フクシマのあと_3

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世の中にミルフィユくらい人前で食べるのが難しい食べ物はない。
モニさんはなんだか魔法のようなフォークの使い方で綺麗に食べてしまうが、ぼくはまずフォークでミルフィユがぐじゃぐじゃにつぶれるところから始まって、なんとなく、必死に抵抗するミルフィユを惨殺しているような食べ方になる。
生きたまま人間の肉を食べる食人鬼というものは、暴れる人間を一寸刻みに刻んで食べるときに、こういう気分なのではなかろうかという気がする。

30歳を越えると知恵がつくので、ショーケースのなかをちらと見て「ミルフィユがうまそーだな」と判定しても、ラテとシトロンのタルト、というように注文する。
それから、おもむろに、突然おもいついたような顔をして「それから、ミルフィユをテイクアウエイで買いたいので、4つ包んでね」という。
モニが横で必死で笑いをかみ殺しているが、演技の道はきびしい、ぼくはあくまで平静を装って50ドル札を渡します。
妙に謹厳な表情の夫といまにもふきだしそうな妻のふたつの顔を見較べて、店員が腑に落ちないとでもいうような曖昧な顔をして笑っている。

オーストラリアかニュージーランドにしばらく住みたいというモニさんの希望に従っていまのレミュエラの家を買って引っ越してきたのは2010年の12月だった。
自分が好きなメルボルンとオークランドのどちらかの選択で、モニさんと相談してオークランドにしようということになった。
ぼくが好きなクライストチャーチが町としてモニさんに小さすぎるのは判っていた。
結局、メルボルンは風が強いのが嫌だということになって、オークランドに決めた。

そういう言葉使いをしたと知ったらモニさんはすごく怒ると思うが、イギリス人では到底想像もつかないようないかにも大陸欧州的な盛大に贅沢な生活を送ってきたモニさんが4寝室の家に住めるとは思えなかったので、パーネルの家は他人に貸して、おおきな家に移った。
日本ではちょうど11回の日本への大遠征の終わりで、しかもいまから考えると、その頃すべりひゆによく言われたようにホームシックにかかっていた。
すべりひゆに言われても自分ではなかなか認められなかったが、いま日本語ブログを読み返しても、もう日本が嫌で嫌でたまらなくなっていたのがよく判る。
意地になって予定した期間の終わりまで日本にしがみついている自分が滑稽にみえる。
広尾山のアパートや軽井沢の山の家を売却して、そのほかの、ここに書くわけにはいかない日本がらみのさまざまなことのためにその頃よくでかけてワインを飲みながら夏牡蠣を食べたレストランのテラスを歩き回りながら会計士や弁護士に電話をかけていたのをおもいだす。

そのままオークランドで年を越して、2011年になった。

ニュージーランドの1月と2月は地上に現れた天国である。
ハウラキガルフにローンチを浮かべて、錨をおろして、白ワインを開けて、釣ったばかりの鯛やヒラマサをオリーブオイルをたっぷりかけたカルパッチョにして食べたり、キャビンの屋根にふたりで仰向けに寝っ転がって月のない夜いちめんに広がった眩暈がするような星空を眺めたりした。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/09/11/summer/

毎日そうやって遊びながら、ではマンハッタンのお互いのアパートメントはどうするか、バルセロナのアパートメントはどんなふうに使うのがいいか、第一、これからふたりでどんな生活のデザインを考えればいいのだろう、と話をした。
結婚したあともヨーロッパを何ヶ月かふらふらしていたり、日本にやってきて山の家から望月や富山、足をのばして金沢というふうに自分達が気に入った土地をうろうろしていたりしたので、なんだか旅行ちゅうで、「将来」というような話をしだしたのはオークランドのレミュエラに落ち着いてからだったような気がする。

買ったばかりのサムソンの50インチテレビが置いてあるラウンジでモニと、ではニューヨークに行ってアパートメントをまかせる管理会社を探したり、友達と会ってきたりしないとダメじゃんね、と言って話しながら、多分クリケットの結果かなにかを観るために、なんの気なしにテレビをつけたら、そこには現実感のない、するすると地上をなめてのびてゆく「黒い水」が映っていた。
なんだろう?
さあ?
と言っていたら、レポーターの声で、それが東北震災の津波だとわかった。
いま津波の映像を観た2日後に書いた記事を読むと、映像があまりに非現実的で、まるで映画の特撮のようで、実感がわいていなくて、暢気でマヌケなことが書いてあるので呆れてしまう。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/03/13/1885/

一方、下のコメント欄の日本人の友達たちのコメントは現実の切迫感に裏打ちされた真剣な文章が並んでいて、お気楽な記事と読み比べてなんだか恥ずかしい。
むかしからの友達のnenagaraが「僕は死にたくない」と書いているのが目に刺さるようです。

正直に言うと、「日本」が過去のスクリーンに映っているだけの国にすぎなくなっていたぼくは、そのままたいして福島第一事故について考えてみることもなしに、モニとふたりでマンハッタンに出かけた。
3ヶ月ちょっとくらいいたのだと思う。
友達たちと会って「しばらくニュージーランドをベースにするから冬に雨が多くなったら遊びにおいでよ」と述べたり、それまでフル契約のままほうっぽらかしになっていたテレビの契約やクラブのメンバーシップを変更したり案外と忙しかったのをおぼえている。
福島第一事故でいかに日本が危機の淵にあるか、ぼくのゆっくりしか動かない頭にだんだん理解され始めたのは、やっとその頃で、主にアメリカ人の若い科学者たちと話して意見を聞かされたからだった。
初めて福島事故について書いた記事をみると、日付は5月18日になっていて、自分でも反応ののろさにぶっくらこいてしまう。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/18/「フクシマ」のあと/

いったん日本が直面していて、日本の人達自身は聴かされていない危機についてわかってしまうと、何事かを日本の人に話しかけたくて、いまみると、夥しい、と言いたくなる量の記事を書いている。
個人のための後退戦マニュアル1から4
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その1/
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/01/09/フクシマ_サディズムの復権/
https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/10/12/神の火、人間の火/
と続いて、ほかにもたくさんの記事があって、
だいたい「絆」くらいまで
https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/03/14/絆/
しつこく書き続けたもののよーである。
そのあとになると日本では「放射能は安全だ」ということになってしまったのが見て取れるようになったので、ごく親しい友達やまだ逢ってはいないが、確実に言葉が届きそうな相手に呼びかける記事に変わっていった。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/いつか、どこかで/

モニとふたりで夜更けのマンハッタンを歩いていると、おおげさに言えば街中に「ガンバレ、ニッポン!」「Together we stand」というようなサインが溢れていて、なかでも日本料理店の前をとおると、もう具体的な文面は忘れてしまったが福島出身の人が福島の方言で「負けるな、福島!」というようなことを書いていて、多分、これはそーゆー意味だ、と説明するとモニが目に涙を浮かべたりしていた。

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ユニオン広場でも東北災害のための募金を募る学生たちがいて、ロスアンジェルスに住んでいる日系の人だけが、「それはニセ募金だと決まっている」と辛辣に述べていたが、子供のときからずっとマンハッタンに住んでいるニューヨーカーたちに訊くと、いや、あれは善意の募金だろう、ニセモノはもっと上手さ、と言って笑っていた。
アメリカ人たちの善意は、このあと6月にモニとぼくがヨーロッパに去ったあとまでも続いて、他国で災害に遭った人たちへの善意というものの侘しい法則に従って、だんだん弱まりながらも「東北震災に寄附したあなたのオカネは日本政府によって捕鯨資金に使われていた。被災者には届いていない」というなけなしの財布から週末のビールを4杯から2杯に減らしてドル札を段ボールの寄附箱に押し込んだマヌケなガイジンたちにとってはたいそうなショックだったニュースがかけめぐった2013年まで続いていたようでした。

いまふり返ってみると、「フクシマ」は日本という単一言語共同体を確実に変質させてしまった。
ウソにウソを重ねて、自分達を恐怖と死の世界に叩き込んで、1945年の自分達が築き上げた文明を石器時代に戻してしまった戦前の軍部と支配層をさえ許した日本のひとたちも、福島第一事故が起きたあとの撒き散らされた放射性物質がもたらす終わりのない不安と恐怖にはやはり耐えられなかった。
真実の結果がどうであるかに関わらずあらかじめ遮二無二「放射能は安全だ」と日本の支配層が決めつけていった理由と経緯は日本語世界の洞窟に住んでいれば判らなくても、そこから一歩出れば、英語でも欧州語でも解説されていて、いまでは十分に糾明されている。
バルセロナの丘の上のバーのテラスでチェルノブイリが爆発した頃に小さな子供だったウクライナ人たちから聴いた話を思い出すと、これから先の日本がどうなっていくか見当がつかなくはないが、もうそういうことを日本語で述べることには意味がないと思う。

友達たちについていえば、「日本を離れるのは絶対いやだ」と述べていた日本人や欧州人の友人たちも、結局は日本を離れることになった。
「どんなにまずくなっても西日本ならダイジョブだろう」と言っていた人たちも、日本の政府や科学者たちの言っていることや、やっていることを見ていて、嫌気がさしてしまったようでした。
勤めていた大学を変わり、外国の企業に転職して、「英語で暮らすのはしんどいどおー」「二郎のラーメンがくいてえー」と愚痴を言い合いながら、それでも日本に戻るのはなんだか考えられないなあ、と言うスカイプの向こうの声を聞いていて、日本という共同体がうけた痛手のおおきさを考えたりした。

たとえば拡散されて微かになった放射性物質がニュージーランドにたどりつくのは40年後だそうだが、環境保護団体が必死になって警告していても、最も福島事故の放射性物質の影響を受けやすいカリフォルニア人でさえ、揃いだした報告やドキュメンタリを見て、「最悪スシは食べられなくなるな」という程度だとリスクの上限を頭のなかで設定したあとは、もう福島事故は「過去」の領域におしやってしまったようにみえます。
若いひとびとの「善意」というようなものは例の「寄附金の捕鯨流用」で失望して一瞬で蒸発してしまった。

原子力発電が現実のものになって稼働することになったのは、数学的確率論を駆使して多重化した安全対策を積み重ねれば「事故が絶対に起きない」という確信に到達したからだった。
前にブログに書いたように軍事型という言い訳があったチェルノブイリとは異なって、完全に事故ゼロ理論に従ってつくった福島第一発電所の原子炉に事故が起きたことは推進派にとってさえ本質的で巨大なショックだった。
福島の事故のあと、ほぼ止まらないといいたくなるほどの原子力発電業界からの転職が相次いでいるのは原発の安全を信じていたひとびとの衝撃のおおきさをあらわしている。
早い話がNRC(アメリカ合衆国原子力規制委員会)の委員長が辞めたのも、「信じていた原子力発電の前提そのものが失われたからだ」と本人が理由として明確に述べている。

事故のおかげで日本でも広く知られるようになったとおり、現実は、いまの核分裂制御型の原子力発電は古色蒼然とした古い技術で、大学の学部学生にとっても魅力がない。
中国のようにまだまだ科学技術が総体として遅れている国の技術系学生にとってすら原子力発電は魅力も将来も感じられない技術で、このまま行くと保守をするのに必要な技術者数どころか、止めようと思っても原子炉を廃棄するのに必要な人員が足らないので止めようと思っても止められないという冗談じみた事態になっている。

原子力発電推進派の人びとと話してみると、「あれは日本人なんかに原発を運営させるから起きた事故だ」という論法の人が増えたのに気づく。
「日本人なんかに」という表現の具体的内容は、「決められた手順を効率優先で枉げてしまうひとびと」ということに力点があるらしい。
英語ではcutting cornersと言う。
東海村JCO臨界事故や福島第一事故に対する印象は要するにそういうことで、
しかも東海村JCO臨界事故が「現場の作業工程管理が杜撰だった」という理由付けで労働安全衛生法違反、業務上過失致死で現場を懲罰して終わったのに較べても、福島第一事故に対しては、責任を問うた結果、現場よりも上の幹部に責任が及びかねなかったという東海村JCO臨界事故の反省に立って、「まだ誰も死んでない」を金科玉条に誰の責任も問わないという戦略を初めに決めていた。

そのおおきなウソと無責任の体系が日本人をふたつにおおきく割って、あいだには決して溶解しないわだかまりが出来てしまった。
日本の長い歴史のなかでも「永遠のわだかまり」が出来てしまったのは初めてのことで、東北の町町のひとたちの「福島の事故さえなければ立ち直ってみせたのに」という呟きは、英語の字幕を目で追いかけていた英語人たちにとっても理解しやすい嘆きだった。

福島第一事故が日本の社会に対してもたらした最大の厄災はどんなに対立しても神秘的な自然治癒能力を持つ生物のように、また融合し、ひとつになっていた日本の社会が、治癒能力を失って、ザラザラした表面を持つ、噛みあおうとしているのに接合しない断裂面がギシギシ音が立てるだけで、永遠に不信によって分裂した社会になってしまったことであると思う。
日本人というアイデンティティの感覚には、もう癒合できない罅がはいってしまっている。

それはきっと近代日本が歴史を通じて、あれほど怖れてきた孤立よりも、もっと怖ろしいことなのではないかと思います。

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One Response to フクシマのあと_3

  1. snowpomander says:

    いまここ:2016年3月28日。Amazon.ukに”DAWNTON ABBEY”ファイナルシーズンも注文。日本からの最後の注文になると解っている。でじゃゔゅ。
    「永遠のわだかまり」はやっと離婚した夫婦の昔年の自覚みたいだ。細々とした微かな軋みが聞こえたときに出来ることは、そこから一歩でも半歩でも遠ざかること。次に見えた足下を辿りまた一歩と遠ざかること。気がついたら走っている人も、這っている人もちゃんと居るべきどこかに向かっている。
     私は2011年の終わりに残っていた最後の講座を閉じてしまった。同じメンバーに繰り返し教えていることに飽きてしまったからだ。あの日JRに乗っていなかったにしろ、15日の汚染はJRの空気から感じた。列車は都心からのどかに甲信へと走ってきていた。これが後から気がついた最初の半歩の決断、次の一歩は思いがけなく山の家に引っ越したこと。そっと導いてくれた自分のわがままのおかげで最後の一歩が最初の一歩になる、それが可能だとガメさんのブログから聞こえて来るのですが。

     今はどこへいつまでと自分を追い込むのは止めた。次の一歩は解らないー、けれどジャイアントステップ。平穏無事なら使うはずのお気に入りから愛しい物たちを選ぶとき荷物がちょっとづつ重くなる。最終的に決めるはずの目的地にまだフィットしないけど。こっちからあっちへ、ミトコンドリア・イヴの末裔は緑の道を行くのだ。

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