Orphan Black的日常世界について

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Tatiana Maslanyが主演しているというのでカナダのテレビドラマ「Orphan Black」を観だしたら止まらなくなってしまった。
http://www.imdb.com/title/tt2234222/
カナダではSpaceでアメリカではBBC Americaで放映しているこのSFドラマは、カテゴリーはSFでも時代は近未来ですらない「いま」で人間のクローンが主人公だが、これだけ英語圏で話題になれば日本の会社でもどこかが放映権を買うだろうから、筋立ての詳細に立ち入るのはフェアではない。

初め、なんの気なしに番組を見始めて数分間はイギリスのドラマだと思い込んでいたのは、初めに出てくる主人公と弟がイギリスアクセントの英語を話していたからで、それにしては駅がイギリスぽくないな、とか、なんでここで北米人が出てくるのかな、とおもっているうちに、舞台がモントリオールで、主人公たちはイギリスからの移民であると気が付いた。
カナダは自分にとって馴染みのない国なので、これはオモロイかも、と思ってマジメに見始めたら、いきなり過去のエピソードを全部観てしまうくらい出来のよいドラマだった。

何人か知り合いがいるだけで見知らぬ国であるカナダの町を画面のなかで眺めるのは、それだけでも楽しい。
主人公の弟の部屋でラジオから流れてくるのが、さっきまで観ていたフランスのドラマでも流れていた、Coeur de pirate

であったりするのも楽しいが、カナダという国を知らない人間の目には、イギリスにもアメリカにも、ときには大陸欧州的にも見える町は、魅力的である。

日本のことを思い出してみると、Orphan Blackを観ることは日本の人にとっては現代世界について勉強することにもなるのではないかと、ふと考えた。
クローンのひとりである刑事の仕事上のパートナーはアフリカン・カナディアンで、他のクローンのひとりはウクライナ人、弟はバリバリのハードゲイで、クローンのなかで研究者になったひとりのセクシュアリティも女同士のあいだにある。
物理的な産みの親はイギリスのアフリカ移民、また別のクローンのふたりの養子は両親とは肌の色が違う子供である。

モントリオールがフランス語を公用語のひとつとするケベックの首都であることを別にして、登場人物たちが英語の会話にときどきフランス語を混ぜて、会話のアクセントにするのも他の英語圏の国と共通している。
このドラマの背景として出てくる「多文化社会」は特にこのドラマの嗜好がそうなのではなくて、もともと英語圏全体、いまは欧州の過半も含めた世界中の「新しい社会のありのままの姿」であると思う。

特に文化という、場合によってはとらえどころがないことでなくても、太平洋を巡る船乗りのあいだでは、「バンクーバーとオークランドが(町として物理的に)そっくりである」という話はよく出てくる。
いまはもう死んだはずの日本人の船医のエッセイにも酔っぱらってホテルに帰ろうと思って自分がバンクーバーにいるのかオークランドにいるのか判らなくなって途方にくれる話があったと思うが、バンクーバーとオークランド、場合によってはシアトルの町の類似性はよくいろいろな話にでてきて、「国」というようなものは、そういう町の通りの姿からも存在の必然性が怪しくなっている。

日本では面と向かって訊ねてみると「アメリカが好きだ」という人は少ない。
特に年齢層が40代以上になると日本は洋化されたと言ってもアメリカの影響よりもヨーロッパの影響のほうが強いと考える人が多いように見えたが、ぼくの眼には日本の人の考える「西洋」はほとんどそのままアメリカであるようにみえた。
ややこしいことを言うとおもいのほかフランスを始めとした大陸欧州文明の影響を強く受けているアメリカのほうが日本の人が考えるヨーロッパよりも欧州的であることに、そういうことを考えるためのヒントがあるだろう。
アメリカの流行については敏感だがヨーロッパの話になると古色蒼然としたイメジが語られて、よくて、せいぜい80年代の欧州の話なので、聞いていると「いったいいつのヨーロッパの話ですか?」と茶化したくなって困るのでもある。

アメリカは英語圏のなかでは最も保守的な国で、移民の国でありながら、頑なに伝統価値にこだわって変わろうとしない国として知られている。
髪型ひとつとってもアメリカ人は髪型で人間性を判断しようとする、ほぼ無意識なすごい癖がある。
テレビを観て観察していると判るがアメリカでは女びとの「ショートカット」ですら、やや反社会的である。
「ええええええー、わたし、アメリカに20年住んでるけど、そんなことないよおおお」という声が聞こえてきそうだが、髪を緑色に染めて3フィートくらいおったててみせるのと異なって、そういうことは(subtle)x0.2なことなので、髪をおもいきって短くした当の女びとすら自分が求めている「効果」に気づかないことがあって、まして非英語人に見えにくい。(←ちょっとひどい)

あるいはニュージーランドのオークランドに住む人間は、ふつーにTシャツにショーツ、裸足でクルマを運転していって、裸足のままスーパーマーケットで買い物して帰ってくるが、マンハッタンではショーツで歩くのには、いろいろ心理的な制約が生じる。
これも「ええええー。マンハッタンなんども行ったけど、ショーツにスニーカーの人いっぱいいるじゃない。ばかみたい」という人がいるだろうが、あれは観光客であることを自己主張しているような恰好なだけで、自分のアパートのまわりにある馴染みの店にショーツででかけるのは巨大な心理的抵抗を伴う。
わかりやすいほうの例を挙げると、「裸足はダメよ」サインはアメリカの観光地の至る所にあるが、ニュージーランドでは見たことがない。

男の髪型に至っては、もっと了簡がせまくて、オフィスワーカーカットでなしに普通の人間として扱ってもらうためには、よほど特別な人間であることを要する。
そういうことについてはイギリスのほうが遙かに自由で、どういう奇怪なかっこうで出かけても、扱いが変わるということはまずないと思われる。
もちろんショーツ姿や登山に行くような恰好でシナモンクラブに行けばウエイターがテーブルにやってこないかもしれないが、それはどちらかといえば、あまりのことに畏れをなしているので、話が異なる。

ニューヨークを「人種のるつぼ」というが、他の英語圏の都市に較べると、どちらかというと「人種のモザイク」で、エスニックグループが、それぞれ同種人で寄り添って、CBDで他グループからやってきた人間と協同で作業をしているだけだ、と言えば言えなくも無い。
ひとつの社会が人種差別の壁を乗り越えて、やがて壁があとかたもなく崩壊するまでの行程は、ふつう、異人種間のカップル→異人種間の友達という方向ですすむのであって、その逆ではない。
ある町に、たとえばアジア人に対する差別があるかどうかを知るには高校の門の前にクルマを駐めて、下校する生徒たちがどんな組み合わせかを観察するのが最も簡便で正確だと思う。
金髪碧眼でいかにも学校のなかで人気がありそうなすらりとした女の子とインド人の子や肌が真っ白で赤毛の女の子と東アジアの子が手をつないで帰ってゆくような学校がある町には人種差別は通常存在しない。
最も人種差別が激しい町は、異人種同士のカップルを、そっと盗み観る人がいる町である。

もうだいぶん昔、2002年くらいにオークランドの、あまり治安がよくない地域のパブで、いかにもパカッぽい「パケハ(白人)ボーイズ」と多分中国人と思われるおっちゃんたちの一団が激しい口論をしているのを眺めていたことがあったが、人種的な悪罵がただのひとことも出てこないことに感銘をうけた。
詳しい外見の描写はメンドクサイのでしないが、どっからどーみても若い+バカい5人の白人男は嫌がらせに、ありとあらゆる罵り言葉を述べているのに人種的な言葉は出てこない。

アメリカでは、たとえば同じ2002年に義理叔父が駐車場のトラブルのあとで、「このチンク(中国の人への蔑称です)が!」と叫んで走り去る大企業秘書風の若いねーちゃんに、「ばーか、おれはジャップでチンクじゃねーよ」と言い返して、あとで考えてみればジャップじゃなくてジャパニーズというべきだった、カッコワルイ、と述べていたが、
だいたいその頃からアメリカ社会の底流に流れる意識の遅れっぷりが眼につくようになってきた。
アメリカは人口は多いが、英語圏を代表する国とは見なせなくなってひさしいと感じる。

日本にいるときにインターネット上で、「白人があああ」「キリスト教の影響があああ」「差別があああ」というのを聞くたびに、的外れで奇異な感じがしたが、日本語インターネットでは、いまでも同じ口調で同じ内容が話されていて、奇異を通り越して、それはちょうどアメリカ人が日本人を批判するのに「いまだに大小の刀を腰にさして通勤するようなことをしているから日本人は攻撃的なのだ。第一、あの頭にチョンマゲとかいうピストルをのっけて歩く習慣はなんだ」と述べるくらい間がぬけている。

Tatiana Maslanyは日本風な詮索をすれば、ファーストネームで想像がつくとおり、ウクライナとポーランドとドイツ、オーストリア、ルーマニアの混血だが、そういう混血の詮索は先祖探しの興味に駆られて行う場合を別にすると英語世界では(無意味なので)もうあまりやらなくなった。
国境も国籍もどんどん意味を失って、大庭亀夫なら大庭亀夫という個人が、ただ地上に立っているだけのことで、どこのパスポートをもって旅行するかや肌の色は稀薄な意味しかもちえなくなった。
第一、肌の色の違いにこだわるような時代遅れな人間が、たとえ社会の最底辺の一部にしかすぎない人間にすぎないとしても存在すれば、最近メルボルンで起きたことが教えているように、あっというまに優秀な人間がその町や国を立ち去ってしまうので、社会としての損害がおおきすぎて、たとえ少数の人間がやっているだけでも、日本で言えば新大久保の反韓国人デモのようなことがあると、その国全体にとって、ものすごくおおきな打撃になるので、そういうことをさせておくだけの余裕がない。

余計なことを言うと日本政府は門戸さえ開けば優秀な外国人がほいほいと移民としてやってくる、という「選ばれたきみ、よろこびなさい。日本よいとこ一度はおいで」政策をとろうとしているが、英語世界にまであまねく出回っている反韓デモのニュースや、安倍政権のヒトラー・ナチのパロディを演じているような行動と発言、最近は感心なことに英語で日本人がいかに外国人を嫌っていて日本に来ないでくれと願っているかを述べているひとびとの努力を別にしても、日本人がたとえば「日本酒のほんとの味は日本人にしかわかりませんよ」「同じ日本人の女でないと本当の色気は感じない」というような恐るべきことを穏やかに述べる、ごく天然自然なゼノフォビアを身につけていることなどはもうあまねく知れ渡っているので、一年二年ならばアニメと「ヘンタイ」の国であるおもしろげな日本によろこんで滞在したいと思う人はいても「移民」は無理だろう、と思う方が普通であると思う。

日本という名指しが嫌ならば、いまの現代世界は「多文化社会」と「単文化社会」のふたつにはっきりと二分されていて、前者の代表がカナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、というような英語社会と、フランス、スウェーデン、オランダ、ドイツ、…というような大陸欧州社会であり、後者の代表は、中国、日本、韓国、…というようなアジア諸国とアフリカ大陸諸国で、アメリカは、あらっぽいことをいうと大都市が前者にその他の地域が後者に二極分離しつつあるように見える。

良い悪いというようなことではなくて、多文化社会が住みやすければ多文化社会に住み、単文化社会でなければ生活できないと感じれば単文化社会に住めばよいだけのことで、どこの国で生まれたかも関係がなくて、行きたい社会がある国にさっさと移動して住めばよい。

「社会について学習」するためにテレビドラマを観るのは行為としてダサくて下品だが、東アジア人一般に対する平均的なアメリカ人の見方について書いたときに「Friends」を引き合いに出して述べたように、船の船底にいたままでは自分の船の行き先どころか船の姿すらわからない。
自力で航行していると信じていた自分の社会が、ただ漂流しているだけだったという事例は歴史上にうんざりするほど転がっている。

「Orphan Black」は脚本がうまく書かれているドラマで、俳優たちも素晴らしい演技力をみせて、イギリステレビ番組のよいところとアメリカテレビ番組のよいところを組み合わせたようなドラマなので、カウチにころがって、楽しみながら、ドラマの背景の細部を観察することによって人間の社会というものにはどういう可能性があるかを知る事ができる機会を提供している。
何冊もの本を読むよりも、直截な力で、自分の住む社会について疑念をもたせる効果があると思って、この記事を書いてみることにした。

理由は、言う必要もないように思います。

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