本を読むということ

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夏の午後に刈られた芝生の匂いがぷううんとする庭の、ブーゲンビリアの花棚の下の、ベンチに寝転がって「プルターク英雄伝」のような本を広げて読んでいると、自分が時間と時間のすきまに滑り落ちて、永遠に時間が停止した宇宙のポケットに入り込んだような気になる。
あの本の始まりはTHESEUSで、こんなふうに始まる。

As geographers, Sosius, crowd into the edges of their maps parts of the world which they do not know about, adding notes in the margin to the effects, that beyond this lies nothing but the sandy deserts full of wild beasts, unapproachable bogs, Scythian ice, or a frozen sea, so in this work of mine, in which I have compared the lives of the greatest men with one another, after passing through those periods which probable reasoning can reach to and real history find a footing in, I might very well say of those that are farther off:”Beyond this there is nothing but prodigies and fictions, the only inhabitants are the poets and inventors of fables; there is no credit,or certainty any farther.”

冗談めかした言い方をすると、このor cetainty any fartherのあとに出てくるフルストップがこの本の初めに出てくるフルストップで、紙の本では最も普及しているはずのMaya AngelouたちがつくったThe modern library of the world’s best books版で言えば、11行目の出現です(^^;

英語訳ですら判る、この文章のゆったりとした流れかたは、明らかに違う時間が流れていた時代のもので、たゆたうように、あますところなく、なめつくすように流れて、読み進む人間を違う時間の流れへ、というのは取りもなおさず、まったく異なる精神の世界へ拉致してゆく。

読書の第一義は、change of paceというよりも、もう少し本質的に、タイムスリップといえばいいのか、つかの間を、自分が見知っているのとは違う速度で進行する時間のなかで生きて、本を閉じて生還をはたす、ということにある。
そういうところは週末の(音が異次元をつくっている)ダンスクラブのドアを開けてはいって過ごしたエネルギーのこもった時間をあとにして、明け方、アパートに無事に帰りつく人の事情と似ている。

本を読む人と本を読むことをほんとうには楽しめない人の岐れ道は、本を楽しめない人が日常の生活のために本を途中で読むことを中断して、栞をはさんで、駅を乗り換え、職場の同僚に挨拶し、仕事に取り組み、また帰りの地下鉄のなかで続きを読む、というようなことが出来るのに比して、本を読む人間は、分厚い本を取り上げて、不幸にも午ご飯の前に読み始めると、すっかり本のなかの時間で暮らす人になってしまって、午ご飯はとっくのむかしに省略されてしまい、あまつさえ仕事も上の空で、肉体があるほうの生活はどうでもよくなって、活字のなかに惑溺して呼吸しはじめる。

乾と坤とのあいだの森羅万象に完全に正しい判断をくだしうる「真人」を夢見た道教人たちは、真人への修行の第一歩として「なにもしないこと」「無為であること」を自分に強いたが、原理はそれと同じで、日常の生活のごときは、活字が手を引いてめぐってみせてくれる煉獄や天国を歩きわたる興奮に比較すれば時空に歪みを与えるものにしか過ぎないからです。

だから、本を読み耽っているひとはZuo Ci (左慈)の夢幻術にかかって催眠術の幻を彷徨っているひとに似ている。
カウチに寝転がって夢中で本を読んでいる人をつついてみると判るが、「うっ」とか「ぐぇっ」とか小さなうめき声をもらすだけで一向に現世に戻ってこない。
埒があかないのでおもいきり蹴飛ばしてみると、はじめて、「いま、おもしろいところだったのにいー」というような夢から覚めた人の間の抜けた声をだして起き上がってくる。
旦那さんや奥さんが本好きの人には、是非いちどやってみることをお勧めします。

本ばかり読んでいて現実世界のほうはどうでもよくなってしまった人のことを「書痴」という。
いまちょっとインターネットで「書痴」という言葉を引いてみると「ビブリオマニア」とあって、たまたま目に触れた大江健三郎はブッキッシュと呼んでいるが、普通の英語ではブッキッシュは当然ダメとしてビブリオフィリアよりbookwormと言うと思う。
それでは「痴」の感じが出ないではないか、と翻訳家なら怒りそうな気もするが、英語の世界では昔の中国人や現代日本人のように読書に溺れることと現実を忘れることが結びつかないので、一語にまとめた言い方がない。

「書痴」たちに許された議論はむかしから清談に限られていて、「清談」とは、いまの人間が考えるよりもずっと文学に感じが近かった哲学談義のことです。

清談の代表の「竹林の七賢人」のひとり阮籍は政治や社会について話すのが大好きな儒家が来ると白い眼を剝いて「白眼視」した。
儒家の側から書かれた本のほうが自然優勢な世の中では異なるニュアンスになっているが、阮籍は実際には誠実慎重な人間で、この人が、時事をしたり顔で論じて評論するタイプの人間を遠ざけたのは口舌の徒が政治や社会を論じることの本質的な愚かしさと危険とを熟知していたからでした。
現代の世界でも、くだらない人間ほどもったいをつけて時事や社会を論じたがるのは周知のことで、見苦しい、とみなが思っていても、本人は気づかずに得意で、現実社会やインターネット上で、よく同じ種類の人間のサークルのまんなかに座って教説を垂れているそういう人間をみかけると、阮籍を思い起こして、人間って、あんまり変わらないんだなあー、と考える。

(閑話休題)

だいたい20世紀から21世紀に変わる頃から「紙と活字」がはたす役割を変わってきて、たとえば投資の世界なら、アウトラインにあたるものは「ビデオをアップロードしておいたから観ておいてください」ということが多くなった。
アウトラインを観て、それが興味を引く/自分に関係がある/自分のやりたいことに必要である、情報であるとそこで初めて電子的な資料を読む。
Kindleのイメージを思い浮かべてダイジョーブです。
あんまり変わらない。

たとえばハーバードビジネススクールのようなところだとグループごとに手分けして調べると言っても、ちゃんと勝ち進みたければ、おおざっぱに言ってしまえばケースごとに一日3冊は本を読むことを強いられる。
プルターク英雄伝を読むペースで読んでいると、落第生対比列伝に並んでしまうので、すごいスピードで読みます。

あんまり速読というようなものに興味があるほうでなくても、たとえば理系の学部を終えた人間なら3種類くらいは速読モードを持っているはずで、アメリカの大学などでは下品にも講座があるところが多い「理科学書速読法」のようなものから始まって、ケネディ式斜め読み術、漢語八艘飛びに似たラテン語幹ワープ、いろいろある。
しかし案外いちばん多いのは、ただ普通の読み方をしてスピードがついて、あんまりややこしい数式で充満していなければ数時間で読めるけど、というタイプで、Dr.Spencer Reid式というか、ベタ読みがいまでも主流であるように観察される。
当然、書籍として読まれているわけではなくて「よく整理され編集された情報」がたまたま書籍の体裁をなしているだけのことなので、こういう世界では、価格と簡便性のバランスを考えて最適のメディアを手に取る過渡期を経て、比較的はやく完全にデジタル化されてゆくはずです。

一方では物語中毒は映画で癒やされる傾向が強くなって、こちらも速度はゆっくりでも着実に紙が減り、デジタル情報が増える傾向にあるように見える。
NetflixやAmazonのストリーミングは、Amazonのインターネット書店とあいまってブロックバスターのチェーン店だけではなくて、書店をもローラーで踏み潰すようになくしつつある。

「紙の本を読む」という行為は、行為そのものが文化行動化しつつあって、というのは読書は以前の情報摂取という意味合いがおおきかった行為から紙をめくって活字を眼で追う時間をすごす、という時間の質の楽しさのほうに価値の重心が移りつつあって、まず媒体が紙であるというだけで「情報源」としての価値しか持たない雑誌が死に、次には工場で作られたプロセスハムのような「ペーパーバック」が犠牲になって、結局、最後に残るのは「モノ」としての完成度が高い書籍なのではないかと思う。
前にブログに書いた変形本どころではない形で手描きの彩色表紙だった與謝野晶子の「乱れ髪」ではないが、自分のライブリの書棚を観ても、前は重いのでめんどくさがって買わなかった「大型本」の比重が増えているのを感じます。

新聞や雑誌がなくなっても、多分、書籍は残ってゆく。
最後にはカネモチの高価な趣味になるかも知れないが、ハサミでページを切ったときの、あの素晴らしい紙の匂いや、よく出来た辞書の指の腹で表面をなでるだけで1ページ1ページが自分の意志をもっているように綺麗に現れては元に戻る信じられないような精妙な感覚、あるいは、もっと言ってしまえば、本を読みながらうとうとしてしまったあとで、眼をさましたときに、紙の上に落ちて揺れている木洩れ陽の美しさ、そういうすべてのことは羊皮紙が紙に変わってから人間が15世紀以来親しんできた「紙」の美しさで、モノと情報の調和として極めて洗練されていて、e-inkのフォントと画面がいかに美しくても、ミラノの書店主が一生を賭けて出版した美しい書籍に較べれば、まだまだ問題にならないほど思想そのものが粗野で、伝統的な「読書」によらなければ伝わっていかない「時間」には、当分は紙タイムマシンによらなければ滑り込んでいけなさそうに思えます。

きみが、なんだか毎日の生活に疲れ果てたような気持になったときには、もう何も考えずに町でいちばんおおきな書店に行って、おもいきり古い時代の本を買ってきてしまえばいい。
そして帰りにはその足で洋菓子店によって、レモンタルトやエクレア、ミルフィユに下品なくらい生クリームがごてごて載ったイチゴケーキも買い込んで、アパートに帰って、カウチに座り込んで、泣くまいとおもっていたのに流れてきてしまうクソ涙をぬぐって、
「いづれの御時にか、…」でもよければ「Haet! We have heard of the glory of the SpearDanes in the old days, the king of tribes—」でもかまわない、
もう今日は朝まで寝ないぞ、鳥の声がするまで、現代のクソ時間とはおさらばだ、と心に決めて、英雄達が冬の北海の霧のなかでもらす深いため息や、ヴァルハラから降りて、騎士達の魂を抱きとめて空中へさらってゆくバルキューレたちの歌声に耳をすますのが良いと思う。

そのとき初めて、病んでいるのはきみの心ではなくて、この現代の世界なのだと、きみの心のなかにはゆるぎのない確信がわくはずで、その確信のなかから、自分というものと真剣に応対して、前にも述べた「自分という名前のたったひとりのかけがえのない友達」を労って、なんとかこの世界を渉っていこうという勇気がわいてくるのだと思います。

(画像は、わし本棚。読書傾向が垣間見られるのだとゆわれているw)

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5 Responses to 本を読むということ

  1. buchi314 says:

    この記事が好きなので何回か読み返しました。
    ガメさんが言っているのは一体どういうことだろう、と考えました。
    具体的には「思いきり古い時代の本を買ってきてしまえばいい」と書かれています。
    しかしどうにもそのような気持ちになれない。
    (あ、先に言っておくべきだったのですが、なんだか「きみ」ってぼくのことも含まれているような気がしてなりませんでした。
    現在ぼくは、こま切れ豚バラ肉みたいな時間で生きているからです。
    そしてこんな時間で生きるのはあまり好きではありません。)
    はじめに引用されている英文も、やはり読もうという気持ちがわきませんでした。
    なぜか。
    少し振り返ってみると、日ごろ読んでいる文章は一文一文が非常に短いです。
    Twitter はもとより、Blog もぼくの読んでいるもののほとんどはマンガか、ある意見を端的に述べた記事です。
    では日ごろ会話で使っている文章(フレーズ?)はどうか。
    それも、まさに Twitter と同じくらいの短さです。
    「あ、昼だ」「何にしようか」「あれとあれでいいかな」
    どうやらぼくが日常で触れているほとんどは短い文で構成されているように思われます。
    そして、ってすでになんかだらだら書いちゃってる気がしてきたのですが、ではそういう生活をしているとどうなるのか。
    さっきバスに乗っていた時に思ったのでまだ「なんじゃそりゃ」と言われそうですが、その、短い文で構成された言葉(あー文章っていうのかな、ぐちゃぐちゃになってきた)にばかり接していると、「身体的に呼吸が浅くなる」のではないだろうか、と思いました。
    えーいもうわけわかんなくても書いちゃえーと思って書きますが、小刻みなリズムで書かれた文章ばかり読んでいると、共振的に思考のリズムも小刻みになって、結果的にそれが身体のリズムにも影響してくるのではないかと。
    それで、呼吸が浅くなって、なんだか本当に苦しくなってくる、と。
    「毎日の生活に疲れ果てたような気持」に なってしまう。
    …なんだか理屈っぽいですね。
    ぼくが書きたかったことは「思いきり古い時代の本を読むこと」は「深い森の中で深呼吸すること」なのでは、ということです。
    長文失礼しました。

  2. mint says:

    本を閉じて生還をはたす

    「本を閉じて生還をはたす」 ―― 何て素晴らしい言葉でしょう!
    この言葉を読んだ時、ああそうだったのかと思いました。この一言に読書とは何かということが凝縮されていると思いました。
    もちろん、これはその前に「つかの間を、自分が見知っているのとは違う速度で進行する時間のなかで生きて」という部分があるからこそ、それに続いて「本を閉じて生還をはたす」と終わるのです。
    本を読んでいる時には違う時間を生きているということは、誰もが感じることでしょうが、「本を閉じて生還をはたす」ということについては、少なくとも私はあまり考えたことがありませんでした。(だって、向こうに行きっぱなしになったほうが楽しいし、お母さんが「おやつですよ」と呼んでも帰ってきたくないのです。) それほど、本を読むということは時に危険で、生還をはたしてこそ読書なんだ、と言われたように思いました。

    「本を閉じて生還をはたす」―― 読書とは何かという問いに対する簡潔な答えであると思います。

  3. Mutsumi says:

    書店の娘です。

    元々、講談社さんが、本作りを始めたのが、100年前。

    金儲けの為ではなく、文化を世に広めるためでした。

    本屋は、薬屋と較べると、あまりにも、
    薄利な世界。

    とある辞典を、女性日本一?だったか、
    売り上げ営業上手な母をもってして、
    何とか30年、小さな町の本屋を続けてこられたことは、ほんとに、奇跡としか、私には、いえません!

    家族で、本でなくて、ダイヤモンドだったら、ビルの一棟や二棟、建ってたかもね?
    と、笑うことしかり。(苦笑)

    家が農家で貧しく、もっと、学びたかった本好きな母にとったら、本はダイヤモンドより、耀いてみえるのかもそれません。

    ガメさんのブログで、素敵なタイムトリップができました!

    感謝申し上げます♪(*^人^*)

  4. R says:

    ガメさんが日本語に興味をお持ちになられたことを心から感謝しております。耐えるばかりの日常生活で長らく忘れていた感覚を思い出しました。小学生の時までは本当に読書が大好きで、おっしゃる通り昼夜を忘れるほど物語に夢中でした。数千ページに渡る旅を終わらせた後の茫然自失感が懐かしいです。それを次第に周囲の嘲笑と重苦しい連結感で忘れてしまったようでした。目が付けられない安全な本を机に置くうちに読書が苦痛に変わりました。同級生に会うことが怖くて図書館に行くこともなくなりました。その痼が今まさになくなったのです。涙腺の緩みさえ感じました。私の感性は正しいのだと、少なくとも頭がおかしいのではないのだとあの頃の自分に伝えたいです。
    時間の隙間を見つけてはガメさんの記事を拝見させて頂いております。急流のような勢いもありながら、独特のリズムと余韻のある素晴らしい日本語だと思います。日本に興味を持って下さって本当に感謝しかありません。ニュースや新聞でみる日本は歪みきっていて心が苦しくなります。若者に向かって言いたい事を勝手に述べる大人ばかりです。毎日将来が不安で堪りませんでした。私は高校生で電車通学しています。自分の二倍ほどある人間に体を押し付けられたり、じっと眺められるのは本当に恐怖しかありません。一生誰かに消費されるだけの人生なんだと絶望していました。ガメさんはそんな私に新たな活路をくれました。国に縛られる必要はないのだと教えてくれました。拙い文章ではありますが、一言でもお礼を申し上げたくてメールを打った次第です。

  5. どうやらこのブログは見逃していたようで、遅ればせながら本日拝見しました。この記事も大好きです。小学生だったころ放課後図書室へ行くことが何より楽しみでした。あるとき、本に夢中になったあまり、図書係の人が私に気づかず図書室の鍵を閉めてしまいました。気が付いたときは日が沈みかけ扉は開かず、何時間かたったのち真っ暗な中、見回りの宿直の先生に見つけられてようやく外に出られました。先生にはしかられるし、家に帰ってからもしかられるし、さんざんではありましたが懲りずに図書室に通っていました。今は中国の時代小説を辞書をひきながら読むのがとても楽しみです。1時間かけて5行くらいしか読めない日もありますが、この幸福のなぞは「自分というかけがえのない友だちにをみつけ、向き合う時間をもつ」という一連の読書という行為の中にあったことを、今あらためて亀殿のことばで気づきました。この幸福だけは誰にも奪われないものであり、まぎれもなく読書という行為の中において私は自由であると。今日もお礼を言わねばなりますまい。ありがとうございました。

コメントをここに書いてね書いてね

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