たとえばクライストチャーチで最もおおきなオフィスビルであるクラレンドンタワーもリフトに乗り込むと「虎ノ門実業会館所有」というようなことが書いてあった。

アメリカ人は、あまりに派手に経済的に敗北したので、とりあえず「日本人は汚い手を使っている」ということにした。
日本の企業は社員を奴隷のように使って酷使することによって生産性の差をつけようとしている。
日本政府、特にMITIは言葉にされた貿易取り決め以外のところで、いろいろな民間企業と談合して、「見えない貿易障壁」をつくっている。
日本はCPUデザインのような基礎技術を盗んで、基礎開発費をまったくかけないまま、いわばアメリカ企業の開発コストで製品をつくっている。
日本ではあんまり報道されなかったが、欧州人のほうはもっとすごくて、報道記事を読んでいると粗衣蓬髪の主婦と子供を掘立て小屋の非文明的生活におきざりにして、朝早くから夜更けまで仕事に明け暮れる日本の会社員で埋めつくされた日本という国のイメージは、新聞や、ずっと敬遠されていて、ようやくその頃人気があるメディアになりつつあったテレビを通じてひとびとのあいだに広まっていった。

いまのアメリカの産業は、当時の、国民全体で、もう少しで国がなくなるところまでいったという実感をもった、日本が繁栄した時代の反省に立っている。
時間稼ぎのためにスーパー301条のような棍棒を発明しなければならなくなる事態はアメリカ人にとっても十分に異常事態で、そんなことばかりやっているとほんとうに国が滅びる、というまっとうな危機意識があったように見える。

まず知的財産権を整備して、基礎技術の核心部分をコピペできないようにした。
たとえばNECの「国民機」PC9801シリーズが急速に衰退に向かった直截の原因は、それまで2バイトコードである日本語の「言語の壁」によって隔てられていた「日本マーケット」と「世界マーケット」がDOS/Vによって壊されて、あっというまに、同じ性能ならば半額以下のIBM互換機に市場を奪われていったからだが、背景の、もっと遠くにある理由にはちょうど9801が全盛期を迎えつつある頃にNECが開発したV30 (英語世界ではV20のバリエーションに数えられるの)のマイクロコードがインテルのものと酷似していたために訴訟を起こされたことにある。
http://digitalcommons.law.scu.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1031&context=chtlj

製造業は個人の生活を犠牲にして企業に献身することになれている労働力が豊富にある日本に太刀打ちできないのは当時でも判りきったことだったが、もうひとつ重要なのは、製造業に拠ってはたとえ成功しても社員ひとりひとりが豊かな生活を送るだけの休暇と賃金をうみだすことができない、という現実だった。

アメリカ人はもともと勤勉な上に手先が器用でものをつくるのが好きな国民である。
その伝統的な手作業の技術の高さは戦前のクライスラーの美しいどころではない流線形のボディを見ればわかる。
実際、かつては日本においてもアメリカ工業製品の品質の高さは有名で、60年代の森繁久弥や小林桂樹、三木のり平が大活躍する「社長シリーズ」や植木等の「無責任男シリーズ」を見ても、身分の高い人間が乗るクルマはどれも左ハンドルのアメリカ車である。

製造業が発達した社会の(指導層からみて)扱いやすい点は放っておいても広汎で分厚い「中間層」が形成されることで、よくハンバーガーにたとえられるが、まんなかのパテ=中間層が充実しておいしければ消費市場で売るほうのマーケティングも楽で、治安を保つのも簡単、政治家やほとんどやることがないというくらいイージーメンテナンスの社会が出来上がる。
欠点は利益率が絶えず縮小することで、インフラストラクチャを整備することを学んだどこかの国が壁をこえて参入してくるたびに価格も利益も劇的に低下する。

大都市で1年の収入が3万ドル以上必要な頃になるとアメリカの製造業中心の社会は、もうこのタイプの競争に耐えられなくなっていた。
よく例にあがるミシガン州のフリント
http://en.wikipedia.org/wiki/Flint,_Michigan
が典型だが、製造業は、資本を集中させなければならないせいで、いったん下降しだすと治安、教育、雇用の面で社会へのインパクトが強く手がつけられなく傾向がある。

アメリカはそのために高い生産性をめざして、まず産業がソフトウエア化されるところから始まった。
Appleのように、みかけはハードウエアの会社にみえるが、現実は初期にはハードウエアがAppleによってデザインされた「定型」の範疇におさまるソフトウエアを実現するための箱にしかすぎず、どうしてもコンピュータビジネスを理解できなかったスカリーの時代をはさんだあとの後期にはビジネスモデルを実現するためのデバイスにすぎない会社を含めてもよいと思う。
やがてソフトウエアビジネスは、インターネットビジネスに変貌し、現代数学を直截多用することによって常に動的な経済世界という前代未聞の経済思想を獲得したあとは、いわゆる「IT革命」を突き進んでいった。

そうして何が起こったかというと、いま起きていることは経済効率原理主義とでもいうべき運動で、すべての社会の評価が「生産性があるかどうか」に集約されている。
そのうち個々の人間に対して、たとえばちょうど不動産におけるGV(政府による土地の生産性・価値評価)のように、CV(履歴書)に記載必須な「生産性指数」が発明されるのではないかという冗談があるが、社会にとっての批評機能の表現は、その個人に対する「支払い」で、よく出来た戯曲を批評家が絶賛するように、社会に高い生産性をもたらした個人に対しては、すさまじい金額が支払われる。

一方で「誰にでもできる仕事」「特殊な訓練を必要としない職業」には、ほんとうは一文も払いたくないと言わんばかりの支払いしかされないので、競争が社会運営原理の前面に出てきた現代社会では、「日本以前」の世界のように働く人間の側からの、いくら生活に必要かという要請はまったく考慮されない。

エチオピア戦争は面白い戦争で、イタリア軍は近代軍としては珍しい妻やガールフレンドを帯同する遠征軍だった。
そのうちに「エチオピア人のち○ちんはチョー巨大で、いちど敵兵につかまって強姦されるとエチオピア人の身体が忘れられなくなって敵に投降する女達がひきもきらないらしい」という、口あんぐりというか、バカバカでどうしようもないというかの噂が戦線を飛び交ってイタリア兵は戦意を喪失してしまう。
まさか、それだけで戦争に負けたわけではないと思うが、イタリア人に聞くと、いまでもそれが負けるはずのない戦争に負けた理由だと信じている人がたくさんいる。
更に例をあげると、アフリカ戦線について、ヒットラーとの会談でイタリア軍にももっと頑張ってもらいたいと述べたドイツ総統に、「しかし総統、イタリア人の国民性は、おいしいペペロンチーノスパゲティがあれば、それで幸福な国民なんです」とイタリアの将軍のひとりが述べて、ヒトラーの逆鱗に触れるところが出て来て、読んでいる方は、可笑しさのあまりその先がしばらく読み進めない、ということがある。

個人の幸福の追求がはじまった成熟した文明世界では中間層の生産性が急激にさがる、というのは厳然たる事実なのである。
強い兵士、という全体価値に身を捧げる前提がある存在もいなくなるが、それは企業戦士というパチモン兵士の存在が消滅することも意味する。
いまイタリアの例をふたつ挙げたのは、言うまでもなく、イタリア人こそはもともとは歴史上、最も勇敢で巧みな戦士の集団だからです。

結局ある程度の文明段階に達した社会では上昇志向の強いグループと富裕な環境の出身であるアドバンティッジを増幅しようとするふたつのグループを中心とした社会の1%に満たないトップ層と、常に食うや食わずの場所におかれる「凡庸な生産性しかもたない層」のふたつにわかれてゆく。
冷戦構造がぶちこわれて、共産主義側のプロパガンダや蠱惑的な言説を心配しなくてもよくなったことで拍車がかかって世界はいまよく言われる通りの「まんなかのパテがないハンバーガー」になってしまった。
そうして日本の人にとって重大に違いないことを述べると「世界市場」というふうに目を少し離して距離をもって眺めると日本は国ごと「パテ」だったのである。

日本以前以後、というが特に日本を非難しているわけではないのはあたりまえで、なにしろ社員ひとりのこき使い方でもなるほど西洋と日本ではルールが違うので日本人を悪し様に言うのは常に喝采されるが、しかし、落ち着いて考えてみれば、では日本人がお行儀良く経済の下層へ沈降していけばよかったかというと、世界全体の生産性ということを考えればすぐにわかる、そのあとに中国、インド、ブラジル、そして最後はいまから40年後には、おおげさではなくて人類が生き残れるかどうかの正念場になるに違いない「人口爆発後のアフリカ」が生まれてくる世界が、やっていけたわけはない。
サッカーのグラウンドでボールを手にもって疾走してゴールに放り込んでは勝ち鬨をあげていた日本企業群は、「先触れ」にすぎず、斜にかまえたいいかたをすれば日本という下品の先触れがあったから、その後の「あんたのルールなんて知らね」の中国にいま対処できるのだ、ということもできる。

20世紀の自由主義・個人主義・民主主義というセットは、少ない人口とパーキャピタでは余剰なくらいの冨、それに加えて、後ろ盾となる、個々の割り当てなどは考慮しないですむほどの、豊富な資源を前提にしている。

中国人民解放軍の将軍が「2050年までに世界は主に資源不足から大量に死を迎える人間がでるのは誰でも知っていることだ。われわれ中国指導者の役割は、その誰ひとりも中国人でない強い中国を実現することだ」と述べて物議をかもしたが、彼は正直なだけである。
しかも「自国民を守る」「長いスパンで政治を考えることが出来る」という点で西洋の凡百の指導者たちよりもすぐれている。

中国人の友達のひとりは、小泉純一郎の登場以来つづく、競争原理の導入が善か悪か、という日本社会の一連の議論を指して「寝言」「カネモチの息子や娘たちのたわごと」と述べた。
冨の分配が公平でないと言って騒げるのは冨があるあいだだけさ、とも述べて、冷笑的な表情を浮かべたのをおぼえている。
このひとはオーストラリアの日本企業で働いたことがあって、そのときの経験で「日本人は給料は天井から降ってくる『天の恵み』だと思っている」と解説してくれたこともあった。

いままで見てきて、日本の人の頑固さは結局、これだけ情報化された世界になったにも関わらず、国債もダイジョブ、産業もダイジョブ、なんでもかんでもとにかくダイジョブで、砂に頭を突っ込んだダチョウの言葉で夢を見続けると思うが、生産性の低下による社会の衰退というのはびっくりするくらい時間がかかるものなので、長くもってしまえば、同じ慢性病で死んだソビエトロシアの例をみても、案外もつものなのかもしれなくて、あんまり外からガミガミいうより、病室の窓で肩を寄り添わせて沈んでゆく夕陽を眺めて遊んでいたほうがいいのかもしれない。
ひどいことをいう、と思うかもしれないが、たとえばイギリスはこういうふうに競争原理を導入して立ち直ったと故国の危機に際して地団駄を踏むように話しかけるイギリスに住む日本人はたくさんいるが、困ったことにわしは肝腎の競争社会が嫌いなのである。

いったんゲームを始めると、ぐうううんと集中力がついて、ありとあらゆる定石の組み合わせを動員して、あっというまに練達のはずの凍死家(←意図的な誤字)を負かしてしまうのはゲーマー魂というものであって、ほかには理由がない。
グローバリズムとか、アントンプレナーとか、なんだか嫌な世の中だなあー、と思うが、仕方がないので、自分が住んでいる世界のルールでゲームの相手をしてやっているだけだという気がする。

こんな身も蓋もない世界に生まれちゃって、お互いにやだねー、と思うが、
せめて、きみと冗談のひとつやふたつを笑い合って、人間の一生という短い時間を共有したいと思っています。

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