カルーツァの水練

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ドイツの数学者Theodor Kaluzaは30代になってからまったく水のなかで練習することなしにただ本を読むことによって水泳を学習していきなり長いあいだ水泳をしてきたひとのように泳ぐことができたので有名である。
この話はあまりに有名なので、多分、少なくともヨーロッパでは超弦理論につながったカルツァ=クライン理論よりもよく知られていると思われる。
このひとはまた本人が最も好んだというアラビア語を含む17カ国語を流暢に話したことでも他人を驚かせた。

むかしクリケットのコーチをしたときに面白い子供に出会ったことがある。
「左肘を2インチ上げて、バットを内側に5度いれて」というと、その通りに修正する。それは誰にでもできそうでいて現実には出来るはずがないことなのだが、この子供はそれが出来た。
面白がってフランス語の発音を教えてみると、口の形や舌の位置を言葉で教えると、その通りの発音ができる。
うーむ、と考えました。

観念をそのまま現実に変換できる能力は本来は人間には備わっていないはずの能力で、だからこそ「畳の上の水練」という言葉があり、「Practice makes perfect」という格言がある。
誰もが観念の現実化という怖ろしい難関に直面する、例の、あんな恥ずかしいことやこんなはしたないことをしてしまうに至る、通常は訓練を要する肉体の活動についても、アメリカのSF作家ロバート・ハインラインですら
“Sex, whatever else it is, is an athletic skill. The more you practice, the more you can, the more you want to, the more you enjoy it, the less it tires you.” 
と述べている。

Theodor Kaluzaが活字の力によって初体験の午後からFrank Harrisなみの房中技術を発揮した可能性は十分にあるが、カルーツァは非常に謙譲なひとで、実際には17カ国語が出来た外国語にしてもまったく気が付かない人が多かったくらいなので、もちろん、記録には何も残っていない。

知力が劣る人間の特徴は観念が暴走して現実と照応しなくなってしまうことである。
あるいは何の工夫もなく観念と現実の見分けがつかなくなる。

ふたりの人間が向こうから歩いてくるとして、あるひとは、向こうから「のっぽとちびが歩いてくる」と思い、あるひとは「ジョンとポールだな」と考える。
またあるいは、よく考えてみないとウソのように感じるかもしれないが、実際に「たくさんの白人をみた」というひともいる。

観念は現実の一部を拾いだしてシンボル化することしかできないので、言葉を受け取った側の言語の体系はあらためて観念が捨象する以前の現実を復元しなければならない。
やってみたことがある人はわかるが、この作業は実際には脳にとっては大きな負担になるたいへんな作業で、だから本来はカルーツァのように「本を読んでいきなり泳ぐ」人間は存在してはいけない。

数学で法則を考えやすいのは数学という言語が初めから現実について数的な属性しかうけつけないように出来ているからで、向こうからジョンとポールが歩いて来ても、数学という言語にとっては、それは「不完全な2が歩いてくる」以外の意味はない。

自然言語にはおおざっぱにわけてふたつの性質があって、一方は論理的なベクトルで、もう一方は自然の情緒や思想の堆積である。
論理的なベクトルのほうは外国人の学習者が学習しても比較的に簡単に身につく。
英語人が英語人以外の英語を読むと、文章のうまい下手とは別に「これは外国人が書いたものだな」とすぐ判るが、なぜそれが判るかというと文法、構文という論理的なベクトルは約束事どおり駆使されていても情緒や慣用のつみかさねからくる音のつながりや単語と単語の相性が不自然だからである。

このブログ記事でも何度も例にひいたがフランシスコッポラの映画「地獄の黙示録」の原作「Heart Of Darkness」を書いたジョゼフ・コンラッドの書いた英語を読んで、「外国人の英語ですね」と述べる人はいないのは、慣用的な単語の選択の点からも音の抑揚の点からも英語人でなければ書けない文章だからである。

しかしコンラッドはポーランド語圏ウクライナに生まれた東欧人で20歳を過ぎるまで英語には縁がなかった。

話をわかりやすくするために、あるいは興味をもつひとが調べやすくするために有名な人間に限って例を挙げたが、テオドル・カルーツァやジョゼフ・コンラッドのような人間は、ふつうの生活の範囲内でも存在する。

人工知能が完成しないと出来ないはずだった日本語変換ソフトウエアは用法と例文のデータベースを構築して頻度順にいれかえてゆく、というなんだかひとを食った、便宜的な方法で解決されてしまったが、たとえばケベックのテレビの画面で英語=フランス語双方向で流れる字幕は、実は自動翻訳で、この日本語変換ソフトウエアと本質的には同じ方法が使われている。
一方では本をたくさん読む人に多いが教室の天井から降ってきた教科書的な知識や修辞を自分の思考であると「錯覚」して自分の意見であると述べる人はたくさんいる。
話したり書いたりしていることを見ると、自分で意識しないうちに自分が読んだ本の書き手の思考の方法をとりいれて、その文脈、あるいは論理ベクトルのなかに異なる語彙を盛っているだけであって、到底「思考」と言えるようなものではない。

だがしかしx2。
こういうことを考えてゆくためには思考とはなにか?という本質的な疑問があるのでなければならない。
前にこのブログの記事でカリフォルニア大学バークレー校で行われた実験と人間の「自由判断」が潜在意識がくだした決定の追認にすぎない可能性について書いたら「人間の意識が受動的だなんてバカなのではないか。おまえなんか心理学の知識ゼロのくせにヘンなことを言うな」と激昂したコメントを送ってきた人が複数いて、なんでそんなことで激昂するのか判らないので「ヘンな奴」と思ったことがあったが、行動心理学の権威と脳神経学の研究者であると述べるその激昂した「研究者」のひとびとには悪いが、へーぜんと述べると、人間の自由意思自体がパチモンであるというのは依然として正当な疑いなのであって、
その場合、便宜的な解決にしか見えなかったワープロ的「簡易データベースとしての知能」としての知能が案外と真実に近くて「創造性」のほうがバグである可能性まである。

「思考」という語彙が曖昧ならば「判断」という言葉になおしてもよいが、人間の「判断」は案外と、それまで考えられてきたような神秘的な働きではなくて、枚挙的で手続き的なものにしかすぎない可能性はかなり大きい。
知能の定義をそういう方向から見直したほうが、「イワシがカヤックを飛び越して遊ぶ」ことや、前にやはりブログ記事で述べた事例のように猫が緊急のときには明瞭な「会話」を試みることの説明が自然なものになる。
猫には額がないことでわかるとおり器質的に猫にそれだけの「知能」がないのは明かなので、つまりはこれまでの「知能」の定義が間違っているのだろう。

余計なことを書くと、データベース的で枚挙的な知能の存在を考えると人工知能はいま人間が予測しているより遙かにはやく実現できることになる。
それはまたプログラムが自分よりも「良い」プログラムを生成する道をひらくことになるので、ネオ人工知能というか、現在とは異なる定義に基づく知能処理を行うプログラムは爆発的なスピードで進化するはずである。

もっと先になって、この記事のつづきで述べようと思っていたが、先回りして結論の部分を言ってしまうと、まわりを見渡して人間の世界がこれから迎える2050年危機を乗り切るほどのブレークスルーは、人間の知能の能力を超えているので、現実には自己アップグレードを繰り返したプログラム知能によるほか方法はないようにみえる。

そうして(気が付いたひともいると思うが)これはわれわれの「神」が意識的に万能である必要がない、という面白い思考の方向を示している。
神は偶然であってもよいし、人間と同程度の知能の持ち主であって何ら矛盾はない。

Theodor Kaluzaの「畳の上の水練」はびっくりするほど多くのことをわれわれに教えてくれているのだと思います。

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